日比谷国際ビル 6F
季刊社会保障研究投稿規程
1. 本誌は社会保障に関する基礎的かつ総合的な研究成果の発表を目的とします。
2. 本誌は定期刊行物であり,1 年に 4 回(3 月,6 月,9 月,12 月)発行します。
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4. 図表はそれぞれ通し番号を付し,表題を付けて下さい。1 図,1 表ごとに別紙にまとめ(出所を必ず明記),挿入箇所を論文右欄外に指定して下さい。
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Vol.44 Summer 2008 No.1
国立社会保障・人口問題研究所
2 季 刊 ・ 社 会 保 障 研 x
Vol. 44 No. 1
研究の窓
準市場と「社会市場」
私は,xxにわたって福祉サービス(personal social services)の政策的研究に携わってきて,
近年になり社会保障政策研究に学問的関心を移動させてきたが,その点で今回の特集企画テーマ:
「『準市場』と社会保障」は大変に関心のあるところのものである。
いうまでもなく準市場(quasi‒market)という概念は,1990 年代にイギリスの経済学者,xxxx(Le Grand)教授らが国営医療や公教育の民営化のあり方を研究対象とするための独創的な理論的枠組みとして提示したものとして知られている。xxxx教授がブレア旧労働党政権における社会政策上の最高顧問だったことはつとに知られているが,その理論と実証に関しては国際的なレベルで研究がきわめて精力的に進められている割には,わが国では,ごく一部の社会科学者にしか知られていないので,本誌に寄せられた各論稿はきわめて今日的意義をもっており,各々が最新の研究成果を盛り込んだ力作揃いであると評価されよう。
もちろん,後述するようにxxxx教授の準xxxにしても,開発途上にあり,経済理論的にみての検討課題も少なくないとはいえ,公共政策的色彩が余りに濃かった従来の社会保障の改革方向にとっては,準市場の概念が極めて有力な視座を与えてくれることは間違いないだろう。
ところで準市場とは,さしあたり準経済市場(quasi‒economic market)のことであり,特に社会保障の準xxxに対しては,相対立する反対論が存在している。すなわち,一方では新自由主義的立場に近い見解として,中途半端だとみて,より一層の自由xxxに向けての反対論があり,他方では統制主義に近い立場から,社会保障のxxxそのものを拒否する反対論があり,各々が相対立している状況にある。ということは,準xxxがこれら双方の議論の中間領域にあることになる。それは,おそらく,準市場そのものの存在が純粋の公共政策の領域と自由競争的な経済市場の領域とのいわば中間領域にあることのイデオロギー的反映であるからに他ならないからであろう。なお,xxxx教授らによれば,準市場を活用するメリットは次の両面にあり,一方で市場原理 を抑制して低所得の人々の費用負担に配慮することが可能となる面があり,他方で低品質化や低効率化などの官僚的弊害を防ぐことが可能となる面があるとしているが,これら両面のどちらを強調
するかで,準市場を支持する論者もいくつかのタイプに分かれてくるだろう。
私は,従来の社会保障政策を改革していくために,ルグラン教授らの準市場の概念をきわめて肯定的に捉えている。しかし,xxxxx(X. Titmas)やxxxxx(N. Gilbert)がかつて提唱した社会市場(social market) という概念をさらに発展させ, 準市場をも包摂する混合市場
(incorporated market 私の造語で社会市場と経済市場との重複領域)という枠組みで社会保障研究を再構築したらどうかと,最近は考えている。混合市場の枠組みからは,準xxxで必ずしも捉えられなかった社会保険(social insurance)や減税支出(tax expenditure)や社会的資本(social capital)なども位置づけられ,学際的コラボレーションも可能となるからである。(拙稿「社会市場の理論入門(上)(下)」『経済セミナー』2008 年 4 月号及び 5 月号所収,参照)
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研 究 の 窓 3
経済市場と対比された社会市場とは,税支出による公共政策のみならず,贈与経済や互酬性などを含めた社会的交換―社会学者のコールマン(J. Xxxxxxx)のいう social exchange ―の場(いわゆる政策空間)を意味する。この社会市場が経済市場と重複する領域である混合市場では,例えば介護保険制度下の介護サービスのように,企業などの民間事業者に委ねられれば,経済市場とオーバーラップして準市場が形成されると把握できるわけである。
いずれにしても,準市場(ないし混合市場)にしても,公共政策(あるいは社会市場)と経済市場の中間領域にある限り,いくつかの段階とバリエーションが存在する。そこで,今回の特集企画の各労作にみられるように特に社会保障の実証分析においては,利用者の立場,事業者の立場,政策当局の立場から,各々どのような効果があるかを制度ごとにキメ細かな議論を展開する必要がある。問題は,単に当該社会保障部門が準市場(ないし混合市場)の領域に属するか否かではなく,準市場(ないし混合市場)にあるとしても,どのようなプラス・マイナスの効果が生じているかを実証的に論ずるものでなければならない。しかも 21 世紀における先進諸国の国民経済にとって,社会市場の発展が,したがってまた準市場(または混合市場)の発展がその内在的拡大の障壁ではなく,むしろ成長の鍵となりえるかがさらに問われなければならないだろう。(拙著『社会保障と日本経済』慶應義塾大学出版会,2007 年,参照)
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(きょうごく・たかのぶ 国立社会保障・人口問題研究所所長)
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準市場メカニズムと新しい保育サービス制度の構築
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はじめに
措置制度から脱却し,福祉サービスの保障を施設と利用者の対等な契約関係の仕組みに切り替えようとした社会福祉基礎構造改革として,2000年 5 月に社会福祉事業法他関連 7 法の改正が行われた。社会福祉基礎構造改革は,まさに措置でも市場でもない準市場メカニズムを志向したものである。措置から契約へのシフトは,介護保険や障害者福祉で制度化されつつあるが,その問題点も明らかになっている。本稿では,準市場メカニズム導入が具体化するなかで,どのような問題が生まれたのか検証し,今後,新たに検討される保育サービスではこうした問題がおきないように工夫すべき点を考察する。
I 準市場メカニズムの仕組みと課題
1 準市場メカニズムの仕組みと最近の議論
医療や教育といった従来,公的部門によってサービスが提供されると考えられてきた分野に,競争メカニズムを部分的に適用し,効率化を図ろうという準市場メカニズム1)の発想は,1980 年代後半に英国でうまれ,90 年代から各国で,多くの対人社会サービスの分野で試みられてきた。こうした動きは,サービス生産そのものは公的主体ではなくてもよいという点から民営化や行政の現代化,効率化という NPM(ニューパブリックマネージメント論)の動きと同一視される傾向があ
る。しかし,準市場メカニズムの考えは,一時的な流行として解釈すべきではない。準市場メカニズムの考えは,情報の非対称性,質やアウトカムの評価が困難である対人社会サービスの特性を考慮しつつ,市場メカニズムの手法を取り入れて,効率的なサービス生産・流通システムをどのように構築するかという課題へのアプローチと見るべきであろう。
準市場メカニズムのアプローチが最初に重要になったのが,欧州では医療サービスである。医療サービスのように内容・評価について患者と医師の情報の非対称性の高い分野では,完全な市場メカニズムは機能せず,公的に制御された市場が現実的である2)。英国では,NHS(National Health Service)による医療保障制度の不効率が課題となり,部分的に競争メカニズムの導入を行った3)。ドイツ,オランダでは,被保険者が保険者を選択できる制度を導入し,保険者間競争を進め,医療保険の効率化を進めている。
準市場メカニズムの発想は,医療に止まらず,教育,介護,保育といった分野にも広がった。こうした準市場メカニズムの考えを整理し,理論的な主柱になったのが,Le Grand である4)。Le Grand〔1991〕は,政府が対人社会サービスの独占的な供給者である必要なく,多様な主体が競争的に対人社会サービスを供給する準市場メカニズムの導入を提唱,整理した。その後,主張を補強し た Le Grand〔2003〕 は knight-knave,Queen- Pawn の議論を提起した5)。knight-knave,Queen- Pawn の議論とは,従来の社会民主主義福祉国家
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出典) Le Grand ,Xxxxxx〔2003〕
準市場メカニズムと新しい保育サービス制度の構築 5
図 1 knight-knave,Queen-Pawn アプローチ
(Social Democracy)が想定する対人社会サービスは,利他性の高いknight(騎士)のような供給者と Pawn(チェスの歩)のような受け身の利用者で構成されていたが,第三の道や新自由主義の下では,利己心が強い knave(ならず者)と利用者として積極的に主張する Queen(女王)のような利用者によって構成されるようになる,というものである(図 1)。
対人社会サービスのシステムを準市場メカニズムのもとで,どのような属性の主体が対人社会サービスのシステムに参加するかが大事ではない。適切に機能するためには,参加主体にロバストなモチベーション,インセンティブを与える,そうした制度設計が重要である。準市場メカニズムは,経済学から社会政策・福祉国家を解説する標準的なテキストである Xxxx,Xxxxxxxx の The Economics of the Welfare State 第 4 版〔2004〕でも紹介されており,対人社会サービスにおける一つのアプローチとして確立されている。
2 準市場メカニズム導入としての社会福祉基礎構造改革
日本の福祉分野も,長期間続いた措置制度のもと,英国の NHS と同様の不効率性という課題を抱えていた。公立機関とその代理である社会福祉法人のみに,福祉サービスの供給を独占させた措
置制度は,「福祉の昭和 20 年体制」6),「配給システム」とよばれ,統制経済・計画経済の性格を強く引き継ぐものであった。たしかに,利用者の意向を十分に慮ることもなく,一方的なサービスの提供と公共部門の非効率性を内包する措置制度は,前近代的なものであった。そして,II で検討する保育所もまた長く措置制度のもとで運営されてきた7)。
措置制度が継続したのは,福祉サービスをめぐる情報の非対称性や質やアウトカムの評価が困難であるという福祉サービスの特性に内在する。行政は,社会福祉法人が提供する福祉サービスの質のモニターが困難だったため,その代わり社会福祉法人会計により資源の流れを厳しく制約し,インプットコントロールによって,質の担保をおこなってきた8)。このため,社会福祉法人は,民間組織であるにもかかわらず,利用者のほうを見ることなく,多様性を失い,非効率化した9)。
こうしたなか,介護保険導入をきっかけに,従来の公共部門のサービス提供あるいは社会福祉法人の代理提供やサービス割当システムからなる措置制度から脱却し,利用者がサービス提供者を選択し,直接契約する仕組みへの移行が進んだ。こうした動きは,社会福祉基礎構造改革のもと,新しい福祉サービスの提供システムの基盤を整備するため,苦情処理の仕組み,地域福祉権利事業,
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情報提供・第三者評価の導入が行われた。この動きは,介護に止まらず,障害者福祉,児童福祉に拡大しつつある。
今日,社会福祉基礎構造改革は,福祉のxxx・民営化,規制緩和と評価されているが,むしろ準市場メカニズムという,措置とも市場メカニズムとも別の新しいシステム構築を行おうという試みであったと評価すべきであろう10)。
3 準市場メカニズムが直面している課題
福祉サービスにおける準市場メカニズムの導入であるが,今日,大きく 3 つの問題を抱えている。それは,①準市場メカニズムの不徹底,②インセンティブ設計の困難さ,③質や成果評価の不在である。まず,①準市場メカニズムの不徹底とは,社会福祉基礎構造改革が,準市場メカニズム原理に基づく改革であることが理論的に整理されなかったため,準市場メカニズムと規制緩和が混同され,より純粋に市場メカニズムが機能するように官製市場改革が求められるようになったことである。準市場メカニズムは,税や公的保険料によって財源調達される社会保障制度の内で市場メカニズムを利用した「公的システム」であり,xxxを目指すものではなく,単純に規制緩和の前段階として位置づけられるものでない。
②インセンティブ設計の困難さは,介護サービスで発生している。サービス提供者にとっての直接的なインセンティブは,最終サービス市場の価格である介護報酬であるが,これは公定価格であり,3 年に一度調整される。一方,要素市場である労働市場と資本市場は競争的に機能しており,資本市場で競争的に資本調達をしている株式会社は,常に利益を最大化することが求められる。しかし,コストカットし,利益を出すと次の介護報酬改定でこの部分についてカットされる。そこで,株式会社は利益を出すために,さらなるコストカット行い,賃金抑制を目指すという「介護のデフレスパイラル」に向かってしまった11)。労働条件の悪化のなかで,景気回復に伴い労働市場の需給が逼迫してきたことも加わり,介護労働者の確保は極めて困難になっている。本来は,労働力
を確保するために,一定の労働分配を確保し,労働市場の需給が逼迫したときには,介護報酬の引き上げを行うべきである。しかし,本格的な高齢化を迎え,厳しい財政制約と介護保険料の引き上げのコンセンサスを得られない政府は,介護報酬の抑制を余儀なくされる。要素価格の変動が公定価格にフィードバックする機能が内在していない点が制度の持続可能性を揺るがすことになる12)。
③質やアウトカム評価の不在とは,なにが良質のサービスであるか,またアウトカム評価を行うための評価技術の開発が関連研究分野でおこなわれなかったため,サービスの質の低下をモニター,防止することができなくなっている点である。要介護度別に設定された介護給付は,介護労働時間という量的な尺度で計算されているが,質的な側面は考慮していない。しかし,認知症高齢者の増加など,高い介護技能が必要な高齢者が増加してくると,介護の質の評価は重要な課題になる。すぐれた介護労働者を確保できず,非xx労働者が中心となり,介護サービスの質の低下が指摘されている。事業者の行動を変化させるインセンティブは適切な報酬の設定であるが,サービスの質やアウトカムが測定できないと供給者に報酬を与えることもできない。介護のように,個別事業者別のアウトカム評価が困難な場合は,インプットやサービスのプロセス評価で代替するしかない。資格や経験のある介護労働者による介護が,要介護者の心身の状態を改善するという実証的な根拠を積み重ねたうえで,インプットやプロセスに連動した介護報酬,たとえば資格のあるスタッフの比率,xxスタッフ比率,転職率,スタッフの技能開発支援と介護報酬をリンクさせる,あるいは加算するような仕組みを導入する必要がある。
II 準市場メカニズムと新しい保育サービスのシステム
I では,準市場メカニズム導入が先行しておこなわれた介護市場において発生した課題を検討したが,II では,今後,新しいシステムの導入が急
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準市場メカニズムと新しい保育サービス制度の構築 7
務になっている保育サービス制度において,準市場メカニズムを導入する際に検討すべき点を考えていこう。
日本においては,これまで包括的,体系的な家族政策が存在してこなかったが,ようやく,両立支援,包括的な家族支援・次世代育成への取り組みが加速している。2007 年 12 月に取りまとめられた「子どもと家族を応援する日本」重点戦略検討会議の提言では,包括的な次世代育成支援の枠組みの構築のための検討ポイントが提示された。より具体化するために,政府から新待機児童ゼロ作戦が打ち出されている。社会保障審議会少子化対策特別部会では,これらの提言を取りまとめ,
「仕事と生活の調和を推進し,国民の希望する結婚や出産・子育ての実現を支える給付・サービス」のために「包括的な次世代育成支援の枠組み」をめざし,新しい枠組みに向けた議論を進めている。次世代育成のポイントは多岐にわたるが,本論では,保育所サービスに視点を限定して,次世代育成支援の枠組みのなかでどのような保育サービスのシステムが考えられるのか,準市場メカニズムの可能性を検討していくことにする。
1 次世代育成と安定財源の確保
「子どもと家族を応援する日本」重点戦略検討会議によると,児童・家族関連の社会支出額は 4兆 3300 億円で GDP の 0. 83% であり,欧州諸国の 3 分の 1 から 4 分の 1 程度に過ぎない。就業と
子育てを両立するためには,1. 5 兆~2. 4 兆円が必要であると報告しており,その安定財源確保は急務である。同戦略検討会議が指摘しているように,給付の性質と財源構成は同時に考える必要がある。次世代育成政策の目標,給付の性格,最終的な受益者を考慮しながら,国,地方,企業,家計の負担のあり方について検討すべきであろう。次世代育成政策の目標は,①両立支援,②子ど も達への良好な養育環境を普遍的に保障することである。このように考えると,仕事と生活・子育ての両立支援のメリットは企業と労働者に及ぶため,これの給付と負担が密接に対応するような財
源が望ましい。この仕組みとして候補になるのが,社会保険方式であり,育児保険構想などの提案もある。しかし,子どもを持つことや保育が
「リスク」なのか,保険方式にそぐわないという指摘もある。ただし,これは社会保険制度そのものが大きく変質していることを理解していない指摘である。基礎年金拠出金,介護保険拠出金,後期高齢者医療拠出金といったように,すでに日本の社会保険方式におけるリスクと給付の対応関係が弱くなっており,事実上の目的税の性格が強まっている。こうした社会保険制度の変質を追認するならば,社会保険料という事実上の目的税で財源を確保することも可能であろう。あるいは,擬似目的税である児童手当拠出金を改編し,これに財源を求める方法もあろう13)。
一方,のちの 3 でみるように,良好な育成環境の保障が,子どもの成長に望ましい影響を与えることを確認した海外の研究は多く,良質の保育サービスは将来の日本経済社会に貢献する。良好な育成環境の保障は,すべての世代にメリットが及ぶため,その費用負担を社会保障目的税としての消費税に求めることも可能であろう14)。
また,再分配政策としての低所得者や障害をもつ児童にも,普遍的に保育所サービスを保障するためには公費を財源にすることも正当化できる。このように,保育サービスの財源構成は,①社会保険料あるいは疑似的目的税としての企業負担の拠出金,②社会保障給付を目的にした消費税,③再分配機能を持つ公費負担,の三者によって構成することは,正当化できるであろう。
2 新待機児童ゼロ作戦と供給確保
「子どもと家族を応援する日本」重点戦略検討会議では,政策目標を「働き方の見直しによる仕事と生活の調和の実現をめざし,希望するすべての人が安心して子どもを預け働くことができる社会を目指す」とし,社会的基盤整備として,新たな次世代育成支援の枠組みを構築することを求めている。保育所サービスについて見てみると,限定的な「保育に欠ける」子どもへの給付から両立支援,良好な育成環境を普遍的に保障することと
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出典) 厚生労働省社会保障審議会少子化対策特別部会 2008 年 3
月 21 日「次世代育成支援に関するサービス・給付の現状」
(1)(現物給付)から一部抜粋
図 2 新待機児童ゼロ作戦の概要
表 1 保育所の運営ルールおよび規制について
保育所(社会福祉法人) | 最近の改革 | 認定こども園(地方裁量型) | 認定こども園(幼保連携型) | |
利用者資格 | 保育に欠ける | 保育に欠ける | なし | なし |
利用者優先 | ポイント制 | ポイント制 | 施設の裁量 | 施設の裁量 |
応諾義務 | あり | あり | なし | あり |
参入規制 | 公立機関,社会福祉法人のみ | 民間参入可能 | 民間参入可能 | 民間参入可能 |
料金規制 | 保育単価上限 | 8 万円上限 | 自由 | 自由(低所得者に配慮) |
施設費補助 | あり | あり(注1) | なし | あり(注1) |
運営費補助 | あり | あり(注2) | なし | あり(注2) |
保護者負担 | 応能負担 | 応益原則に基づき負担軽減 | 施設の裁量 | 施設の裁量( 低所得者に入 り) |
利益規制 | 社会福祉法人会計(利益非配 分) | 会計規則緩和(特定の用途に つき積立可能) | なし(条例) | 保護者負担分は利益処分可能 |
サービス水準規制 | 施設最低基準,保育指針 | 施設最低基準,保育指針 | 都道府県の裁量 | 施設最低基準,保育指針 |
行政のかわり | 委託 | 委託 | 委託関係なし | 委託関係なし |
注)1) 社会福祉法人,日赤,公益法人のみ。
2) 公立は市町村の一般財源。
言い換えることができる。政府は,質・量共に充実,強化するために,すでに新待機児童ゼロ作戦を打ち出してる。新待機児童ゼロ作戦は,10 年後の目標とし,①保育サービス(3 歳未満児)提供割合を現在の 20% から 38% まで増やし,0 歳から 5 歳までの利用児童数を 100 万人増やす,②
放課後児童クラブの提供割合を現行の 19% から 60% まで増やし,登録児童数を 145 万人増やすという野心的なものである。
保育所サービスは,表 1 で示すように 1997 年の改革以来,改革が行われ,保護者の選択が尊重されたが,市町村と施設の委託関係と市町村と保
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準市場メカニズムと新しい保育サービス制度の構築 9
護者の契約関係という点は変化なく,表向きは選択制度導入としつつも,その内実は措置制度が強く残っている15)。
措置制度のまま,どのように供給量確保するか,従来の通り,社会福祉法人と公立保育所中心でいくか,多様なサービス提供者の参入を認めるかという点が課題になる。
この点について,2003 年の厚生労働省「次世代育成支援施策のあり方に関する研究会報告書」
(以下,あり方研究会報告書)は,「民でできることは民で」という官民の役割分担の観点を踏まえると,今後とも公設民営形式の推進や公営保育所の民営化など民間活力の導入を進めていくことが適当である」とし,民間組織の参入を認める提案をしている。以降,こうした保育所サービスにおける新しいシステムについて,準市場メカニズムの考えに基づいて考察していく。
3 保育所サービスの特性
準市場メカニズムが機能する際に,対人社会サービスのアウトカムやサービスの質の評価とインセンティブ設計が重要になる。保育サービスにおいても,準市場メカニズムを導入する際には,保育の質やアウトカムは何なのか,検証する必要がある。
(1) 保育所に求められる保育サービス内容とは保育所,保育サービスに何を求めるか。保育の 目的は多様であろう。ヨーロッパ諸国では,3 歳以上と 3 歳未満では考え方を分けている国が多
く,多くの国では 3 歳以上については就学前教育の普遍化という方向であるが,3 歳未満については,親の役割をめぐり国によって考え方が異なっている16)。保育所サービスを実際に提供する保育士に期待される内容は,この保育所の役割,保育所サービスの目的によって異なるが,おおむね,幼児専門職,教育職,社会的ネットワーク職(ソーシャルワーカーモデル)に分類される。
日本においては,保育所保育指針改定に関する検討会報告書(平成 19 年 12 月 21 日)で,子どもの生活環境の変化,保護者の子育て環境の変化
をうけて,保育所の基本的な機能を,①質の高い養護と教育機能,②子どもの保育とともに保護者に対する支援とし,それに対応した指針改定が行われることになった17)。保育所,保育サービスの機能は,単なる親の満足度向上ではなく,養護・教育機能に加え親支援も含めたソーシャルワーク18)の性格を持つことが明確にされている。
まず,この親支援という点に着目して,保育所サービスの特質について考えてみよう。xx
〔2003〕は,ヒューマンサービスの特性として,
①労働集約的,接触性,個別性,②不可逆性,③相互関与性・相互編集性19)を指摘している。これらは,保育所サービスにも当てはまる。特に③の相互関与性については,親,子どもと保育士の信頼関係が保育の質を左右する20)。専門職である保育士の一方的な押し付けだけでも,あるいは消費者としての親の自由気ままな選択でも,この目的は達成されない。この点については,「あり方研究会報告書」でも,「単に親のニーズに迎合するのではなく,その専門性を発揮し,保育所と保護者が「共に育てる」という視点から,保護者への働きかけ,子どもたちの育成に努めることが求められる」と確認されている。
親支援を考慮すると,保育士は,専門知識に基づき効果が確認されたアドバイスを親に提案することになる。保育所サービス契約を,保育所と親の単純な経済取引と考えるべきではない。専門職は利用者と意思決定をともに行う補完者になるという利用者と専門職の新しい関係を構築する必要がある21)。
(2) 保育の質の測定と情報の非対称性をめぐる問題
養護および教育という点からの保育の質については,①質そのものの測定が困難,②サービス内容に関する情報の非対称性という課題を抱えている。
①の何が良質の保育サービスであるかは,直接観測は困難である。また,質の低い保育サービスの弊害はただちに明らかになるわけではなく,子どもの将来の発達に影響を与えることになる。保
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育サービスのプロセスが児童発達に与える影響については研究蓄積の必要があるが,日本では十分ではない。直接的なアウトカム評価が困難である以上,実証研究で適切と確認されているプロセスをもって保育の質を評価せざるを得ない。この点については,4 で再論する。
もう一つの課題は,経済学でいう「隠された行動」という情報の非対称性が問題である。保育サービスを選択するのは親であるが,最終的な消費者は子どもである。選択者と消費者が分離されている。このため,親がモニターできないところで保育サービスの質が切り下げられている可能性がある22)。職業倫理性を身につけた専門職である保育士の配置を充実することにより,こうした問題を部分的に回避することもできるであろう。
(3)人的投資としての良好な育成環境の保障 保育サービスは,個々の子どもがその便益を受
けるため,私的財であるという指摘もある。しかし,良好な育成環境を保障することにより,子どもの健全発展は,将来の社会政策コストを削減できる可能性がある23)。さらに,良好な保育環境の保障は,経済的にも十分価値のある人的投資となることが知られている24)。また,低所得者に対する保育サービスは,貧困防止という点から所得再分配政策上の意義もあり,保育サービスは,一部に外部性をもった公共財的な性質を持っていると評価できる。
4 利用者補助システムの設計
これまで述べたように,新しい保育サービスのシステムとしては,多様な民間組織の参入と利用者による選択制からなる準市場メカニズムが候補になるであろう。このシステムを費用補助という視点からみれば,施設補助方式から利用者補助方式への転換,すなわちxxのバウチャー方式ということになる。
(1) 利用者補助方式・xxのバウチャー方式とは
対人社会サービスにおける費用補助としては,
措置制度に見られる施設補助と利用者補助方式,xxのバウチャー方式がある。いわゆるバウチャー方式は,市場メカニズムの導入の典型例とされ,福祉サービス関係者のなかでは人気がない。しかし,これはバウチャー方式に対する誤解に基づくものである。xxのバウチャー方式とは,補助金は施設ではなく,利用者に対して支給され,そのサービス選択を保障する,利用者補助そのものである。多様なサービス提供主体が参入すると,利用者を確保するために,施設はサービスの改善を競うことになる25)。保育においても契約制度導入26)ということになれば,当然,利用者補助制度,xxのバウチャー制度に切り替わることになる。
バウチャー方式の歴史は古く 1870 年代にフランス議会で導入が検討された歴史もある。利用者補助方式であるバウチャー方式は,その政策目的によりさまざまなバリエーションがあり,「純粋バウチャー,典型的バウチャー方式」というものは存在しない。
ここで注意しておくべきことは,①バウチャー方式においては,政府の財政負担額そのものは,必ずしも引き下がらない,②多額の自己負担がない限り,価格競争が生まれる必然性はなく,供給が増えないと価格が上昇する可能性もある,との帰結を伴う。バウチャー方式にすると費用を抑制できる,サービス供給が拡大するといったことが期待されているが,必ずしもそのような成果がもたらされるわけではない。サービス利用時の自己負担割合が大きければ,価格競争がうまれるだろうし,参入規制緩和が行われれば,サービス供給も増えるが,バウチャー導入単体ではそこまで政策効果はない。逆に,バウチャー方式になると政府の公的サービス責任が低下する,サービスの利用が利用者の経済状況によって左右されるなどの欠点が主張されるが,これもバウチャー方式に必ず伴うものでもない。これらはいずれも,議論しているバウチャー方式がどのような設計になっているのかを明示せず,あるいはバウチャー方式に多様な形態があるということを理解しないで議論しているためである。この点については,「あり
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準市場メカニズムと新しい保育サービス制度の構築 11
表 2 バウチャーの性格付け
制限なしバウチャー | 制限ありバウチャー | |
①給付水準(value) | 定額 | 定率 |
②追加支出(Supplmentable) | 認める | 認めない |
③価格設定(fees) | 自由(Cost fees) | 制限あり(Uniform fees) |
④所得との関係(Income Related) | なし | あり |
注) 別の地域の施設を選択した場合の移動コストを含めるかいなかという制約もある。著者作成。
出典) Xxxxx〔1984〕
図 3 バウチャーツリー
方研究会報告書」も十分認識しており,「保育の利用補助券を子育て家庭に配布する,いわゆるバウチャー制度についてはさまざまな定義があり,何を持ってバウチャーと呼ぶかは議論があるが,諸外国で導入されたような自由価格制の下で追加的な差額負担が家計に生じる仕組みを我が国に導入することは,ア)市町村の公的関与が後退するのではないか,イ)低所得者などの利用が事実上排除・制約されるのではないか といった懸念などがあり,今日の我が国の現状からすれば慎重に考えるべきである。」と,バウチャーの種類を限定して,問題点を指摘している。
(2) 多様なバウチャー方式
バウチャー方式を有名にしたのが,xxxx・xxxxxxの教育バウチャー案である。そこでは,公立学校に集中する公費による機関補助をやめて,私立学校にも費用補助すべきであるという
発想に基づき,自由な教育市場で親がバウチャーを使って学校を選択すべきだと主張した。フリードマン型バウチャーの特徴は,①所得に関係なく定額給付,②自由価格で,高価な教育サービスを購入できるように自己負担分の上乗せ払いができること,③学校側が希望者を選択できるようにする,を特徴にしている。以来,バウチャー方式=競争市場における利用者補助制度として誤解されている。しかし,先に述べたように,フリードマン型バウチャーは一つの変種にすぎない。これに対して,xxxxx(Jencks)は,①サービス価格固定,②追加自己負担なし,③供給者側による選別禁止などの,制限を付けたバウチャーを提案している。Xxxxx〔1984〕は,バウチャーを構成するさまざまな要素を整理し,制限なしバウチャーから制限の強いバウチャーまで識別したバウチャーツリー(Voucher tree)(図 3)を考案している。フリードマン型バウチャーはほかのバウチャ
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ーと区別するため,「制限のないバウチャー」と呼ばれている27)。
教育分野(初等中等教育)では,アメリカ,カナダの一部,イギリス,オランダ,スウェーデン,ニュージーランド,ポーランドなどでバウチャーが導入された28)。保育分野では,保育市場が発展しているアメリカでは低所得世帯を対象にバウチャーが給付された29)。英国では,1996 年に保守党政権下で就学前教育・保育バウチャー制度の導入が行われた。この英国のバウチャー制度は,サービス供給の増加につながらなかったため,施設不足が発生し,また一部名門学校付属のプレスクールに希望者集中という問題を引き起こし,労働党政権によっては廃止された。スウェーデンでは,民間市場が福祉供給を一部代替し,一部補完するだけでなく,コスト意識の乏しい福祉部門自体に市場的機能を導入して効率的マネジメントをする動きが進み,マルメ市などで,民間供給を含む保育サービスなどにバウチャー制度を導入している。また,フィンランドでも,1997 年から民間保育手当制度として導入されたことがある30)。
日本においても,教育再生会議などで,学校選択とセットで教育バウチャー制度が議論され,規制改革会議などでも保育バウチャーの議論がある31)。
(3) 保育における利用者補助システム
保育サービスにおける契約システム,利用者補助システム(xxのバウチャー方式)の具体的な設計はどのように考えるべきであろうか。利用者補助制度の目的は,①各保育所は,それぞれの特徴的な保育サービスを用意し,保育サービスに創意工夫を行うインセンティブを持たせること,②かりに保育所と子育ての考えが合わなかった場合でも親は保育所を変更できる選択肢を持っているという意味で,対等の立場で保育の質の向上に取り組むことができるような仕組みを構築することである。専門職である保育士が,子どもの成長にとって必要と判断するサービス内容,「ニーズ」と利用者が望む「需要」を接続する役割を果た
す。ただし,保育サービス助成の目標が子どもの健全な発展が目標であるため,利用者補助制度は,親の満足度や親に都合のよい生活を支援するためのものではない。過度の消費者主権のもとで,親に転々と都合のよい保育所を探す手段として利用者補助システムが使われないように,一定の公的介入の仕組みも導入する必要がある。
5 新しいサービス保育システムに向けての検討課題
以上,述べてきたように新しい保育サービスシステムを準市場メカニズムに基づいて機能させるためには,以下の項目について検討する必要がある。
(1) 保育サービス利用の範囲
現在,保育所を利用するためには,「保育に欠ける」という要件を満たしている必要がある。この具体的な要件は,各自治体が政令で定める基準にしたがって条例で定めている32)。さらに待機児童がいる場合の選考基準については,各自治体がポイント制を導入し,優先順位をつけて選考している33)。新しい次世代育成支援のもとで,保育所サービスの目的,内容が変わり,その財源構成も変化するのかで,「保育に欠ける」要件を大幅に見直し,なるべく普遍的に両立支援や子どもの発達上の必要性の点から評価する基準を導入すべきである。
(2) 供給主体
保育サービスの供給主体については,保育サービスの質を確保できれば,民間企業でも参入を認めるべきであろう。また,措置制度からの脱却のために,保育サービス本体部分については,施設補助は行わず,施設は利用者数に応じて公的主体から支払われる金額,すなわち保育サービス報酬と利用者負担で保育サービスに必要な費用をまかなう仕組みにすべきである34)。
(3) 補助・利用者負担のあり方
利用者の保育料負担である保育料基準額は,保
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育単価を上限に,所得階層別に設定されている。
1997 年の児童福祉法改正により,保育料基準額
は,従来の 17 区分から 7 区分に変更され,児童
福祉法 56 条も改正前の費用徴収の規定は,「その扶養義務者から,その負担能力に応じて」という規定から「家計に与える影響を考慮して」と変わり,応能負担ではなく,応益性の性格が強まった35)。この点について新しいシステムではどのように考えるか。
まず,保育にかかる費用をすべて利用者から徴収するかどうかである。ジャッジ36)は,社会福祉サービスの価格設定において,配分効率補助金と外部性補助金の二つの補助金を提案しており,前者については,保育サービスの費用構造を測定してから判断しなければならいが,後者については,政府が保育サービスを価値財と判断するか,あるいは保育サービスの外部性を評価すれば,価格補助は正当化でき,また新しい財源構成とも整合性がある。保育サービス費用から公的な費用補助を除いた,受益者負担分の費用負担については,二つの考え方がある。一つは応益負担を中心に考え,受益者負担分を利用者人数で割って,一人当たりの費用負担を計算する。その上で,低所得者に限定し,公費を財源にした負担軽減措置を行う方法である。もう一案としては,応能負担として,給付に必要な費用を家計間で再分配する仕組みである。応能負担の場合,所得の単位をどのように考えるか,個人単位で考えるのか,世帯単位で考えるのかが課題になる。世帯単位で考えると,妻の就労所得に対する保育料の限界負担が大きくなり,就労意欲を減退させる可能性もある。保育料負担による所得再分配は避けて,基本的には応益・定額負担とし,低所得世帯については,児童手当の増額か,あるいは公費による保育料負担の減免措置を行うべきであろう。一方,各供給主体が利用者に請求する価格については,公的にコントロールすべきであろう。すくなくとも,利用者負担について,質の低下が伴うおそれのある引き下げ競争を認めるべきではない。基本部分については公定価格にしつつ,付加・上乗せサービスについては,自由価格を認めるべきだと考える。
(4) 情報提供・第三者評価について
医療,教育,対人社会サービスに準市場メカニズムを導入する際は,国はサービスの質の向上を支援するとともに,サービスに対する検査,認定を行い情報の非対称性を取り払う必要がある。すでに,保育所の情報開示,第三者評価については,社会福祉法第 78 条で定められており,第三者評価の狙いは,「個々の事業者が事業運営における具体的な問題点を把握し,サービスの質の向上に結びつけること」と「利用者が福祉サービスの内容を十分に把握できるようにする」ということになっており,評価対象はソフト面が中心となっている。2002 年の「児童福祉施設における福祉サービスの第三者評価事業の指針について」, 2005 年の「保育所版の福祉サービス第三者評価基準ガイダンスにおける各評価項目の判断基準に関するガイドライン及び福祉サービス内容評価基準ガイドライン等について」をうけて,第三者評価のガイドラインは,福祉サービス共通の 55 評
価項目と保育の特性に着目した 34 評価項目37)で構成されている。実際に評価する機関は,社団法人保育士養成協議会が評価機関を立ち上げ,評価された保育所許可を得て,財団法人子どもxx財団 i-子育てネットに掲載することになっている。また各都道府県が今後評価態勢を整備することになっている。
こうした保育所に関する情報公開,第三者評価は準市場メカニズムが機能するかどうかの鍵になる。先に述べたように,利用者にとって,専門的な保育のサービスの質やアウトカムの測定・評価は困難であろう。また「親の満足度調査」だけをアウトプットの代理指標に使うと,保育所に誤ったインセンティブを与えることになる。
大宮〔2006〕は,現在の第三者評価を,「欧米での保育の質に関する評価システムが,保育の質に関する研究の一定の集積をふまえて構築されているのに対して,わが国ではその蓄積がほとんどない中で,あまりにも拙速な取り組みではないか。しかも,はじめから,保育条件に関する評価項目は質の要素から除外されている点は重大な問題である」と指摘し,保育プロセス,保育条件を
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表 3 現行方式と新しいシステムの比較
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現行制度 | 準市場メカニズムに基づく新しいシステム(契約、利用者補助方式) | |
財源 | 公費 | 公費・消費税・拠出金 |
目的 | 児童福祉 | 両立支援・良好な育成環境を普遍的に保障する |
利用者の範囲 | 保育に欠ける | 希望する児童に養護・教育・親支援を保障 |
供給主体 | 公立・社会福祉法人中心 | 多様な事業者の参入を促進する |
利用者負担 | 応益負担 | 応益負担(低所得者世帯に対する負担減額) |
保育価格 | 固定 | 固定・上乗せサービスあり |
第三者評価 | あり | あり |
施設最低基準 | あり | あり |
報酬体系 | 運営費・施設費補助 | 利用者数と保育士配置に応じた加算した保育サービス報酬 |
公的介入 | 措置 | あり(過剰な消費者主権や親の誤った選択への対応) |
出典) 著者作成。
評価項目に加えるべきだと指摘している。これは説得力のある指摘である。たしかに,施設の設備,保育士数などの外形的なものについては,施設最低基準(行政監察)でチェックしているが,今後,多様な民間組織の参入を認める際には,保育サービスのプロセスに着目した評価を行うべきであろう38)。労働集約的な保育サービスでは,保育士の資格,経験,熟練,スキルが保育の質を左右する重要な要素であろう39)。こうした保育士の能力,人員配置が,子どもの発達段階にどのような影響を与えるか,発達心理学などの手法を使って実証的検証をし,効果が確認された項目については,その項目をインプット評価40)にいれたインセンティブ設計が必要になる41)。介護サービス市場で起きた質の低下を繰り返さない工夫が必要である。
(5) 保育サービス報酬の設定
国が施設に支払う保育サービスに対する報酬の設定は慎重に行うべきである。障害児を回避し,コスト・手のかからない児童だけを受け入れるようなクリーム・スキミング,チェリー・ピッキングが発生しないような仕組み42)や(4)で述べたようにプロセス,保育士配置を通じて質の確保を行うように,インセンティブを持たせる報酬体系を導入すべきである。
(6)直接契約に対する公的介入の余地
保育サービスの特徴としては,消費者である子
どもと選択者・購入者である親が分離している点である。子どもの代理人である親は,当然,子どもの真の福祉のために選択を行うことが期待されるが,親の都合による,過度な長時間保育など誤った消費者主権モデルが発生しないように,施設と利用者の契約に公的な介入の余地を残す必要がある。
これらは,表 3 のようにまとめることができるであろう。
III まとめと今後の課題
以上,I では,準市場メカニズム導入によって明らかになった課題,II では保育サービスに準市場メカニズムを導入する際に検討すべき項目を整理した。もちろん,保育サービスの充実だけでは,就労と子育てが両立可能になるわけではない。現在のような長時間労働をそのままにしていけば,保育サービスの負荷が高まるのは明らかである。
本稿では,いくつか検討課題を残している。一つは,保育所と幼稚園の役割分担である。地域によっては,両者の役割が補完関係ではなく,代替関係になっている場合もある。このため,保育利用に対する支援と整合性のある幼稚園に対する利用者支援も考える必要があり,3 歳児以降の幼保一元化も視野に入れる必要がある43)。さらに三世代同居家族が多く,保育サービスが必ずしも普遍的に必要ではない地域もあることを考慮する必要
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がある。また,これと関係するが,保育サービスのための地域負担をどのように考えるかも本稿では検討していない。
本稿では,保育コストに最も影響を与える保育士の労働条件,賃金についても検討していない。民間保育所,社会福祉法人経営の保育所と公立保育所の保育コストの違いは,保育士の年齢構成と賃金構造が年功給であるかによって発生しているとされている。賃金構造が年功給であれば,ベテランの保育士が多くなれば,費用は嵩むことになる。そこで明らかにしなければならないのは,年功給体系が専門職にふさわしい賃金体系であるかどうかである。一般的には,専門職の生産性,賃金は,資格や技能によって左右され,必ずしも年齢効果は強くない。もちろん,経験年数によって技能は向上する可能性が高いが,かならずしも公務員のような年功給である必要はない。一方で,長期にわたり,専門職としての意欲を維持するための賃金体系の工夫は必要となる。福祉専門職の賃金構造をどのように設定するかという点も,今後の実証研究の蓄積を待ちたい。
最後に,I の準市場メカニズムの展開で述べたように,Knave や Queen も対人社会サービス,保育サービスの参加者になる。準市場メカニズムを機能させるためには,評価とインセンティブが重要になり,そのためには介護,保育などの関連分野の研究蓄積,連携が不可欠である。こうした研究蓄積と情報の経済学,新しい産業組織論などのツールが結びつけば,医療の経済学同様にこの分野は実り多いものになるであろう44)。
注
1)quasi-market については,擬似市場と訳すことができるが,本特集に合わせて本論では準市場と表記する。
2)この考えは,医療サービス市場において,医療費の高騰を招いているアメリカや,「管理された競争」概念として逆に公的医療制度が整備されている欧州でも共有されることになった。
3)英国では,準市場メカニズム導入の一類型として,Purchaser - Provider Spilt の考えに基づいて,NHS 改革とコミュニティケア改革が
行われた。NHS 改革が,医療サービスに与えた影響についての多くの研究蓄積がある。例えば,GP(家庭医)が GPFH(独立性の高い予算管理一般家庭医)になることによって,登録住民数に応じた医療費総予算を預かることになり,登録住民のために必要な入院サービスを購入することになる。効率的に入院サービスを購入したり,薬剤を使用することによって残った予算を事業の再生産に投入できる こ と に な っ た。GPFH と HAs(Health Authority 地方医療当局)は,ともに NHS トラスト病院からの入院サービスの購入するが, GPFH は低価格の医療サービス購入からの利益は大きいが,HAs は年間予算内であれば利益を出す必要はないというインセンティブ設計が異なるため GPFH と HAs との行動は異なり,HAs は GPFH よりも価格弾力性は小さくなる 。Propper , Xxxxxx and Xxxxxxxxx〔1998〕は,GPFH の直面する価格は,病院の独占力や需要の価格弾力性に依存するというモデルを想定し,実証分析を行い,HAs のシェアが大きい病院ほど GPFH への価格引き下げる傾向があることを確認している。
4)xx〔1995〕が,対人社会サービスの分野における準市場メカニズムを最初に紹介した。その後の準市場の研究展望は,xx〔2006〕を参照せよ。
5)Mc Master, Xxxxxx〔2002〕は,Le Grand の準市場アプローチが制度,現象の記述的な研究にとどまり,情報の経済学などの研究蓄積を十分に生かし切っていないと指摘している。
6)xx・xx・xx〔1992〕。
7)xx〔2005〕は,「保育所の措置制度は,1938年に制定された社会事業法に盛り込まれた託児所への収容委託制度にその原型を求めることができる」としている。また,こうした措置制度が保育に長く残った政治的要因についてもxx〔2005〕を参照せよ。
8)xx〔2006〕p. 42。
9)xx〔2003〕p. 182。
10)社会福祉基礎構造改革の推進者が,市場メカニズムでも公的セクターでもない第三の道である準市場メカニズムをどの程度はっきり意識していたか不明である。xx〔2003〕p. 27参照。
11)xx〔2006〕。
12)xx〔2001〕P82 はこうした危険性を指摘している。
13)拠出金は,企業負担であり受益者である労働者が負担しないというのはおかしいという指摘もあろう。しかし,経済学的には,保険料でも拠出金でもその負担の一部あるいは全部
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が賃金調整という形で,労働者に転嫁されていることになる。
14)これは,次世代育成支援に止まらず,社会保障制度全体に通じた課題であろう。すでに,高齢化社会において,社会保障給付の世代間移転の性格が強まっているため,社会保険料と公費による財源政策の限界に近づいている。特に世代間移転が大きい社会保障制度の新しい主要財源として,社会保障目的税化した消費税を導入し, 社会保険料, 公費に加え,三xxの主要財源にすべきである。
15)xx〔2005〕は,この結果,「双務的な契約がある場合に,明確になる利用者と保育所の権利義務関係は不明確であり,当事者であるはずの保育所が利用者に直接責任を負っているかどうかわからないという制度的欠陥は放置されたままである」と指摘している。
16)親中心と考えている国は,オランダ,イギリス,ドイツ。施設を中心に考えている国は,フィンランド,スウェーデン,スペイン。パメラ・オーバー・ヒューマ,xxxx・xxxxx〔2004〕参照。
17)指針改定の具体的な内容は,①保育所の役割として,保育・教育と保護者支援という保育所の役割,保育士の業務,保育所の社会的責任が明確化され,②保育の内容,養護と教育の充実,③小学校との連携,④保護者に対する支援,⑤自己評価,評価結果の公表,職員の資質向上, 施設長の責務明確化などである。また質の向上の観点から,保育指針は最低基準としての性格を持つことになる。
18)「あり方に関する研究会報告書」では,「家庭や地域の子育て力が低下し,特別な配慮を必要とする家庭が増加している状況も踏まえ,市町村は,地域内の社会資源を適切に活用しながら,いわゆるケース・マネジメント機能をより一層強化する」としている。
19)サービスの質を高めるためには,利用者とサービス提供者が相互に主体的に参加しなければならない。
20)大宮〔2006〕p. 171。
21)すなわち EBSW(根拠に基づくソーシャルワーク)とソーシャルワークにおけるインフォームド・コンセントである。XXXX とは「実証的に検証された文献や論文を体系的に収集し系統立て,そこで得た知識と手順が,援助目的に最も適切で効果的な結果をもたらすように,実践者に介入法の選択と実施を支援するもの」である(xxxxx〔2007〕P188)。
22)このような場合,利益の分配制約のある非営利は,利益最大化を目的としている営利法人よりも手抜きをする動機が低いと親が信じる
ことにより,非営利に需要が集中することを
「契約の失敗」という。
23)保育所における保育の効果が,子どもの発達に与える研究としてはアメリカ,ミシガン州におけるペリープリスクール研究(Perry Preschool)が有名であり,長期間の観測によって,保育所保育をうけたグループのほうが家庭保育をのみのグループよりも, 基礎学力,大学進学率,就職率,犯罪率などの項目において,優れた成績を示していることが確認されている。またスウェーデンでも,学力において同様の傾向が確認されている。Xxxxxx X. Kamer man, Xxxxxxxx Xxxxxx, Xxxx Xxxxxxxxx and Xxxxxx Xxxxxx‒Gunn(2003)を参考。
24)Xxxxxxxxxx t, L. J., H. V. Xxxxxx, and D. P. Weikart.〔1993〕を参考。
25)利用者人数にしたがって,サービス提供機関の収入が変動する仕組みになっている医療保険・医療扶助, 介護保険, 障害者支援費制度,雇用保険における教育訓練給付はいずれも一種のバウチャー方式とよぶことができる。
26)「あり方に関する研究会報告書」では「保育の利用申込みやその受諾が利用世帯と保育所との間で直接行われる仕組みとなれば,利用世帯と保育所の双方で,保育に関する当事者意識がより高まり,子どもの状況に応じた保育の在り方が検討されるようになることが期待される。具体的には,利用者側からみれば,より主体的に保育所の運営方針や保育内容を確認しつつ保育所を選択することができるようになり,一方,保育所としても,広く地域に情報提供するインセンティブが生まれるとともに,利用者のニーズに合ったサービスの提供が期待される。」さらに,「平成 9 年には,市町村の措置に基づく入所の仕組みを見直し,保護者が希望する保育所を選択して,市町村に利用申込みを行うという改正が行われている。しかし,最近の保育を取り巻く環境の変化や周辺分野における改革動向を踏まえると,新たな次世代育成支援システムの一環として,市町村が自らあるいは委託という形態で行う現行の仕組みを見直し,子の育ちに関する市町村の責任・役割をきちんと確保しつつ,保護者と保育所が直接向き合うような関係を基本とする仕組みを検討することが考えられる。」と契約制度導入を示唆している。
27)サービスの必要度と給付額をリンクしたバウチャーも設計可能である。
28)内閣府政策統括官(2001)が詳細な国際比較を行っている。
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29)市場メカニズムで保育サービスが提供されているアメリカでは,保育の経済分析に関する蓄積が多い。特に保育サービスについて包括的に分析しているBlau(2001)は,保育の質と費用の間には正の相関関係を確認している。そこでは,児童発達学などの手法で測定される保育サービスの質ポイントを 1 点引き上げためには,保育コストが 5. 6% 上昇することが確認されている。
30)フィンランドの保育バウチャー導入の効果に関する論文としては Viitanen〔2007〕が実証的な研究を行っている。
31)赤林〔2007〕。
32)昼間労働を常態にしている,妊娠中・出産直後,疾病・負傷・精神・身体の障害,同居の親族の常時介護,災害などである。
33)選考基準は, 就労状況, 就労時間, 就労場所,出産前後にあるか,身体の状況,家族の状況などについてポイントをつけている。地域間で保育に欠ける要件が具体的にどの程度差異があるのか,選考時のポイントにおいてどのような違いがあるのかは明らかではない。
34)社会福祉法人などが,公益性の高い事業を行い,利用者補助がそぐわない場合は,その部分に限定した施設補助をすればよい。
35)「あり方に関する研究会報告書」では,「利用者負担については,地方公共団体の上乗せ軽減措置もあって,認可外保育施設や幼稚園の利用者負担との比較,在宅育児家庭とのバランスといった観点から低いとの指摘もあり,待機児童解消に向けた効率的な資源配分の観点から,必要に応じ見直しを行うことを検討すべきである。あわせて,現行の保育所利用の見直しに際しては,負担能力に応じ7段階にも細かく区分されている利用者負担区分の簡素化を図るべきである」と指摘している。
36)ジャッジの価格づけ理論については, 坂田
〔2003〕p. 171。
37)評価項目は,子どもの発達援助項目,保護者の育児支援など子育て支援項目,安全・事故防止から構成されている。
38)大宮〔2006〕p. 76 は,アメリカにおいても保育の質の測定としては,プロセス評価が行われており,具体的な測定尺度としては,保育条件(グループ人数・比率・経験・専門的訓練等),保育者の労働環境の指標(賃金・転職率・運営参加度・ストレス)が採用されているとしている。
39)ハード面の整備も当然のことである。また,保育施設の規模が費用に与える効果ついても考慮する必要がある。
40)具体的には,経験の長い保育士や正規保育士
を雇用するほど,あるいは保育士の転職率が低いほど,政府が施設に支払う保育報酬を高くするなどである。
41)ア メ リ カ の 研 究 蓄 積 に つ い て は, 大 宮
〔2006〕p. 205 参照。
42)「あり方に関する研究会報告書」では,その方法としては,障害児や母子家庭などへの適切な配慮を前提としつつ,保育所利用の必要性や優先度の判断に関する新たな仕組み(要保育認定)なども提案している。
43)さらに就学前教育に関する無償化の動きも考慮する必要もある。
44)例えば,赤木博文・稲垣秀夫・鎌田繁則・森徹〔2008〕はこうした試みの一つと評価することができる。
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わが国の医療提供システムと準市場
――ネットワーク原理に基づく医療提供システム――
遠 藤 久 夫
I はじめに
医療サービスの提供形態,すなわち医療提供システムをどのように運営すべきか。これは経済体制,経済の発展段階,財政状況,人口構成,国民の価値観などさまざまな要因により,国によって多様な形態が見られる。しかし,医療システムの運営を純粋に市場原理に委ねている先進国は存在しない。その第一の理由は,市場原理では医療アクセスの公平性を確保することが困難だからであり,第二の理由は,医療システムは市場原理によって効率的な資源配分を導くことができない市場の失敗のケースだからである。しかし,公平性や効率性を向上させる目的に,医師や患者の自由度を極端に制限した計画経済のような医療システム運営を行っている国もない。強制によって患者の病状や社会的背景の多様性を無視することや,一律の規制によって医療技術の複雑性や医療効果の不確実性を軽視することは医療提供のあり方としてふさわしくないからである。先進各国では患者や医師の行動の自由を一定レベル保障しつつも,さまざまな規制とインセンティブを張りめぐらせて公平性と効率性を向上させようと試みているのが実態である。その意味では,医療システムは
「準市場」原理で運営されているといえよう。 本稿では,はじめに医療提供システムの運営に
市場原理が有効でないことを再検討する。次いで医療提供のあり方として市場原理と計画原理の中間形態であるネットワーク原理という概念を提示
し,今日の医療制度改革にとってネットワーク原理に基づくシステム運営が重要であることを示す。最後に,ネットワーク原理によるシステム運営だと考えられる実例を観察する。
II 医療提供システムと市場原理の非親和性
1 医療提供システムと市場の失敗
医療提供システムの運営を完全に市場原理にゆだねている先進国は存在しない。その第一の理由は医療アクセスの公平性の確保である。医療サービスは必需性が高いことと,患者の医療需要量と所得には負の相関が見られることから,所得に制約されることなく必要な医療にアクセスできるべきだという社会的規範は大きい。市場原理に基づく資源配分ではアクセスの公平性を確保する保証はない。そのため全ての先進国では公的医療保険
(保障)が導入されている。公的医療保険は強制加入であるから加入者に選択の自由がなく,市場原理の対極にあるといえる。医療提供システムが完全に市場原理にゆだねられない第二の理由は,医療提供システムは市場原理では効率的な資源配分が達成されない市場の失敗のケースだからである。その原因の第一は先の理由で導入された公的医療保険によるものである。公的医療保険では,
(i)医療の価格は公定化される場合が多く,かつ
(ii)患者自己負担額が軽減されるので需要の価格弾力性が小さくなる。これらの理由で公的医療保険の導入は,市場原理の最たる特徴である価格変化による需給調整機能を著しく低下させること
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になる。市場の失敗の第二の理由は,医師-患者間の医学知識の偏在により,患者が医療の内容を正確に評価することを困難にしていることである。いわゆる情報の非対称性による非効率である。このように医療システムは市場の失敗のケースであるため,資源配分の効率性を高めるために規制やインセンティブの形でさまざまな公的な介入が行われている。
それでは医療提供システムにはどのような介入方法が望ましいのであろうか。この考察を行うに先立って,予備的考察として(i)市場原理とその対極にある計画経済の資源配分原理(計画原理)の特性を比較整理し,次いで(ii)医療サービスの取引を行う上で重要な意味をもつ情報の伝達について整理する。
2 市場原理と計画原理の特性
表 1 は市場原理と計画原理の特性を整理したものである。
① 資源配分方法:市場原理では需要者が価格と質を選択のシグナルとして財・サービスを選択することにより調整が行われる。計画原理では中央の命令(規制)によって需給が調整される。
② 行動目的:市場原理では市場に参加する需要者,供給者はともに自己利益の追求を目的として取引することが求められる。計画原理では各参加者の自己利益の追求は容認されず,全体利益が追求される。
③ 要素間関係:市場原理では自己利益の追求が前提となるため需要者と供給者間,需要者間,供給者間の関係は競合関係となる。計画原理では各要素は中央の命令(規制)に従うので,要素間は競争的にも協力的にもなりうる。
④ 情報:市場原理が有効に機能するには,財・サービスの価格と質に関する情報が参加者全員に開示されていることが求められる。計画原理ではこれらの情報が中央に集中することが求められる。
⑤ 選択の自由:市場原理が有効に機能するには需要者・供給者とも選択の自由が保証され
表 1 市場原理と計画原理の特徴
市場原理 | 計画原理 | |
①資源配分の手段 | 市場圧力 | 規制(命令) |
②行動目的 | 自己利益の追求 | 全体利益の追求 |
③要素間関係 | 競争 | 規制(命令)に従属 |
④情報 | 各参加者に開示 | 中央に集中 |
⑤選択の自由 | 高い | 低い |
⑥取引期間 | 短期的 | 長期的 |
⑦システムの構造 | 柔軟 | 硬直 |
ていることが前提となる。この場合の選択の自由とは,権利としての自由だけでなく十分な選択肢が存在することも意味している。計画原理では中央の意向により各要素の選択の自由は大きく制限される。
⑥ 取引期間:市場原理が有効に機能するには,取引が短期的で取引のペイオフが個々の取引で完結的であることが求められる。なぜならこのような状況では,取引の開始や終了のタイミングによる不利益が発生しないため,いつでも始められ,いつでも止めることができる。すなわち取引の粘着度が低下して需要者の選択行動の自由度を高めることにつながる。このように,短期的,自己完結的取引は需要者の選好を市場に伝達しやすい。一方,計画原理においては,取引期間は一般的に長期的である。
3 医療取引に伴う「情報の束」
次いで医療提供システムの運営原理を考察する上で重要な意味をもつ,医療に関する一連の情報,「情報の束」について整理する。これらの情報が適切に伝達されないと医療のパフォーマンスは低下することとなる。
(1) 情報の束 A:医師(医療機関)から患者へ伝達される情報
(A‒a) 病状や診療内容に関する情報
医師と患者の間では医学知識が医師に偏在しているため,患者は自身の病状を正しく把握することが困難であり,また医師が提供する医療内容が適正なものかどうかを正しく判断することも困難
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である。そのため患者の病状や治療内容に関する正確な情報が医師から患者に伝達されることが必要である。
(A‒b) 医師や医療機関に関する情報
医師の専門や臨床経験,医療機関の設備や症例数,医療体制などの正確な情報は,患者が医療機関や医師を適切に選択する上で必要である。
(2) 情報の束 B:患者から医師へ伝達される情報
(B‒a) 患者の病歴や受療歴
疾病構造が感染症から慢性疾患に移行するにしたがって,診断精度の向上や的確な治療方法の選択のために,患者の過去の病歴や受療歴などの時系列情報が医師に伝達されることの重要性は高まっている。
(B‒b) 他の医療機関での治療や処方に関する情報
高齢者は複数疾患に罹患しやすいことに加え,医療機関の機能分化が進んでいるため,高齢化の進展は複数受診を行う患者を増加させる。このため,他の医療機関での検査・治療や処方に関する情報を共有することは,重複検査や薬剤の重複投与を回避する上で重要である。
(B‒c) 生活状況や勤務状況などの生活関連情報
生活習慣病などの慢性疾患の治療は,感染症の治療のように短期間入院して集中的に治療が行われ,完治して退院するというプロセスを経るものではない。日常生活を続けながら経過を観察しつつ長期的に治療が行われる場合が一般的である。そのため,患者の生活状況や勤務状況に関する情報が医師に伝わることは,より適切な治療を選択することに貢献する。
(B‒d) 治療に関する患者の選好や価値観
慢性疾患への疾病構造の変化と患者の権利意識の高まりの中で,医療の決定に患者自らが関与する自己決定権が重視されてきている。このため医療に対する患者の選好基準や価値観が的確に医師に伝わることが必要である。
(3) 情報の束 C: 医師( 医療機関) と医師
(医療機関)間で伝達される情報
(C‒a) 医師の専門・技能・治療方針や医療機関の医療体制・設備に関する情報
医療機能が分化している中,患者を他の医師
(医療機関)に紹介,転院させる機会が増加しているので,医師(医療機関)相互において医師の専門・技能・治療方針や医療機関の医療体制・設備などの情報が伝達される必要が高まっている。
III 医療提供システムとネットワーク原理
1 医療提供システムが市場原理に適さない理由
市場原理の特性と医療取引に伴う情報の束について整理したが,次に主として情報の伝達に着目して医療提供システムの運営原理が市場原理に適さない理由を示し,望ましい運営原理について考察する。
(1) 自己利益の追求モデルから協働モデルへ
① 自己利益の追求から生ずる非効率
市場原理では,供給者と需要者が自己利益の増加を目的に,財・サービスの質と価格をめぐって駆け引きを行うという交渉モデルが前提となるが,医療現場ではこのようなモデルはあるべき姿として適切ではない。なぜなら,このような交渉モデルでは情報の非対称性を利用した医師の機会主義的1)な行動を合理的な行動と見なすことになるからである。この場合,情報が非対称な状態を維持すべく医師(医療機関)から患者に伝達される情報(情報の束 A)の量が抑制される可能性がある。これは患者にとって三つのリスクを高めることになる。第一は,医師や医療機関に関する情報(A‒b)の伝達が抑制されるため,患者が病状に最も適した医師や医療機関を選択するのに失敗するリスクである。第二は,病状や診療内容に関する情報(A‒a)の伝達が抑制されることにより,患者の医療内容の理解が不十分となり治療の効果が低下するリスクである。特に,長期の服薬や食生活・運動習慣の改善が必要な慢性疾患治療
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においてこのリスクは大きい。第三のリスクは,自己利益の追求が優先されて情報の共有ができないと,患者と医師との間に信頼関係を築くことができなくなることである。このような状況下では,患者は医師を盲信するが,期待通りの結果が得られないと反発して訴訟にまで発展する。このようなぎくしゃくした関係は医師を過度に防衛的にさせ,ハイリスクの患者の受療機会を制約することになりかねない。最近の産科医や小児科医不足の背景には,このような医師-患者関係があると考えられる。
② 協働モデル
医療の取引において,自己利益の追求を基本とした交渉モデルは患者の不利益につながり,望ましくないことを述べた。これは医師-患者関係のあるべき論,規範論として不適当なだけでなく,現実の医療関係者の行動を普遍化したモデルとしても適切ではない。多くの医療関係者は患者の利益を最優先に行動しているのが実態である2)。医師と患者の関係は相互信頼に基づいて,医療者だけでなく患者自身も積極的に治療に参加する協働モデルととらえるのが適切であり,このような医師‐患者関係が構築できるような政策介入が行われるべきである。
(2) 供給者間の競争から相互補完へ
① 供給者間の競争から生ずる非効率
市場原理では供給者間の競争こそが効率化とイノベーションの源泉だととらえ,供給者間は競争関係にあることが前提となる。医療においても医師や医療機関が医療サービスの質の向上のために切磋琢磨することは患者にとって望ましいことはいうまでもない。特に一つの医療機関が自己完結的に医療提供を行う場合は医療機関間の競争効果は大きい。しかし,近年は,患者の専門的医療に対する強い要求,医療費の適正化要請,感染症から生活習慣病への疾病構造変化などを反映して,医療機関の機能分化が進んでいるため,患者は病状の変化に応じて適切なサービスを提供する医療機関・介護施設を移動する必要が生じている。具体例として脳卒中のケースを見てみよう。(i)脳
卒中を発症した場合,急性期病院の救命センターや脳外科病院に搬送される。そこで専門的な治療を受け,急性期のリハビリテーションが実施される。(ii)その後,リハビリテーション病院や一般病院の回復期リハビリテーション病棟に転院して,身体機能を回復させるリハビリテーションが実施される。(iii)障害が残れば介護保険施設や在宅等で日常生活を送るとともに,機能維持のためのリハビリテーションが実施される。このように患者の病状によって適切なサービスは変化するので,患者が切れ目なく適切な医療を受けるためには,多様な医療・介護サービス供給者が連携して相互補完的にサービスを提供することが必要となる。医療機関が過度に競争すれば,医療機関相互の連携や情報伝達が抑制されることになり,特にこの場合,患者から医師へ伝達される情報(情報の束 B)や医療機関相互間で伝達される情報
(情報の束 C)の開示が抑制されかねない。その結果,(i)患者の最適な医療機関選択を失敗させる,(ii)重複検査・重複薬剤投与などの無駄を生じさせる,といった非効率が生ずる。
② 相互補完モデル
医療機関の機能分化が進む状況下においては,異なる機能をもつ医療機関相互が競合関係ではなく,相互補完関係にあるのが望ましい一方,サービスの質を向上させるという意味からは,同機能を有する医療機関の間には適度に競争関係があることが適当である。
(3) 短期的取引から長期的取引へ
① 短期的取引から生ずる非効率
取引が短期的であれば,需要者の選好を速やかに市場に反映させることができるが,医療については次に示す情報の伝達効率の視点から長期的な取引が望ましい。
(i) 生活習慣病などの慢性疾患の診断や治療の決定において,過去の病歴や治療歴に関する情報(B‒a)は重要な意味をもつ。医師自身が過去から継続して治療に当たっている場合の方が(すなわち長期的取引),過去は他医にかかっていた患者から問診に
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よって情報を入手する場合より正確で豊富な情報を獲得可能である。
(ii) 慢性疾患の治療は日常生活をしつつ長期的に行われる場合が多いため,医師が治療法を選択する際には患者の生活状況や勤務状況などの生活関連情報(B‒c)や治療に関する患者の選好や価値観(B‒d)の把握が重要である。これらの情報が医師に伝達されるには長期的・継続的な受診を前提とした医師患者間の信頼関係の構築が必要となる。
(iii) いわゆるドクターズショッピングに見られるような過度な担当医の変更は,医師患者間に信頼関係が構築しづらく,医師から患者に伝達される病状や診療内容に関する情報(A‒a)に対する患者の理解が不十分となり治療効果にも悪い影響をもたらす可能性がある。
② 長期的取引モデルへ
このように慢性疾患の治療では,スポット的な短期取引ではなく長期的で継続的な取引が有効である。そのために誘導することが必要である。
(4) 需要者の無制約な選択の自由から社会的トリアージ(選別)へ
① 需用者の無制約な選択の自由から生ずる非効率
市場原理は需要者が安価で質の高い財・サービスを自由に選択することにより,生産効率の悪い
供給者は駆逐されて市場全体の効率性が向上するというメカニズムであるから,需要者には無制約な選択の自由が保証されることが必要である。しかし,このメカニズムが有効に機能するためには,(i)価格が伸縮的に変化すること,(ii)需要者が質に関する正確な情報を持っていること,
(iii)供給者の数が多く需要者にとっての選択肢が豊富にあることが前提となる。しかし,医療システムはこれらの条件を満たしていない。第一に,一律の公定価格が適用されるため価格に供給者間の効率性の違いや需給関係は反映されていない。第二に,患者が医療の内容を適切に評価することは困難である。そもそも患者は自身の病気が何か,その治療に適した医療は何なのかを把握することすら困難なのであるから,合理的な消費者として行動することができない。第三に,医療需要には緊急性が高い場合があり,また医療は生産と消費が同時であるというサービス財としての特性をもつため選択可能な医療機関は一定の空間範囲に限定される。一方,医師などの医療者は免許制であるため,その供給量は制約される。これらの理由で,患者の選択肢は大きく制限される。
このように市場原理の前提が満たされていないため,患者に無制約な選択の自由があると次のような不均衡が生じて調整が困難となる。患者は自身の病気が何であるのか正確には判断できないため,危険回避的な患者であれば高機能病院や専門医を積極的に受診する傾向がある。しかし,公定価格であるから医療の価格変化による需給調整は
表 2 医療提供システムに市場原理が適さない根拠と新しいモデル
市場原理の前提 | 市場原理から生ずる非効率性 | 望ましいモデル |
自己利益の追求 (駆け引きモデル) | 情報の束Aの伝達の抑制 ・医療機関選択の失敗 ・治療効果の低下 ・信頼関係の低下(訴訟リスクの上昇) | 協働モデル 医師―患者間の協働から生ずる利益を重視 |
供給者間の競争 | 情報の束B,Cの伝達の抑制 ・医療機関選択の失敗 ・重複検査などの無駄 | 相互補完モデル 医療機関相互の補完関係から生ずる利益を重視 |
短期的取引 | 情報の束A,Bの伝達が不十分 ・治療効果の低下 ・信頼関係の低下(訴訟リスクの上昇) | 長期的取引モデル 長期的な医師-患者関係から生ずる利益を重視 |
無制約な選択の自由 | 不均衡の発生 ・高機能病院志向 ・真に必要とする患者の排除 | 選択の自由の抑制 供給制約と不完全な価格機能により選択の自由を抑制しなければ不均衡の調整が不可能 |
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行われず,さらに医療機関の数に制約があることから高機能病院には患者が集中し,その結果,高機能病院で専門的な治療を必要としている患者の受診を妨げることになる。
② 選択の自由の抑制:社会的トリアージ
このような非効率を改善させるには,患者の選択の自由を制限することになるが,何らかの方法で医療機関の機能に応じて患者をトリアージ(選別)することが必要である3)。
以上の検討を整理したものが表 2 である。
2 医療提供システムとネットワーク原理
(1) 規制かインセンティブか
以上の考察から医療提供システムの運営原理として市場原理は不適当であることが再確認されたが,市場原理の対極にある計画原理は適切なのであろうか。計画原理を最も特徴づけるのは資源配分の手段が規制であることから,Zeckhauser and Zook〔1981〕は,資源配分機能として規制とインセンティブのどちらが優れているのかを,システム(市場)の特性に応じて考察し,医療市場では規制よりインセンティブの方が適していることを示している。表 3 はシステム(市場)の特性に応じて資源配分機能として規制とインセンティブのどちらが優れているのかを整理したものである。適正な規制を行うためには供給者の行動を規制当局が正確にモニタリングする必要がある。そのため,供給者の数が多い,生産物の構造が複雑,生産物の数が多い,生産費用や生産数量に関する情報の収集が困難,という状況ではモニタリングコストが大きくなるため規制による調整は不利となり,個別にモニタリングの必要のないインセンティブの方が適している。(経済的)インセンティブは価格に影響を与えることであるから,需要や供給の価格弾力性が大きいほどその効果は大きいといえる。さらに political な面に着目すると,政策介入に対して反対する勢力が大きい場合は,介入が直接的な規制より間接的なインセンティブの方が反対されにくい。また政策介入の目的が複雑,曖昧な場合はきめ細かく規制を構築する必要があるため,規制よりインセンティブの方が
表 3 規制とインセンティブの介入効果
効果的な介入 | ||
規制 | インセンティブ | |
供給者の数 | 少数 | 多数 |
生産物の構造 | 単純 | 複雑 |
生産物の種類 | 少数 | 多数 |
価格弾力性 | 低い | 高い |
費用と数量に関する情報 | 入手が容易 | 入手が困難 |
介入反対の勢力 | 小さい | 大きい |
介入の目的 | 単一,明快 | 複雑,曖昧 |
出所) Zeckhauser and Zook,〔1981〕を著者が一部修正。
容易に実行できる。
それでは,医療提供システムにおける資源配分手段として規制とインセンティブのどちらがふさわしいのであろうか。供給者の数は医療機関数でみても医師数でみても多数である。医療は専門的な知識や技術を基に医薬品や診断・治療機器を駆使して行うサービスであるから,その構造は極めて複雑だといえる。また,傷病の種類の多さや患者の病状が多様であるため,提供される医療サービスの種類も非常に多い。公定価格の変更,すなわち診療報酬の改定が医師の医療選択に少なからず影響を与えることも知られている。したがって,医療供給に対する公定価格の弾力性は大きいと考えられる。医療サービスの費用を計算するためには複雑な原価計算を用いる必要があり,また,医療機関ごとに費用のばらつきが大きいため,医療サービスごとの費用を正確に把握することは難しい。医療に対する利害間集団は多く,中には政治的に一定の影響力を行使できる団体もあり,政策介入に対する反対の勢力は大きいといえる。医療政策の目的は,医療の技術進歩の促進,医療アクセスの公平性の確保,医療費上昇の抑制等々多目的である。しかも,これらには相互に対立する概念もある。それゆえ,医療政策の目的は単一で明快なものだとはいえない。
このような考察から,医療システムに対する効果的な介入方法は規制よりインセンティブだといえる。このことは,医療提供システムの運営管理原理としては,市場原理は適さないが規制を調整手段とする計画原理も適さないことを示している。
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市場原理 | ネットワーク原理 | 計画原理 | |
①資源配分の手段 | 市場圧力 | インセンティブ | 規制(命令) |
②行動目的 | 自己利益の追求 | 協働の利益を重視 | 全体利益の追求 |
③要素間関係 | 競争 | 相互補完の利益を重視 | 規制(命令)に従属 |
④情報 | 各参加者に開示 | 各参加者に開示 | 中央に集中 |
⑤選択の自由 | 高い | 一部抑制 | 低い |
⑥取引期間 | 短期的 | 長期的 | 長期的 |
⑦システムの構造 | 柔軟 | 中間 | 硬直 |
表 4 ネットワーク原理の特徴
(2) 医療提供システムとネットワーク原理 これまでの考察を基に,あらたな運営原理とし
てネットワーク原理を提唱する。ネットワーク原理の特性は表 4 に示したように市場原理と計画原理の中間的な性格をもつ。以下,ネットワーク原理の特徴について概説する。
[資源配分の方法]積極的な情報開示の強制とインセンティブによる調整。
[行動目的]各参加者が近視眼的な自己利益の追求ではなく,参加者間の協力から得られる利益を重視した自己利益の追求(啓発された自己利益)を目的とする。
[要素間関係]参加者の行動目的が単なる自己利益の追求ではないため,要素間関係は自発的な相互補完関係が重視される。
[情報の流通]情報は各参加者に開示される。
[選択の自由]選択の自由は確保されるが,それによって生ずる非効率を意識して自発的に選択の自由を抑制することも重視する。
[取引期間]長期的取引から得られるメリットを重視する。
[システムの構造]メンバー間の関係は自由であり,システムは多様性,柔軟性をもつが,長期取引を重視するため一定の安定性をもつ。
以上を総括すると,ネットワーク原理は,(i)医師-患者間の協働,医療提供者間の相互補完,長期的な医師-患者関係の構築,選択の自由の自発的な抑制などから得られる利益を重視して,
(ii)情報開示とインセンティブにより,(iii)参加者の行動変容を引き起こさせる運営原理だといえる。
IV 現実の医療提供システムとネットワーク原理
1 市場原理の失敗の補完
(1) 協働モデルへのインセンティブ
医療者と患者が協働するためには,情報の共有を促進することが有効である。信頼関係の上に成立する協働が情報の共有をさらに促進させるという好循環を生み出す。このために具体的に,以下の施策が考えられる。
① 診療に関する情報(A‒a)や医師や医療機関の特性に関する情報(A‒b)が積極的に開示されるインセンティブの構築。
② インフォームドコンセントやセカンドオピニオンに対する積極的な診療報酬による評価。
③ 医療機関が主催して医療者と患者の交流することに対するインセンティブの構築。
④ 院内での苦情や事故後の初期対応の際に患者側と医療側の対話の橋渡しをする「医療メディエーター」の育成を推進するインセンティブの構築。
(2) 相互補完モデルへのインセンティブ
医療機関相互の補完関係を強化する施策としては次のような施策が考えられる。
① 医療機関相互の連携関係の強化に対する積極的な診療報酬による評価。
② 電子カルテの普及により診療情報のポータビリティを高めることに対するインセンティブの構築。
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③ 地域における医療機関の交流の場の創設。
(3) 長期的取引モデル
特定の医師と患者の受療関係を継続的,長期的に持続させるためにはかかりつけ医の普及が考えられる。しかし,かかりつけ医制を強制することは,患者の選択権を大きく侵害することになり適切ではない。患者の選択権を維持しつつ,長期的な医師-患者関係を推奨するインセンティブを構築することが必要である。また,ドクターズショッピング的な受療行動のメリットが少ないことを啓蒙する教育活動も重要であろう。
(4) 社会的トリアージ
トリアージの主体が患者自身なのか医師なのかによって二つのスキームが考えられる。
① 患者自身によるトリアージ
医師の専門や医療機関の機能に関する情報
(A‒b)を積極的に開示することを通じて,患者が自身の病状に合わせて最適な医師や医療機関を選択することを可能にさせる,いわば患者自身による自己選抜のスキームである。これは患者の選択の自由が確保されるものの,患者自身は自分の病状を正確に診断できないため,危険回避度の高い患者は,実際には不必要であっても大病院等の有名病院に集中する傾向に歯止めがかからず,資源配分の最適化という点では一つの欠点を有する。場合によっては病院情報の開示は大病院志向,有名病院志向を加速させることも考えられる。
② プライマリーケア医によるトリアージ
医師や医療機関の選択にプライマリーケア医が介入し,患者の病状に最適な医療機関を紹介するというスキームである。このスキームは一般に価格政策と組み合わせて実行される。最初にプライマリ-ケア医を受診し,専門的高度な治療が必要だと判断した場合に専門の医療機関を紹介する。患者がプライマリーケア医の診断を受けずに大病院や専門医を受診した場合は,紹介がない場合と比較して医療価格を引き上げるという仕組みである。イギリス,デンマーク,スウェーデン,カナ
ダなどは,このタイプのスキームを導入している。このスキームには次の二つの課題が考えられる。第一に,プライマリーケア医がゲートキーパーとして有効に機能するためには,診療科横断的な診断能力をもたなくてはならないが,そのようなプライマリーケア医の育成が課題となる。第二は,患者のプライマリーケア医を選択する自由をどこまで認めるべきかという課題である。選択の自由度を大きくすればトリアージ機能が低下し,自由度を大きく制限すれば患者とプライマリーケア医に良好な関係が形成できなかった場合に患者の不利益は大きくなる。
2 最近の事例に見るネットワーク原理の視点からの若干の考察
最近の医療に関連する二つの動きをネットワーク原理の視点から考察してみよう。一つは医療機関の「連携」推進を目的として行政が積極的な情報開示と診療報酬による誘導を行った例である。あと一つは,患者自身が自発的に「協働」と「トリアージ」を行い,医療体制の崩壊を守った例である。
(1) 政策としての機能分化と連携の促進
① 医療計画の見直し
医療制度改革の一環として,(i)患者を中心とした医療連携体制,(ii)主要な事業ごとに柔軟な医療連携体制,(iii)病院の医療機能を重視した医療連携体制等の構築を目指して,これまでの医療計画が修正された。この新医療計画を実現するための具体的施策として,「4 疾病 5 事業の連携構築」と「医療機能に関する情報提供制度」がある。前者は,がん,脳卒中など 4 疾病,救急医
療,小児救急医療など主要な 5 事業ごとに医療連携体制を構築することで,医療機関相互の連携の下で,適切な医療サービスが切れ目なく提供されることを目標としたものである。各都道府県は 2008 年度を目途に,疾病又は事業ごとに,必要となる医療機能を明らかにした上で,各医療機能を担う医療機関等の名称や数値目標が記載される新しい医療計画を作成することになる4)。後者
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表 5 連携のインセンティブとしての診療報酬の例
2006 年度改定
名 称 | 評価する内容 | 点 数 | 目 的 |
がん診療連携拠点病 院加算 | がん拠点病院において他の医療機関からの紹介されたが ん患者が入院した場合 | 200 点 (入院初日) | 一般病院とがん専門病院 との連携 |
地域連携退院時協同 指導料 | 退院後に患者を診る医師が入院医療機関の医師と協同し て在宅医療について説明・指導した場合 | 310 点⇒ 1000 点(在宅療 養支援診療所の場合) | 病院と在宅との連携 |
地域連携診療計画退院時指導料 | 地域連携クリティカルパス(大腿骨頸部骨折)に基づいた退院後の療養計画を説明し,連携医療機関に文書で渡 した場合 | 1500 点 | 大腿骨頸部骨折治療における医療機関や介護施設 相互の連携 |
2008 年度改定
名 称 | 評価する内容 | 点 数 | 目 的 |
がん診療連携拠点病 院加算 | がん拠点病院が他の医療機関からの紹介で入院医療を提 供した場合 | 200 点⇒ 400 点 | がん拠点病院と他の医療 機関との連携 |
地域連携診療計画退 院時指導料 | 地域連携クリティカルパス(脳卒中)に基づく退院後の 療養計画を説明し,連携医療機関に文書で渡した場合 | 600 点 | 脳卒中における医療機関 や介護施設相互の連携 |
2008 年度改定(後期高齢者医療)
名 称 | 評価する内容 | 点 数 | 目 的 |
後期高齢者総合評価 加算 | 入院中に生活能力,認知機能などを総合的に評価した場 合 | 50 点 | 退院後の療養生活への円 滑な連携 |
後期高齢者退院調整 加算 | 退院困難な要因がある患者に対し,その要因の解消を含 めた退院支援計画を作成した場合 | 100 点 | 退院後の療養生活への円 滑な連携 |
後期高齢者退院時薬 剤情報提供料 | 入院時に投与された薬剤情報等を経時的に管理できる手 帳に記載した場合 | 100 点 | 薬剤投与に関する情報を 退院後の療養に連携 |
後期高齢者外来患者 緊急入院診療加算 | 診療所から患者の急変時にあらかじめ定められた病院に 入院させる場合 | 500 点 | 病院と診療所の連携 |
在宅患者連携指導料 | 医師が在宅療養患者を訪問して他業種(看護,福祉)と 連携して患者や家族を指導する場合 | 900 点 | 在宅医療における医療と 介護の連携 |
在宅患者緊急時等カ ンファレンス料 | 患者の急変時に主治医が患家を訪問し,関係する医療従 事者とカンファレンスを行い,患者を指導する場合 | 200 点 | 在宅医療における緊急時 の医療連携 |
は,各医療機関が指定された項目について都道府県に提出し,その内容を都道府県がインターネットで住民に開示するというという制度であり, 2008 年度から実施された。開示項目は診療科目や診療時間などの基本的な情報に加え,医療の実績や医療連携体制や差額ベッドの料金など幅広く病院で 56 項目,診療所で 50 項目に及んでいる。
② 診療報酬改定
さらに医療機関の連携が推進するように,表 5に示したように診療報酬による連携のインセンティブが設けられた。2006 年度改定では,がん専
門病院と一般病院との連携を促進する「がん診療連携拠点病院加算」,病院と在宅療養との連携促進を目的とした「地域連携退院時共同指導料」,大腿骨頸部骨折治療における医機連携の促進を図った「地域連携診療計画退院時指導料」などがある。2008 年度改定では,「がん診療連携拠点病院加算」の報酬が引き上げられ,「地域連携診療計画退院時指導料」の対象疾患に新たに脳卒中が加わった。また,2008 年度から 75 歳以上を対象とした後期高齢者医療制度(長寿医療制度)が導入されたが,その中では,入院患者が退院後の療養
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生活に円滑に移行することができるようにと「後期高齢者総合評価加算」「後期高齢者退院調整加算」が設けられ,また診療所と病院の連携を図る目的で「後期高齢者外来患者緊急入院診療加算」が設けられた。在宅療養において医療と介護など多職種間の連携を図る「在宅患者連携指導料」も創設された。情報開示と診療報酬というインセンティブを用いたこの施策が目的通りに医療連携の推進に寄与するかどうかは未知数であるが,大いに注目すべきである。
(2) 協働と患者自身によるトリアージの実現特段の政策介入がないにもかかわらず患者が主
体となり,医師と患者の「協働」が実現し,同時に患者自身が自発的に「トリアージ」を行って需給調整に成功した事例がある。医師不足から病院の小児科が閉鎖される危機に直面して,母親たちが中心に 2007 年 4 月に発足させた「兵庫県立柏原病院小児科を守る会」がそれである。この会の特徴は,署名活動や関係団体への陳情を行って医師の招聘を求めるという活動にとどまらず,病院の小児科医の窮状を理解し,共感し,(i)コンビニ受診(夜間や休日などに受診する)を控えよう,(ii)かかりつけ医を持とう,(iii)お医者さんに感謝の気持ちを伝えよう,というスローガンをつくり,それを実践した点にある。実際には,小児科医が監修した分かりやすい小児救急に関する冊子を作成して母親に配布し,節度ある受診を促した。また,医師に対して感謝の手紙や手作りのお菓子を贈るなど,患者の感謝の気持ちを積極的に伝えている。このような患者達の行動に対して,医師達も,小児救急に関する冊子の作成に協力したり,ホームページ上で「私たちは柏原病院小児科を守る会の方々に感謝しています。小児科がまだ存続しているのは革命的とも言える柏原病院小児科を守る会ができたからです!」で始まる感謝の意を表明している。このような患者に守られている病院で働きたいという医師も現れたという。この活動の特徴は,(i)行政の支援なく,自律的に医師と患者が協働関係が構築されたこと,
(ii)小児医療を守るために患者が自発的にトリ
アージを行ったこと,(iii)ホームページや報道を通じてこの運動が広く知れわたり,他の同様の活動を誘発していることにある。このように政策の積極的な介入がなくとも,必要に迫られてネットワーク原理に基づく行動が取られる場合もあることは注目に値する。
V おわりに
医療提供システムの合理的な運営原理としてネットワーク原理を提唱した。これは医師-患者間の協働,医療提供者間の相互補完,長期的な医師
-患者関係の構築,選択の自由の自発的な抑制などから得られる利益を重視して,情報開示とインセンティブにより参加者の行動変容を引き起こさせる運営原理である。医療機関の機能分化と連携の推進を図る政府は,医療機能に関する情報開示や診療報酬による連携の誘導を開始した。これはネットワーク原理によるアプローチだといえるが,有効に機能するかどうかを見極めることは重要である。一方,「柏原病院小児科を守る会」は特段の政策介入がないにもかかわらず,自律的に医師-患者間の協働,患者自身によるトリアージを実現したケースである。また尾道市の高齢者の地域ケアの有名な事例は,政府が連携のインセンティブを構築する以前に,主治医機能を中核に医療機関(介護施設)相互の補完関係を自律的に達成した先進例だといえる。このように,行政介入がなくてもシステムの参加者が自律的にネットワーク原理に基づく行動をとっている実例が散見できる。このことはネットワーク原理が有効に機能する上で,行政介入以外に重要な要素があることを示唆している。たとえばリーダーシップのあり方,情報伝達手段,医療のタイプ,コミュニティの広がりなどの要素はどのような意味をもつのか。このような考察を省いて,行政が情報開示の促進やインセンティブの設計を行っても「笛ふけど踊らず」ということになるかもしれない。それゆえ,自律的にネットワーク原理が機能するメカニズムについて研究することは大きな意義がある。とりあえず「柏原病院小児科を守る会」のよ
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わが国の医療提供システムと準市場――ネットワーク原理に基づく医療提供システム―― 29
うに「奇跡的」に生まれた自律的なネットワーク原理の火種を,大きな炎にし,広く普及させることに行政は関与すべきではないか,この支援プロセスを通じて,行政もネットワーク原理に火がつくための「触媒」を発見することができるかもしれない。
注
1) 機会主義(opportunism)は,情報の不完全性や交渉力の格差を利用して悪賢いやり方で自己利益を追求すること。
2) 医師が収入を増やそうとする行動をとることもあるが,その場合でも病状の改善や治癒を最優先するという範囲内で行われるのが一般的で,収入増を理由に医学的に最善な医療を放棄することは希ではないか。
3) 供給者の選択の自由も再検討する必要がある。産科等のハイリスクな医療を行う医師が急速に不足しているし,過疎地で勤務する医師も不足している。診療科や地域での不均衡を何らかの方法で是正しなければならない。
4) 4 疾病は,がん,脳卒中,急性心筋梗塞,糖
尿病。5 事業は,救急医療,災害時における医療,へき地の医療,周産期医療,小児救急医療を含む小児医療。
参 考 文 献
遠藤久夫(1994)「医療のネットワーク化と情報」
『医療経済研究』Vol. 1。
(1998)「医療における市場原理と計画原理の相互補完性」『医療と社会』8(2)。
柏原病院小児科を守る会 HP http://mamorusyounika.com/(2008/4)。
川越雅弘(2008)「我が国における地域包括ケアシステムの現状と課題」『海外社会保障研究』 No.162。
兵庫県立柏原病院 HP http://www.kaibara‒hp.jp/(2008/4)。
Zeckhauser, R. and C. Zook, (1981) “Failures to Control Health Costs: Depar tures from First Principles” A New Approach to the Economics of Health Care, American Enterprise Institute for Public Policy Research.
(えんどう・ひさお 学習院大学教授)
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「準市場」の介護・障害者福祉サービスへの適用
佐 橋 克 彦
はじめに
1990 年代初頭のバブル経済1)の崩壊は,わが国経済社会に大きな打撃を与え,わが国をそれまで支えてきた諸システムを抜本的に変革する必要に迫られた。そしてそれは社会保障・社会福祉の分野においても例外ではなかった。すなわち 1990年代中盤以降に見られる社会保障構造改革と社会福祉基礎構造改革の展開である。換言すれば福祉ニーズの多様化・高度化,またサービス提供主体の多様化と同時に新自由主義的な政策展開がなされる傾向が顕著に見られるようになったことを意味する。
財政構造改革の一環として位置づけられた社会保障構造改革では「改革の基本的方向」として,
①国民経済と調和しつつ社会保障に対する国民の需要に適切に対応すること,②個人の自立を支援する利用者本位の仕組みの重視,③公私の適切な役割分担と民間活力促進,の三点が据えられ,その第一歩として「介護保険制度」が創設されることとなった。
介護保険制度は高齢者福祉,高齢者医療,そして老人保健に関して制度の効率化を図るものとして,介護ニーズという点に着目し,応益負担・社会保険方式および市町村単位での運営でサービスが提供される仕組みとなった。また要介護認定等を受けることを前提としつつ,サービス提供者とその利用者の間で契約制が導入され,旧来の行政処分的性格2)を持つ措置制度に基づくサービス利
用から,サービス利用者が「自由」にサービス提供者を選ぶことが可能となった。しかしその「自由性」は サービス資源の不足・偏在によって充分に保障されているとは言いがたい状況に陥っている。
さらにその後における社会福祉基礎構造改革では,社会保障構造改革の流れを引き継ぎつつ,新自由主義的な「自立支援」の姿勢をさらに先鋭化させ,サービスの利用者と提供者が対等な関係であると位置付けて,「社会福祉事業法」を「社会福祉法」に改正した。この社会福祉法では,①利用者の立場に立った社会福祉制度の構築,②サービスの質の向上,③社会福祉事業の充実・活性化,④地域福祉の推進,の四点が大きな目標として掲げられた。これらをうけて 2003 年から障害
(児)者の分野において「支援費制度」が導入され,サービスの利用にあたって「契約」が求められることになった。ただし,同制度では利用料の負担方式が応能負担であった。その結果,潜在的ニーズが顕在化し,予算も少なかったため財政補填が必要となった。これに対し,政府は 2005 年に「障害者自立支援法」を制定し,サービス利用の抑制を一つの狙いとして利用料の負担方式を応能負担から応益負担へと転換させた。
これらの動向をみると,そこにいわば市場的要素が組み込まれている「福祉市場」が形成されていることに気がつく。サービス提供費用の利用者補助化,多様なサービス提供主体の存在と「競争」,公的部門によるサービスの直接的提供からの撤退など,わが国における福祉サービスの提供
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「準市場」の介護・障害者福祉サービスへの適用 31
体制は新たな局面を迎えている。すなわち福祉サービスにおける「準市場化」である。そこで本稿ではわが国における準市場3)の介護・障害者福祉サービスへの適用について,先行研究をおさえたうえでその枠組みおよび準市場の適用が各主体に与える影響を論じる。
I 先行研究
介護保険制度に関する総合的な分析としては平岡〔2002〕がある。平岡〔2002〕は「介護保険制度の問題に疑似市場の理論を適用する場合の基本的な論点はどこにあるのかを検討し,それらの点について実際に調査データを用いて若干の分析を行い,その分析結果の一端を紹介」する研究を行っている〔平岡 2002,p. 13〕。平岡は実際に地方自治体の介護保険担当課に対して介護サービスに関する調査を実施し,「以前の体制との連続性,あるいは緩やかな変化が見られた」としており,市場化が急速に進展しているわけではないと実態に即して述べている〔同上書,p. 26〕。さらに平岡〔2004〕は「社会サービスの市場化とは現実には,擬似市場化を意味する。それだけに,市場化の是非について論じる前に,実際の社会サービスにおいてどの程度までの市場化が可能であるのか,あるいは現実にどの程度まで市場メカニズムが作用しているかを客観的に評価・分析することが重要である 」〔 平岡 2004,p. 297〕 と平岡
〔2002〕にひき続いて実証的な検討が必要であると論じている。
また長澤〔2002〕は,イギリスのナショナルヘルスサービスにおける「疑似市場」の展開を手がかりに「疑似市場の手法とダイナミズムの研究は,わが国の保健医療・福祉領域への適用を考える上でも重要な視点である」とし,準市場の枠組みが持つ可能性を指摘している〔長澤 2002,
p. 93〕。さらに準市場が導入された背景として,長澤〔2005〕は「公的部門は,ニーズへの応答性に欠け,柔軟性に乏しく,供給が非効率であるとの認識があった」〔長澤 2005,p. 49〕と指摘している。これはわが国の措置制度の問題点にも共通
するものである。
駒村〔2004〕は後述する LeGrand らの理論体系を敷衍して詳細に「擬似市場」(準市場)を整理している。駒村は「擬似市場のポイントは『供給者』と『購入者』の分離である。これまで政府は自らの部門で公的サービスを生産し,自ら購入してきた。しかし擬似市場では政府は自らサービスの生産を行わない。サービスの生産は政府ではなく多様な民間競争的な事業者が行う。さらに
『購入者』と『財政(支出者)』の分離も重要である」〔駒村 2004, p. 213〕とし,それがうまく機能するために,①十分な供給主体が存在すること,
②「インセンティブ設計」の重要性,③ニーズ把握の問題,④サービスの安定供給の問題,⑤コスト増加の問題, をあげている〔 駒村 2004, pp. 215‒216〕。そのうえで, 市場メカニズムと
「擬似市場メカニズム」を対比させ,「擬似市場では供給者優先の社会福祉から利用者優先の社会福祉システムになる」〔p. 225〕と指摘している。
さらに準市場の定義に関わるものとして河野
〔2005〕があげられる。河野は「準市場システムは,競争を促すエンジンとして用いられた。サービスの購入者と提供者を分離し,国家が財源をコントロールする権限は残すが,サービスの配分は顧客を求めて競争する提供者へ委ねる。サービス購入資金は国から提供されるが,利用者はサービス購入の際, 情報不足を補うために代理人
(agency)を使うかバウチャーを利用する方法を用いる。サービス提供者には純粋市場とは異なり,非営利組織も含まれる」〔河野 2005,p. 74〕と整理している。
また岡崎〔2007〕は準市場の特徴を「市場からの公的部門の撤退ではなく社会制度(介護保険)の導入が市場化の鍵をにぎっていること,供給主体が多様化され利用者の選択を基礎に競争が行われること,サービスの利用にあたってはエージェント(ケアマネジャー)の介在を行わせていること」〔岡崎 2007,p. 28〕としている。
このように先行研究において準市場(化)は,公的規制・財源のコントロールを伴いつつ市場メカニズムを導入したサービス提供体制として取り
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扱われていることが分かる。
II 準市場の枠組み- LeGrand, J. と Bartlett,W. の枠組み-
準市場(化)には諸説あるが,ここでは準市場の枠組みを体系的に整理したイギリスの LeGrand,J. と Bartlett,W. の 編 に よ る“Quasi- markets and Social policy”〔1993〕からその特徴を抽出する。
準市場の形成にはある一定の「成功条件」
(conditions for success)が必要であり,それを満た し た 場 合,「 評 価 基 準 」(evaluations for criteria)から準市場化の程度を把握できるとされる。
そもそも準市場(quasi-market) という言葉は,国家によるサービスの独占的提供体制を改め市場競争的なものにしつつも,サービスの利用が最終的に金銭を媒介として行われないことおよび第三者によるサービスの購入を意味しており,また行政にはイネーブラー(enabler)4)と規制主体としての役割が期待されている〔LeGrand, J. & Bartlett, W., 1993, p. 10〕。
さて,そこで必要となる「成功条件」は,①市場構造の転換,②情報の非対称性の防止,③取引費用と不確実性への対応,④サービスの提供者,購入者の動機付けのあり方,⑤クリームスキム
(「いいとこどり」)の防止,である〔Ibid., pp. 19‒ 33〕。
第一の「市場構造の転換」とは,サービスの提供者を小規模化・分散化し競争を促進させることである。もう一点重要なこととして公定価格の設定があげられる。つまり限られた予算(価格)の中でサービスを提供しなければならず,これが最終的に効率性の向上に資するとされる〔Ibid.,
p. 24〕。第二の「情報の非対称性の防止」は,適切な価格設定とサービスの質の確保のために必要であるとされる〔Ibid.〕。第三の「取引費用と不確実性への対応」は取引過程の複雑化に伴う取引費用5)の発生および不測の事態への対応を意味する。第四に「動機付けのあり方」である。サービ
ス提供者は市場において好反応を得るため利潤追求動機を持たなければならない反面,(第三者による)サービスの購入は福祉追求の動機を持たなければならない〔Ibid., p. 30〕。これにより双方に緊張関係が生まれ,利用者のニーズに対応したサービスの提供につながることになる。最後の「クリームスキムの防止」であるが,これは低所得層に対してサービス費用の無料化や減免を行うことで,サービス提供者側にいいとこどりをさせない,すなわちサービス提供主体にとって自らの利益を最大化するように利用者を選別し,「クリームスキム」させないことである〔Ibid., p. 32〕。
一方,「評価基準」においては,①生産性効率の上昇,②応答性の向上,③選択性の確保,④公平性の確保, があげられている〔Ibid., pp. 13‒ 19〕。
第一の「生産性効率の上昇」は,質を確保しながらコストを抑制していくことを意味する。これによりサービスの利用者に対して量,質ともにすぐれたサービスが提供されることになる〔Ibid.,
p. 15〕。第二の「応答性の向上」は,福祉官僚制に対する反省から来ているものである。官僚的で画一的なサービス提供体制ではなく,利用者のニーズに応えられるようになることである〔Ibid.,
p. 16〕。第三の「選択性の確保」とはサービスの選択と同時にサービス提供者の選択そのものも含んでいる〔Ibid., p. 17〕。最後の「公平性の確保」とは低所得であるか否かに関らず,ニーズに着目して費用負担の無料化,減免を行うことによりサービスに手が届くようにすることである〔Ibid.,
p. 19〕。
III 本論文の分析枠組
以下,上記の LeGrand らの枠組みを受けてわが国における介護サービス,障害者福祉サービスの準市場化を分析していく。
分析の視点としては,まず各制度の展開および概要をおさえ,それがもつ「準市場的」な特徴を整理する。次に各制度を準市場(化)の観点から分析する。その際,第一にサービス利用主体,第
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「準市場」の介護・障害者福祉サービスへの適用 33
二にサービス提供主体,第三に運営主体,のそれらに与える影響を論じたうえで小括を行うこととする。これにより準市場を形成するアクター,すなわち利用者(購入者),サービス提供者,運営主体の各関係が,準市場化によっていかなる影響をこうむることになっているかを明らかにする。また介護サービスと障害者福祉サービスを同時 に分析し,比較するのは,いずれの領域においても市場化を推進する「構造改革」の一環として取り組まれたこと,対象(者)は異なるが,制度枠組みの類似性・共通性と同時に差異性が見られる
からである。
IV 準市場の介護サービスへの適用
1 介護保険制度の展開
(1) 2000 年介護保険制度の特徴
社会保障構造改革の「第一歩」として位置づけられた介護保険制度は,社会保険という枠組みと介護サービスの提供という二つの枠組みを持つこととなった。これに関して重要な点は,要援護高齢者に対するサービス提供体制が措置から契約へと転換したことである。介護保険制度施行以前は行政処分性を持つ「措置」によりサービスが提供されていたが,社会保障構造改革においてその問題性が指摘され,契約制へと転換した。
措置制度の問題性とは,税を中心とした応能負担方式であるため不公平や非効率をもたらすと同時に,「福祉サービスが受益者にとって,選択の余地のない行政処分を通じて,もっぱら配分される制度となっている」点とされる〔八代 1997,
p. 26〕。
これらを受けて介護保険制度は 40 歳以上のすべての国民を対象にし,市町村が運営主体となる構図が出来上がった。とくに 65 歳以上の高齢者については保険料の納付と同時に,介護サービスを受けた場合には反対給付として 1 割の応益負担でサービスを利用できることとなった。
また,サービス提供側の動向では,第二種社会福祉事業に営利・非営利を問わず一定の要件を満
たしたものが介護サービス市場に参入できる規制緩和が行われた。これにより在宅福祉サービスを提供できる裾野が拡大した。また「選択される側」になったことにより提供者間で競争が始まった。これを異なる視角からみれば従来の事業者補助方式から利用者補助方式へと転換を遂げたことを意味する。
一方,行政は,市町村レベルで見れば要介護認定(行政処分),保険料の設定,介護保険事業計画の策定が,国レベルで見れば介護報酬単価の設定,というように,規制・監督者としての役割を果たすこととなった。
(2) 2005 年改正介護保険制度の特徴
2005 年の法改正では以下の五点が改正の目玉となった。第一に予防重視型システムへの転換,第二に利用者負担の見直し,第三に新たなサービス体系の確立,第四にサービスの質の確保・向上,第五が制度運営・保険料の見直し,である。第一の予防重視システムへの転換とは,要支援 および要介護 1 の者に地域包括支援センターに所属するケアマネジャーが介護予防計画を立案し支給される各種のサービスである。これにより重度化が防がれるためサービス提供費用の抑制が見込まれる。一方で市町村を責任主体とした地域支援事業も創設され,柔軟なサービス提供体制が期待できる。また要介護の者は居宅介護支援事業所を通じて介護給付を受給することになっている〔厚生労働省老健局『全国介護保険担当課長会議資
料』(2005 年 8 月 5 日)〕。
第二の利用者負担の見直しであるが,最大の特徴はホテルコスト,すなわち居住費用および食費を施設サービス利用者から徴収するようになった点である。それによりサービス利用の抑制傾向が強まった。
第三の新たなサービス体系の確立とは,地域密着型サービスの提供,および地域包括支援センターの設置である。身近な地域で地域特性に応じた多様で柔軟なサービスを提供するものとされる。なお,地域支援包括センターの重要な役割としてケアマネジメントだけでなく権利擁護事業も実施
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されるようになったことがあげられる。
第四のサービスの質の確保・向上については 2006 年度より介護支援専門員の 5 年ごとの資格更新,事業者規制の見直し,サービス情報の公開が挙げられる。
最後の制度運営,保険料の見直しであるが,これは初回認定時の要介護認定を原則として市町村が行うように改められたこと,市町村の保険者機能の強化,第一号被保険者の保険料の見直し―全体としては高額化したものの,低所得層の保険料率は引き下げ― などである〔介護保険研究会 2006,pp. 22‒31〕。
これにより 2000 年度から開始の介護保険制度は,2005 年度の法改正によって全体として利用者側にはホテルコストを含む更なる費用負担を,事業者側には厳しい規制・監督が行われることなった。
2 介護サービスに対する準市場の適用
(1) サービス利用主体への影響
介護サービスの利用者のほとんどは第一号被保険者である 65 歳以上の者である。この場合,サ
ービスを利用すると保険料のほかに 1 割の応益負担が求められ,二重の負担をすることになる。この結果,介護サービスを利用したくても利用できない,あるいは利用を手控えるという傾向が見られるのは周知の事実である。これは公定価格である介護報酬単価の設定水準に由来するものである。
準市場においてはサービスに公定価格が設定されること(価格規制が行われること)が必要であるが,それは利用者にとってサービスが届けられるようにするためであり,決してサービスの利用を抑制するためのものではない。これが出来ていないことがわが国の介護サービスにおける弱点の一つである。しかしながら介護報酬単価が過度に低く設定されてしまうと,サービス提供者は採算が合わなくなる可能性に直面する。したがって介護報酬単価を慎重に設定するか,サービス費用を全額公費でまかない,利用者負担をなくすことも検討に値する。
また契約化に伴い利用者は自らのニーズを伝えることも必要となってくる。介護支援専門員はケアプランを立案するが,その際には,利用者はそのニーズを自ら伝える能力が求められるのである。しかしながら認知症高齢者などの場合,それは困難である。その際いかなるニーズを持っているか,公正中立に把握されなければならない。そもそも契約書を交わすような契約行為自体,人生では数少ない。成年後見人制度を活用するなど不利な契約が結ばされていないかといった点から契約段階からの監視が必要である。そうでなければいかなるサービスを受けても契約の範囲内か範囲外(あるいは違法行為)かが区別できないからである。
(2) サービス提供主体への影響
第一に提供主体間で競争が発生することである。この場合の「競争」は,質の高いサービスを低コストで実現するような競争である。そして同時に提供者が利潤追求的でなければならないという側面を持つ。このような生産性効率を重視した競争のあり方は一見理想的であるが,質の高いサービスの提供を利潤追求と並立させることは難しい。言うまでもなく「コムスン事件」6)がこれを裏付けている。しかもサービス市場への参入・退出は自由であり不安定性を内包している。コムスン事件の場合,事業,顧客の承継が行政主導で行われたことを考えると,市場化といっても最終的にサービスの提供は行政が責任を持たなければならない場合があるということである。
第二は事業者補助から利用者補助への転換がもたらす影響である。選択されるサービス提供者にならなければ準市場の下では淘汰されてしまうことになっている。そこでサービス提供者はサービス購入者(利用者)に選ばれるための努力を行うが,そこには情報の非対称性が生まれがちである。購入者側にサービスに関する正しい内容が伝えられなければならない。利用者補助への転換は一面で選択を可能にするが,その一方で正しい選択が出来るかどうかが重要である。したがってサービス提供者は利用者のニーズに対応するサービ
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スに関する情報を正しく伝えなければならず,利用者から不当な収奪を行うようなことがあってはならない。
第三はサービス提供に関わる人材の待遇についてである。福祉サービスは労働集約的サービスであり,まさに「福祉は人なり」である。特に営利法人としての事業者は株主等に対し利潤を分配しなければならない。そして専門職たる従業員もまた収益のためモチベーションを高めていくという作業が要求される。準市場においてはそのような意味でも営利追求を容認しているのであるといえる。しかし利潤をあげることが出来なかったり,利潤の分配に経営者が否定的であれば(儲けを独り占めしようとすれば)専門職として待遇される可能性は低い。そのため介護報酬単価は単なる人件費ではなく,むしろ専門職によるサービスの提供費用という形で反映させることが必要である。またそれが専門職の位置づけ・役割を高めていくことにもつながると考えられる。
(3) 運営主体への影響
準市場が形成されるにあたって制度の運営は重要である。
介護保険制度の場合これらを担うのが主として市町村である。そこでの市町村の役割は第一号被保険者の保険料の徴収7),要介護認定,利用者負担分以外の 9 割分の保険給付が主なものとなる。そこで市町村はこれらに関わる事務を行わなけ ればならない。とくに要介護認定ではその一次判定はコンピュータによって行われる。その後有識者による二次判定が行われることになるが,「認識を共有化 」〔「 ゆたかなくらし」 編 2001,
p. 115〕するために,その判定時間はおよそ 1 件につき 4 分足らず〔鍋谷 2001,p. 93〕となっているという。
一方,規制・監督主体の存在は欠かせない。いわゆる不正事業者問題への対応である。制度開始当初の不正事業者に対する指定の取り消しは,別の都道府県や別法人での再申請が可能であり,脱法的な行為が行われる可能性があった。そこで改正介護保険制度では事業者指定を 6 年の更新制に
すること,連座制を導入すること,指定取り消しを受けた事業者と廃業した事業者の再指定を 5 年間禁止できる規定が盛り込まれた。これにより都道府県は規制主体として強い権限を持つにいたった。
3 小括
わが国の介護サービス提供体制に対する準市場の適用は,現段階では形成途上といわざるを得ない。規制・監督がようやく本格的に端緒についたものの,依然として利用者,提供者の側面からは不完全な準市場化が見られる。利用者主体はまだ未確立であるといえるし,サービス提供者は質を巡る競争よりもコスト低減の競争を行っている。介護報酬単価は専門家が提供するサービスの対価として位置付けられていない。
また本稿では直接には触れなかったが,利用者のホテルコストの負担の問題も存在する。佐橋
〔2006〕では,それを「制度からのクリームスキム」と呼んだ。介護保険制度は保険と福祉の入れ子構造になっている。保険給付の対象とならないホテルコストが利用の抑制の要因になるとすれば,「保険あって福祉なし」の構造にならざるを得ない。しかもその「保険」すらも危うい状況に陥っている。高齢化の進展,サービス量の増加,サービス利用率の上昇など介護保険制度財政の見通しは楽観を許さない状況にあるといえよう。
さらにコムスン事件に見られるような悪質事業者の排除の取組も今後一層求められる課題である。適正な準市場が機能し,これから加速度的に増大する介護ニーズに十分に応えられるような仕組みづくりが求められる。
V 準市場の障害者福祉サービスへの適用
1 障害者自立支援制度の展開
2003 年 4 月,障害者福祉の分野で支援費制度
がスタートした。しかし,施行後わずか 3 年で財源問題を理由に障害者自立支援制度へと移行した。そもそも支援費制度は措置制度の余韻ともいえる応能負担方式を採用したものの,障害者福祉
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の分野に契約制度を導入するという画期的な制度改革であった。
支援費制度は社会福祉基礎構造改革の一環として「社会福祉の世界に擬似的ではあるものの市場原理が導入され」たもので,「サービス提供事業者間においてサービスの水準をめぐって競争が生まれ,特に質の向上に向けた努力」が必要であるとされた〔全国社会福祉協議会,2003,p. 18〕。ところが,支援費制度は導入直後から財源をめぐって問題視される8〔) 社会保障研究所『介護保険情報』2006,p. 12〕。
このような状況の下,2004 年 10 月,厚生労働省障害保健福祉部は『今後の障害保健福祉施策について(改革のグランドデザイン案)』を公表した。同案は「今後の障害保健福祉施策の基本的な視点」として,第一に障害保健福祉施策の総合化,第二に自立支援型システムへの転換,第三に制度の持続可能性の確保,をあげた。さらに改革の基本的方向として,現行の制度的課題を解決するとして,市町村を中心とするサービス提供体制の確立,効果的・効率的なサービス利用の促進,公平な費用の負担と配分の確保を挙げ,市町村レベルでの実施と「応益的な負担の導入」が強調された。
そしてその特質は厚生労働省社会・援護局長の中村が述べている以下の五点に集約されよう〔中村 2006,p. 8〕。
その第一は居宅サービスを義務的経費としつつ利用者から 1 割の応益負担を徴収すること,第二にサービス体系の大幅な組み換えをすること,第三に障害程度区分を導入し,市町村に審査会を設置すること,第四に市町村によるサービス基盤の整備を行うこと,第五に精神障害者も対象とすること,である。以上が障害者自立支援制度の制定の背景である。
次に概要と特徴を述べよう。
障害者自立支援制度そのものの仕組みを「障害者自立支援制度要綱」からみると,その目的は障害者基本法の基本的理念にのっとり障害者(児)がその有する能力および適性に応じ,自立した日常生活または社会生活を営むことができるようサ
ービスにかかわらず給付および支援を行い,障害の有無にかかわらず国民相互が人格と個性を尊重して暮らせるような市町村レベルを中心とする地域社会の実現に寄与する,とされ,社会福祉法でいう地域福祉の推進も含意されている。
こうして 2006 年 4 月には障害者自立支援法の施行に伴い,応能負担制から月額上限を設定した 1 割の応益負担制の導入と,公費負担医療が自立
支援医療に移行した。また 10 月からのサービスの改編により,施設,事業体系を日中のサービス
(6 種類)と夜間のサービスとに分離し,日中活動事業(療養介護,生活介護,自立訓練,就労移行支援,就労継続支援,地域活動支援センター)に夜間のサービスである施設入所支援とグループホームなどの居住支援を組み合わせていくという方式となった。なかでも就労移行支援,就労継続支援が重視されている。また,新規に市町村に設置された「地域自立支援協議会」は相談事業関係者,福祉サービス事業者,関係機関,障害当事者団体,権利擁護関係者からなり,中立性・公平性が確保されることになっている。
なお障害者自立支援制度の対象者がサービスの利用を希望した場合,まず相談事業者か市町村に対し給付申請を行う。相談支援事業者はサービス利用希望を確認し,市町村に利用申請を行う。相談支援事業者はアセスメントを,市町村は障害程度区分の認定を行う。この場合,原則としてコンピュータによる一次判定を行い,有識者から構成される審査会による二次判定と障害程度区分の認定が行われる。これにより市町村から支給決定がなされ,この障害の状態像に応じて利用者は介護給付サービス,または訓練等給付を受けることになる。これらのサービスはその種類ごとに月を単位として期間・支給量が決定される。なお,障害程度区分や支給決定に不服がある場合,審査請求が可能である。また,原則,対象者は自ら利用を希望するサービスを計画策定段階で盛り込み,希望するサービスを契約に基づいて利用する。この場合,月額負担上限が設けられた 1 割の応益負担
と事業者に支払われる 9 割の代理受領で費用が賄われることとなっている。この仕組みはほぼ介護
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「準市場」の介護・障害者福祉サービスへの適用 37
保険制度と同様である。
2 障害者福祉サービスに対する準市場の適用
(1) サービス利用主体への影響
障害者といっても身体障害,知的障害,精神障害があり,その程度・態様もさまざまである。しかし,障害者自立支援法ではこれらの障害を一元化して取り扱うこととしたのは既に述べたとおりである。
ここで問題となってくるのはいわゆる契約能力にかかわる部分である。障害の種類・程度によって,契約の内容を理解することが困難な者への対策が充分になされる必要がある。障害特性を考慮せず,画一的に契約を結ばなければサービスを提供できない状態は避けなければならない。つまり障害の種類・程度に応じた契約方法を充分に考慮しなければならない。
さらにサービスの利用にあたっては応益負担方式が用いられ,訓練・作業等で得られる工賃よりも自己負担額のほうが上回るという事態を招いている〔丸山・朝日 2008,p. 24〕。これではサービスの利用に結びつかないどころか,従来受けていたサービスから排除されてしまう。準市場のポイントはサービスの普遍主義化に伴ってニーズのある誰もがサービスを利用できる点にある。ホテルコストをのぞいた負担の上限額があるにせよ,現在のわが国の制度には根本的な矛盾があるといわざるを得ない。
(2) サービス提供主体への影響
障害者自立支援制度では―というよりも,障害者福祉の分野では―脱施設化の流れがあり,とくに 2004 年に宮城県がうたった「脱施設化宣言」は記憶に新しい。さらに在宅福祉サービスの領域では法人格を持っていれば参入が可能であり,地域活動支援センターとして衣替えした従来からの小規模作業所などを含めれば,サービス提供主体のかなりの小規模化・分散化が見込めるであろう。
また個別支援計画の立案は障害者本人から意向聴取を行うなど一定の評価は可能である。しかし,障害の種別によっては自らの意向を明確に主
張できなかったりするなどの限界がある。そもそも福祉サービス自体の質は利用してみなければ判らないという特徴をもち,返品・交換などがきかない点からすれば,情報の非対称性の緩和・防止は現状においてはさらなる工夫が必要であろう。また,グループホームの世話人が複数の住居を 担当することを認めたり,入所型施設で対利用者職員数を引き下げるなどの動きが見られる。このような職員配置の引き下げには,西原が「非専門職による非継続的な対応」が発生するであろうと懸念を表明している〔西原 2006,p. 31〕。また,定員そのものの扱いも「効率的なサービス提供を促進するために」,「利用実態に即した支払方式
(日払い)に改めるとともに」「一定期間の平均実利用人数が定員を下回っていることを前提に,1日あたりの実利用人員が定員を超過している場合でも一時的に認める」ことなどが定められている
〔伊藤 2006,p. 58〕。つまり,低コストでサービス水準を「維持」することが求められているのであって,決してサービス水準の向上が達成されるとは限らないのである。そこにはいかにしてコストを抑制するか,といった粗効率性の考え方が貫徹されているのである。
(3) 運営主体への影響
市町村には障害当事者も参加する「地域自立支援協議会」の設置が義務付けられている。従来までは当事者の「声」が聞き届けられる余地が少なかったが,これにより準市場でいう応答性の向上が見込まれ,今後の役割が大いに期待される。さらに市町村は必須事業として相談支援事業,コミュニケーション支援事業,日常生活用具給付等事業,移動支援事業,地域活動支援センター事業などを行うこととし,自立支援給付とともに地方自治体が地域の実情に応じて柔軟に実施することが望ましい事業を,地域生活支援事業として法定化した。これによりきめ細かい支援が可能となるといえるが,充分な予算措置が必要である。とりわけ地域活動支援センター事業は第二種社会福祉事業として位置づけられ,サービス提供体制の小規模化・分散化が図られており,その効果が期待さ
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れる。
またサービス提供費用は利用者負担分を除いて,基本的に国が 2 分の 1,都道府県と市町村が各 4 分の 1 の負担配分となっている。これは介護保険制度同様の費用分担となっており,小規模市町村であっても,国・都道府県により一定の費用の保障がなされている。
3 小括
障害者福祉サービスに対する準市場の適用は,障害種類・程度に応じた契約のあり方が重要になってくる。この際必要になってくる視点はアドボケート9)であり,障害を持っていることの弱みに付け込んだ契約があってはならない。
また準市場のもとでは必要な者に必要なサービスが提供されなければならないが,現在の障害者自立支援制度における利用料の 1 割の応益負担は利用者を排除しかねない。これでは必要なサービスに手が届かなくなってしまう。介護保険制度同様,逆進性の強い応益負担方式には課題が多いといわねばならない。
一方で,「地域自立支援協議会」の設置により,障害当事者の「声」が聞き届けられる余地が生まれた。今後のサービスメニューの展開に期待が持てる。また市町村が柔軟にサービスを提供することにより,準市場でいう応答性の向上につながると思われる。
最後に本稿では深くは言及しなかったが,就労支援策の強化も障害者自立支援制度におけるひとつの目玉である。持てる能力を活用して「就労」という社会参加が図られればよいが,それは支援の結果としての望ましさであり,就労を強制するような本末転倒な事態には充分注意する必要がある。
VI おわりに
従来,社会福祉は家族が担うことの出来ない部分を公的部門が担ってきたものである。その形態は財政も提供も公的部門が担い,基本的には公的部門による完全独占であったといってよい。しか
し 1990 年代半ば以降の構造改革により,その性格が大きく変化した。すなわち日本における福祉サービス(介護サービス,障害者福祉サービス)の「市場化」である。それは準市場化ともいえようが,それは不完全で,一般的市場の形態に近づきつつあるといえよう。
その理由として,いずれの領域においてもサービスの提供者は在宅福祉サービスに限って言えば法人格さえ持っていれば参入も退出も自由であり,市場としては不安定であること,サービス費用の負担は逆進的であり,それを選択し,購入する点も一般的市場に近い。価格についての規制はあるが,その根拠は明確ではなく,総体の予算の中で行政の手により恣意的に決定される(されざるを得ない)。
また,サービスの準市場化によって利用者はニーズに見合った必要なサービスを選択しなければならない。そしてそれが可能になるのは契約当事者として選択し,責任を持つことの出来る「強い個人」である。サービス提供者との契約が必要な準市場においてはそのような能力が求められる。そして,現代における市場(原理主義)への批 判として「現在の主流経済学である新古典派理論が前提とする人間像は短期だけでなく長期の将来をも合理的に見通すことの出来る『合理的経済人』」であり,「他人に関わりなく自己利益(自己の効用)の最大化を追求していけば市場メカニズムがあたかも自動調整装置のようにはたらいて,資源配分の最適化を達成できる」「強い個人像の仮定」とするものが現代における市場の特徴であるとの指摘〔金子 2004,p.12〕もある。このような批判―未熟な準市場化に対して―が福祉サービスの領域にも該当しないだろうか。すなわち,金子の言葉を借りるならば,「強い個人」に焦点化された制度設計になっていないだろうか。そして一般的市場化の向かう先において「強い個人」はその恩恵にあずかることになり,そうでないも
のは疎外されていくことになろう。
松田は私生活主義の浸透,「自発的社会参加の後退,市民相互の連帯の弱体化,マス化,アトム化の進行する社会」を市民から「私民」へとの移
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「準市場」の介護・障害者福祉サービスへの適用 39
行とし,従来型の政党―市民関係の変容・希薄化をもたらし市民社会におけるヘゲモニーの空白が生じるとみている〔松田 2006,pp. 138‒139〕。
福祉サービスの準市場化も「マス化・ アトム化」した社会の中での選択と契約であり,サービスの位置づけも社会問題としての福祉というよりは個人的なアメニティの追求に近い。そもそも準市場は購入者(利用者)の福祉追求を動機のひとつとして持っているが,それはサービス提供者との緊張関係の中から生まれてくるものである。我が国の場合,サービス提供者との緊張関係のもとでの福祉追求と言うより,私事化されたサービスの選択と契約である。したがって,「強い個人」であればこその福祉サービスの利用であって,
「弱い個人」には福祉サービスが必ずしも手に入るとは言いがたい。「強い個人」は自らの能力において自らに必要な最善の判断を下すことができ,また,自己責任も取ることができる。しかし,そのような「強い個人」は存在しないといってよい。誰もが不確実性の中にいる「弱い個人」であって「強い個人」を想定した制度設計には陥穽がある。それが近年の「構造改革」に特徴的な
「応益負担」然り,選択・契約然りなのである。
謝 辞
本論文を執筆するにあたり,松井二郎先生(北星学園大学名誉教授),木下武徳先生(北星学園大学准教授),重泉敏聖氏(地域活動支援センターヨベル)から多くの的確なご指摘とご助言をいただいた。ここにそのお名前を記し深謝の意を表したい。
注
1)1980 年代後半から 90 年代初頭にかけてみられた実体のない(バブル=泡)好況をいう。土地,株式などの値上がりを期待して景気が過熱した。その反動としていわゆる平成不況がある。
2)行政機関が個人や法人に対し,法規に基づいて権利を与えたり制限したり義務を負わせること。
3)先行研究等において Quasi-market の訳語として「擬似市場」「疑似市場」「準市場」が用いられるが,本稿では「準市場」の意として用いる。
4)代弁者のこと。
5)取引を行ううえで生じるロスのこと。訴訟にあたっての弁護士費用や損害賠償金など。
6)グッドウィルグループ傘下で 24 時間介護サービスをうたった「コムスン」で,介護報酬の不正請求や不適正な人員配置が問題となった事件。
7)介護保険料の徴収方法には二通りある。ひとつは年金から自動的に天引きされる「特別徴収」であり,もう一つは低所得などで年金から天引きせずに個別に市町村に保険料を納付する「普通徴収」である。
8)制度開始初年度の 2003 年には厚生労働省は在
宅福祉サービスに関して 516 億円の予算をつ
けるが 128 億の赤字を出し,さらに翌年には
602 億円の予算に対し 274 億円の不足に直面せざるを得なくなった。
9)利用者の基本的人権を守る権利擁護のことをさす。
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(さはし・かつひこ 北星学園大学准教授)
Summer ’08 保育制度への市場原理導入の効果に関する厚生分析
41
保育制度への市場原理導入の効果に関する厚生分析
鈴 木 亘
I はじめに
少子化の進展によってわが国の児童数は減少の一途を辿っているにもかかわらず,保育所への入所希望者数は急速に増加をしている。厚生労働省
「社会福祉施設等調査報告」によれば,認可保育所の入所児童数は 1960 年代,70 年代と急速に増加した後,1980 年の 199 万 6, 082 人をピークにしばらく減少を続けていたが,1994 年の 159 万 2, 688 人を底に再び増加に転じ,2007 年現在で
201 万 5, 382 人と過去最高数に達している。近年は,こうした需要増に供給増が全く追いついていない状況が続いており,毎年の入所定員増にもかかわらず解消しない待機児童(2007 年で 1 万 7, 926 人)や,そのかなりの割合が認可保育所の待機者であると考えられる認可外保育所入所児童
(2005 年で約 18 万人,全国保育団体連絡会・保育研究所編〔2007〕による)を恒常的に発生させることとなっている。さらに,こうした保育サービスの供給制約があるために,保育あるいは就労自体をあきらめている潜在的待機者も大量に存在しており,首都圏(1 都 3 県)だけでも,24 万人
( 内 閣 府〔2003〕)~27 万 人 程 度1() 周・ 大 石
〔2003,2005〕,Zhou and Oishi〔2005〕) もの潜在的待機児童がいるとの試算がある2)。
こうした保育サービス需要の高まりの背景には,いうまでも無く,女性の高学歴化に伴う社会進出や働き方の多様化があり,それ自体は社会的に望ましい変化であると考えられる。また,全員
参加社会としての女性就業率上昇や,深刻化する少子化への対策という非常にプライオリティーの高い政策目標を実現するためにも,その前提となる保育サービス需要に対処することは不可欠であり,現在のように,需要が満たされないまま待機・放置されている状況を長引かせるべきではない。
ところで,こうした福祉分野における急速な需要増と供給制約に伴う大量の待機者の存在は,介護保険が開始される前の在宅介護分野を彷彿とさせるものである。すなわち,高齢化の進展を背景とする急速な介護サービス需要の増加に対して,
「措置(行政処分)」として提供されるサービス供給量が全く追いつくことが出来ず,当時,高齢者の虐待や自殺等の深刻な社会問題が生じた。このため,2000 年 4 月に福祉分野への「市場原理導入(準市場化)の社会実験」ともいえる介護保険制度がスタートし,在宅介護サービスを必要とする全ての人々が,自由にサービスを選択して購入できる仕組みに改められたのである。その結果,介護サービスの価格こそ,低所得者や単身者等に実質的に利用が限られていた措置時代に比べ上昇したものの,それまで介護サービスの需要を満たせなかった多数の人々がサービスを利用できるようになり,サービスの供給量も参入の自由化によって大幅に増加した。現在,今後の高齢化の進展に伴う需要増に対して介護保険財政をどのように維持させるかという点が困難な課題となってはいるが,介護保険導入自体は成功であったとする見方が一般的であり,厚生労働省自身の評価も
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高い。
1 教科書的な問題点の整理 3)
これに対して,同じ福祉分野である保育制度の改革は遅々として進んでいない状況である。僅かに行なわれた改革としては,1997 年の児童福祉法改正や,2000 年,2001 年の設置主体・運営主体の制限撤廃等がある。すなわち,1997 年の児童福祉法改正によって,認可保育所の入所にあたって利用者が希望する保育所を選択して,その順位を市町村に申込む「利用者選択方式」が導入されたほか,保育料徴収を,福祉としての応能負担原則から,保育コストに見合った応益負担原則に転換することとなった。また,2000 年には,従来,自治体と社会福祉法人に限定されていた設置主体制限が撤廃され,株式会社,NPO,学校法人,農協などの主体による保育所設置が可能となり,さらに 2001 年には,公立保育所の運営委託に係る運営主体の制限も撤廃された。しかしながら,こうした僅かな取り組みですら,実際の内容をみると,骨抜きの状態にあると言えよう。例えば,保育料徴収の応益負担原則であるが,「家計に与える影響を考慮して」という但し書きが付けられており,応益負担であるにもかかわらず,利用者の所得に応じて 7 階層の保育料徴収基準が設
けられてしまっている。これは改正以前の 11 階層と比べてほんの僅かな変化に過ぎず,区市町村の中にはこの基準から更に多くの階層を設けているところも少なくない。また,設置主体の制限撤廃,公立保育所運営委託主体の制限撤廃についても,形式的には参入が自由化されたものの,例えば営利企業の場合には,利益分配制限,財産処分制約といった営利企業の行動原理を無視した規制が存在しており,実質的に参入動機が働きにくい仕組みとなっている。さらに,「利用者選択方式」についても,「措置」よりはマシという程度の話であって,利用者が自由に選択し契約できる介護保険制度とは異なり,基本的な仕組みは「割当」そのものである。こうした改革の不徹底ぶり,骨抜き化により,保育制度は,下記に挙げるような,供給規制と固定価格に伴う市場の「典型
的な病理」に侵されており,教科書に載せられるほどの失敗の好事例と言える。
第一に,認可保育所の保育料は,応能負担原則のために,需給調整を行う価格機能を果たしておらず,また,公費負担(公的補助金)が認可保育所に集中的に投下されることによって,市場の均衡価格(均衡保険料)よりも遥かに低い価格に据え置かれている。このため,需要が供給を大きく上回る「需要超過」が生じてしまっている。
第二に,需要超過に対処するために「割当」が行なわれているが,割当の手段として時代錯誤といえる「保育に欠ける4)」という要件が用いられており,需要の大きい人々が必ずしも選ばれてはいない。この結果,市場原理を機能させた場合に比べて大きな非効率が発生している。
第三に,こうしてたまたま認可保育所に割当られた人々と,そうでない人々に投下される公費負担に著しい違い5)が生じており,大きな不公平・格差が生じている。
第四に,認可保育所のみに集中的に公費負担が投下されている一方,求められている施設の基準にほとんど遜色がない認証保育所等の質の高い認可外保育所には,わずかな自治体単独の補助金があるだけか,あるいは全く補助金がない状態であり,保育料が質を反映する価格の機能を果たさず,「官業の民業圧迫」ともいえるダンピングが生じている。このため,認可外保育所は競争上の著しい不利を余儀なくされており,健全な保育サービス市場が育っていない6)。
第五に,逆に,認可保育所については,割当によって競争を行うことなく利用者を確保できることから,「レント」として人件費等の高コスト構造が維持され,効率化が図られない。また,公立保育所における特別保育事業(延長保育,休日保育)の実施率の低さや,0 歳児定員が少なさといった例からもわかるように,認可保育所は競争が無いことから,利用者に対するサービス向上も図られない。
これらの問題に対処するためには,まさに経済学の教科書が教えるとおり,市場原理を導入することが解決策であり,保育分野も介護保険導入を
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保育制度への市場原理導入の効果に関する厚生分析 43
先例とした改革が行われる必要がある。
2 規制改革会議の提言とそれに対する厚生労働省の反論
こうした観点に立ち,規制改革会議は,その前身の総合規制改革会議,規制改革・民間開放推進会議の時代から,市場原理の導入手段として,①直接契約・直接補助方式の導入,および②「保育に欠ける」要件の見直しを求めている(規制改革会議〔2007e,2008〕)。まず, 直接契約方式とは,現行のように行政から認可保育所を割り当てられるのではなく,介護保険のように利用者が直接,自分の好むサービスの供給主体を選択して契約を結び,サービスに応じた料金を支払うという,市場としてごく当たり前の仕組みである。これにより,サービスを供給する保育所は,規制主体である市町村の方ばかり向くのではなく,契約をして対価を払ってくれる利用者を重視し,利用者にとっての質を上げるべく努力をするようになる。また,保育所間の競争が図られることから,サービスの質向上が図られることはもちろん,価格競争を通じて運営費用の効率性も高まることになる。また,こうした仕組みを機能させる前提としては,直接補助方式の導入が不可欠である。これは,現在,施設に対して行われている機関補助を改め,利用者に対して直接に補助金7)を与えるというものである。利用者はその直接補助に,自己負担分の保育料を加えて,自分の選択した保育所に,応益負担の利用料を支払うことになる。これにより,現在,認可保育所だけに集中的に投下されている公費が認可外保育所等にも用いられるようになり,認可保育所の保育料ダンピングが解消する。また,このイコールフッティングによって,幅広く健全な保育サービス市場が育ち,サービスの供給量も増加することになる。もちろん,これまで生じていた認可保育所入所者と認可外保育所利用者等との間の公費投入の不公平も解消する。また,市場競争による効率化や自己負担分の保育料収入が増えることによって公費負担も削減可能となる。こうして余った公費はさらなるサービスの供給増の財源に向けることもできることか
ら,時代錯誤な「保育に欠ける」要件で割当を行う必要も無くなり,均衡保育料の下で利用したい全ての人々が自由にサービスを利用できる望ましい状況が形成されるのである。
このような規制改革会議の提言に対して,厚生労働省や一部の保育専門家等からは以下のような反論が提示されている。
第一に,低所得者や障害児のような弱者が排除されてしまうのではないかという点である(規制改革会議〔2007a,b〕)。これは「応益負担=弱者切り捨て」という短絡的な見方に基づく全くの誤解であり,実は,直接補助・直接契約方式の下で,こうした弱者保護はいくらでも可能である。直接補助方式とは,全ての人々に同額の補助金を分配することを意味せず,再分配の要素を組み込むことが大いに可能である。保育所に支払う利用料(直接補助+保育料)は応益負担であるが,障害児や低所得者には,自己負担する保育料を少なくして,逆に直接補助を手厚く配分すれば良いのである。障害児にはさらに,必要な運営コストを反映した加算分を直接補助に上乗せすればよい。また,それでも市町村の責任が曖昧になり,障害児を引き受ける保育所が無くなるというような懸念が示されることがあるが( 規制改革会議
〔2007a,c〕),もしそのようなことが仮に起きるのであれば,公立保育所に障害児の保育を義務付け,その分の委託費だけは機関補助として残すことも可能である。「直接契約・直接補助方式=規制の全面撤廃」というわけではなく,必要な規制は残して柔軟に対応すれば良い。
直接補助による傾斜的な補助金配分は,現行制度の下で保育に欠ける要件のために排除されている(あるいは排除されやすい)短時間の非正規労働を掛け持ちする母子世帯やワーキングプア層に対する弱者保護にも機能する。その意味で,弱者保護という観点からは,むしろ現行制度よりも優れているといえる。一方,現行の認可保育所の入所者の中には,所得 10 分位中の第 1 分位や第 2
分位に相当するような高所得階層も 3 割程度存在しているとみられる(八代・鈴木・白石〔2006〕)。こうした階層には現行のような手厚い公費負担を
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与える必要はまったく存在しないことから,応能負担によって所得分配上非効率に用いられていた公費を削減することが出来る。その意味で,直接契約・直接補助方式は,所得分配上も優れた制度である可能性がある。
第二に,現行の保育所の質が低下するとの指摘がある(規制改革会議〔2007c〕,全国保育団体連絡会・保育研究所〔2007〕)。これは,何を質とするか,認可保育所の立場に立つか認可外保育所等の立場に立つかによって見方が分かれる。まず,保育所の質を人員配置や施設の設備と定義するのであれば,直接契約・直接補助方式によって,認可保育所のみに集中していた公費が幅広く行き渡って認可保育所分が相対的に少なくなることから,現在のように最低基準を大幅に上回るような余裕を維持することは確かに難しくなるかもしれない。しかしながら,そもそも,現在のような恵まれた認可保育所の状況は,認可保育所に入所できなかった多数の犠牲のもとに成り立っている公費の集中投下で維持されているわけであり,負担を大幅に上回る受益をこれまで得てきたわけである。改革によってそれが正常な状態に戻るのであり,ある程度の質の低下はやむを得ない面がある。もし,公費が減る中で質を保ちたい利用者が多いのであれば,認可保育所プレミアムとして保育料を高く徴収することで対応可能である。また,認可保育所に投下される公費が減る代わりに,認可外保育所等は公費が分配されて質が向上することになる。認可外保育所等の利用者は逆に質の向上を享受できるのである。さらに,質の定義を利用者の利便性や利用者の望むサービスと考えれば,すでに述べた仕組みによって,直接契約・直接補助方式で明らかに全ての保育所の質が向上すると考えられる。また,質の劣悪なベビーホテル等に対しては,補助金の利用を理由として,質の規制をむしろ強化することができ,これまで実質的に規制が無かった状況を改善することができる。以上から,全体としてみた場合には質はむしろ上昇するとも考えられる。
3 厚生労働省の財源確保先行主義と本稿の問題意識
さて,前節の 2 つの論点においては,現在に至るまで規制改革会議と厚生労働省との間で激しい論争が続いており,直近の「規制改革推進のための第 2 次答申」(規制改革会議〔2007e〕)および
閣議決定された「規制改革推進のための 3 か年計画(改定)」(規制改革会議〔2008〕)を巡る案文折衝においても,激しいやり取りが行われたところである(規制改革会議〔2007a,c〕)。しかしながら,こうした論争は具体的なエビデンスがないために,毎回,水掛け論に終止してしまっており,総合規制改革会議時代の 2001 年に改革案が提案されて以来,答申ではずっと「長期的に検討」と記述される膠着状態が続いている8)。もっとも今回の案文折衝では,厚生労働省の反論に対して丁寧な再反論を繰り返していたために,ある程度理解が深まった様子があり,折衝の最終段階では,厚生労働省からは「(直接契約・直接補助方式の)議論を否定はしていない」という発言が行われたり(規制改革会議〔2007c〕),厚生労働省からの第 2 次答申案文への修正案・修正理由
(規制改革会議〔2007d〕)には,前節のような論理からの反論は一切見られなかった。しかしながら,筆者の期待は甘いものであったのかもしれない。最終的に,厚生労働省は「財源確保先行主義」とでもいうべきおよそ合理性に欠ける論理を持ち出し,現段階での議論・検討を拒否したのである。すなわち,厚生労働省の主張は,①保育に欠ける要件の見直しと直接契約・直接補助方式の導入によって,保育の対象者が増えるので,財源を確保しなければならない,②しかし財源の確保が現在は難しいので,両方の見直しとも一切議論・検討ができない,という不可解なものであった(規制改革会議〔2007c〕)。一般論として,何か制度の見直し・改革を行う際には,前もってその効果を議論・検討したり,財源がどれくらいになるかを試算したりした上で,その必要額を財源確保するために努力するというのが常識的な順序であろう。しかしながら,厚生労働省においては,そうした常識は通用せず,財源確保が全てに
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保育制度への市場原理導入の効果に関する厚生分析 45
図 1 保育所市場
先立つというのである。しかし,財源確保というからには,その財源額には算出根拠があるはずであるが,その根拠も一切示されることは無かった。とにかく,財源が確保できないから,改革については一切議論・検討できないとの一点張りであり,この点に厚生労働省側が固執したために,またもや改革の検討時期すら定められないという,実質的な長期的検討課題となってしまった
(規制改革会議〔2007c〕)。しかしながら,規制改革会議が主張する改革では,保育料収入が増加して財政縮減が図れることから,供給量増加のために新たな財源確保が本当に必要かどうかは,必ずしも明らかではない。
そこで,議論・検討すらできないという厚生労働省に代わって,本稿は,規制改革会議が提案する市場原理導入による改革のために,どの程度の追加財源確保が必要なのか,あるいは全く必要がないのか,データに基づいて具体的な試算を行うことにする。また,論理だけの水掛け論から脱却するためにも,実際のデータに基づいて,現状の保育制度の非効率性を計測し,市場原理導入によってどれぐらいメリットがあるのかを定量的に把握する。さらに,改革によって弱者が排除されたり,不平等・格差が拡大することがあるかどうかについても,定量的な確認を行うこととする。
II 分析の基本戦略
本稿の分析の枠組みは,入門的な教科書に登場する初歩的な市場の部分均衡に基づく余剰分析である。今,保育所市場の現状を簡単に描いたものが,図 1 である。保育所サービスの需要曲線が, D1 ‒D1’ で描かれている。保育所には供給規制があるために,垂直な S‒S’ が供給曲線である。この場合,本来,均衡は E 点,均衡価格(均衡保育料)は P の水準になるはずであるが,公的補助金が投入されているために,価格が低く抑えられ規制価格 R の水準に固定されている。このとき,価格が低く固定されているために,需要は G点で決まる O‒Q の量が発生してしまっており,割り当てられなかった S’‒Q の人々は超過需要
(待機者)として,何の消費者余剰も得ることが
出来ない。一方,たまたま割当によって保育所に入所できた人々の消費者余剰はD1 ‒R‒F‒E の台形の面積となる。保育所の運営単価(児童一人当たり費用)を C とすると,保育所の運営費用は C‒O‒S’‒B の面積となる。保育料収入は,R‒O‒ S’‒F の面積であるから,運営費用の残りである C‒R‒F‒B が公費負担である。O‒S’ の人々は,公費から補助金が投入され,大幅な消費者余剰を享受するという恵まれた状況になっており,待機者との間で著しい不公平が生じている。
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Vol. 44 No. 1
さて,今,市場原理導入によって保育料を均衡保育料 P にするという改革を行うとする。すると,消費者余剰は D1 ‒P‒E に縮小するが,保育料収入は増加し,P‒O‒S’‒E の面積となる。このため,公費は,C‒P‒E‒B の面積まで削減される。この場合,不公平はある程度改善され,財政縮減も図ることができる。もっとも,この場合には,低所得者等の弱者の保育料負担が上昇することになってしまうわけであるが,これは公費負担が削減された分の財源を用いて,弱者に傾斜した直接補助を行うことで対処できる可能性がある。加えて,この財源を用いることにより,図中の右矢印のように供給量を増加させることも可能である。もっとも,この時,均衡点 E は供給量の増加と供に下がるので,保育料収入が減少し,したがって財源自体がやや小さくなることに注意が必要である。また,保育所の運営単価も市場競争によって現在の認可保育所の水準から引下げることが可能である点も重要であり(図中の下矢印),この分も供給量増加のための財源とすることができる。ところで, この図は割当される人々が, WTP(Willingness to Pay: 支払意思額)が高い順に選ばれるという想定の下で描かれているが,これは現実的ではない。実際には,保育に欠ける要件や,自治体のポイント制や裁量によって,このような合理的な割当が行われているとは限らず,例えば,図の D2 ‒D2’ のように割当されなかった人々の方が割当された人々よりも WTP が高い可能性がある。この場合,市場原理導入によって,需要の大きい(WTP の高い)人々がきちんとサービスを購入できるようになることにより,消費者余剰の改善が行われ,さらに保育料収入も増加する。
問題は,それぞれの消費者余剰や保育料収入,公費負担が現実にどれぐらいの大きさになるかという点である。これらを定量化するために,実際にアンケート調査を行って得た情報によって仮想市場法を用いて需要曲線を導出する。その上で,均衡保育料を導き,実際の保育所運営費用等の統計データを用いて改革効果の試算を行うことにする。また,不公平に関する指標としては,所得や
金融資産の保有状況を加味して,所得再分配という観点から,ジニ係数を計算して比較する。
III データ
本分析に用いるアンケート調査は,筆者等が独自に企画して,インターネット調査会社9)を通じて 2005 年 12 月に実施したものである(八代・鈴木・白石〔2006〕)。対象は全国に在住する就学前児童(6 歳以下)を持つ既婚女性であり,女性の就業状態によって 2 種類の調査票(就業票,非就業票)を作った。調査内容は回答者の年齢,学歴,家族構成,所得・資産の状況,就業の状況などの家計の基本的な属性と,子どもの保育の状況,保育所の利用の有無と保育料,同居家族以外に育児を手伝ってくれる人の有無など,回答者の子育ての現況等となっている。回答者数は,就業サンプル数を多めにとるように意図的にサンプル割付を行ったので,就業サンプル数が 1, 734,非
就業サンプル数が 998 であり,子供単位のサンプ
ルにすると,それぞれ 2, 346,1, 395 となる。需要曲線を導くためには,就業者と非就業者の比率を現実の値と一致させている必要があるため,国勢調査から計算した年齢別の就業・非就業者数
(八代・鈴木・白石〔2006〕)を用いて両者の比率を計算し,非就業サンプルの中からランダムにリサンプリングすることにより,両者の比率が実態に合うように調整した。調整後の総サンプル数は 7, 407 である。
さて, このアンケートの特徴は,「仮想市場法10)」と呼ばれる方法を用いて,保育所利用に対する WTP を計測する質問を行っていることである。具体的には,以下の質問文のように,改革によって,東京都の認証保育所をモデルとした保育所(以下,「新保育所」と呼ぶ)を直接契約できるようになった場合を想定し,その保育料に対する支払意思を選択させている。八代・鈴木・白石
〔2006〕では,生存時間分析の方法を用いて,具体的に需要曲線を推計する方法をとったが,本稿では分析の利便性から,サンプル単位のWTP を提示額間の中間値を用いて求めた11)。また,後の
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保育制度への市場原理導入の効果に関する厚生分析 47
表 1 記述統計
サンプル数 | 平 均 値 | 標 準 偏 差 | 最 小 値 | 最 大 値 | |
新保育所への WTP | 7407 | 2. 858 | 1. 763 | 0 | 13. 5 |
公立保育所プレミアム WTP | 667 | 1. 624 | 1. 462 | 0 | 8. 5 |
私立保育所プレミアム WTP | 514 | 1. 549 | 1. 334 | 0 | 6 |
認可保育所の保育料 | 1181 | 2. 329 | 1. 469 | 0 | 7 |
認可保育所への WTP * | 1181 | 3. 931 | 2. 146 | 0 | 14. 25 |
新保育所への WTP( 認可保育所利用者のみ)* | 1181 | 2. 886 | 1. 865 | 0 | 9 |
就業率 | 7407 | 0. 3167 | 0. 4652 | 0 | 1 |
認可保育所入所率 | 7407 | 0. 1594 | 0. 3661 | 0 | 1 |
保育場所(家庭) | 7407 | 0. 4719 | 0. 4992 | 0 | 1 |
保育場所(幼稚園) | 7407 | 0. 2260 | 0. 4183 | 0 | 1 |
保育場所(保育園)* | 7407 | 0. 2507 | 0. 4335 | 0 | 1 |
保育場所(その他)* | 7407 | 0. 0514 | 0. 2209 | 0 | 1 |
0 歳児 | 7407 | 0. 1846 | 0. 3880 | 0 | 1 |
1 歳児 | 7407 | 0. 1567 | 0. 3636 | 0 | 1 |
2 歳児 | 7407 | 0. 1519 | 0. 3589 | 0 | 1 |
3 歳児 | 7407 | 0. 1752 | 0. 3802 | 0 | 1 |
4 歳児 | 7407 | 0. 1287 | 0. 3348 | 0 | 1 |
5 歳児 | 7407 | 0. 1123 | 0. 3158 | 0 | 1 |
6 歳児 | 7407 | 0. 0906 | 0. 2870 | 0 | 1 |
注) 認可保育所のWTP は,公立,私立のプレミアムに現在の保育料を合計したもの。保育場所(保育園)は,認可保育所だけではなく全ての保育所を含む。保育場所(その他)は,6 歳児について調査時点ですでに小学生となったサンプルが小学校と答えたためにやや多い割合となっている。
分析に用いるために,認可保育所入所者に関しては,改革後も現在の認可保育所に入所し続けられるための追加支払意思額(以下,公立プレミアム,私立プレミアム,両者合わせて認可保育所プレミアムと呼ぶ)を,同様の形式を用いて尋ねている。以下の分析に用いる主な変数の記述統計は,表 1 の通りである。まず,新保育所の WTPをみると,平均は 2. 86 万円であり,現行の認可
保育所の保育料の平均(2. 33 万円)よりも 5 千円ほど高くなっている。また,公立,私立のプレミアムの平均はそれぞれ 1. 62 万円,1. 54 万円であり,実際に払っている保育料を加えると,認可保育所に入所し続けることの WTP は平均 3. 93万円となる。現在の認可保育所入所者の新保育所への WTP が 2. 89 万円であるから,現在の認可
保育所には,新保育所に比べてほぼ 1 万円程度の付加価値(プレミアム)が発生していることになる。
下記の文章をお読みの上,質問ページをお答えください。
仮に政府が保育改革を行って待機児童問題がな
くなり,次のような条件の「保育園」を奥様が就業している世帯が,自由に利用できるものになったとします。
※ただし,公立保育園・市立認可保育園に今まで入っていた方は全ていったん退園となり,原則として新しくできた次のような条件の「保育園」に再入所することになります。
利用条件
① 資格を持つ保育士が子どもの担任として付いている
② 園内給食がある
③ 保育園内に子供が自由に遊べる園庭はないが,徒歩 5 分以内にある公園で外遊びをさせることはできる
④ 保育時間は 13 時間以上利用可能
⑤ 保育園が自宅から徒歩 15 分以内にある
⑥ 保育園が駅から 15 分以内にある
⑦ 保育を希望するお子様全員が同じ保育園を利用できる
⑧ 認可保育園ではない(設置基準は東京都認証保育園並み※注)
48 季 刊 ・ 社 会 保 障 研 究
Vol. 44 No. 1
付問 4 それでは,保育料月額 3 万円ならこの保育園を利用しますか?
1 利用する 2 利用しない
付問 5 それでは,保育料月額 5000 円ならこの保育園を利用しますか?
1 利用する→付問 6 へ
2 利用しない(最高いくらまでなら支払いますか 円)
付問 6 それでは,保育料月額 1 万円ならこの保育園を利用しますか?
1 利用する 2 利用しない
※東京都認証保育園とは
・全施設で 0 歳からお預かりします。
・全施設において 13 時間の開所を基本とします。
・都が設置を認証し,実施主体である区市町村とともに指導します。
・契約時に保護者へ「重要事項説明書」を渡し,サービスの内容や施設の概要,事業者の概要などを説明することを義務づけます。
・利用者と保育園が直接利用契約できます。
・認可保育園について国が定めている基準よりは緩和しますが, 都独自の基準を設定し, 適切な保育水準を確保します( 例えば,0 歳児・1 歳児の一人当たりの基準面積
3. 3 m2 は 2. 5 m2 でも可とする)。
・運営主体は株式会社など多様な民間事業者が中心です。
((財)東京都高齢者研究・福祉振興財団 HP「認証保育所制度について」より転載)
問 この保育園の保育料が月額 4 万円であった場合,あなたはこの保育園を利用しますか。
1 利用する→付問 1 へ
2 利用しない→付問 3 へ
付問 1 この保育園の保育料が月額 6 万円であった場合,あなたはこの保育園を利用しますか。
1 利用する(最高いくらまで支払いますか
円)
2 利用しない→付問 2 へ
付問 2 それでは,保育料月額 5 万円ならこの保育園を利用しますか?
1 利用する 2 利用しない
付問 3 それでは,保育料月額 2 万円ならこの保育園を利用しますか?
1 利用する→付問 4 へ
2 利用しない→付問 5 へ
IV 分析結果
1 需要曲線と均衡保育料
まず最初に,新保育所の WTP を高い順に並べて需要曲線を描いたものが図 2 である。現在の認可保育所入所者とそれ以外に分けて描いているが,やはり,図 1 で予想したとおり,認可保育所入所者が,非入所者(認可保育所入所者以外の全ての人々で,就業者も非就業者も含む)の人々に比べてとりわけ WTP が高いということではなく,現在の割当方式に非効率が発生している状況が分かる。認可保育所入所者の中には,WTP の低い人々が含まれている一方,逆に,非入所者にはかなり高いWTP の人々がおり, 非効率である。ちなみに,認可保育所プレミアムと現在の保育料支払額から認可保育所WTP を求め,高い順に並べたものが図中の細線である。認可保育所 WTP でみたとしても認可保育所入所者に WTPが低い人々が多く含まれているという結果にはほとんど違いは無い12)。また,非入所者における潜在的需要も非常に多いことがここからも改めて確認できる。
次に,需給を均衡させ,均衡価格(均衡保育料)を求めることにする。年齢別に需要も異なり,また運営費用も異なることから,年齢別の均衡保育料を求めた。供給量は,現在の年齢別・認可保育所入所者数で固定しており,ここでの均衡
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保育制度への市場原理導入の効果に関する厚生分析 49
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図 2 保育所への WTP の状況
表 2 年齢別の均衡保育料と保育所運営費用
万円(月額)
均衡保育料 | 運営費用 | ||
認可保育所 | 新保育所 | ||
0 歳児 | 7. 0 | 28. 5 | 18. 3 |
1 歳児 | 4. 5 | 16. 9 | 10. 6 |
2 歳児 | 4. 5 | 16. 9 | 10. 6 |
3 歳児 | 4. 5 | 8. 2 | 4. 9 |
4 歳児 | 3. 5 | 6. 9 | 4. 1 |
5 歳児 | 3. 5 | 6. 9 | 4. 1 |
6 歳児 | 3. 5 | 6. 9 | 4. 1 |
注) 新保育所の運営費用は認証保育所と同じとした。認証保育所の運営費用は内閣府(2003),認可保育所の運営費用は福田(2000)から引用した。認可保育所は公立と私立の単純平均を用いている。
保育料は供給制約下の図 1 の E 点に当たるものである13)。年齢別の需給の状況は図 3 のとおりで
あり,均衡保育料は表 2 にまとめられている。0
歳児の 7. 0 万円から 6 歳児の 3. 5 万円まで年齢が高まるほど低くなっていくことがわかる。また,図 3 からは低年齢児に幅広い需要が存在していることや,それに対して供給量はむしろ低年齢児で少ないという状況がうかがえる。
2 余剰分析
この均衡保育料および需要曲線をもとに,改革前後の余剰分析を行った結果が,表 3 にまとめら
れている。まず,現状の保育制度の状況を示したものが,一番上段(現状)の右側(認可保育所)である(現状のケース)。(a)現状の WTP は認可保育所 WTP を用いて,サンプル内の認可保育所入所者分を合計し,それを現実の認可保育所入所者数(201 万 5, 382 人)分になるように倍率を
乗じて求めた。その結果,WTP 合計は 9, 506 億円である。(d)保育料は,やはりそれぞれのサンプルの実際の保育料支払額に人数倍率をかけて求めたものである(5, 633 億円)。両者を差し引
きすると,(b)消費者余剰はわずかに 3, 873 億円に過ぎないことがわかる。これに対して,(c)運営費用は,表 2 の年齢別費用を元に計算すると
2 兆 5, 934 億円であるから, 保育料を除いた
(e)の公費負担(公的補助金)は 2 兆 302 億円に
もなる。したがって,消費者余剰 3, 873 億円を得
るために,その 5 倍以上もの公費が投入されていることになる。少子化対策や子育支援,両立支援という観点からは,その外部性を考慮すれば,必ずしも消費者余剰を公費負担が上回る必要はないかもしれないが,それにしても,消費者余剰の 5倍以上もの公費が限られた人々だけに投入されている姿は非効率であり,第一,極めて不公平である。
上段左側の新保育所のケース(ベンチマークの
50 季 刊 ・ 社 会 保 障 研 究 Vol. 44 No. 1
図 3 年齢別の需要曲線,供給曲線
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保育制度への市場原理導入の効果に関する厚生分析 51
表 3 改革前後の余剰分析結果
新保育所 | 認可保育所 | ||
現状 | ( a ) 現状の WTP 合計 | 6, 980 | 9, 506 |
( b ) 現状の消費者余剰 | 1, 347 | 3, 873 | |
( c ) 運営費用 | 16, 044 | 25, 934 | |
( d ) 保育料収入 | 5, 633 | 5, 633 | |
( e ) 公費負担(c−d) | 10, 412 | 20, 302 | |
改革後 | ( f ) 均衡後の WTP 合計 | 12, 794 | |
( g ) 均衡後の消費者余剰 | 2, 814 | ||
( h ) 運営費用 | 16, 044 | ||
( i ) 保育料収入 | 9, 980 | ||
( j ) 公費負担(h−i) | 6, 064 | ||
差額 | ( k ) 均衡後の WTP 合計 | 5, 814 | 3, 288 |
( l ) 均衡後の消費者余剰 | 1, 467 | -1, 059 | |
(m) 保育料収入 | 4, 347 | 4, 347 | |
( n ) 公費負担 | -4, 347 | -14, 237 |
億円,年ベース
ケース)は,改革のケースと比較するためのベンチマークとして計算したものであり,保育所の入所者は現在の認可保育所入所者のままとした上で, 認 可 保 育 所 WTP の 代 わ り に 新 保 育 所 WTP,認可保育所運営費の代わりに認証保育所運営費(表 2)を用いて計算している。つまり,現状の認可保育所入所者のみがそのまま改革によって新保育所に入所したケースと考えられよう。この場合,運営費は 1 兆 6, 044 億円と 1 兆円近く
低くなっているものの,消費者余剰は 1, 347 億円
に過ぎず,消費者余剰の約 7. 7 倍もの公費負担
(1 兆 412 億円)が生じるという非効率な状況は変わらない。
この状況は,改革によってどのように改善されるのであろうか。中段の改革後というケースがその結果である。 従来の認可保育所入所者の
68. 1% が入れ替わり,均衡保育料以上の WTP を持つ人々が入所者となるため,WTP は 5, 814 億円も上昇して 1 兆 2, 794 億円となる。また,均衡保育料が現状の保育料よりも高くなるために,保育料収入は 4, 347 億円増加して,9, 980 億円となる。このため,公費負担は 6, 064 億円にまで減少
する。これは,ベンチマークのケースから比べて
4, 347 億円の財政縮減,現状の認可保育所のケー
スに比べてなんと 1 兆 4, 237 億円もの財政縮減が達成されるという結果である。消費者余剰は, 2, 814 億円であり,ベンチマークのケースに比べ
て 1, 467 億円の上昇であり,公費負担との比率も
約 2. 2 倍まで小さくなる。ただし,現状の認可保
育所のケースにおける消費者余剰は 3, 873 億円であったから,それに比べると改革後のケースの方が低くなっている。これはもちろん,公費のおかげで保育料が現状では非常に低く設定されていることが原因である。
さて,ベンチマーク比で 4, 347 億円,現状比で
1 兆 4, 237 億円も公費負担の削減が図られるため,この財政縮減分を財源として用いて,低所得者等の弱者対策や,供給量の増加,あるいは元認可保育所入所者で改革後に割り当てられない者への補償等,いろいろな用途に活用することが考えられる。所得再分配的要素は次節で詳しく論じるので,ここではその財源を全て供給量増加に振り向けた場合にどれほど供給量を増やせるのかを試算する。改革後のケースでは新保育所の運営費が
52 季 刊 ・ 社 会 保 障 研 究
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表 4 財政縮減額を用いた供給量の増加
で,現状の 3 倍近い供給量が追加的な財政負担無
4, 347 億円の ケース | 1 兆 4, 237 億円の ケース | |
現在の保育料負担 | 841, 484 | 2, 755, 868 |
均衡保育料負担* | 914, 543 | 4, 008, 620 |
人 しに供給可能なのである。
3 公平性に関する分析
最後に,市場原理導入による改革の公平性の側面を見てみよう。すでに I‒2 節で議論したよう
注) 均衡保険料負担のケースの場合,供給量が増加すれば均衡価格が下がり,保険料収入が減少するために,公費削減分は 4, 347 億円,1 兆 4, 237 億円から下がることになり,供給量増加に全額を使うことは出来ない。そのため,均衡価格が下がる効果を織り込んだ計算をしている。このときの公費削減分はそれぞれ,2, 752 億円,1 兆 2, 062 億円となっている。
低く,しかも,均衡保育料が高いために,そもそも公費負担として投下されている金額も低い。このため,財源を現状よりも効率的に使うことが出来る。もっとも,供給量を増加させると,図 3 の需要曲線から分かるように均衡保育料自体も下がるから,保育料収入が減少して,財源に充てられる財政縮減分もやや少なくなってしまう。計算ではこの効果も考慮しなければならないため,供給量増加と財源の関数を求めて,両者の関係を考慮した計算を行った。また,比較のために,現状の低い保育料でしか徴収できない場合の供給量増加分も計算することにする。これは,改革によって割当から外れ,保育所が利用できなくなった元認可保育所入所者を補償するために,現状の低い保育料のまま供給量を増やして入所できるようにしたケースと考えることが出来る。この場合,もちろん公費負担の割合は高く,均衡保育料を用いるよりも供給を増加させる効率性が低くなる。計算結果は,表 4 の通りであるが,まず 4, 347 億円の
財源のケースでは,約 84. 1 万人(現状の保育料
負担)から 91. 5 万人(均衡保育料負担14))の供給量増加を図ることが出来ることがわかった。これは,現状の認可保育所入所者数である 201. 5 万人(2007 年度) の 41. 7% から 45. 4% 増にあたる量である。また,1 兆 4, 237 億円の財源を用い
るケースでは,275. 6 万人(現状の保育料負担)
から 400. 9 万人(均衡保育料負担)と大幅な供給増が可能となる。これは,実に現状の供給量の
136. 7% から 198. 9% にあたる。つまり, 最大
に,認可保育所の入所者は低所得層が多いため,市場原理導入の改革による保育料引上げによって,低所得者が排除されることが懸念されている。しかしながら,これもすでに述べたように,認可保育所入所者は,高所得階層も少なからず含まれ 2 局化しているため,彼らに応分の負担を求めることは公平性の観点から望ましい。
まず,現在の実態を確認するために,本稿で用いているデータから所得分布,金融資産分布を確認してみよう。図 4 は世帯所得の度数分布を認可保育所入所者と非入所者で比較したものである。よく言われるように,認可保育所の所得分布は確かに 2 つの山が確認できるが,認可保育所入所者と非入所者を比較すると,意外にも,認可保育所入所者の所得分布の方が高いことがわかる。これは,認可保育所入所者が夫婦共稼ぎが出来ているのに対して,非入所者は,妻が非就業の場合や短時間労働の場合があるためである。子供を保育所に入所させなければ妻の就業はそもそも難しいのであるから,世帯所得を両者で比較することにはやや問題があるかもしれない。そこで,夫のみの所得を両者で比較したものが,図 5 である。これをみると,確かに認可保育所入所者の方が非入所者よりも低所得階層が多く,全体としても所得が低い。しかしながら,同時にそれほど大きな差異が生じているわけでもないことがわかる。一方,金融資産の分布を比較したものが図 6 であるが,これも両者で大きな差異があるわけではない。
さて,公平性の尺度としてよく知られるジニ係数を用いて,現状の保育制度の評価および改革による変化を見てみよう。保育が所得分布に影響を与えるルートとして,すぐに思いつくのは,妻の就業選択や労働所得の多寡ということであろう。しかしながら,保育を利用できるかどうかということと,就業選択や労働時間,労働所得の関係を
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保育制度への市場原理導入の効果に関する厚生分析 53
注) データより筆者計算。
図 4 認可保育所入所者と非入所者の所得分布(世帯所得)
注) データより筆者計算。
図 5 認可保育所入所者と非入所者の所得分布(夫の所得)
定量的に把握することは,これ自体大きなテーマであり,本稿の分析射程を超える。そこで,就業行動の分析は別稿に譲ることにし,下記の分析では妻の就業行動の問題を捨象した分析をすること
にする。つまり,保育が利用できても利用できなくても妻の就業行動は変わらないという仮定で計算を行う。ただし,そうなると,世帯所得のジニ係数をみることは明らかに問題があるため,妻の
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Vol. 44 No. 1
注) データより筆者計算。
図 6 認可保育所入所者と非入所者の金融資産分布
表 5 所得および資産のジニ係数の比較
世帯所得 | 夫の所得 | 金融資産 | |
保育無し | 0. 279 | 0. 277 | 0. 691 |
現状 | 0. 279 | 0. 269 | 0. 674 |
改革 1 * | 0. 277 | 0. 275 | 0. 680 |
改革 2 * | 0. 274 | 0. 270 | 0. 675 |
改革 3 * | 0. 275 | 0. 270 | 0. 672 |
注) 改革 1 は,保育サービス利用者数を現状と同じにして計算したもの。改革 2 は,現在の認可保育所利用者で,改革 1 によって利用が出来なくなる人々のうち,世帯年収 500万円以下の人々を,現在と同じ保育料で利用可能とした供給増のケース。改革 3 は,現在の認可保育所利用者で,改革 1 によって利用が出来なくなる人々全員を,現在と同じ保育料で利用可能とした供給増のケース。
就業行動の影響が少ないと考えられる夫の所得および金融資産のジニ係数を主に見ていくことにする。以下では保育制度が所得や資産に与える効果として,保育における補助金の金額のみを考慮することにする。つまり,保育所運営費の単価と支払っている保育料の差額は,保育所入所者に対する補助金であることから,それを所得や資産に加えてジニ係数を計算する。結果は,表 5 の通りである。まず,「保育無し」とは全くその補助金を考慮しないケースであり,「現状」が補助金を考
慮したケースである。夫の所得で比較しても,金融資産で比較してもジニ係数は低下しており,現状の保育制度には,やはり所得再分配的要素があることが確認できる(夫の所得 0. 277→0. 269,金融資産 0. 691→0. 674)。これに対して,市場原理導入を行って,供給量一定のままで,WTP の高いものに保育所入所者が入れ替わったケースが改革 1 である。既に述べたように,この改革によって従来の認可保育所入所者のうち 68. 1% が非入所者に置き換わる変化が起きるが,その中には低所得者も少なからず含まれているために,やはり予想通り,ジニ係数は高まって不平等化する。すなわち,夫の所得が 0. 275,金融資産が 0. 680 にまで上昇してしまう。しかしながら,前節でみたように,この改革により,公費負担も大幅に削減されるため,低所得者に手厚い,もしくは,もとの認可保育所入所者に補償を行うような措置も,縮減した分の財源で実施可能である。ここでは,
①公費を用いて新保育所の供給増を図り,改革によって入所できなくなった元認可保育所入所者のうち,世帯年収 500 万円までの人々を現在の低い保育料のまま入所させるケース(改革 2),②さらに供給増を図り,改革によって入所できなくな
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保育制度への市場原理導入の効果に関する厚生分析 55
表 6 供給増による人数とそれにかかる公費負担
(公的補助金)額
改革 2 | 改革 3 | |
供給増の人数(人) | 687, 721 | 1, 372, 030 |
公費負担(億円) | 4, 282 | 7, 833 |
注) 改革 2,改革 3 の内容は表 5 の注を参照。
った元認可保育所入所者「全員」を,現在の低い保育料のまま入所させるケース(改革 3)の 2 つのケースを試算した。まず,表 6 にある通り,年
収 500 万以下の改革 2 の場合には,供給増が必要
な人数は 68 万 7, 721 人であり,4, 282 億円の公
費負担が必要である。また,全員の改革 3 の場合
には,137 万 2, 030 人の供給増に対して,7, 833億円の公費負担が必要となる。いずれも,改革による財政縮減額である 1 兆 4, 237 億円を遥かに下回る水準であり,十分に対応が可能であると共に,残りの財政縮減額を用いてさらに供給増をする余地がある。このときのジニ係数は,現状とほぼ同じ水準まで下がることになる(夫の所得は改革 2, 改革 3 とも 0. 270, 金融資産はそれぞれ
0. 675,0. 672)。すなわち,再分配を考慮することにより,市場原理導入を行っても格差は拡大しない。
V 結語
本稿は,わが国の保育制度への市場原理導入の効果について厚生分析を行った。具体的には,供給量規制および価格規制と割当によって特徴付けられる現行の保育制度の非効率性を計測した上で,規制改革会議が主張している①直接契約・直接補助方式の導入,②「保育に欠ける」要件の見直しの効果を,余剰分析および公平性の分析を行って,定量的に評価した。その結果,得られた主な結論は以下の通りである。
① 現状の認可保育所には,必ずしも保育需要の大きい人々(WTP が高い人々)が割り当てられていないという意味で大きな非効率が発生している。このため,消費者余剰は,投
入されている公費負担のわずか 1/5 程度に過ぎず,費用対効果の面から問題である。
② 規制改革会議の主張する市場原理導入による改革を行うことにより,保育料収入は 4 千億円強の増収となり,保育所間の競争によって運営費の効率化が図られるため,公費負担は最大で 1 兆 4 千億円余りの削減が可能である。
③ この財政縮減分を,直接補助(保育所運営費と保育料の差額を利用者に補助)の財源に用いることにより,保育所の供給量(入所児童数)を最大で 400 万人程度増加させることが出来る。これは,現在の認可保育所入所者数の約 3 倍の供給量を意味しており,現在の待機児童問題はもちろん,逃げ水的に発生する潜在的待機児童の問題も,追加財源無しで全て解決することができる。
④ 改革により現在の保育所入所者の中には,新たな保育料の下で利用できない(利用しない)人々が発生することになる。例えば,これらの人々を補償する意味で,現在と同じ低い保育料で保育所に全員入所できるように供給量を増加させても,その分にかかる公費負担は 8 千億円程度であり,改革による財政縮減分で十分に対応可能である。また,このとき,ジニ係数で計測される保育制度の再分配効果は,現状の保育制度の下の状況とほぼ変わらない水準であり,適切な再分配を考慮することによって市場原理導入の下でも格差が拡大しないようにすることが出来る。
ここで最も重要な結果は,市場原理の導入によって大幅な財政縮減が図られるということである。この理由は,保育料収入が増加することに加え,保育所の運営費が下がることの効果が大きい。市場原理を導入することのもう一つの意義は,現状の制度下では高コスト構造をなかなか是正できない認可保育所,特に公立保育所が,認証保育所等の民間の保育所との競争にさらされるために,運営費の効率化を図らざるをえなくなるということである。つまり,高コスト構造を変えら
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れない場合には,価格競争に負けて市場から淘汰される。しかし,このことは必ずしも認可保育所の質が下がることを意味しない。現在の認可保育所の質が認証保育所等よりも高いのであれば,その分は「認可保育所プレミアム」として利用者が価値を評価しているのであるから,保育料をその分高く設定して質を保つ原資とできるからである。市場の価格競争はあくまで質対比の価格競争であるから,「安かろう悪かろう」ということで最低基準に全ての保育所が張り付くということにはならない15)。しかも,この質の高さを反映した運営費の上昇は,保育料収入としてまかなわれるので,公費負担を上昇させない。
さて,つい先ごろ,政府は「新待機児童ゼロ作戦」として,10 年後に保育所入所者を 100 万人増加させるという目標を発表したところである。この保育サービスの拡充に年間 8 千億円程度の財源が必要とされているが,その財源の手当については全く見通しが立っていない。保育に対する財源については,八代〔2007〕や八代・鈴木・白石
〔2006〕が主張する育児保険もしくは家族保険というアイディアもあるし,消費税率の引き上げも有力な候補とみられているが,高齢化の急速な進展でますます社会保障支出が増える中,追加財源の確保は今後も困難な状況が続くであろう。しかしながら,本稿が分析したように,規制改革会議が主張する保育への市場原理導入は,追加財源を全く確保することなく,供給を大幅に増加できるアイディアなのである。これこそ,まさに規制緩和の利益,醍醐味である。したがって,厚生労働省の財源確保先行主義(財源が確保されなければ,直接契約・直接補助導入も保育に欠ける要件の見直しも議論・検討すらできない)は全く的外れな主張であり,直ちに改革の議論・検討を進めるべきである。既に周知のように,わが国の少子化の状況は深刻な事態となっており,対策は一刻を争う。厚生労働省が「長期的に検討」として不作為のまま改革を放置している間に,事態は益々悪化していき,将来に取り返しの付かないほどの大きなツケを残す。新待機児童ゼロ作戦が定めている 10 年後という目標期間もあまりに悠長であ
る。直ちに,市場原理導入による改革を実行すべきである。
謝辞
筆者は現在,規制改革会議の専門委員(福祉・保育・介護TF)を務めているが,本稿に述べた意見はあくまで個人的なものであり,規制改革会議を代表するものではない。ただし, 本稿の着想は,白石真澄教授(関西大学)を初めとする同会議福祉・保育・介護TF のメンバーとの議論や,八代尚宏教授(国際基督教大学)との共同研究や議論に多くを負っている。深く感謝を申し上げたい。本稿の分析は, 文部科学省科学研究費補助金・特別推進研究「世代間問題の経済分析」(研究代表者:高山憲之),同基盤 B 研究「婚姻の行動モデル解明と少子化対策としての婚姻推進政策のあり方に関する実証的研究」(研究代表者:八代尚宏)の助成を受けている。
注
1)論文中の潜在的待機率をもとに,筆者が計算した。
2)八代〔2000〕が最初に指摘したように,まさにこの潜在的待機児童が存在することこそが,供給増にもかかわらず,それが需要を顕在化させ,逃げ水的に待機児童がなかなか解消しない理由となっている。
3)以下,八代〔2007〕,八代・鈴木・白石〔2006〕による問題点の整理も参考にされたい。
4)児童福祉法施行令第 27 条では,保育に欠ける要件として,①昼間の就労を常態としていること,②妊娠中または出産後間もないこと,③病気・ケガ,または心身の障害があること,④同居の親族を介護していること,⑤災害の復旧にあたっていることなどを定めており,児童福祉法第 24 条によって,保育所は,こうした「保育に欠ける児童」について,保護者に代わって保育する児童福祉施設と位置づけられている。
5)筆者等が調査を行なった内閣府〔2003〕では,認可保育所入所者の運営費に対する保育料のカバー率( 負担率) は 25. 7% に過ぎず,3/4程度の費用が公費負担分として,認可保育所入所者に補助されている。
6)一方,質の劣悪なベビーホテルなどに対しては,補助金がないために規制が難しく,事実上,監視の目が十分に行き届かないという問題がある。
7)実際には,金銭ではなくバウチャー,利用クーポンのような保育にしか利用できないもので補助するべきである。これは,金銭で補助
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保育制度への市場原理導入の効果に関する厚生分析 57
金を支払った場合,親によっては保育に利用せずに他の物品やサービスに消費をしてしまう可能性があるからである。
8)規制改革会議は,直接契約・直接補助方式や保育に欠ける要件見直しによって問題が生じるかどうかのエビデンスを検証するために,このような制度を既に採っている認定こども園及び東京都の認証保育所の両方のデータを用いて検証するように要求している。しかしながら,厚生労働省は認定こども園のみのデータによる検証に固執している。しかしながら,認定こども園は,制度自体が始まったところであり,具体的な検証が行えるまでには相当の時間がかかることになる。加えて,厚生労働省は,具体的な検証が行う時期や,検証を行うに足るとする園数も一切示しておらず,このままでは今後も長い間「長期的に検討」として具体的な改革が進まない可能性がある。直接契約・直接補助方式を「長期的に検討」とする答申の記述は,既に 2001 年から 6 年間も続いている。
9)インターネット調査会社は,(株)エルゴブレインズであり,登録する膨大なモニターサンプルの中から,該当する属性のモニターを,都道府県人口を考慮した割付をして抽出した。インターネット・アンケートは,ランダムサンプリングの観点からは当然ながら問題はあるものの(本多・本川〔2005〕),就学前児童を持つ親の年代ではインターネット普及率が 90%以上となっており(総務省「通信利用動向調査(平成 17 年度調査)」),この年代の調査に限ってはかなりの代表性があると考えられる。
10)仮想市場法については,例えば栗山〔1997〕,寺脇〔2002〕を参照されたい。保育の分野では,周・大石〔2003〕によってはじめて導入され,潜在的待機児童数の推計が行われた。
11)例えば,3 万円の提示を拒否し,2 万円の提示を受諾する場合には WTP は 2. 5 万円として計算した。上限,下限は提示した金額そのものを用いている。この場合,需要曲線を推計してはいないが,就業者・非就業者のサンプル比率を揃えているために,WTP を高い順に並べることにより,需要曲線となる。中間値を用いることにはもちろん誤差が伴うが,一方で,推計によって特定の分布を当てはめるよりも実態にあった分布になっており,一長一短といえる。
12)認可保育所入所者は,すでに認可保育所に入所しているのだから,新保育所への WTP は少なくなるとの批判があることを想定し,認可保育所 WTP も描くことにした。ただし,この
質問文では認可保育所に入所し続けることが出来ないと明記しているし,実際,新保育所 WTP を 0 としたサンプルは 8. 0%に過ぎないのでこうした懸念は無用であると思われる。実際,認可保育所 WTP でみても,非常に低い人々が割り当てられており,現行の保育制度の非効率性は明らかである。
13)この年齢別の供給量は,現実の割合とほぼ等しいものとなっている。すなわち,厚生労働省「保育所の状況(平成 19 年 4 月 1 日)等について」によれば,認可保育所入所者の年齢別の割合は,0 歳児 4. 2%,1-2 歳児 28. 3%, 3 歳以上児 67. 5%となっているが,本稿のサンプルでは,0 歳児 4. 2%,1-2 歳児 26. 6%, 3 歳以上児 69. 2%である。本稿のサンプルは全体の年齢別構成が低年齢児にやや偏ったものとなっているが(表 1),厚生分析の際には,年齢別に均衡保育料を求め,供給制約のところで現実の年齢構成に近づけており,そのバイアスが調整されるようになっている。
14)均衡保育料負担のケースでは,実際には,供給量が増加すると均衡保育料が下がるため, 4, 347 億円の財源をそのまま充当することはで
きず,2, 752 億円となる。また,1 兆 4, 237 億
円の財源も,結局,1 兆 2, 062 億円となる。 15)また,認証を含め全ての認可外保育所に,直
接補助として公費が使われるため,それを理由に最低基準を満たすよう全ての保育所に規制の網を広げることができる。すなわち,本稿が想定した認証レベルの最低基準を満たさない保育所は,開設を認めないようにむしろ規制強化を図るべきである。しかしながら,調理施設や 3. 3m2 のほふく室の面積基準など,必要性の乏しい規制は緩和して,あくまで法律で規制するレベルは文字通り「最低基準」として,必要最低限のものにする必要がある。
参 考 文 献
規制改革会議(2007a)「第 6 回 福祉・保育・介護
TF(平成 19 年 11 月 5 日)議事概要」。
(http://www8.cao.go.jp/kisei-kaikaku/minutes/ wg/2007/1105/summary1105.pdf)
(2007b)「第 6 回 福祉・保育・介護 TF(平成 19 年 11 月 5 日)厚生労働省・文部科学省提出資料」。
(http://www8.cao.go.jp/kisei-kaikaku/minutes/ wg/2007/1105_05/item_07110505_02.pdf)
(2007c)「第 9 回 福祉・保育・介護
TF(平成 19 年 11 月 30 日)議事概要」。
(http://www8.cao.go.jp/kisei-kaikaku/minutes/ wg/2007/1130_02/summary113002.pdf)
(2007d)「第 9 回 福祉・保育・介護
58 季 刊 ・ 社 会 保 障 研 究
Vol. 44 No. 1
TF(平成 19 年 11 月 30 日)厚生労働省提出資料」。
(http://www8.cao.go.jp/kisei-kaikaku/minutes/ wg/2007/1130_02/item_07113002_02.pdf)
(2007e)「規制改革推進のための第 2
次答申(平成 19 年 12 月 25 日)」。
( h t t p : / / w w w 8 . c a o . g o . j p / k i s e i - k a i k a k u / publication/2007/1225/item071225_02.pdf)
(2008)「制改革推進のための 3 か年計画(改定)(平成 20 年 3 月 25 日閣議決定)」。
( h t t p : / / w w w 8 . c a o . g o . j p / k i s e i - k a i k a k u / publication/2008/0325/item080325_02-02.pdf)
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119.
(すずき・わたる 学習院大学准教授)
Summer ’08 教育サービスの「準市場」化の意義と課題――英国での経験と日本へのインプリケーション――
59
教育サービスの「準市場」化の意義と課題
――英国での経験と日本へのインプリケーション――
小 塩 隆 士田 中 康 秀
I はじめに
教育サービスに市場原理を導入して教育成果を向上させるという発想は,日本でも次第に有力になりつつある。全般的な学力低下を背景として,これまでの公教育に対する信頼度が揺らぐ一方,規制改革の一環として学校選択や教育バウチャー制度の導入などを主張する声も強まってきた。もちろん,教育サービスには通常の財やサービスの取引とは異なる面が少なからずあり,市場原理の導入に際しても政策的に考慮すべき点が多い。そのため,教育サービスへの市場原理導入には一定の制約をかける必要があり,その意味でこのプロセスは一般的に「準市場」(quasi‒market)化と呼ばれる。
本稿では,まず,II において教育サービス分野における「準市場」導入の意義を整理する。次に,III では「準市場」化を教育政策の明示的な方針としてきた英国の経験に注目し,制度改革の効果を実際のデータに基づいて検討する。IV では,日本の教育分野における「準市場」導入をめぐる議論や最近の実証分析を概観した上で,解決すべき問題点を英国での経験を参考にしつつ指摘する。最後に,V では全体の議論をまとめる1)。
II 教育サービスにおける「準市場」
1 教育サービスにおける「準市場」の意義
教育サービスにおける「準市場」の導入をとり
わけ明確に打ち出したのは,後述するように,英国 の「 教 育 改 革 法(Education Reform Act) 1988」である。様々な政策分野において民営化など市場原理の導入を進める,いわゆる「サッチャーリズム」の動きは,1980 年代になると教育分野にも及ぶことになった。同法は,教育行政をそれまで独占的に行ってきた地方教育当局(Local Education Authorities;LEA)から各学校の経営母体に学校運営の権限を移譲するとともに,国全体の統一的な教育カリキュラムの実施を目指すものとして策定されている。
Le Grand〔1991〕 や Glennerster〔1991〕 は,このような教育サービスにおける「準市場」化の動きを次のように特徴づけている。まず,通常の意味での市場化との共通点としては,国家や地方政府がそれまで独占的に供給してきた教育サービスを,消費者(親や生徒)に対して互いに競争する主体(学校)に供給させることによって,競争的な市場メカニズムが働くという点が挙げられる。これに対して,通常の市場メカニズムと異なる点として次の 3 点が指摘されている。第 1 に,教育サービスの供給主体(学校)は通常の市場における企業とは異なり,利潤の最大化を目的とせず,私的な所有も前提としない。第 2 に,新たな供給主体による自由参入はなく,また,既存の供給主体も自由に退出できない。そして,第 3 に,消費者(親や生徒)による教育サービスに対する購買は,貨幣を用いて行われるのではなく,指定された予算による一種の「バウチャー」形式をとる2)。
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これらの特徴は通常の市場のそれとは明らかに異なり,「準市場」化には単純な市場原理の導入というイメージでは十分に捉えきれない要素が存在する。さらに,市場原理の導入といっても,政府による関与が維持されている点は改めて認識しておく必要がある。教育は,その便益が教育を受ける本人だけでなく広く社会に波及するという,経済外部効果を発揮するサービスの典型であり,その供給を私的な意思決定に委ねると社会的に最適な水準が確保できない。したがって,政府による財政的な支援が必要になる。教育サービスにおける「準市場」化は,あくまでも政府による関与を前提とした上で,供給面で競争的な市場原理を促し,教育の効率化を図る仕組みである。
2 「準市場」化の制度的枠組み:英国「教育改革法 1988」の例
英国の「教育改革法(Education Reform Act) 1988」は,こうした教育サービスにおける「準市場」化の制度的な枠組みを定めたものであり,その枠組みは次の 4 点にまとめられる( 田中
〔2004a〕2 節)。
第 1 は,義務教育年齢の生徒に対する統一的なカリキュラムの設定である。これは,教育内容やレベルの全国的な統一を目指すものだが,生徒の達成度を全国で統一的にチェックするために,義務教育期間内に 4 つのキーステージ(7 歳,11歳,14 歳,16 歳)を設定し,それぞれのステージにおいて全国統一テストを実施して「学校成果表」(School Performance Tables)という形で結果を公表する。
第 2 に,親による学校の選択権を追認するとともに,各学校の入学許可件数を政府(教育雇用省大臣)が設定する「標準数」以下に抑えることを禁止し,「標準数」を変更する場合は大臣の許可が必要となることを規定する。
第 3 に,全教育予算の約 75% を占める予算の配分に際して,各学校に現実に入学した子供数とその年齢を反映させる。また,教育予算の運営責任を LEA から各学校の経営母体に移譲する。
第 4 に,LEA 管轄下にある学校に対して,そ
の管轄から離れて中央政府から直接学校の運営経費を受け取れる制度に移行する権利を各学校に与え,学校運営に関する LEA の権限縮小を目指す。
要するに,英国政府は全国統一テストの成績という形で各学校の教育パフォーマンスを比較可能な形で公表し,親に学校を選択させて,入学する子供数に応じて予算を配分するという仕組みを設定したことになる。生徒数に応じた教育予算配分の仕組みは,英国だけでなく,オランダやスウェーデン,米国の一部の州でも進められてきた。
3 教育サービスの経済学的特性
教育サービスにおける「準市場」導入の効果に関する評価は,基本的に実証分析に委ねざるを得ないテーマである。次節では,効率性と公平性という 2 つの観点から英国における導入効果を具体的に検討するが,その前に,効果の方向性の予測を難しくする要因として,教育サービスに備わっている次の 3 つの経済学的特性に注目しておこう。
第 1 は,教育需要が階層性を帯びやすい点である。日本におけるこれまでの実証分析(例えば,荒井〔1990〕,樋口〔1992〕,松浦・滋野〔1996〕など)でも明らかにされているように,教育需要は親の学歴や所得,社会的地位など親の属性に大きく左右される。学歴や所得水準,社会的地位が高く,子供に高い学歴を期待する親ほど学校選択には敏感になるだろうし,また,そうした親の行動を反映して教育需要は階層性を帯びることになる。教育熱心な親に育てられた子供とそうでない子供とでは,通学する学校が異なるという展開も十分に考えられる。そのため,「準市場」導入に際 し て は, 消 費 者( 親 や 子 供 ) の 分 断 化
(segregation)や選別化(sorting)が進むかどうかが重要な注目点となる。
第 2 に,Rothschild and White〔1995〕 が指摘するように,教育というサービスは消費者自らがその生産に参加するという特殊な特徴を持っている。教育は,教育の供給主体(学校)が一方的に消費者(親や子供)に供給して完結するのではなく,消費者がどのように関与するかでその成果が
Summer ’08
教育サービスの「準市場」化の意義と課題――英国での経験と日本へのインプリケーション―― 61
かなり違ってくる。例えば,教育需要そのものに上述のような階層性が生じれば,教育の成果にも階層性が生まれるだろう。さらに,Epple and Romano〔1998〕が指摘するように,教育には,それを同時に受ける子供たちが影響を与え合うというピア効果が発揮されるため,どのような子供と一緒に教育を受けるかで教育の成果も異なってくる。このように,消費者の行動や相互関係が教育というサービスの生産に無視できない影響を及ぼす場合,教育に市場メカニズムを導入しても,供給主体間で競争が高まって消費者がそのメリットを受けるという単純な構造を想定するのは誤りである。
第 3 は,教育には「規模の経済」が伴うという点である。一人当たり教育コストは,通学する子供数が増えるほど基本的に低下する。そこで単純に児童生徒数に比例して予算を配分すれば,大規模校に通う子供ほど優遇されることになる。もちろん,入学者が減少し予算を削減されたのは,学校の創意工夫が足りなかったなど学校側に責任が求められるはずだが,予算の単純な比例配分は少人数校に通学する子供に一方的に不利に働く。
もちろん,こうした教育サービスの経済学的特性が,「準市場」化の成果にどのような形で,またどの程度影響するかは先見的に明らかでない。しかし,「準市場」化の成果がすべての消費者に一様に波及するのではないことは明らかである。したがって,「準市場」化の効果は,全体的な効率性の向上だけでなく,学力格差の拡大など公平性の観点からも評価する必要性がどうしても出てくる。
III 英国における教育の「準市場」化の効果
1 効率性からの評価
本節では,英国を例にとって教育サービスにおける「準市場」化の効果を効率性・公平性の両面から評価することにしよう。最初に効率性の観点から検討する。効率性の観点から評価する場合,費用面の議論をとりあえず別とすれば,「準市場」導入によって子供たちの学力がどの程度向上
したかが最大の注目点となる3)。この点でいえば,英国は初等・中等教育の各キーステージにおいて全国統一テストを実施し,その結果を公表しているために,教育成果の経年変化を客観的に把握できるようになっている。これは,政策評価という観点から見て高く評価されるべき仕組みである。以下では,田中〔2004a〕の分析をベースに新たなデータを加味して,2 つのデータから教育成果の変化を概観することにしよう。分析対象期間は,「教育改革法 1988」による教育の「準市場」化が本格化した 1990 年代中頃以降とする。
第 1 の注目点は,キーステージ 2(11 歳)およびキーステージ 3(14 歳)のそれぞれの段階において,英語・数学・理科の各教科の試験で期待される水準――キーステージ 2 では 6 段階で 4 段階
以上,キーステージ 3 では 8 段階で 5 段階以上―
―をクリアした生徒の全体に占める割合の変化である4)。それを具体的に示したのが図 1 だが,この図から明らかなように,期待される水準をクリアした生徒の割合は 1995 年から 2007 年にかけて大幅に上昇している(例えば,数学の場合,キーステージ 2 では 45% から 77% へ,キーステージ 3 では 58% から 76% へ)。
第 2 の注目点は, 中等教育終了資格である GCSE( General Cer t i f icate of Secondar y Education) お よ び 職 業 資 格 で あ る GNVQ
(General National Vocational Qualification) に おける成績上位者(A*,A から G までの 8 段階のうち上位の A* から C までを 5 科目以上獲得した生徒) の割合の変化を調べる。それを全公立
(All maintained schools)および全学校について男女別および全体で見たものが図 2 である。これから分かるように,1996/97 年から 2005/06 年にかけて成績上位者の割合はどの分類でも 8‒9% ポイント上昇している。
このように,「教育改革法 1988」施行後の「準市場」化は教育成果を有意に高めており,その意味で,教育の効率性は大きく改善したと評価できる。さらに,効率性向上をより精緻に分析した実証研究として,次の 2 つのタイプの分析がある。第 1 は,Bradley et al.〔2000〕や Bradley and Taylor
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出所) UK Department for Education and Employment, Statistical Bulletin, 各号より作成。
図 1 各段階において期待される水準をクリアした生徒の割合
出所) UK Department for Education and Employment, Statistical Bulletin, 各号より作成。
図 2 GCSE/GNVQ において A*-C レベルを 5 科以上達成した生徒の割合
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教育サービスの「準市場」化の意義と課題――英国での経験と日本へのインプリケーション―― 63
〔2002〕のように,いわゆる教育の生産関数を推計することである。彼らは各学校の生徒の学力が,競争相手となる他校の生徒の学力が高いほど高まることを明らかにしている。 さらに, Bradley and Taylor〔2002〕は,その影響が大都市圏以外よりも大都市圏で大きいことも確認し,学校間の競争が各学校のパフォーマンス向上に寄与したことを報告している。ただし,こうした分析では教育にかかった費用の評価が行われていない点に注意が必要である。
第 2 は,Bradley, Johnes and Millington〔2001〕のように,データ包絡分析法(Data Envelopment Analysis)によって技術面の効率性を評価することである。この方法は,教育に複数の生産物があると考える場合に有益である。彼らは,試験の点数と,無断欠席率の逆数を教育の 2 つの生産物として捉え,効率性の時系列的な変化を説明する回帰式を推計している。その結果,①技術面の生産性の変化に学校間の競争の度合いが有意な影響を及ぼすこと,②分析対象期間の前に生産性が低かった学校のほうが,生産性が元々高い学校より生産性を改善していること,が明らかになっている。この結果も,「準市場」化による競争状態の高まりが効率性向上に寄与したことを示す材料といえよう。
ただし,試験の点数をそのままの形で教育成果として評価することには,技術的な問題がある。例えば,その教育を受ける前の教育成果(prior attainment)を考慮しなければ,教育成果の評価が不正確になることに注意すべきである(Meyer
〔1997〕参照)。例えば,その教育を受ける前にすでに高い学力があれば,教育の質が高くなくても最終的な試験の点数が高くなる傾向がある。そのため,英国政府は上述の「学校成果表」の公表に際しても,各キーステージ間における教育成果の変化分を,若干の統計的処理を行った上で「付加価値」(value added) として捉えて公表している。ただし,Taylor and Nguyen〔2006〕が指摘するように,この付加価値も,生徒の家庭・社会環境など学校が制御できない要因によって左右されるため,それに基づいて教育成果を評価するこ
とには慎重でなければならない。
2 公平性からの評価
一方,英国における教育サービスの「準市場」化の効果を公平性の観点から見るとどう評価できる だ ろ う か。 こ の 点 に つ い て,Glennerster
〔1991〕は,教育サービスの「準市場」化に伴う効果として,「効率性競争」(‘E’競争 efficiency competition)とともに,「選抜競争」(‘S’競争 selectivity competition)があることを指摘している。前者は上述のように生徒数や予算の獲得のために効率性を高める競争を意味するが,後者は,学校の平均的な教育成果を高めることが期待できる優秀な学生だけを選抜して入学させようとする競争である。その結果,クリーム・スキミングが生じて(全体としての教育成果は高まっても)学校間格差が拡大するかもしれない。学校間格差の拡大は,公平性の観点から看過できない結果であり,教育分野における市場メカニズム導入に対する反論材料としてしばしば指摘される点でもある。以下では,この問題を検討した 2 のタイプの分析を紹介する。
第 1 のタイプは,各学校における前述の GCSEにおける成績上位者(A* から C までを 5 科目以上獲得した者)の割合の不平等度の変化を直接測定する分析である。以下では,この方法を実際に適用した田中〔2004b〕の結果を紹介する5)。不平等度の測定法としては,しばしば用いられる変動係数とジニ係数のほかに,Rumberger and Willms
〔1992〕が用いた「非類似性指標(dissimilarity index)」を計算する。t 時点における非類似性指標 Dt は,
として定義される。ここで,NSit は t 時点における第 i 学校の生徒数,pit は t 時点の第 i 学校における成績上位者割合,NSt は t 時点における全生徒数,¯pt は成績上位者割合の全学校単純平均値, n は学校数であり,学校間格差が大きいほどこの
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表 1 各不平等度測定法による変化の推移
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非類似性指標 | 変動係数 | ジニ係数 | 標本学校数 | |||||
非選抜学校 | 全学校 | 非選抜学校 | 全学校 | 非選抜学校 | 全学校 | 非選抜学校 | 全学校 | |
1992 | 0. 273 | 0. 312 | 0. 472 | 0. 555 | 0. 207 | 0. 258 | 3022 | 3186 |
1993 | 0. 269 | 0. 309 | 0. 451 | 0. 526 | 0. 199 | 0. 248 | 2980 | 3142 |
1994 | 0. 270 | 0. 311 | 0. 437 | 0. 506 | 0. 189 | 0. 234 | 2973 | 3134 |
1995 | 0. 270 | 0. 311 | 0. 434 | 0. 499 | 0. 190 | 0. 233 | 2963 | 3123 |
1996 | 0. 265 | 0. 307 | 0. 417 | 0. 479 | 0. 176 | 0. 219 | 2940 | 3100 |
1997 | 0. 267 | 0. 309 | 0. 417 | 0. 476 | 0. 173 | 0. 214 | 2951 | 3110 |
1998 | 0. 269 | 0. 312 | 0. 413 | 0. 467 | 0. 169 | 0. 209 | 2938 | 3097 |
1999 | 0. 271 | 0. 313 | 0. 403 | 0. 450 | 0. 167 | 0. 203 | 2919 | 3078 |
2000 | 0. 271 | 0. 314 | 0. 392 | 0. 437 | 0. 163 | 0. 198 | 2891 | 3050 |
2001 | 0. 269 | 0. 312 | 0. 378 | 0. 422 | 0. 158 | 0. 192 | 2863 | 3022 |
2002 | 0. 261 | 0. 306 | 0. 360 | 0. 400 | 0. 151 | 0. 184 | 2835 | 2994 |
2003 | 0. 262 | 0. 305 | 0. 345 | 0. 381 | 0. 145 | 0. 176 | 2814 | 2973 |
出所) 田中〔2004b〕。
指標は大きな値をとる。
表 1 は,入学者を選抜しない学校(非選抜学校)とすべての学校について,非類似性指標,変動係数,ジニ係数の変化を 1992 年から 2003 年にかけて調べたものである。この表からも分かるように,非類似性指標こそ明確な低下傾向を示していないものの,残りの変動係数とジニ係数は顕著な低下傾向を示しており,総じて見ると学校間格差は縮小傾向にあると評価できる。
第 2 のタイプとして,各学校において学校給食が無償となる資格を得た生徒の割合が,「準市場」化が進んだ 1993‒1999 年にどのように変化したかを調べるという,Bradley and Taylor〔2002〕の分析がある。学校給食が無償になるためには資力審査が必要となり,無償資格を得た生徒は家庭が低所得層であることを意味する。彼らの分析によると,①同期間において成績が上昇した学校ほど無償資格者の割合が低下し,②同期間において同一地域のほかの学校の成績が上昇した学校ほど無償資格者の割合が上昇している。しかも,②の効果は学校間の競争状態が弱い非大都市圏では有意でないが,大都市圏では有意となっている。これらの結果は,学校間の競争激化の中で生徒の階層化が学校間で進んでいることを示唆するものである。もちろん,学校が意図的に低所得層を排除しているわけではなく,教育成果に注目して学校
を選択する層と,そうでない層との間で分断化が結果的に進んでいるということだろう。
第 1 の分析と第 2 の分析とでは,結果のニュアンスがかなり異なる。もっとも,後者の Bradley and Taylor も,公平性の観点から見た望ましくない効果の規模は比較的小さいとして,「準市場」化はこれまでのところ総じて望ましい効果を上げていると評価している。また,学校間格差の拡大が,学校間の「選抜競争」(‘S’競争)あるいは親による学校選択によって,そもそも存在した子供間の格差が別の形で示されたものに過ぎないのであれば,問題は過度に深刻に受け止めるべきではない。しかし,学校間格差がピア効果などを通じて子供間の格差につながったり,学校間格差を反映した予算配分が低所得層より高所得層に有利になったりしている可能性も否定できず,公平性の観点からのさらなる検討が必要であろう。
IV 日本の教育における「準市場」導入の可能性
1 これまでの議論
これまで紹介してきた教育サービスにおける
「準市場」化の動きは,「準市場」という用語こそ明示的に用いられていないものの,学校選択制やバウチャー制度の導入という形で英国以外でも幾つかの国々で進められてきた。これらの効果につ
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いては,英国だけでなく米国等でも理論・実証両面からの研究が進んでいる。しかし,その効果をめぐっては研究者の間でも議論が分かれており,制度改革が全体としてプラスの効果をもたらすことが保証されているわけではない6)。
一方,日本でも義務教育の学校選択制が全国各地において徐々に広がっており,「準市場」化はすでに進行しつつある。内閣府が 2006 年 11 月に公表した「学校選択制等の実施状況に関するアンケート」によると,全国の市区教育委員会に学校選択制の導入状況を尋ねたところ( 回収率
84. 5%),小学校で「導入している」という回答が全体の 14. 9%,「導入していないが,導入を検討中である」という回答が 18. 0% あった。一方,中学校では「導入している」が 15. 6%,「導入していないが, 導入を検討中である」 が
18. 1% となっている。
学校選択制導入の動きは,2000 年度に一部自治体が小学校を対象に行ったのを皮切りにしているが,政府内でも学校選択制を部分的に認める方向がそれまでに打ち出されていた。また,2000年 9 月に教育改革国民会議が発表した「中間報告」でも「通学区域の弾力化を含め,学校選択制の幅を広げる」ことが主張されている。こうした学校選択制の背景には,進学実績面における公立校の相対的地位の低下や,公教育の質に対する消費者の不満の高まりがあったものと考えられる。政府も 2001 年以降,学校選択制は積極的に推 進するものと位置づけてきた。2005 年 6 月に閣議決定された「骨太の方針 2005」では「学校選択制について,地域の実情に応じた導入を促進し,全国的な普及を図る」としたほか,規制改革・民間開放推進会議も,同年 12 月に発表した
「第 2 次答申」の中で,「児童生徒・保護者が多様な選択肢の中から質の高い教育を自由に選ぶことができる機会を拡大することを通じて,心身および能力等の発達に応じて真に必要な教育サービスを享受できる環境を整えるとともに,学校の質の向上を促す必要がある」として学校選択制の必要性を強調している。
一方,義務教育段階におけるバウチャー制度の
導入についても,規制改革・民間開放推進会議が 2004 年 11 月に出した「文部科学省の義務教育改革に関する緊急提言」の中で同制度導入の検討を初めて求めている。さらに,同会議の「第 2 次答申」も同様の要請を行い,文部科学省もそれに対応して「教育バウチャー制度に関する研究会」を設置し,検討を進めている。2006 年に設置された教育再生会議では,学校選択制やバウチャー制度についても検討が行われた。規制改革会議でも,これら制度の導入が引き続き重要な検討課題として位置づけられている。
しかし,日本では,学校選択制の歴史がまだ浅く,成果に関する情報公開も十分に進んでいないし,バウチャー制度はそもそも導入されていない。そうした中で,注目すべき調査・研究として次の 3 つが挙げられる。第 1 は,内閣府が実施してきた一連のアンケート調査である。本稿の分析のベースとなる調査の前進である「学校制度に関する保護者アンケート」(2005 年 10 月)をはじめとして,「学校制度に関する保護者アンケート」(2006 年 11 月),市区教育委員会を対象とする「学校選択制等の実施状況に関するアンケート」(同)がある。ここでは,現行の学校制度に対する保護者の満足度のほか,学校選択制の実施状況や評価,バウチャー制度導入への賛否などが尋ねられている。
第 2 は,学校選択制やバウチャー制度の導入を直接検討したものではないものの,群馬県太田市の市立中学校に通う子供たちの親を対象としたアンケート調査に基づいて,英語コース選択の決定要因や,その選択のために支払っても構わないと考える金額(支払意志額:WTP)を試算した伊藤・小塩〔2006〕がある。彼らは,義務教育の規制改革を通じた消費者の選択肢拡大の経済的便益を具体的に試算し,さらに教育需要が親の属性に大きく左右されることを示している。
第 3 に,Yoshida, Kogure, and Ushijima〔2006〕は,東京都足立区における中学校の学校選択制導入に注目し,制度改革によって学校に通う生徒が選別化(sorting)されたか,また,それによって学校間の学力格差が高まったかを検証してい
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る。彼らの分析によると,社会的地位が高い職業従事者の多い学区ほど,制度導入後でも私立校を選択したり,公立校でも平均学力の高い学校を選択したりする傾向が見られる。しかし,公立校間の学力格差には拡大傾向が見られないという興味深い結果を報告している。
2 一様でない「準市場」化の効果
学校選択制が一部の自治体で既に進められているものの,その効果を定量的にチェックできる態勢が整備されておらず,日本における「準市場」化の効果を的確に評価することは現時点では不可能といわざるを得ない。特に,「準市場」化を政策として進めるためには,教育成果が少なくとも平均的に上昇していることを示す必要がある。格差拡大といったデメリットを危惧し,「準市場」化に反対する論者を説得するためにも,それは不可欠な作業であろう。それはともかくとしても,正確な統計的処理に耐えうるデータを公表しないことは,教育行政のあり方として致命的な問題といわざるを得ない。この点は,英国政府が「学校成果表」として各学校の成果を積極的に公表して
いる姿勢とは対照的である。
以下では,日本において「準市場」化を進めるに当たって考慮すべき点を,利用可能なデータを用いた実証分析の結果に基づいて指摘しておこう。これは,「準市場」化そのものに反対するためではない。「準市場」化を政策として正当化するためには,教育成果が少なくとも平均的に見て上昇するなど,そのメリットを客観的に立証する必要があることを強調したいためである。
注目すべき最大のポイントはやはり,英国でも問題視された学校格差の拡大や子供の階層化の危険性である。これは,次の 2 つの実証分析の結果から具体的に指摘できる。第 1 は,Yoshida et al.〔2006〕も注目している東京都足立区における動きである。同区は 2000 年以降,義務教育の学校選択制を進めるとともに,各学校の平均学力の結果をウェブサイト上で公表するという画期的な取り組みを行ってきた。しかし,2006 年度の学力調査において一部の学校で不適切な行為があったことが判明したことを受け,同区は 2007 年 11月以降その公開を過去の分も含めて取りやめている。
出所) 小塩〔2007〕。
図 3 平均学力と入学倍率 (東京都足立区立中学校の場合)
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しかし,小塩〔2007〕は,公表取りやめ前の時点で入手可能だったデータを用いることにより,同区立の 37 中学校について,横軸に 2006 年度における 3 教科達成度合計(全学年平均,300 点満点),縦軸に 2007 年度の入学倍率(最終応募者数
/受入可能者数)の関係を調べている。図 3 がそれであるが,この図からは両者の間に正の相関のあることが認められる。つまり,親は平均的な学力の高い学校に自分の子供を通わせようとしていることが分かる。この図はあくまでも 2 年度分の状況を示したものに過ぎず,子供間の学力格差拡大については何も語っていない。また,Yoshidaらの実証研究とも併せて検討する必要がある。しかし,学校間格差の拡大傾向という,子供間格差につながり得るモメンタムの存在にはこれからも細心の注意を払っていくことがここから示唆される。
第 2 は,学校選択やバウチャー制度に関する親の意識の違いである。小塩他〔2007〕は,内閣府が 2006 年 10 月に実施したインターネット調査に基づき,現行の学校制度や教員に対する評価のほか,学校選択制やバウチャー制度の導入に関する親の意識がどのような要因によって決定されるかを分析している。このうち最も注目されるのは,学校選択制やバウチャー制度の導入に対する評価が親の属性に大きく左右される点である。
表 2 は,それらの結果の一部をまとめたものである。ここでは,学校選択制やバウチャー制度の導入にそれぞれ賛成する場合を 1,そうでない場合をゼロとするプロビット分析を行っている。いずれの場合も賛成する確率は,回答者が大卒以上であれば,そして,子供の学歴として一流大卒など高い水準を期待する場合ほど高まることが統計的に確認される。さらに,小塩他〔2007〕は,公立校が受験対策など特別授業を行う場合どの程度追加的に費用を支払う意志があるかという点についても分析しており,高学歴・高所得で子供の学歴に対する期待が高い親ほどその額が高めになることも確認している。
こうした事実は,「準市場」化が消費者である親の行動に及ぼす影響が一様でなく,学校やそこ
表 2 学校選択・バウチャー制度に対する評価
説明変数 | 学校選択 | バウチャー |
子供(末子)の属性女児 塾に行っている 私立に通っている 回答者の属性母親 年齢大卒 子供数 log(世帯一人当たり所得)持ち家 現在学校選択導入 子供に期待する学歴 (子供の自主性に任せる=0)専門学校 高校短大大学 一流大学 大学院 | -0. 016 | -0. 005 |
(0. 76) | (0. 20) | |
-0. 015 | 0. 048 * | |
(0. 67) | (1. 89) | |
0. 007 | 0. 119 ** | |
(0. 15) | (2. 41) | |
0. 016 | -0. 082 *** | |
(0. 70) | (3. 15) | |
0. 000 | -0. 005 ** | |
(0. 05) | (2. 31) | |
0. 047 ** | 0. 045 * | |
(1. 99) | (1. 69) | |
-0. 018 | -0. 005 | |
(1. 19) | (0. 32) | |
0. 047 ** | 0. 036 | |
(1. 99) | (1. 37) | |
-0. 035 | 0. 022 | |
(1. 53) | (0. 88) | |
0. 077 *** | -0. 015 | |
(3. 31) | (0. 59) | |
-0. 022 | -0. 010 | |
(0. 34) | (0. 13) | |
-0. 072 | 0. 102 | |
(1. 26) | (1. 58) | |
0. 063 | 0. 117 ** | |
(1. 30) | (2. 00) | |
0. 008 | 0. 123 *** | |
(0. 32) | (4. 18) | |
0. 089 *** | 0. 159 *** | |
(3. 02) | (4. 65) | |
0. 070 | 0. 067 | |
(1. 13) | (0. 96) | |
Observations | 1958 | 1958 |
地域ダミー | yes | yes |
注) 各制度導入に賛成する場合を 1 とするプロビット分析。係数はすべて,平均値で評価した決定要因の限界効果。
***,**,*はそれぞれ 1%,5%,10% で有意。
( )内の数字は z 値。出所) 小塩他〔2007〕。
に通う子供の分断化・選別化が進む可能性を示唆するものである。もちろん,それらはあくまでも可能性に過ぎない。さらに,実際のデメリットの大きさは限定的であり,「準市場」化のメリットのほうがデメリットを大幅に上回るという可能性
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も否定できない。だからこそ,教育成果に関する徹底した情報公開とそれに基づく実証分析が不可欠となる。
V まとめ
本稿では,教育サービスにおける「準市場」化の意義と課題について,英国の経験を参考にしながら検討してきた。主な論点は,次の 3 つにまとめられる。
第 1 に,教育サービスにおける「準市場」化は,教育に関する政府の関与や支援を維持しつつ,教育サービスの供給主体(学校)に競争させることにより,全体としての効率化を目指すものである。しかし,教育の経済学的特性を考慮すれば,その効果は消費者に一様に発揮されるわけではなく,学校や子供の分断化・選別化が進む危険性もある。そのため,「準市場」化の効果は効率性・公平性の両面から評価しなければならない。第 2 に,「教育改革法 1988」以降,教育サービ スの「準市場」化を進めてきた英国の経験を見ると,全国統一テストの成績が大幅に上昇していることから判断して,教育サービスの効率性は大きく改善したと判断できる。他方,公平性の観点からは,学校間の成績格差が縮小している一方で,成績のよい学校ほど低所得層の子供の割合が低下するなど学校間で子供の分断化が進んでいる傾向
も確認され,評価が分かれる面がある。
第 3 に,日本でも学校選択制の導入など,教育サービスの「準市場」化は徐々に進んでいるものの,実証分析に耐えうるデータの公表が十分に進んでおらず,改革の効果の具体的な評価が不可能になっている。その一方で,平均的な学力が高い学校ほど入学倍率が高めになるという傾向も一部に見られ,さらに高学歴で子供の学歴に多くを期待する親ほど学校選択やバウチャー制度の導入を歓迎しているという事実も確認される。そのため,学校や子供の分断化・選別化が進むという危惧は払拭できない。教育サービスの「準市場」化を進めるためには,少なくとも教育成果が平均的に上昇していることを立証する必要があり,その
ためにも教育統計の整備と公表が要請される。
注
1)本稿は, 田中〔2004a〕および田中〔2004b〕で展開された議論をベースにしている。
2)ただし,実際に「バウチャー」が発行される必要は必ずしもなく,消費者が学校を選択し,生徒数に応じて教育予算を配分するという仕組みでも構わない。
3)ただし,Card and Krueger〔1992〕のように,教育成果を学力テストの点数ではなく学校卒業後の賃金で評価するという考え方もある。
4)英国政府は,各キーステージにおける教育達成度の目標を具体的に設定している。例えば, 2007 年においては,英語・数学について,キ
ーステージ 2 および 3 において 5 段階以上の生徒の割合を 85%以上,理科についてはキーステージ 3 で 80%以上に高め,2008 年もその水準を維持するとしていた。
5)Tanaka〔2004〕は,イングランド北西部の中等学校について,以下に述べる分析を行っている。
6)米国における最近の研究成果をまとめた代表的文献として Hoxby〔2003〕がある。
参 考 文 献
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小塩隆士・佐野晋平・上野有子・三野孝一郎(2007)
「消費者からみた教育制度改革」内閣府『経済財政分析ディスカッション・ペーパー』DP/07‒2。 田中康秀(2004a)「教育サービスと「準市場」の効果について」『国民経済雑誌』第 189 巻第 13 号 ,
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樋口美雄(1992)「教育を通じた世代間所得移転」『日本経済研究』No. 22,pp. 137‒165。
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教育サービスの「準市場」化の意義と課題――英国での経験と日本へのインプリケーション―― 69
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(おしお・たかし 神戸大学大学院教授)
(たなか・やすひで 神戸大学大学院教授)
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70
社会保障の行政管理と『準市場』の課題
狭 間 直 樹
I はじめに
社会保障分野の行政管理上,準市場が最も影響を与えたのは,介護や保育などの社会福祉サービスの分野であった。本稿は,社会福祉サービスの行政管理における準市場の課題を考察することを目的としている。
本稿は社会福祉サービスにおける準市場の課題が何であるかを問う。これに対する本稿の解答は,様々な性格を持つ供給主体間の競争条件の設定,それにあたっての各供給主体の持つ公益性の判断・評価が大きな課題となっている,ということである。営利法人・NPO 法人は公益性を果たしうるのか,また社会福祉法人の持つ公益性をどのように判断・評価していくか,が行政管理上の争点として浮かび上がったことである。公益法人の公益性は所与のものとされてきたが,供給主体の多様化と一定の競争原理導入によって,その公益性の判断・評価が行政管理の論点として発生したのではないか。
この解答を追求するにあたって,イコール・フッティング(競争条件平等化)の議論をとりあげる。
イコール・フッティング論は,伝統的供給主体である社会福祉法人と新しい供給主体である営利法人・NPO 法人との間の競争条件平等化を求める議論である。新しく福祉サービスに参入した営利法人・NPO 法人から主張される議論であるが,社会福祉法人側からの反論も展開されてい
る。その論点の本質は,それぞれの公益性(特に社会福祉法人のもつ公益性)をどう判断するかにあるが,これまでの議論では,そもそも公益性とは何かということが十分に問われてこなかった。本稿は,福祉サービスの供給主体の公益性がサービスの質や平等性など 4 つの要素によって構成されるとする「福祉サービス事業者の公益性モデル」を提示する。
この公益性モデルに従って,本稿は,特にサービスの質と合規性について伝統的供給主体(社会福祉法人)と新しい供給主体(営利法人・NPO法人)の間の差違を比較考察する。資料の制約等から,本稿においてイコール・フッティングをめぐる議論の解決が図られるような公益性分析は成し得ないが,実証的な公益性分析が必要であることを訴えていきたい。
本稿全体を通じて準市場の導入が供給主体の公益性という論点を提起し,行政管理の課題となっていることが指摘される。本稿での分析は介護・保育など社会福祉サービスを事例とするが,本稿で指摘する問題点は今後,医療・教育などの公共サービス領域で表面化する可能性がある。以上が本稿の内容である。
II 準市場の競争条件設定
準市場は,法的根拠を持ち公的財源によって提供される公共サービスに市場原理を導入した運営方式である。駒村康平は,準市場を「購入と供給の分離による供給者間の競争の促進という形で公
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社会保障の行政管理と『準市場』の課題 71
的部門の内部に市場メカニズムを導入することにより効率性を高める擬似的な市場メカニズム」
〔駒村,1999b〕と定義している。また児山正史は「準市場」とは政府が費用を負担し,当事者間に交換関係がある方式であると定義している。
「準市場が『準』であるのは,サービス費用を利用者ではなく政府が負担するからである。準市場が『市場』であるのは,当事者間に交換関係があるからである」〔児山,2004,p. 134〕。
本稿は日本の社会福祉サービスの準市場の課題を追求している。日本の社会福祉サービスにどのような特徴的な課題が指摘されうるのだろうか。関連する先行研究として平岡公一の見解があげ られる。平岡は Le grand らの議論を紹介し,準市場が機能するための条件として次の 5 つの問題領域をあげる〔平岡,2002,p. 15〕( ただし,5条件の概要説明は〔佐橋,2002,p. 141〕に基づ
いている)。
① 市場構造
供給主体の数やサービスの質・応答性を確保するために,供給主体間の競争や新規参入策・退出防止策が必要であること。
② 情報の非対称性
参加や費用,質についての情報が必要であること。
③ 取引コスト
準市場の構造における取引過程は複雑なため,不測の事態や処理の遅延・損害に対するコストを考慮しておく必要があること。
④ 動機付け
市場から好反応を得るためには供給者が利潤動機を持つ必要があるとする一方で,とくに購入者は利用者の福祉追求という動機を持つことが必要であること。
⑤ クリームスキミング
供給者が自分の都合の良い利用者を選ぶといった「いいとこ取り」を防止する必要があることである。
そして平岡は,日本の介護保険制度とイギリスとの比較を通して,この中から市場構造(サービ
ス供給システムの相違),情報の非対称性について次の 3 つを日本の準市場の特質として強調する。
まず第 1 に市場構造について言えば,選択権の場所に違いがある。日本は,利用者本人もしくは家族に選択権がある。平岡は,スウェーデンの研究者 Bjorm Blom の説明をふまえて,イギリスを「サービス購入型」,日本を「利用者補助型」に分類し,その結果,日本の方が購入者・供給者の数が大きく,競争的介護サービス市場が発生する可能性は高い(ただし,地域格差,施設への参入規制は考慮する必要あり)と指摘している。第 2 も市場構造に関わるが,日本の場合,価格の上限規制があり,価格の競争は限定的になること,そして第 3 に情報の非対称性についていえば日本の方が個々の利用者がサービスを購入することになっているため情報の非対称性が顕著になること,を指摘している。
佐橋克彦は,同じく Le grand らの指摘する準市場が機能する 5 つの条件に基づいて,より広範に日本の介護保険制度の課題とその特質を指摘している〔佐橋,2002,pp. 142-146〕。
佐橋の見解によれば,まず第 1 に市場構造については,イギリスでは,利用者-購入者-供給者という構造で,購入者は競売的な方法を通じてサービスを利用者に購入・配分する一方で,日本では購入者(利用者)と供給者(事業者)の介護報酬を媒介とする構造である。第 2 に情報については社会福祉・医療事業団の情報ネットワークシステム「WAMNET」など一定の情報供給体制があるものの,制度的な保障が乏しいこと,第 3 に取引費用については不測の事態への対応策が不備であることを指摘している。そして,第 4 に動機付けについては,歪められた動機付けが存在すること,第 5 にクリームスキミングについては供給者によるクリームスキミングの可能性を指摘している。
佐橋はこれら 5 つの成功条件のもとでの日本的特質をあげ,準市場が目標とする価値基準が「現状では達成途上か,もしくは方向性が異なる」ことこそがわが国の「準市場化の特異性」であると
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している。達成途上の価値基準とは応答性,選択性,という基準である。応答性に関しては,保険給付対象外に由来する限界があること,選択性に関しては情報公開等に関して制度的保障が乏しいこと,が指摘されている。また方向性が異なる価値基準としては効率性,公平性があげられている。効率性に関しては,わが国の場合生産性効率よりも粗効率性を指向していること,公平性に関しては 責任の所在を契約化により曖昧化させながら,サービス供給における行政の関与の度合いを低めていること,が指摘されている。
本稿が日本の社会福祉サービスの準市場の課題として指摘するのは,社会福祉サービスにおいては様々な性格を持つ供給主体間の競争条件設定が大きな課題となる可能性である。そして,競争条件設定にあたっては,各供給主体のもつ公益性の判断・評価が必要になる,ということである。
日本の社会福祉サービスは,伝統的供給主体である社会福祉法人に加えて,営利法人(民間企業)・NPO 法人などの新規参入者という様々な性格を持つ供給主体によって,一定の競争状態のもとで運営されるようになったが,様々な供給主体への法的規制・補助金・税制優遇措置などの政府の関与は大きく異なっている。どのような競争条件を設定するのが最良なのか,そしてその判断根拠とは何か。
本稿が指摘する「供給主体間の競争条件設定」という準市場の課題は Le grand の 5 つの条件すべてに関連しているが,中でも特に市場構造条件に関わるものである。市場構造の論点は,どういった供給主体を参加させるか,またそこにどういった競争状態をつくるかという論点であり,5 つの条件の根本的条件であるといえる。本稿は市場構造を形成する各供給主体への政府の関与(条件整備手法)に関心を集中させている(図 1)。
平岡,佐橋の議論でも,日本とイギリスの間の市場構造の差異が言及されているが,市場構造について単に決定権の所在の違いだけを言及するのに留まらず,供給者の競争を成立させている様々な政府の関与を取り上げ,異なった性格を持つ種々の福祉サービス供給主体によって構成される
〔筆者作成〕
図 1
準市場の課題へと議論の可能性を探りたい。平岡がいうように,日本の準市場は利用者の選択の度合いがより強く,競争的な状態になりうることも予想できる。適正な競争状態,それに政府がどう関わるかが課題となって発生する可能性があるといえる。
III イコール・フッティング論と公益性視点
日本の社会福祉サービスの準市場においては,各供給主体間の競争条件設定とそれにあたっての各供給主体の公益性判断が大きな課題となっている。このことを示すために,近年,特に介護・保育の分野で展開されるイコール・フッティング
(競争条件平等化)論に焦点をあてることにしよう。
イコール・フッティング論は,介護保険制度をはじめとする近年の改革のなかで規制緩和論者から展開されるようになった議論で,社会福祉サービスの伝統的供給主体である社会福祉法人と新規参入者である営利法人・NPO 法人との競争条件格差を問題視しその是正を求めることを内容としている。
イコール・フッティング論の内容は福祉サービスにより様々であるが,営利法人等に参入できな
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| |||
〔狭間(2006)〕
図 2
いサービスがあること(参入規制),営利法人等に参入が認められたにも関わらず社会福祉法人と比較して補助金や税制優遇措置に大きな差があること,などに対する批判を内容としている(図 2)。
例えば,特別養護老人ホーム(介護老人福祉施設)は,一部地域での公設民営方式による参入はあるものの営利法人による設置運営は認められていない。施設サービスと組み合わせた在宅介護サービスを展開できないことに営利法人等からは批判がある。
一端,設置主体としての参入が許可されると,次に,補助金が問題となる。特に施設サービスの場合,施設建設等に多くの補助金が設定されており,その交付を巡って,供給主体間に差が生じることになる。日本の社会福祉サービスでこの状態にあるものの代表は保育所である。保育所の建設運営にあたっての補助金は国・自治体レベルで複雑多岐にわたるが,自治体によっては施設建設費に加えて運営経費においても,社会福祉法人と営利法人等の区別によって大きな差があることが確認されている〔狭間,2006〕。
補助金がそれほど多く設定されていない場合,次に問題となるのが税制優遇措置である。たとえ補助金の差は表面化しなくとも,その収益に大きな影響を与える課税の差が供給主体間に発生し,この差の是正をめぐって営利法人等の主張が展開される。介護保険等における訪問介護(ホームヘルプ)はこの状態にあり,社会福祉法人と営利法
人とは同じ収益を上げても,課税金額に大きな差が発生する〔狭間,2006〕。
以上のような差が仮に克服されたとしても,イコール・フッティングの主張が消滅するとは限らない。長らく伝統的な公共サービスの担い手であった社会福祉法人は前述のように行政機関との関係においても慣例上,優位な立場に立つケースがある。また知名度において新規参入者である営利法人等よりも優位な立場にあることが格差として主張されることがある。
このようなイコール・フッティングの議論は,企業経営者や NPO 関係者という競争の利害関係者だけでなく,国や自治体の報告書でも指摘されるようになっている〔内閣府国民生活局物価政策課,2002〕〔公正取引委員会,2003ab〕〔東京都福祉局,2002〕。例えば,厚生労働省社会保障審議会福祉部会では第 8 回(2004 年 2 月 17 日開
催)から第 10 回(2004 年 6 月 23 日開催)にかけて社会福祉法人の存在意義を問うような発言も見受けられる。
堀田力委員(財団法人さわやか福祉財団理事)は介護保険制度をはじめとして社会福祉サービスが普遍化する中で,どのような人を対象にして,どのような理念で社会福祉法人の優遇措置が理由づけられるのかが不明確であると述べている。また佐口和郎委員(東京大学大学院経済学研究科教授)は次のように述べている。「社会福祉法人の公益性・公共性という問題に関しては,もう少し説明が必要。イコール・フッティングの議論を意
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識して,社会福祉法人の高い公益性,公共性を主張するほど,それは行政がやればいいではないかという議論になり,なぜ社会福祉法人という主体がやらなければいけないかという理由が不明になる。また,株式会社でもある種の社会的承認を根拠にしているという点では公共性を有していると言えるので,公共性の高い低いという説明だけでは議論が前に進まない」〔厚生労働省,2004〕。
イコール・フッティング論は法的規制や財政措置における社会福祉法人の優位を疑問視するが,このような議論には社会福祉法人側から強い反論もある。
介護保険制度を端緒として社会福祉サービス全体が市場化していくことを警戒する見解は根強い。民間企業は営利性を第一に追求し介護や保育の継続性を犠牲にする可能性が指摘されている
〔芝田,2001〕〔保育行財政研究会,2002,p. 35〕。 2006 年 10 月に全国社会福祉協議会から出版さ
れた報告書『社会福祉法人経営の現状と課題』は,特に営利法人に対する,より踏み込んだ社会福祉法人の存在意義の提唱になっている〔社会福祉法人経営研究会,2006〕。この報告書では,イコール・フッティングを補論として扱っている。そして問題の所在を補助金と税制優遇措置に絞り,どちらかといえば税制優遇措置についての議論に重点を置いた内容となっている。すなわち,それが社会福祉法人にだけ認められることの妥当性についてである。
補助金については,「現行の施設整備費補助金に関しては,施設整備における優遇措置と考えられるが,現行の憲法第 89 条の解釈を前提とする限り,『公の支配』すなわち,行政の強い監督と表裏一体をなすものとして,原則として社会福祉法人に対象を限ることは正当化されると考えられる」〔社会福祉法人経営研究会,2006,p. 60〕として,憲法 89 条規定をもとに正当化を主張している。また税制優遇措置の正当性については,①社会福祉事業は公益性を有する事業であること,
②社会福祉法人は,公益性を有する社会福祉事業の適切な実施が担保できる仕組みを内在している法人であること,が言える必要があるとしてい
る。
この報告書では,2006 年の内閣府「公益法人制度改革に関する有識者会議」報告書を基にして,公益性を有する法人の目的を「積極的に不特定多数の利益の実現を図ること」と規定している。そしてその内容について,「社会全体にとって,その実施が必要不可欠なものであるかどうかに加え,市場では安定的・継続的に供給することが難しいものであるかどうかも考慮することが適当」とし,次の 3 点を社会福祉法人の公益性であるとしている〔社会福祉法人経営研究会,2006, pp. 60-62〕。
① 支払能力が低い者を排除しない(低所得者対策を実施する)こと
「特別養護老人ホームの運営における利用者の所得区分で,8 割以上が第 3 段階までの低所得者である」ことである。また同時に介護保険制度や障害者自立支援制度における利用料の減免措置についても言及されている。さらに僻地でのサービス提供を採算性に関わらず提供できることである。
② 労力・コストのかかる者を排除しないこと
「著しい問題行動を有する者」や,「重複障害を有する高齢者」などへの専門ケアは「労力がかかる性質のもの」であり,営利企業が排除したり,ケアを過少供給しようとするのに対して社会福祉法人が十分対応できると述べている。
③ 制度外のニーズに対応すること
「引きこもり」「虐待を受けている者」「ホームレス等」などを既存制度が届きにくい人々とし,その支援を営利企業は行えないとしている。また,地域における福祉サービスの質の向上には「養成研修システムの確立が不可欠であり,学生の実習受入れやスキルアップをめざす講習会等の実施はそのために重要」とし地域福祉の基盤確立における社会福祉法人の意義を述べている。
このような競争条件の差の議論が発生する原因は,社会福祉法人と営利法人等が,同じ福祉サー
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社会保障の行政管理と『準市場』の課題 75
人の公益性を認めている意見である。
〔筆者作成〕
図 3
ビスの事業者でありながらも,異なった制度設計に基づいて運営されていることにある。図 3 のように,社会福祉法人は突然の施設の閉鎖による利用者の不利益などを防ぐといった「公益性」維持のために,「強い規制のもと,強い財政措置(強い補助金・税制優遇措置)」のもとに運営されている。一方で,営利法人等は「弱い規制ながら,弱い財政措置」で運営されている。異なった制度設計の根拠と正統性は,社会福祉法人が強い公益性を持つ組織であるという理屈に基づいている。イコール・フッティングの論点の本質は異なっ た制度に基づいた様々な供給主体間の公益性(特に社会福祉法人の公益性)をどのように判断するかによると考えられる。規制緩和論者は,社会福祉法人の公益性について疑問を投げかけているわけであり,社会福祉法人に対する強い規制や財政措置などの妥当性を支持する意見は,社会福祉法
議論の本質は,社会福祉法人にそれだけの公益性があるか,営利法人・NPO 法人には社会福祉法人に匹敵する公益性があるかどうか,ということに他ならない。そして,この公益性の実証こそがイコール・フッティングの建設的議論のために必要不可欠なのである。
しかし,この公益性がそもそも何を指すのかが今までの議論では明確でなかった。本稿が,社会福祉法人のみならず,営利法人・NPO 法人も含めて社会福祉サービス事業者が備えるべき公益性として提示するのが 4 つの要素によって構成される「福祉サービス事業者の公益性モデル」である
(図 4)。
ここでは社会福祉サービス事業者の公益性を大きく 4 つの要素に分類した。A の「サービスの質」とは,利用者個人の自立につながるケアや援助の質である。介護であれば,日常生活介助の技量,プライバシーの尊重,ケアの継続性などがその内容となる。B の「平等性」とは利用者の間で不平等をつけないということである。地域や所得,要介護度といった利用者属性に基づいて事業者が利用者を選別せず,さらには率先して不平等の解消に向かうことも含められる。またC の社会貢献とは,公的な社会福祉サービスの特定の利用者ではなく,地域社会全体に対応した公的な社
図 4 福祉サービス事業者の公益性モデル
〔筆者作成〕
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会福祉事業以外のサービス展開である。例えば,地域の見守り活動,地域貢献基金設置などである。これらに付け加えて D「合規性」と言う要素を付け加えることもできる。利用者に対するサービス提供,社会貢献など様々な活動において,法律や規則を遵守した活動を行っているか,またそれらの活動が利用者や市民に説明責任の果たされた透明性の高いものになっているか,という点である。
イコール・フッティング論の本質は,社会福祉法人の公益性は本当に高いのか,そのための規制や財政措置は妥当であるのか,という問いかけにある。極論してしまえば,強い規制と財政措置による社会福祉法人の存在は,比較的弱い規制と財政措置による営利法人・NPO 法人で代替可能なのではないか,という考えを議論の本質としている。
イコール・フッティングへの反論の本質は,営利法人・NPO 法人が本当にこれらの公益性を維持しうる存在であるのか,という問いかけにある。A「サービスの質」,B「平等性」など 4 つの要素それぞれの運営において社会福祉法人が優位であることが証明できれば社会福祉法人の公益性を補強するものになる。
前述の全社協『社会福祉法人経営の現状と課題』報告書で提唱された社会福祉法人の公益性のうち①支払能力が低い者を排除しない(低所得者対策を実施する),②労力・コストのかかる者を排除しないという点は,本稿でいうとB「平等性」要素に含まれると考えられる。また,同報告書における③制度外のニーズに対応する,は本稿でいうと C「社会貢献」要素に近いと思われる。社会福祉法人が専門性を発揮し,企業や NPO などと比較して高い満足度や社会的評価をうけるケアや援助を行い,平等性や合規性について高い水準にあることが証明できればそれは即,社会福祉法人の公益性を代弁するものとなるのである。
これら 4 つの公益性の要素は,前述のように Le grand が規定した準市場の 5 つの成功条件とも大きく関連している。例えば,成功条件にいう情報の非対称性とは,サービス供給者と利用者
(もしくは購入者)の間の情報量の差を埋める必要があるという条件だが,情報の非対称によりサービスの質が評価できず,結果的に質の悪いサービスが提供されることを危惧している。クリームスキミングは,供給者が自らの都合で利用者を選択し,結果的に利用者間に大きな不平等が発生することを危惧している。このモデルの意義は準市場の供給主体への様々な制度設計のあり方を比較検討するにあたって,供給者が備えるべき成功条件を供給主体ごとに規範から捉えなおしたことである。もちろん Le grand の準市場の成功条件の範囲外と考えられるものもある。Le grand の成功条件は公的財源によって提供されるフォーマルなサービスを中心に設定されている印象を持つが,特に非営利組織が市場に参加するにあたっては,非営利組織がインフォーマルに社会に提供する活動に準市場がどのように影響を与えるかもみていく必要がある。本稿の公益性モデルの社会貢献要素はそのようなインフォーマルな活動を検討するための視点である。
IV 供給主体別の公益性分析―サービスの質と合規性に着目して―
1 サービスの質
このような供給主体別の公益性分析は実証的に行われ,建設的な議論に発展させられる必要がある。残念ながら,本稿でイコール・フッティングの議論を解決するような十分な実証分析は成し得ないが,公益性を構成する 4 つの要素のうち,特にサービスの質と合規性についてどのような議論が展開しうるか検討することにしよう。
公益性を構成する要素のうち,まず第 1 に,供給主体間でのサービスの質を比較することにしよう。
供給主体別のサービスの質については,いくつかの研究がある。2002 年 8 月の内閣府国民生活局物価政策課介護サービス価格に関する研究会による報告書『介護サービス市場の一層の効率化のために』における調査研究は介護保険の市場構造を広く分析したものだが,その中で営利組織と非
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社会保障の行政管理と『準市場』の課題 77
営利組織の介護サービスの質を大規模かつ実証的に比較している。関東地方の訪問介護事業者にアンケート調査を行い,「サービス内容の管理・維持」「利便性」など 12 項目を調査して,様々な質問項目の平均点を算出した結果は,営利業者(株式会社など)が 28. 9 点,非営利業者(社会福祉
法人・医療法人など)29. 9 点であり,若干ながら非営利業者が高くなっているが明らかな差はない,と結論づけている。非営利業者は「サービス内容の管理・維持」「従業員の資格・経歴」「事業の計画性・透明性」などで優れ,営利業者は「利便性」で優れていることは統計上有意な差として確認できるという結論になっている。
このように,サービスの質を測定する際に,
「より良い」「より利用者満足度が高い」サービスを構成するであろう属性の有無を検証することが最も妥当であるが,より直接的に,利用者の満足度を測定する方法も考えられる。近年,国や地方自治体で福祉サービスの第三者評価が推進され,特に地方自治体ではサービス事業者ごとに利用者満足度の測定が試みられている。供給主体別に利用者満足度の結果に差が発生していれば,それは供給主体間のサービスの質の差を反映したものと考えることができる。このような供給主体間の比較が成立するためには,一定程度,営利法人が参入し,社会福祉法人と同一のサービスでの利用者満足度を比較することが必要となる。
横浜市の福祉サービス第三者評価では認可保育所でこのような評価が可能である。保育所は従来,地方自治体・社会福祉法人による設置しか認められてこなかったが,近年,自治体によっては株式会社等の営利法人,NPO 法人による参入が始まっている。2007 年 4 月の段階では,横浜市の保育所のうち約 14% が営利法人・NPO 法人による設置運営である。横浜市の福祉サービス第三者評価では,これらの認可保育所に対しても利用者の満足度調査が実施されている。2006 年 12 月の段階で,横浜市において市の第三者評価を受けた認可保育所のうち,公立保育所は 12 カ所,社会福祉法人立保育所は 15 カ所,営利及び NPO法人立保育所は 6 カ所である。これらの保育所の
総合的評価について「満足」と回答した保護者・家族の割合は平均すると,公立が 52. 6%,社会福祉法人立が 52. 5%, 営利及び NPO 法人立が
56. 8% となっている。
結果としては,社会福祉法人が最も低い満足度となっているが,第三者評価を受審した施設数が少ないためサンプル数が少なくなっており,十分な比較ができない。また,社会福祉法人と営利法人立では保育所の規模に違いが大きく,満足度調査の対象になった対象者の数も大きく異なっている。
そこで,(財)東京都高齢者研究・福祉振興財団が運営する東京都福祉サービス第三者評価における認知症対応型共同生活介護(グループホーム)の利用者調査データ(平成 18 年度)をもとに結果を比較してみよう。認知症対応型共同生活介護を事例として選んだ理由は,まず第 1 に,認知症共同生活介護もまた営利法人・NPO 法人が一定程度参入を果たしたサービス領域であることである。東京都の場合,40% 以上が営利法人事業所で占められている。そして第 2 に第三者評価を受審した施設が多いことである。2006(平成 18)年度においては,220 事業所のうち 207 事業所(94. 1%)が評価を受け,利用者調査の中で満足度が調査されている。同じ 2006 年度の東京都第三者評価においても, 例えば訪問介護では 2, 677 事業所中,評価を受審した事業所は 19 件
(1%)である。
利用者調査は第三者評価機関が利用者に対して行うアンケート調査であり,認知症対応型共同生活介護の場合,主として利用者家族を対象に実施されている。すべての事業所に共通して 22 項目の調査が実施されており,サービス内容,生活支援,地域との交流,利用者意思の尊重などの質問項目が設定されている。例えば,サービス内容に関しては「ご本人の病気やケガなどの時,十分に対応してくれますか」というような質問がある。東京 23 区内の事業所(123 事業所)において社会福祉法人と営利法人が運営する事業所を対象とした。それぞれの事業所で利用者調査に回答する人員が異なるので 9 人以上の回答があった事業所
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質問項目 | 社福法人 | 営利法人 | 有意差 |
1 | 73. 90 | 49. 18 | * |
2 | 53. 89 | 45. 18 | |
3 | 64. 07 | 62. 15 | |
4 | 75. 34 | 70. 09 | |
5 | 88. 14 | 79. 93 | * |
6 | 71. 34 | 80. 91 | |
7 | 89. 02 | 84. 88 | |
8 | 89. 22 | 86. 33 | |
9 | 91. 34 | 85. 63 | |
10 | 68. 72 | 70. 62 | |
11 | 71. 07 | 53. 56 | * |
12 | 87. 29 | 79. 84 | |
13 | 82. 13 | 76. 06 | |
14 | 75. 78 | 45. 53 | * |
15 | 90. 49 | 80. 30 | * |
16 | 88. 01 | 69. 59 | * |
17 | 83. 81 | 64. 78 | * |
21 | 68. 82 | 68. 70 | |
22 | 79. 62 | 74. 91 |
表 1 人に対して部分的に質的優位を保持している可能性を感じた。ただし,この優位が圧倒的なものであるかどうか,補助金・税制優遇措置を正当化しうるものであるかについては確信が持てない。競争条件で劣っているにも関わらずサービスの質においても大きな差がないのではないか,という営利法人からの反論の余地は依然として残ると思われる。
注)1) * 5% 水準
〔著者作成〕
2 合規性
次に,公益性を構成する要素として「合規性」について考えてみよう。合規性も様々な視点で分析できるが,本稿では介護報酬の返還に注目したい。介護保険法では不正な介護報酬を受給した事業所に対して報酬返還を求めることができる。
図 5 のように,2005 年度において,介護報酬の返還対象となった事業所数は居宅介護支援が最も多く 1, 396 カ所,次いで訪問介護の 657 カ所で
ある。その他,訪問介護,通所介護,介護老人福
2) 項目 18-20 は未回答が多いため削除。
出所)(財)東京都高齢者研究・福祉振興財団公式ホームページ(http://www.fukunavi.or.jp)評価結果
に限定した(結果として社会福祉法人は 9 事業
所,営利法人は 38 事業所が対象となった。残念
ながら回答者数には差があり,社会福祉法人は 1
事業所につき平均 11. 4 人,営利法人は 13. 1 人である)。
各質問項目に「はい」と肯定的評価を回答した利用者家族の比率の平均値を 22 項目の質問ごと
にまとめたのが表 1 である。その結果,社会福祉法人は全般的に営利法人を上回る肯定評価を獲得しているが,統計的に有意な差があるといえるのは質問項目 1(食事の献立),項目 11(日常生活の自由度), 項目 14( 地域との交流), 項目 16
(計画立案時における利用者の要望把握),項目
17(計画立案時に十分な説明があること)などの
7 つであった。
印象としては,前述の内閣府国民生活局物価政策課介護サービス価格に関する研究会における結果と同様,このケースでは社会福祉法人が営利法
祉施設,介護老人保健施設などほとんどのサービスで介護報酬の返還が発生しており,2002 年度と比較すると全般的に返還対象となる事業所数は増加する傾向にあると言えそうである。報酬返還の推移を金額でみると,2005 年度においては,すべてのサービスを合計すると,約 37 億円の介護報酬の返還が発生している。サービスごとに介護報酬の単価に相違があるので,金額による推移をサービスごとに比較すると,訪問介護の約 7 億
9 千万円で最も金額が大きく,次いで居宅介護支
援が約 6 億 9 千万円である。1 事業所あたりの返還金額は施設サービスほど高く,介護老人保健施設では 1 事業所あたり約 200 万円である(図 6)。このような介護報酬の不正請求の実態が供給主 体別に判明すれば,合規性についての各供給主体の性格を把握するうえで有益な情報になると考えられる。しかしながら,介護報酬不正請求返還についての供給主体別の情報は極めて不足している。厚生労働省においては,供給主体別の件数や金額の取りまとめがなされていない。都道府県においても取りまとめがなされていない自治体の方が多数のように見受けられる。照会に対して回答
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社会保障の行政管理と『準市場』の課題 79
出所) 厚生労働省(各年)『介護保険関係指導結果報告書』
図 5 介護報酬の返還状況(事業所数)
〔筆者作成〕
出所) 厚生労働省(各年)『介護保険関係指導結果報告書』
図 6 介護報酬の返還状況(金額)
〔筆者作成〕
表 2 福岡市における介護報酬返還状況
2005(H. 17)年度 | 2006(H. 18)年度 | 2007(H. 19) | ||||||||
社会福祉 法人 | 営利法人 | NPO 法人 | 社会福祉 法人 | 営利法人 | NPO 法人 | 社会福祉 法人 | 営利法人 | NPO 法人 | ||
訪問介護 | 事業所数 | 0 | 3 | 0 | 0 | 5 | 0 | 1 | 5 | 0 |
金額(円) | 0 | 98,784 | 0 | 0 | 16,144,811 | 0 | 1,842,432 | 8,201,542 | 0 | |
居宅介護支援 | 事業所数 | 5 | 4 | 0 | 3 | 12 | 1 | 0 | 5 | 0 |
金額(円) | 4,639,260 | 402,449 | 0 | 3,891,331 | 5,155,388 | 74,439 | 0 | 19,990,543 | 0 |
〔筆者作成〕
80 季 刊 ・ 社 会 保 障 研 究
Vol. 44 No. 1
のあったいくつかの自治体の状況をみていくことにしよう1)。
横浜市の介護報酬不正請求金額は 2000 年 4 月
から 2008 年 2 月 5 日までの累計で約 1 億 9 千万円である(約 40% の加算を含む)。不正請求件数を法人種別ごとに見ると,営利法人が 11 件,医
療法人が 3 件,社会福祉法人が 5 件,NPO 法人
が 2 件である。しかし,サービスごとの不正請求の発生件数や,法人種別ごとの金額は不明である。
福岡市の場合,サービスごとに供給主体別の返還状況がとりまとめられている。全国的に返還対象となった件数が多い訪問介護と居宅介護でみてみると,表 2 のようになる。
2005 年度の厚生労働省『介護サービス施設・事業所調査』によれば,福岡市の訪問介護事業所総数は 179 カ所,そのうち社会福祉法人が 14 カ
所,営利法人によるものが 122 カ所である。また
居宅介護支援事業所総数は 214 カ所,そのうち社
会福祉法人が 28 カ所,営利法人が 94 カ所である。社会福祉法人対営利法人の事業所数の構成割合は,訪問介護の場合およそ 1 対 9,居宅介護支援の場合およそ 2 対 8 である。訪問介護,居宅介護支援のいずれの場合にしても営利法人の方が,事業所数が多いため報酬返還の件数は多くなっている。2006 年と 2007 年の訪問介護の例のように同じ事業所数でも事業所の規模によって返還金額が大きく異なる。社会福祉法人は事業所数は少ないものの,一般的に利用人員の多い大規模事業所が多いことから,件数は少なく報酬返還の金額は大きくなる傾向が指摘できそうである。
大阪府の場合も,事業所数においては営利法人の方が多い。大阪府の訪問介護事業所総数は 2, 203 カ所,そのうち社会福祉法人が 327 カ所,
営利法人が 1, 494 カ所,NPO 法人が 106 カ所で
ある。また居宅介護支援事業所総数は 2, 160 カ
所,そのうち社会福祉法人が 420 カ所,営利法人
が 1, 083 カ所,NPO 法人が 58 カ所である。社会福祉法人対営利法人・NPO 法人の事業所数の構成割合は,訪問介護の場合およそ 2 対 8,居宅介護支援の場合およそ 3 対 7 である。事業所数でみ
表 3 大阪府における介護報酬返還状況
2006(H.18)年度 | |||
社会福祉法人 | 営利・NPO 法人 | ||
訪 問 介 護 | 事業所数 | 22 | 120 |
金額(円) | 9, 540, 388 | 20, 027, 819 | |
居宅介護支援 | 事業所数 | 48 | 102 |
金額(円) | 37, 118, 720 | 11, 487, 154 |
〔筆者作成〕
た発生割合はやはり概ねこの構成割合に従っているものと思われるが,金額で見た場合,1 事業所あたりの返還金額は社会福祉法人の方が大きくなる(表 3)。
介護報酬の不正請求はすべての供給主体で発生している。印象としては,社会福祉法人も営利法人同様に介護報酬返還の対象になっていると感じた。ただし,この点もより慎重な分析が必要かもしれない。社会福祉法人と営利法人では介護報酬を含めて運営のチェックに差があり,社会福祉法人に対してはより厳格なチェックが存在している可能性もある。不正請求のチェック体制の内実とともに詳細を検討する必要がある。
V おわりに
日本の社会福祉サービスの準市場においては,供給主体間の競争条件の設定,それにあたって各供給主体の持つ公益性を分析していくことが大きな課題となっている。本稿であげたモデルにおいても,今後検討されるべき多くの課題が残っていると考える。「平等性」要素においては,社会福祉法人による低所得者減免措置の実態,社会福祉法人はコストがかかる者を排除しないという実態を実証的に明らかにする必要がある(逆に,営利法人等が所得や要介護度によって利用者を選別しているという実態を明らかにしても良い)。また
「社会貢献」要素にあたっては,どのような活動が社会貢献という要素を構成するのかさらに細分化して,供給主体別に比較検討する必要がある。社会貢献の貢献度合いを比較するにあたっては,どのような比較基準を作成するかが大きな課題と
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社会保障の行政管理と『準市場』の課題 81
なると思われる。
社会福祉法人という公益法人の持つ公益性は所与のものとされてきたが,今後も繰り返し議論の対象となる可能性がある。また,社会福祉法人の公益性を完全に無視した供給主体の多様化・競争原理導入も社会にとって好ましくない結果をもたらす可能性がある。実証的な研究と建設的議論が必要であろう。
注
1) 東京都・神奈川県・横浜市・大阪府・大阪市・福岡県・福岡市の担当部署に照会を行った。そのうち,横浜市からは健康福祉局介護保険課担当係長名の書面(2008 年 3 月 10 日付) にて,福岡市からは保健福祉局高齢者部事業者指導係より書面(同年 3 月 4 日付)にて,大阪府から
は健康福祉部事業者指導係より口頭(同年 3 月
6 日聞き取り)にて回答があった。他の自治体からは資料の不存在により,回答を得ることができなかった。
参 考 文 献
伊奈川秀和(2001)「社会福祉法人制についての一考察」『法政研究』,68(1),pp. 25-47。
公正取引委員会(2003a)「介護保険適用サービス分野における競争状況に関する調査について―居宅サービスを中心に―」。
(2003b)「社会的規制分野における競争促進のあり方」。
厚生労働省(2004)「社会保障審議会福祉部会第 9
回議事録」。
駒村康平(1999a)「介護保険,社会福祉基礎構造改革と準市場原理」,『季刊社会保障研究』35
(3)。
(1999b)「疑似市場(準市場)」,庄司洋子他編『福祉社会事典』弘文堂。
児山正史(2004)「準市場の概念」『年報行政学』日本行政学会,39,pp. 129-146。
佐橋克彦(2002)「わが国の介護サービスにおける準市場の形成とその特性」『社会福祉学』日本社会福祉学会,42(2),pp. 139-149。
(2006)『福祉サービスの準市場化』ミネルヴァ書房。
芝田英昭(2001)「社会福祉法の成立と福祉市場化」『立命館産業社会論集』,36(4),pp. 12-25。 清水谷諭・野口晴子(2004)『介護・保育サービス
市場の経済分析』東洋経済新報社。
社会福祉法人経営研究会(2006)『社会福祉法人経営の現状と課題―新たな時代における福祉経営の確立に向けての基礎作業―』全国社会福祉協議会。
東京都福祉局(2002)『福祉サービス提供主体経営改革に関する提言委員会 中間提言―社会福祉法人の経営改革に向けて―』。
内閣府国民生活局物価政策課(2002)『介護サービス市場の一層の効率化のために』(介護サービス価格に関する研究会報告書)。
狭間直樹(2006)「社会福祉サービスへの営利企業及び NPO の参入に伴う政策手法の変化」『北九州市立大学法政論集』,34(1・2),pp. 29-61。
平岡公一(2002)「福祉国家体制の再編と市場化―日本の介護保険を事例として―」,小笠原浩一・武川正吾編『福祉国家の変貌―グローバル化と分権化のなかで』東信堂。
保育行財政研究会(2002)『保育所への企業参入―どこが問題か―』自治体研究社。
横浜市公式ホームページ,「横浜市の『福祉サービス第三者評価』 のコーナー http://www.city. yokohama.jp/me/kenkou/hyouka/
(はざま・なおき 北九州市立大学准教授)
季 刊 ・ 社 会 保 障 研 究 Vol. 44 No. 1
82
福祉国家における「社会市場」と「準市場」
圷 洋 一
はじめに
近年,経済市場の「外枠」であるはずの福祉国家に「市場論理への整合化」を求めていこうとする「市場の全面化」の動きが着々と進行している
〔渋谷・平岡編 2004,p. 8〕。介護・医療・教育など各種社会サービスにおける「準市場 quasi- market」の導入をはじめ,各国で進められている市場化の進展は,法制度の変更にとどまらず,
「福祉」の見方や求め方の変容を伴うものであるともいえる。
本稿では,イギリス福祉国家の市場化(サッチャー改革)前後において,社会政策の策定過程と学術論議に主導的役割を果たしてきた二人の福祉理論家の議論を検討する。そして,両者間の主題の変容に,社会防衛論(社会の護り方に関する認識)の転換を見出し,そのような転換の思想的背景を考えることを通して,福祉国家の市場化という趨勢の「深層論理」を探ることが本稿のねらいである1)。
本稿で扱う二人の理論家とは,社会政策研究の草分けとしてわが国でもよく知られるティトマス
(Richard Morris Titmuss)と,ロンドン大学「リチャード・ティトマス社会政策教授」のルグラン
(Julian Le Grand)である。周知のようにティトマスは, イギリス福祉国家の成長期( 戦後~ 1970 年代初頭)において,社会政策の規範的正統化と学問的発展に寄与した。その学術的貢献もさることながら,労働党政権の各種政策顧問や審
議会委員を歴任し,実際の政策運営にも多大な影響を与えた。他方,ルグランは生粋の経済学者であり,戦後イギリス福祉国家における平等主義の失敗(中産階級の優遇)を実証的に明らかにした研究でも知られている〔Le Grand 1982〕。彼は 1997 年発足のブレア労働党政権の主席政策顧問
(senior policy advisor, 2003-2005) を 務 め る など,ティトマスと同様,実際の政策過程に積極的な関与を行っている。
一見するとよく似た境遇の二人だが,その理論的主題は好対照をなす。前者から後者へと至る主題の変容は「社会市場social market から準市場 quasi-market へ」と表現することもできる。本題に入る前に,「福祉国家の市場化」の意味と「社会防衛」と福祉国家との関わりを確認しておきたい。
I 福祉国家の市場化と社会防衛
1 福祉国家の市場化と準市場:基本事項の確認準市場は福祉国家の市場化の一環として捉えうるが, その理解は決して一様ではない〔児山 2004〕。わが国の準市場研究は多数に上る〔駒村 1995,1999;長澤 2002,2005;河野 2005;佐橋 2006 など〕。その多くはルグランらの初期の研究
〔Le Grand & Bartlett 1993〕を参照している。ルグランによれば,準市場は顧客をめぐって独立の提供者が「競争」を繰り広げるという意味では
「市場のようなもの」であるが,ある重大な点で
「通常の市場とは異なっている」とされる〔Le
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福祉国家における「社会市場」と「準市場」 83
Grand 2007, p. 41〕。それは,利用者がサービスを自腹で購入することなく,国家が費用を賄うとともに,バウチャーなどを通じて利用者の「選択」の自由を促す点である。準市場は,人々の購買力の違いから生じる不平等を回避するような形で公共サービスを提供するしくみであり,基本的に
「平等主義的装置」であるとされる。ルグランは,こうした準市場のあり方を中心にすえた公共サービス論と,これを基礎づけるための理論を展開しているが,その詳細についてはIII で検討する2)。
また福祉国家の市場化は,準市場の展開に尽きるものではない。わが国の対人社会サービス分野では,社会福祉基礎構造改革と介護保険制度,そして支援費制度から自立支援法に至る各種の改革に,準市場的な展開を認めることができる。これに先行し,シルバー・ビジネスなど民間営利部門の福祉サービス事業への参入をはじめ,福祉供給主体の「多元化」「営利化」もみられた。昨今の社会政策の基調をなす「自立/就労支援」の促進や強化,そして「契約化」や「応益負担」の流れ
(これらが反映する「消費者主義」カルチャー)も市場化の一環とみなせよう。対人社会サービスに限らず,臨調行革路線の延長上に橋本内閣以降
「構造改革」として進められた一連の「規制緩和」「民営化」「分権化」,そして近年における民間企業の経営手法の導入を企図した行政改革(新公共管理:New Public Management) としての
「市場化テスト」「PFI」「指定管理者制度」なども,福祉国家の「市場化」に位置づけられるはずである。
2 市場と福祉国家:存在理由としての社会防衛こうした広い意味での「市場化」が淡々と進め られていくのを目の当たりにすると,それはまるで抗しがたい「時代の流れ」であるかのようにみえてくる。しかし,福祉国家が市場との緊張関係のもとで形成されてきた経緯を忘却することは,その存在理由を見失うことにもつながりかねな
い。
福祉国家や社会保障の概説書には,トーンの違
いはあるものの,社会が国家によって市場の拡大や産業化のネガティブな影響(失業,低所得,不平等など)から防衛・保護されていく一連の展開が描かれている 3)。このような展開は,福祉国家の歴史的な存在理由が市場からの「社会保護=社会防衛 social protection」に見出せることを示している。〔Spicker 2000=2004, pp.182-3〕。
社会防衛ということで直ちに想起されるのは,グローバリズム批判〔Gray1998=1999〕や市場社会の再検討〔佐伯・松原編 2002〕などの文脈で,近年あらためて脚光を浴びているポランニーの議論であろう。その主著『大転換』には,「自己調整的市場」をはじめとする 4 つの制度から構成された「19 世紀文明」が,20 世紀に大転換を遂げていくプロセスとメカニズムが描かれている
〔Polanyi 1957=1975〕。ポランニーは近代西欧の歴史を,市場経済(資本主義経済の拡張運動)と社会(社会の自己防衛運動)の「二重の運動」として描き出した〔ibid. p. 101〕4)。20 世紀の大転換をもたらしたのは「悪魔のひき臼」のごとき市場経済の浸透からの社会の自己防衛であり,その結果,世界史的なできごと(二度の世界大戦,管理通貨制,社会主義,ファシズム,ニューディール)が生じたとされる〔ibid. p. 273〕。こうしたポランニーの議論は,福祉国家研究の拠り所にもなっている5)。
3 福祉国家「市場化」と社会防衛の転換
ポランニーの思想は,社会にアクセントがあるものの,「市場か社会か」式の二元論にはおさまらない議論(二重運動論)であり,このことがポスト冷戦(ポスト社会主義)の現代において市場を批判的に考察する手がかりとして多くの論者を惹きつけていると思われる。ポランニーの視点を継承した者は少なくないが,なかでも異彩を放っているのがグレイである〔Gray 1998=1999〕。
グレイの議論にも「社会的市場」という表現が散見される。これは「社会に根ざし,多くの種類の規制や制約から逃れられない市場」〔ibid.
p. 3〕をさしており,文脈依存的な(社会に埋め込まれ,また文化に根ざした)「市場」を,社会
84 季 刊 ・ 社 会 保 障 研 究
Vol. 44 No. 1
的・文化的文脈を無視したグローバル市場(アメリカ型の市場原理主義)に対置させるものである。ポランニーを下敷きにしたグレイの議論は,福祉国家の「市場化」が,グローバリズムの時代における「二重運動」と,そのもとでの「社会防衛の転換」として捉えうることを示唆している。では,その転換とはどのようなものなのだろうか。以下その転換を,ティトマスからルグランに至る主題の変容に読み取ってみたい。
II ティトマスの社会市場論の負債
1 ティトマス社会市場論の骨子
ティトマスは,社会行政(social administration)の位置づけを探るために,モースとボールディングによる非市場領域に関する議論を参照した文脈で,社会市場という表現を用いた。そこにはポランニーと同種の発想がみてとれる6)。
「たとえそれが現金, 時間, エネルギー, 償い,血液,生命それ自体など,いかなる形をとろうとも,補助(grant)や贈与や一方的移転は,社会的なものthe social の特徴的な印であり,それはちょうど交換や相互移転が経済的なもの the economic の印であるのと同じである。大げさかもしれないが,この社会的なものの領域を,「経済市場」と対照区別し「社会市場」として概念化することを検討してもよいのではないだろうか」
〔Alcock et. al., eds. 2001, p. 206〕7)。
残念ながらこの引用箇所からは,社会市場が主として国家福祉供給の領域をさすのか,またそれ以上の広がりを認めうるものなのかは判然としない。だが「社会的なものの印」であるという規定や,次節で述べる一連の議論をもとにすれば,国家福祉供給に限らず,これを含んだ「贈与関係」が展開する広範な社会過程を「社会市場」の範囲と考えるのが自然であろう。社会市場がそのような広がりをもつものと解釈できるとするなら,ティトマス理論の全体を「社会市場論」として特徴づけてもさしつかえないと思われる。
ティトマスの社会市場論的福祉理論は,「ティトマス・パラダイム」という表現もあるように, 1950 年代から 70 年代初頭までの社会政策研究を左右した〔Wilding 1995, p. 150〕。ティトマスの理論は,成長期の福祉国家における「福祉」の見方・語り方・求め方を水路づけるような知的基盤をなしていたといっても過言ではないだろう。と同時に,ティトマスへの批判とその「負債」の清算に,福祉国家をめぐる知的基盤の転換を(さらにはそこに反映される範囲で福祉国家的な社会防衛の転換をも)みてとることもできると思われる。
2 ティトマス社会市場論的福祉理論の概要とその「負債」
ティトマスは経済市場の道徳的弊害と産業化の物質的弊害に対する「社会防衛」として,社会市場の諸活動(普遍主義的社会サービスによる必要充足)を位置づけたといえる8)。社会市場における必要充足理由としてティトマスは「社会的費用」という観点を強調した。社会的費用とは,産業化の影響によって社会が被る集合的なコスト
(損失・犠牲・費用)をいう〔Alcock et.al., eds. 2001, pp. 52-3〕。それはとりわけ脆弱な人々や不利を被っている人々に集中し,不平等を拡大させていくとされる。こうしたコストのうち,公害や差別などのように,発生原因や責任主体を突き止めることが困難である場合,国家が普遍主義的な社会サービスを通じて「補償」する他はないとティトマスは主張した〔ibid. pp. 120-1〕。こうしたコストを償い社会を防衛する方法は,「社会統合」に貢献すると目された普遍主義的社会サービスと制度的・計画的な再分配であるとされた
〔ibid. p. 117〕9)。
こうしたティトマスの社会市場論は,経済成長とその弊害が指摘されるなか,産業化の反省的乗り越えとしての「福祉化」〔藤村 2006,p. 13〕に大きな期待がかけられた時代にマッチした枠組みを提供するものであった。ティトマスは「福祉」の特殊性(社会の犠牲者としての利用者,利他的贈与の道徳的優位性など)に依拠して経済市場か
Summer ’08
福祉国家における「社会市場」と「準市場」 85
ら切り離した社会市場もとで,経済成長に見合った「社会成長」を期待したが,その議論は二項対立図式に基づく社会市場一元論に陥ってしまったと批判されてきた〔Reisman 2001, p. 243〕10)。
ティトマス批判のポイントは,①経済市場が社会サービスの財源となる富を創出していることを軽視しすぎている,②経済市場の力をもっぱら搾取と社会的費用の元凶とみなしている,③市場への包摂がもたらす結合力を認めていない,④彼の影響力によって社会政策研究者の多くは経済市場を機能させることに無関心となってしまった,⑤経済市場の力を社会的善に向けて飼い慣らし調整する可能性も社会政策研究から排除されてしまった, という 5 点に整理できる〔Wilding 1995,
p. 151〕。ピンカーは,市場と親和的な多元的福祉供給論を展開することで,その「負債」を理論的に清算しようとした〔Pinker 1979=2003〕。そしてピンカーが切り開いた多元主義を,さらに推し進めた本格的な清算人こそルグランであった11)。
3 わが国における社会市場論
ルグランの議論に関する検討に入る前に,それとは別方向の「清算」について触れておきたい。ティトマスの社会市場概念は,わが国の福祉研究でもしばしば言及されてきたが 12),最も精力的に当概念の再評価を試みてきたのは京極である。京極はこれまでも折に触れて社会市場概念に言及し,社会福祉の理論構築に活用してきた〔京極 1990, pp.56 - 8; 1998, pp.77 - 82〕。近年では,社会市場概念を再検討しながら,準市場をも包摂する理論装置に仕立て,社会保障改革への問題提起を行っている〔京極 2007,2008〕。
その際,議論の軸とされるのが独特な「福祉需給モデル」である。そこでは福祉サービスを需要と供給のみでとらえる「フリードマン型」,経済市場の需給関係と区別される社会市場の必要・資源関係に特化した「ティトマス型」,ティトマス型の必要に政策需要を組み入れ,これに供給(公的福祉供給)を対置させる「三浦型」,そして必要と需要,資源と供給の区別をふまえた「京極型」の 4 つの説明モデルが対比される。
京極〔2007〕は,自身の福祉受給モデルに基づいて社会市場の輪郭を描き,価格メカニズムではなく行政手法によって公共サービスの需給関係が調整されていく政策空間として社会市場を概念化している。京極は,社会的に構成される「必要」と「資源」との間に,政策的に構成される「需要」(顕在化した必要;行政需要)と「供給」(実現化した資源)の関係を見てとり,そこにある種の「市場性」(経済市場との類似性や選択的親和性)を認める〔ibid. pp. 50-5〕。
その社会市場論の全般的特徴は,①社会市場と経済市場との相補性・連続性,②福祉供給経路の多元性・多様性,③経済市場で培われた倫理・方法(効率性,選択の重視等)の有効性,④社会市場の相対的自律性(上記の受給関係,需要拡大効果,減税支出を含む「社会貨幣」の供給等)の 4点を強調することに見出せよう。それは以下で見るように方向性は異なるものの,ルグランの福祉理論と大きく響き合うものであり,いずれもティトマスから出発し,その「負債」を乗り越えつつ,喫緊の政策課題に応えようとしている。京極の社会市場論は進行途中の議論であり〔京極 2008〕,今後のさらなる深化が期待される。
III ルグランの福祉理論と準市場
1 イギリスにおける知的基盤の転換:ミクロ経済福祉への着目
ティトマスは「マクロ経済福祉」に強い関心をもっていた〔Reisman 2001, p. 57〕。「マクロ経済福祉」とは,ティトマスが福祉国家に密かに期待した規範的目的であり,主として未公刊の講義・講演の記録やノートに散見されるもので,具体的には「完全雇用への集合的責任,労働権,経済の管理と監視,ケインズ革命,大量失業の除去」などをさす〔ibid. p. 58〕。公刊された研究ではほとんど明示されなかったが,ティトマスは各国での講演で,戦後の福祉向上(栄養状態の改善や平等化)は「いかなる社会サービスよりも,完全雇用のおかげである面が大きい」と公言していた
〔ibid. p. 59〕。先にみた京極の社会市場論は,テ
86 季 刊 ・ 社 会 保 障 研 究
Vol. 44 No. 1
ィトマスが明示的には扱わなかったこの「マクロ経済福祉」に焦点をあてた社会市場の現代化論といえる。
他方,ティトマスは「ミクロ経済福祉」なるものを,その市場個人主義フォビアもあって,徹底して排除した〔ibid. p. 64〕。「ミクロ経済福祉」とは,職業訓練・機会均等・参入禁止是正などの雇用(機会)政策や,価格統制・最低賃金・家計補助などの所得政策によって向上が期待される,個別の経済主体(家計,売り手,買い手)の福祉のことである。その一部については「財政福祉」として言及しながらも,ティトマスはミクロ経済福祉を意図的に無視することで,福祉供給における個別主体の「動機づけ」を政策科学的に扱うための理論枠組みを自ら放棄してしまったのである
〔ibid. pp. 243-67〕。
このように,ティトマス社会市場論の「負債」を清算する方向には,「マクロ経済福祉」に着目するものと,「ミクロ経済福祉」に着目するもの
がありうる。ティトマスからルグランへと至るイギリスにおける知的基盤の転換は,後者の方向で進められてきたといえる。
2 ルグランの公共サービス論の概要
ルグランの準市場論は,ティトマス社会市場論の負債を清算し,ミクロ経済的観点を導入することでその「現代化」を企図するものといいうる13)。ルグランは「よい公共サービスとは何か」という問いから議論に着手する〔Le Grand 2007, p. 6〕14)。そして「よい公共サービス」のための手段として 4 つの提供モデルを示す〔ibid. pp. 14-5〕。それは①「信頼 trust モデル」(専門職などの公共サービス従事者が,質の高いサービスを提供することに信頼をおくモデル),②「成果主義 targets and performance management モデル」(上位権限者が従事者に良質のサービスを提供するよう命令したり方向づけたりする指揮監督的モデル),③
「発言 voice モデル」(公共サービス利用者が自ら
表 1 ルグランによる公共サービス提供モデル
長 所 | 短 所 | |
信頼モデル | ①利他的動機(「ナイト」的動機)に基づく独立自尊の専門職が最善のサービスを提供することが期待される, ②期待通りなら監視のコスト(実施費用,監視者の労力や負担感,被監視者の意欲低下)を削減できる。 | ①専門職は必ずしも純粋な利他的動機で行動せず,利己的に行動した場合の弊害はきわめて大きい,②純粋な利他的動機に基づくとしても利他主義の弊害に陥りうる, ③当モデルが前提とする他職種との協働・連携は破綻しやすい,④当モデルの枠内では上記の問題を解決できそ うにない(ピアレビューの限界等)。 |
成果主義モデル | 数値目標や賞罰の厳格な設定と指揮監督の徹底により,短期的にはサービス水準を向上させ,かつてなら考えられなかったようなめざましい成果をあげうる。 | ①成果目標達成だけを動機づけ持続的な革新を萎縮させる,②達成数値のごまかしなどの不正が横行する,③管理能力を超えた事態による成果達成の失敗や成功に対す る賞罰が恣意的で不公平になりやすい。 |
発言モデル | ①利用者の必要や欲求が感じたままに伝えられる,②改善を図ろうとする提供者にとり有益な情報となる,③コミュニティの関心が考慮される。 | ①苦情処理手続には多大な時間・労力・覚悟が求められる,②声の大きい者(明瞭に語れる者,教育のある者,裕福な者,コネのある者)の意見が通りやすい,③中産階級は公的な苦情処理のしくみに頼る必要はない,④サービスが独占供給されていれば,いかなる苦情も無視さ れる。 |
選択・競争モデル | ①自律原理を満足させる,②利用者の必要と欲求への敏感さを促進する,③供給者に質の向上と効率化を動機づ ける,④他の手段よりも公平になる傾向がある。 | 多くの成立要件を満たさねばならない(たとえば,提供者の新規参入を容易にする手だて,利用者の選択を支援 するための情報や資金の提供等)。 |
出典) Le Grand 2007, pp. 16-62 をもとに作成。
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の見解を各種の方法でサービス提供者へと直に伝達するモデル), ④「選択・競争 the ‘invisible hand’ of choice and competition モデル」(提供者が販売競争を繰り広げているサービスの中から,利用者が希望するサービスを選択するモデル)である。この④は準市場の理念型である。ルグランは,各モデルには一長一短があって,実際の政策はこれらを組み合わせて用いており,どれか一つのモデルで他を置き換えることはできないとしている〔ibid. p. 15〕。各モデルの長所と短所は表 1のようにまとめられる。そして④は,それらの短所を克服し,「よい公共サービス」の条件を備えたものとされる。
3 ルグランによる動機と行為主体性の基礎理論つぎに,その下敷きとなっている基礎理論のポイントをおさえておく。 ルグランは「 動機 motivation」を,行為を誘発する内的な欲望や選好と定義し,「行為主体性 agency」を,そうした行為をなすための適切な能力と定義する〔Le Grand 2003, p. 2〕。そして,いかなる公共政策が形成されるかは,政策策定者が,ステークホルダー(提供者と利用者)の動機と行為主体性をどう捉えるかに左右されるとする。そうした政策策定
者の想定を,ルグランはチェス駒に喩えて類型化する。動機に関しては「騎士 knights」(公共精神に満ちた利他的な行為主体とその動機)と「悪漢 knaves」(自己利益によってのみ動機づけられる利己的な行為主体とその動機)が区別され,行為主体性に関しては「兵隊pawns」(受動的組織人・無力な利用者)と「女王 queen」(能動的で賢い消費者)が区別される15)。
ルグランによれば,公共サービス提供の「準市場革命」は,動機と行為主体性に関する政策策定者たちの想定の転換として解釈できるという
〔ibid. p. 17〕。そして戦後の社民的福祉国家(そしてこの時代を象徴するティトマスの社会市場論)は,提供者をナイト,利用者をポーンとみなす想定のもとで形成されてきたが,ニューライト的再編と準市場革命は,提供者をネイブ,利用者をクイーンとみなす想定のもとで生じた,とされる〔ibid. pp. 4-11〕。
ルグランは,行為主体性をめぐる問題は「その性質上,総じて規範的である」という。なぜならそれは「行為主体性とは何かという問題ではなく,行為主体性は何であるべきかという問題」に関わっているからだとされる〔ibid. p. 73〕16)。そしてルグランは,行為主体性問題に応答していく
表 2 行為主体性問題をめぐる 3 つのアプローチ
行為主体性問題の焦点 | 行為主体性問題への応答 | |
福祉主義 welfarist アプローチ | 個々人の福祉がどのような影響を被るかが焦点。個々の利用者をポーンとして扱うべきかクイーンとして扱うべきかは,その扱いが利用者の福祉を増大 させるかどうかにかかっている。 | 個人こそが当人の福祉に関する最善の判定者であり,基本的には利用者をクイーンとして扱うべきだが,公共政策の場面ではこれがあてはまらないこと もあり,その場合にはポーンとして扱うべきだ。 |
自由主義 liberal アプローチ | 個人の自由にどのような影響が及ぶかが焦点。利用者がポーンであるべきかクイーンであるべきかは,最終的にそれが行為の自由を増大させるかにかかっ ている。 | 決定し選択すべきは利用者であり,たとえ専門家の決定が利用者の決定・選択能力を拡大することがあるとしても,利用者には能力拡大を選ばない権利も あり,あくまで利用者はクイーンであるべきだ。 |
共同体主義 communitarianアプローチ | 決定に関する個人のパワーの拡張が社会全般にどのような影響を及ぼすかが焦点。その拡張(つまりクイーンとして扱うこと)が,最終的に共同体にとって利益となるか損害となるかにかかっている。 | 決定と選択の主体は利用者であるとしても,経済学でいう「外部性」,つまり決定や選択が他の利用者や非利用者そして社会全体に及ぼす影響(肯定的・否定的な結果)を勘案し,誰が決定・選択するかを 決めるべきだ。 |
出典) Le Grand 2007, pp. 16-62 をもとに作成。
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うえで,3 つのアプローチがありうると指摘する
〔ibid. pp. 75-8〕。各アプローチがどのように行為主体性問題に応じるか,議論の焦点と,想定される応答については表 2 のように整理できる。
ともあれ実際は,利用者と供給者の間には情報や権力の格差・非対称がみられ,両者のパワーバランスは非常に不安定なものとなっている。そうしたなか,3 つのアプローチからも合意がえられるかたちで,利用者と供給者の間に適切なパワーバランスをもたらすには,公共サービス提供システムを利用者がエンパワーメントされるよう設計すべきだとし,二種類の方法をあげる。それは
(〔Hirschman 1970=2005〕からの援用である)
「発言 voice」と「離脱 exit」である〔Le Grand 2003, p. 82〕。「発言」は表 1 の通りである。「離脱」とは,利用者が現在の提供者のもとを離れ別の提供者に移れるような状態にあることをいうが,その短所は,利用者を失った提供者は資金難になり,利用者を獲得した提供者は資金源を得ることになる結果,提供者間の二極化や分断が生じ,さらにそれが「クリームスキミング」(提供者に都合の良い利用者の囲い込み)を通じて加速され,施策の公平性を損なってしまうおそれがあることだとされる。
望ましい公共サービス提供システムは,上記の
「選択・競争モデル」であり,それは発言や離脱によるエンパワーメントを通じて利用者をクイーンとして扱うとともに,過剰な利用と供給をもたらしたり利用者本人と社会にダメージを与えたりするようなサービス利用を避けうるものとなろう,とルグランは指摘する〔ibid. p. 84〕。それはまた,ネイブとナイトの適切なバランスにねざしつつそうしたサービスを提供するよう提供者を動機づけるとともに,社会が期待するような形で
(たとえば効率的かつ公平に)サービスを提供してくことになろう,との期待を表明している。
IV 整理と考察
1 社会防衛論としての整理
最後に,これまでの検討をふまえ,福祉国家の
市場化という趨勢の深層にいかなる論理を見出せるかについて考察してみたい。まず,ティトマスとルグランの議論は,次のような「社会防衛論」として捉え直せるだろう。
ティトマスは,経済市場と区別された社会市場において「社会的なもの」の隔離的な保護・防衛により,「経済成長」と相補的であるべき「社会成長」 を追求しようとした〔Reisman 2001,
p. 253〕。これは福祉国家の成長期にマッチした社会防衛論であり,社会市場は,社会成長のための保護された倫理的な場(ナイトの領域)として構想することが許された時代の産物ともいいうる。だがそれは,市場のポテンシャルを遠ざけることになるがゆえに,その二項対立図式に基づく経済市場の切り離しと軽視は「負債」とみなされた。
他方,ルグランは市場の「全面化」とポテンシャルを前向きにうけとめ,準市場をはじめ,ポーンをクイーン化するための公共サービス改革による能動的な「社会」防衛をめざしているといえよう。それは,強く賢い自律的で能動的な生活者の形成によって,ナイト的・ネイブ的な動機と行動の弊害(英雄主義的パターナリズム,情報の非対称性の悪用,社会資源の濫用など)から「社会」を防衛しようとするものである。この場合の「社会」は,後述するように人々が主として経済的利益を追求する「市場社会」であり「生活者がつくる市場社会」〔久米編 2008〕とも表現しうる。これは市場が「全面化」する時代にフィットする社会防衛論であるともいえる。
2 福祉国家市場化の深層論理:市場社会の商業平和としての「社会防衛」
ティトマスからルグランへと至る社会防衛論の転換には,以下のような福祉国家市場化の「深層論理」が見出せよう。それはルグランが議論の下敷きにするハーシュマンの市場擁護論と関わる17)。ルグランは自らの市場擁護を率直に表明している〔Le Grand 2003, p. 164〕。そこで引用されるハーシュマンの議論は,資本主義の生成期にいかなる意図や期待のもとで市場が擁護されたの
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かを,モンテスキューらの所説をたどって再確認するものである。その意図・期待とは,「人間を敵対的な権力闘争から遠ざけ,若干馬鹿げたもの,不愉快なものではあるが,本質的には無害な富の蓄積に向かわせる制度」である「金儲け」
(金銭的「利益」)に,人々の情念(戦争や暴力に向かう自尊心や虚栄心といった人間の「危険な情念 」) を 振 り 向 け さ せ る こ と に あ っ た
〔Hirschman 1977=1985, p. 135〕。ハーシュマンは,「正しい理性で社会を統治するのではなく,より穏和な情念を有害な情念に対抗させることで,結果的に社会を安定させるということが,革命と戦乱が渦巻くなかで真剣に模索されてきたことの重要性にあらためて目を見開かせようとした」のである〔矢野 2004,p. 170〕。
ルグランの社会防衛論には,経済的利益による飼い慣らしの手綱を逃れた「情念」が,(ネイブのみならずナイト的欲望も含む)名誉や威信へとなだれ込み,他者支配や権力行使といった野蛮なかたちをとって「社会」に破壊的な影響を及ぼし始めることへの警戒がみてとれる。つまり,福祉国家の市場化の深層論理は,ハーシュマン=ルグラン説に基づけば,経済的利益へと人々の情念を水路づける「市場社会」の商業平和(「穏和な商業」doux commerce)への期待であり, その維持・促進をめぐって「市場」登場以来その底流をなしてきた黙示的理路として解釈することができる,ということである。
3 課題
一方は「社会的」と形容され,他方は経済市場に「準ずるもの」と形容される二つの市場概念は,それぞれ異なった社会防衛のあり方を切り拓いている。図式的にいえば,前者(ティトマス社会市場論)は,社会的なものを経済的なものから防衛しようとする発想にたち,後者(ルグランの準市場論)は,社会的なものを経済的なものによって防衛しようとする発想にたつものとして区別しうる。
福祉国家の市場化をはさんで登場した二つの市場構想は,いずれも資本主義的自由市場には集約
しえない市場のポテンシャルを追求しようとしているとも考えられる。その意味で両者は「市場を超えた市場」を模索するものといえるだろう。そのようなポテンシャルを見定めつつ,「社会的なもの」を防衛さらには創造していく方途を探っていくことに,「社会的な国家」〔市野川 2006〕における福祉追求の理論的課題を見出すことができると思われる。そのとき,見定めるべき市場のポテンシャルは,自己利益だけを見るように促すような私益没入作用ではなく,自己利益と他者の利益追求とを関連づけるように促す共的(共感的・共同的・公共的)な作用にあるといえるのではなかろうか。
注
1)「深層論理」とは,主題とされる現象(本稿では「福祉国家の市場化」)に兆候として現れてはいるが,見えにくい事態や発想を意味している。そうした事態や発想を言葉にして見えやすくしながら,そこに何らかの理路を見出すことには,主題に関する議論の広がりや深まりが期待しうると思われる。見えないところに真実が隠れていると私たちは考えやすく,深いところは見えにくいことから「深層=真相」といった連想もうまれやすいが「,深層論理」は決して「真相論理」ではない。
2)なお,ルグランにとって準市場メカニズムは,後述するように,あくまで公共サービス利用者をエンパワーメントし,ポーンからクイーンへと転換するための手段・方法のひとつであり,とくに社会サービス(医療,教育,介護)に適した手法として位置づけられる。むしろ,その他の手法として「デモグラント」(部分的基本所得)や「パートナーシップ預金」などを活用し,「 資 産 型 平 等 主 義 asset-based egalitarianism」に定位した制度的インフラの整備(所得保障を超えた資産保障)こそ,人々の自律と能動性にとって欠かせないとしている
〔Le Grand 2003, p. 124〕。
3)市場と福祉国家の関係をめぐる一般的理解の骨子は次のような比喩的説明で確認できるのではないだろうか。あるときあるところで(19 世紀初頭イギリス),天然の土壌(伝統社会)に埋め込まれていた種子から発芽した奇妙な植物
(市場)が,土壌の豊富な養分を吸い上げながら急速に生長をとげていった。そして土壌(相互扶助的な共同体)は,次第にこの植物の実りに依存し始めていった(産業化と商品化)。発
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育途上の段階では植物の実りはいまだ少なく,土壌は収奪されるがままとなるが,土壌の疲弊が顕著になると,植物自体の生存も危うくなった(不況・恐慌,貧困の蔓延,階級闘争の激化)。その結果,果実を収穫して肥料として蒔いたりするなど土壌のメンテナンスが求められていった(各種政府介入)。そうしたメンテナンスは,当初,発育に最低限必要な範囲にとどまっていた(夜警国家)。だが,放っておけば土壌から養分を吸い上げ尽くし,またほとんどの果実を再吸収してしまう貪欲な植物と,果実の養分にもっぱら依存するよう変質した土壌(産業社会,労働社会)を前に,双方への本格的なメンテナンスが要請されていった(ケインズ・ベヴァリッジ主義的福祉国家としての社会防衛)。
4)包括的なポランニー研究〔佐藤 2006〕に依拠すると,その社会防衛論の要点は次のようにまとめられる。それは,①伝統的社会の「構造化」された人間関係がおりなす「共同体的なもの」の非匿名的・人称的文化〔ibid. p. 56〕を,
②「人々の自尊心と規範の喪失などからなる道徳的退廃」〔ibid. p. 49〕を伴う自己調整的市場の匿名的・非人称的文化の浸透による破壊から,③「自己調整的市場」イデオロギーへの対抗運動としての「民主主義への要求」〔ibid.
p. 84〕によって護ろうとする,「社会の自己防衛運動」ということになる。そして福祉国家は,民主主義への要求をうけた国民国家による社会防衛的な統治形態(佐藤の表現では「基層社会+国民国家」) として解釈できる〔ibid.
p. 100〕。
5)福祉国家研究との関わりでは,エスピン-アンデルセンがレジーム分析に用いた「脱商品化」が,ポランニー由来の概念であることはよく知られている〔Esping-Andersen 1990= 2001, p. 41〕。労働・土地・貨幣が「擬制商品」であるというポランニーの指摘は,もはや社会科学にとって「常識」の範疇にあり,福祉国家研究の基本的視点であるともいえる〔武川 2007, p. 19〕。ポランニーの議論を,福祉国家の哲学として位置づける試みもある〔若森 2007〕。また,ポランニーが見出した社会原理をもとに,福祉国家を含む近代社会の資源配分様式(自助,互酬,再分配,市場交換)を捉える議論もある〔藤村 1999, pp. 12-20〕。
6)ティトマスは「社会学的経済学 sociological economics」 に強く魅入られていたという
〔Reisman 2001, p. 241〕。ライスマンのいう社会学的経済学とは,財とサービスの生産・消費・分配・交換を「社会的事実の束」と捉え,経済を広範な社会現象の一部とみなすアプロー
チであり,ポランニーを筆頭とする経済人類学とほぼ同義といえる。ここからはティトマスの社会市場と,ポランニー的な社会(防衛)観との親和性がみてとれる。
7)しかしティトマスは,この言及のあと社会市場概念をほとんど深めることはなく,むしろそれはフォロワーたちが広めたものであるといえる。 近年ではギルバート〔Gilbert & Gilbert 1989=1999〕や後述の京極による拡張的議論もみられるが,とりわけそれはピンカーによってティトマスの議論を特徴づける概念として積極的に用いられてきた〔Pinker 1971=1985, pp. 25-6;1979=2003, p. 81〕。なお,
ティトマスの原典からの引用頁数は,煩雑さを回避するために,オルコックらが編集したティトマス選集〔Alcock et. al., eds. 2001〕に統一する。
8)ティトマスにとって社会市場の社会サービスは,二重の意味で自己防衛的である。というのも,必要の社会的な構築と充足は,社会が有機体として生き残ろうとする意思の表明であるとともに,他者の生き残りを支援しようとする万人の意思の表明でもあるとみなされていたからである〔Alcock et. al., eds. 2001,
p. 62〕。
9)ティトマスは,社会統合こそ社会政策を経済政策から分かつ本質的特質と考え,その主題は統合を促進し疎外(今日風にいえば社会的排除)を阻止するための社会制度にあるとした〔ibid. p. 190〕。だが当時のイギリス福祉国家における再分配はかなり控えめであり,医療や所得保障などの普遍主義的な社会サービスは,低所得階層よりも中・上流所得階層にとって有利な結果をもたらし,むしろ分断と不平等を促進していた。最も重大な必要を抱えている人々に,スティグマのおそれを最小限にとどめつつ,これまで以上に資源を振り向けていかねばならない。この難問に対するティトマスの答えは「積極的優遇」であり,それは普遍主義を基礎としながら,カテゴリーと必要の観点で選別を行うというものであった〔ibid. p. 191〕。
10)ピンカーは,個人は現実には経済市場と社会市場の両方に暮らさねばならない,とティトマスによる厳格な区別を批判した〔Pinker 1971=1985, p. 143〕。そうした区別は「道徳的統合失調症 moral schizophrenia」とも揶揄される〔Reisman 2001, p. 261〕。
11)ただしルグランは,ピンカーによる自著への書評を読むまで「私は彼の二つの重要な研究である『社会理論と社会政策』(1971)と『福祉の概念』(1979)が,私の主張を予示してい
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たことに気がつかなかった」と述べている〔Le Grand, 2003, p. 208〕。
12)たとえば古川は 1980 年代の転換期に登場してきた社会福祉の諸パラダイムを「集権主義対分権主義」と「自由市場原理対社会市場原理」という対抗軸を設定して整理している〔古川 1997,pp . 236-8〕。武川は, ティトマスの業績に言及するなかで,「経済的市場」の作動原理が貨幣的裏づけを伴う「需要」とそれに基づく「交換」だとすれば,「社会的市場」の作動原理は貨幣的裏づけとは無関係な「必要」とそれに基づく「贈与」であるとティトマスは考えた, と指摘している〔武川 1991,p. 8〕。高沢は,福祉サービスと経済市場との接点に言及し,補助金の交付や業務委託契約が進み,
「一定の公的監督の下での市場メカニズムが作用している場合」には「社会的市場」が形成されると論じている〔高沢 1985,p. 71〕。また吉沢は,ティトマスや高沢の社会的市場概念の曖昧さに言及している〔吉沢 1987,p. 20〕。坂田は,社会福祉政策の資源配分について説明するなかで,「移転による資源配分を経済市場になぞらえて社会市場という場合もある。そこでの配分はラショニング(割当)によって行われることに特質がある」と指摘する〔坂田 2000,p. 17〕。
13)ルグランのティトマス評価については〔Le Grand 2004〕を参照。坂田は,ルグランが近年の福祉政策における人間観の変容を「騎士から悪漢へ」という図式で解説したと指摘している〔坂田 2007,pp. 272-273〕。坂田が言及したのはルグランの LSE 就任講演であるが,本章ではこの講演を基礎にした主著〔Le Grand 2003〕 と, その一般向け解説書〔Le Grand
2007〕をもとに,その準市場論的福祉理論の概要を整理する。
14)その条件としてルグランは「良質性 quality」「効率性 efficiency」「応答性 responsiveness」「応責性/説明責任 accountability」「公平性 equity」の 5 点をあげている〔ibid. pp. 6-14〕。
15)なお「悪漢」とはヒュームとマンデヴィルから借用された概念で,そういうチェス駒があるわけではない。以下,それぞれナイト・ネイブ・ポーン・クイーンと表記する。
16)この規範問題を形式化すれば「誰が,何について,その程度と担い手を決定するためのパワーをもつべきか?」という問いが成立し,さらにそうしたパワーをもつのは「提供者であるべきか,利用者であるべきか?」が問われ,後者とした場合,「利用者はポーンであるべきか,クイーンであるべきか?」が問われるという。
17)ティトマスの「負債」(市場の無視・敵視)の清算人としてのルグランは,経済的利益を媒介に互いを尊重しあう市場のポテンシャルを福祉供給に活用することを通じて,「福祉国家の市場化」に垣間見える〈可能性〉を追求している。その意味でルグランはハーシュマンの「ポシビリズム」(可能性追求主義)に忠実であるといいうる〔矢野 2004〕。ルグランが「福祉国家の市場化」そして準市場に見出した〈可能性〉の中心は,市場メカニズムを通じた「他者の尊重」「相互尊重」にある〔Le Grand 2003,
p. 165〕。これはティトマスが「社会市場」に期待したものであるが,ルグランはそれを「市場社会」(市場とともにある社会/社会とともにある市場)で追求しようとした。こうした意味でルグランは,ティトマスの「負債」を清算しながら「遺産」を継承しようとしているともいえる。
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-17。
(あくつ・よういち 日本女子大学講師)
季 刊 ・ 社 会 保 障 研 究 Vol. 44 No. 1
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介護給付水準と介護保険料の地域差の実証分析
――保険者データを用いた分析――
安 藤 道 人
要 旨
介護保険では,「第二の国保」化することを避けるために,介護保険料を通じた高齢者における
「受益者負担の原則」が比較的明確な財政負担構造になっている。従って介護給付水準や介護保険料は,介護保険の財政運営の観点からも,介護サービス水準や高齢者の経済的負担という観点からも,非常に重要な指標である。しかし,全国規模の保険者レベルのデータを用いて介護給付水準や介護保険料の地域差の要因を分析した研究はほとんど存在しない。そこで本稿では,介護給付水準がどのような要因に影響されているのかを全国規模の保険者データを用いた回帰分析によって検証する。その上で介護給付水準の地域差の要因と介護保険料額との関係を検証し,今後の介護保険財政運営へのインプリケーションを述べる。
本稿ではまず,高齢者一人当たりの介護サービス給付水準を,認定率,居宅サービスの利用率,居宅サービスの一人当たり給付水準,施設利用率,施設サービスの一人当たり給付水準に分解し,これら給付水準の諸指標の決定要因を保険者データを用いた回帰分析によって検証した。 その上で,推定結果より影響力が高いと考えられる要因を抽出し,その要因と介護保険料額の関係について考察した。その結果,第一に,保険者地域の諸要因が介護給付水準の指標に多様な影響を与えていることが示唆された。第二に,給付水準の各指標や高齢者一人当たりの給付水準に対して,
特に後期高齢者割合と県の施設定員率の影響力が高く,所得段階 1 の高齢者割合も安定的に影響を与えていることが判明した。第三に,介護保険料額が全国レベルで上位と下位の保険者について,これら 3 要因と介護保険料額の関係を見ると,保険料額が高い(低い)保険者においては,所得段階 1 割合や県の施設定員率が全国平均よりも高い
(低い)傾向があることが明らかになった。
本稿の分析によって介護給付水準や介護保険料額に一定の影響を与えることが判明した地域の所得水準や県レベルの施設定員率は,保険者の裁量的な調整や抑制の対象とはなりにくい。従って現状においては,介護保険料額の高騰を必ずしも保険者機能の弱さに起因させることはできない。保険者による給付適正化に様々な限界や問題点があることも考慮すると,中長期的な観点からは,マクロの財政負担とミクロのケアプランの適切性の相方を考慮した介護保障制度を再構築することが必要である。
I はじめに
介護保険の施行から 6 年以上経過し,介護給付
水準や高齢者(第 1 号被保険者1))の第 1 号保険料(以下,介護保険料)額が高まっている。原則的に 3 年ごとに改定される介護保険料は,第 1 期
には全国平均で月額 2, 911 円であったのに対し,
第 3 期には月額 4, 090 円にまで上昇した。厚生労働省は,介護給付費や介護保険料の高額化を抑制するために,介護給付費適正化運動や介護予防プ
Summer ’08
介護給付水準と介護保険料の地域差の実証分析――保険者データを用いた分析―― 95
ログラムなど,様々な施策を打ち出している。 このように介護保険料が高くなるのは,介護保
険制度では高齢者内での「受益者負担の原則」が比較的明確な財政負担構造になっているからである。すなわち,保険者から支払われた介護給付費の一定割合を2),65 歳以上の高齢者(第 1 号被保険者)が介護保険料として負担することによって,部分的に高齢者層における「受益者負担の原則」が実現している。この仕組みには,財政規律の弛緩による介護保険の「第二の国保」化を防ぐという狙いがあった3)。介護保険料の高まりという目に見える負担増を受けて給付適正化に向けた様々な取り組みが多くの自治体で行われていることは,この「受益者負担の原則」がある程度機能していることの証左といえよう。しかし一方で,介護費用の上昇が保険料の高騰に直結して高齢者の経済的負担が重くなることや,保険者が介護保険料の高騰を防ぐために要介護認定や介護給付を過度に厳しくチェックするなどの弊害を指摘する声もある。
このように介護給付水準や介護保険料は,介護保険の財政運営の観点からも,介護サービス水準や高齢者の経済的負担という観点からも,非常に重要な指標である。しかし,全国規模の保険者レベルのデータを用いて介護給付水準や介護保険料の地域差の要因を分析した研究はほとんど存在しない。そこで本稿では,介護給付水準がどのような要因に影響されているのかを全国規模の保険者データを用いた回帰分析によって検証する。その上で介護給付水準の地域差の要因と介護保険料額との関係を検証し,今後の介護保険財政運営へのインプリケーションを述べる。
II 介護給付水準の地域差の分析
1 先行研究の検討
まずは介護保険給付水準の地域差の要因を実証的に分析している先行研究を検討しよう。第一に都道府県データを用いた先行研究としては,まず田近・菊池〔2003〕が,都道府県データを用いて居宅サービスの給付費の実証分析を行っており,
施設サービスが供給制約に直面しており,「満たされない施設需要」が存在する地域では居宅給付費が押し上げられていると指摘している。また Mitchell, et al〔2004〕も都道府県パネルデータを用いて認定率や居宅・施設サービスの利用率(高齢者数に対するサービス利用者の割合)を被説明変数とした回帰分析を行っており,人口密度,保険医療セクターの賃金,平均賃金,後期高齢者割合,施設定員率が被説明変数と相関を持つことを指摘している。また,山内〔2004〕,湯田〔2006〕は,都道府県パネルデータを用いて供給者誘発需要の検証を行い,介護事業者密度が高くなると要介護認定者もしくは居宅サービス利用者当たりの介護サービス水準が増加する可能性を示唆している。田近・油井〔2004〕もまた,都道府県データを用いた分析で,介護サービスの供給水準が介護サービス利用水準を高めていることを指摘している4)。
第二に保険者データを用いた先行研究として,油井〔2006〕が青森県の保険者データを用いて,青森県内の保険者間の地域差,介護施設水準が居宅サービス(民間施設や通所介護)需要に与える影響,高齢者医療費と介護費用との関係などを検証し,介護施設数は通所介護,通所リハビリの給付額と正の相関があることなどを指摘している。また,清水谷・稲倉〔2006〕は全国レベルの保険者データを用いて,保険者の財政状況が認定率,利用率,利用者数,一人当たり支給額に与える影響を検証しており,財政状況の悪化している保険者の認定率や利用率の伸びは抑制されていると指摘している。
これらの先行研究はいずれも重要な分析であるが,都道府県レベルのデータや単一県の保険者データを用いた分析がほとんどであり,実証モデルの特定化の根拠が必ずしも明確でないものも多い。しかし介護保険制度は市町村単位で運営されていることや介護サービスの給付水準は様々な要因によって複雑に決定されることを考慮すると,全国の保険者データを用いて,慎重に実証モデルの特定化を行うことが望ましい。従って次節からは,本稿の分析における被説明変数と説明変数の
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特定化について論じる。
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3 説明変数
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2 被説明変数
本稿では介護給付水準の目安となる代表的な指標を「高齢者一人当たりの介護給付単位数」(以下,「高齢者一人当たり単位数」)と定める。ここで「高齢者一人当たり単位数」は,以下のように分解できる。
単位数 = ⎛⎮ 認定者数 − 施設利用者数 ⎮⎞高齢者数 ⎝ 高齢者数 高齢者数 ⎠
× 居宅利用者数 認定者数− 施設利用者数
× 居宅サービス単位数居宅利用者数
+ 施設利用者数× 施設サービス単位数
それぞれの変数の決定要因について個別に検討する前に,介護給付水準の決定要因について一般的に考察しておこう。介護サービス市場が存在する以上,介護サービスの給付水準は通常の市場と同じく,需要と供給によって決定される。介護サービスの需要要因としては,所得水準,要介護者本人の介護ニーズ,家族の介護力,介護サービスへのアクセスの容易さなどが考えられ,供給要因としては介護サービスの供給制約や供給者誘発需要が考えられる。つまり,線形を仮定すると下記の実証モデルを想定することができる。
高齢者数
施設利用者数
ここで y は介護給付水準を表す被説明変数であ
ここで,左辺を「高齢者一人当たり単位数」 U,右辺を第一項から順に「認定率」a,「施設利用率」rI,「居宅利用率」rH,「居宅一人当たり単位数」UH,「施設利用率」rI(再掲),「施設一人当たり単位数」UI と定義すると,この式は以下のように書き換えられる。
(1)つまり,「高齢者一人当たり単位数」は,「認定
率」,「居宅利用率」,「居宅一人当たり単位数」,
「施設利用率」,「施設一人当たり単位数」の 5 つの給付水準の指標に分解することができる。本章の分析では, これら(1) 式の 6 つの変数のう
ち,「施設一人当たり単位数」を除く 5 つの指標について地域差の要因分析を行う5)。
また,「認定率」の地域差は要介護度によっても異なるため,要介護度別の「認定率」を被説明変数とした分析も行う。さらに「居宅一人当たり単位数」においては,主要な居宅サービスの種類
(訪問介護,訪問看護,通所介護,通所リハビリテーション,福祉用具貸与,短期通所)別の分析も行い,「施設利用率」については施設種類別の分析も行う。
る。一方,Income は所得水準,Needs は介護ニーズ,Family は家族の介護力,Access は介護サービスへのアクセスしやすさ(介護サービスの利用しやすさ),District はその他の地域特性,Supplyは供給要因を表す変数の行ベクトルであり,β1 ~ β6 は各変数に対応する係数の列ベクトルであ
る。ui は撹乱項である。この一般的な実証モデルに基づいて,個別の変数についてさらに検討する。
(1)「認定率」の決定要因の仮説
「認定率」が被説明変数のとき,Income については,高齢者世帯の所得水準が低ければ,地域の介護サービス需要は低くなり,「認定率」は低くなることが想定される。しかし,介護保険には所得階層ごとの自己負担上限や自己負担軽減措置が存在することや,生活保護世帯などの低所得階層のほうが公的サービスへの行政的・情報的アクセスが容易なケースもあることを考えると,所得水準が「認定率」に与える影響の方向をアプリオリに想定することは困難である6)。ここでは地域の高齢者の所得水準として第一号被保険者世帯の各所得段階割合を説明変数として用いる7)。Needsに関しては,地域の高齢者に占める後期高齢者の
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介護給付水準と介護保険料の地域差の実証分析――保険者データを用いた分析―― 97
割合(後期高齢者割合)が高い場合,「認定率」は高くなると考えられる。
Family については,高齢者世帯における高齢単身世帯や高齢夫婦世帯の占める割合が高い場合,その地域の家族介護力は弱く介護サービス需要は高くなり,「認定率」は高くなることが考えられる。一方で,要介護状態になったために家族と同居する高齢者も少なくないことを考慮すると,要介護者の増加が高齢単身世帯割合や高齢夫婦世帯を減少させることも考えられ,この場合には同時性バイアスが発生する。従って本稿では Family の指標として,4 年のラグをとった高齢単身世帯割合と高齢夫婦世帯割合の変数を用いる8)。
Access については,身近に介護サービスやサービス提供主体が多く存在する場合,アクセスコストが低下して,「認定率」は高まる可能性がある。アクセスコストの指標としては,居宅介護サービス事業所密度(介護サービス事業所数を要介護認定者数や居宅サービス受給者数で除したもの)や施設定員率(施設定員数を高齢者数で除したもの)などが考えられる9)。しかし,居宅介護サービス事業所密度に関しては,保険者レベルのデータは入手できない。従って本稿では居宅介護サービスへのアクセス指標として人口密度を用いる。人口が密集している地域ほど,身近に利用可能な介護サービス事業所が多くある可能性が高いと考えたためである10)。一方,施設定員率に関しては,介護施設は都道府県の管轄であり,広域的な観点から保険者区域内に限定せずに供給されていることから,保険者レベルではなくも都道府県レベルの施設定員率のほうがアクセスの指標としてより適切であると考えられる11)。District については,農村部や山間部などでは,家族介護の規範が強いという文化的要因から「認定率」が低い可能性がある。逆に都市部では,家族介護規範が弱く,「認定率」が高い可能性がある。これらの地域特性をコントロールするために,各産業の就業者比率を説明変数に含める12)。また,要介護認定では主治医の意見書が必要となるため,医師へのアクセスの容易さも「認定率」に影響を与えるかもしれない。ここでは医師へのアクセスの指標
として医師密度(人口千人当たりの医師数)を用いる。
Supply について,いくつかの先行研究は,介護事業者による介護サービスの「掘り起こし」によって介護需要が誘発されていると論じている13)。逆に,事業所が少ないところでは居宅介護サービスの供給制約(需要超過)が生じている可能性もある。供給者誘発需要の研究においては,アクセスコストの低下からくる自発的な需要増加と供給者による誘発需要を区別する必要がある。また供給制約による給付水準の低下を確認するためには,サービス待機者などの需要超過の発生を検証しなければならない。しかし本章の目的は「認定率」に影響を与える変数を特定化することであって, 掘り起こし( 供給要因), アクセスコスト
(需要要因),供給制約(供給要因)を厳密に識別する必要はない。従って,需要要因として取り上げた人口密度や施設定員率を,供給要因を表す指標として併用する。最後に,広域連合特有の影響を考慮するために広域連合ダミー変数を用いた。
(2)「居宅利用率」,「居宅一人当たり単位数」の決定要因の仮説
「居宅利用率」や「居宅一人当たり単位数」が被説明変数のときは,Income,Needs,Family, Access,District といった需要要因については,
「認定率」とほぼ同様の仮説があてはまる。ただし Needs に関しては,後期高齢者割合に加えて,各要介護度の要介護者の割合によっても「居宅利用率」や「居宅一人当たり単位数」は変わると考えられるため,各要介護度割合を説明変数に含める14)。
一方,「認定率」と異なり,居宅サービスへの Access の要素として施設定員率を含める必要はないと考えられる。しかし Supply としての施設定員率を考えると,田近・菊池〔2003〕が指摘するように,施設サービスの供給水準が低い地域では,「満たされない施設需要」によって居宅サービス水準が高くなる可能性や,逆に油井〔2006〕が示すように通所系サービス水準が低くなる可能性がある。従って「認定率」と同様に県レベルの