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平成17年2月24日判決言渡 同日原本領収 裁判所書記官
平成11年(ワ)第764号損害賠等償請求事件(以下「甲事件」という。)平成12年(ワ)第5341号損害賠償等請求事件(以下「乙事件」という。)平成16年(ワ)第282号損害賠償請求事件(以下「丙事件」という。)
口頭弁論終結日 平成16年10月7日判決
主文
1原告らの請求をいずれも棄却する。
2訴訟費用は原告らの負担とする。事実及び理由
第1当事者の求めた裁判
1原告ら
(1)被告らは,原告A,同B,同C,同D及び同Eに対し,別紙1記載の「謝罪文」を,朝日新聞,毎日新聞,読売新聞,産経新聞,日本経済新聞,中日新聞,東亜日報,中央日報,朝鮮日報,韓国日報,ハンギョレ新聞及び光州日報に掲載して謝罪せよ。
(2)被告らは,原告F及び同Gに対し,別紙2記載の「謝罪文」を,朝日新聞,毎日新聞,読売新聞,産経新聞,日本経済新聞,中日新聞,東亜日報,中央日報,朝鮮日報,韓国日報,ハンギョレ新聞及び光州日報に掲載して謝罪せよ。
(3)被告らは,原告Fに対し,別紙3記載の「謝罪文」を,朝日新聞,毎日新聞,読売新聞,産経新聞,日本経済新聞,中日新聞,東亜日報,中央日報,朝鮮日報,韓国日報,ハンギョレ新聞及び光州日報に掲載して謝罪せよ。
(4)被告らは,連帯して,原告A,同B,同C及び同Eに対し,3000万円及びこれに対する平成11年3月16日(訴状送達の日の翌日)から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
(5)被告会社は,原告Dに対し,3000万円及びこれに対する平成11年3月16日(訴状送達の日の翌日)から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
(6)被告国は,原告Dに対し,3000万円及びこれに対する平成16年2月5日(訴状送達の日の翌日)から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
(7)被告らは,連帯して,原告Fに対し,6000万円及びこれに対する平成12年12月19日(訴状送達の日の翌日)から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
(8)被告らは,連帯して,原告Gに対し,3000万円及びこれに対する平成12年12月19日(訴状送達の日の翌日)から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
(9)訴訟費用は被告らの負担とする。
(10)仮執行の宣言
2被告国
(1)原告らの被告国に対する請求をいずれも棄却する。
(2)原告らと被告国との間に生じた訴訟費用は原告らの負担とする。
(3)担保を条件とする仮執行免脱の宣言
3被告会社
(1)原告らの請求を棄却する。
(2)訴訟費用は原告らの負担とする。第2事案の概要
1本件は,大韓民国(以下,原則として「韓国」という。)に在住する原告らが,原告ら(原告 Fを除く。)並びに原告Fの妻のH(2001年(平成13年)2月13日死亡)及び同原告の妹の I(1944年(昭和19年)12月7日死亡)が第二次世界大戦中に朝鮮半島から女子勤労挺身隊(以下「勤労挺身隊」という。)の隊員として来日して,当時の三菱重工業株式会社(以下,これを「旧会社」という。)名古屋航空機製作所道徳工場(以下「本件工場」という。)で労働に従事させられた実態は,強制連行,強制管理及び強制労働(以下,原則として「本 件不法行為」という。)であり,また,被告らは,戦後,原告ら(原告Fを除く。)及びHが新たな被害を被らないように調査,公表,謝罪等をすべき義務を負っていたにもかかわらず,これを怠ったなどと主張して,被告らに対し,精神的及び財産的損害の賠償並びに新聞紙上への謝罪広告の掲載を請求した事案であり,甲事件は,(a)原告A,同B,同C及び同Eが被告らに,(b)原告Dが被告会社に,乙事件は,原告F及び同Gが被告らに,丙事件は,原告Dが被告国に対し,それぞれ上記の請求をしたものである。
以下,原則として,原告Fを除く原告ら及びHを「勤労挺身隊員原告ら」と,勤労挺身隊員原告ら及びIを「本件勤労挺身隊員ら」という。
2前提となる事実
甲B10号証,20号証の1ないし6,21号証の1及び2,甲C5号証,7号証の1及び2,8号
証,9,11,13,15,16,21,22,25及び52号証,71,74,75,78,79,80及び81号証の各1及び2,84号証,甲G1,2号証,4号証の1及び2,5号証,6号証,甲H1号証の1及び2,2号証,3号証の1及び2,4号証,6及び8号証の各1及び2,9号証,17号証の1及び2,18号証,31号証,37号証の1及び2,39号証,43,45及び46号証の各1,証人S,同T及び同Uの各証言,原告A,同B,同C,同D,同E,同F及び同Gの各本人尋問の結果並びに弁論の全趣旨によれば,以下の事実を認めることができる。
(1)勤労挺身隊の動員
1937年(昭和12年)の日中戦争の開始以後,我が国の軍需産業における労働力不足が次第に深刻となり,その中で,我が国政府は,1938年(昭和13年)4月に国家総動員法を,1939年(昭和14年)7月に国民徴用令をそれぞれ公布し,朝鮮においては募集形式の労務動員計画を実施して,労働力の統制と総動員体制の確立を図った。1940年(昭和
15年)には朝鮮職業紹介所令が公布されてより大々的な労働力動員が行われ,1941年
(昭和16年)には国民勤労報国協力令が施行されて労働力動員は更に強力に進められた。そして,太平洋戦争の開始によってより多くの労働力が必要となったため,1942年
(昭和17年)には国民動員計画が立てられた。
そうした中,1943年(昭和18年)9月13日の次官会議で,「女子勤労動員ノ促進ニ関ス ル件」が決定され,女子遊休労力の解消を期し,必要な勤労要員を確保するために,動員の対象となる女子をおおむね「新規学校卒業者」,「14才以上ノ未婚者」,「整備セラルベキ不急不要学校在学者」及び「企業整備ニ依ル転職可能者」とし,「航空機関係工場」,「政府作業庁」などに優先して充足することとされ,動員の方法として,「都庁府県指導ノ下ニ市区xxxヲシテ極力其就職ノ勧奨ニ務ムルコト」,「町内会,部落会,隣組,婦人会,学校xxヲシテ積極的ニ協力セシムルコト」,「学校卒業者ヲ以テスル女子挺身隊ニ付テハ都 庁府県指導ノ下ニ学校xxヲ中心トシテ結成セシムルヤウ指導スルコト」などが挙げられ た。さらに,1944年(昭和19年)3月18日には「女子挺身隊制度強化方策要綱」が閣議決定され,女子挺身隊の結成に関し「学校長,女子青年団長,婦人会長,其ノ他適当ナル職域又ハ地域ノ団体ノ長ヲシテ女子挺身隊ヲ組織スルニ必要ナル措置ヲ執ラシムルコト」として,「女子挺身隊ニ依リ勤労ニ従事セシムベキ者ハ国民登録者タル女子ニシテ家庭ノ根軸タル者ヲ除キ尚身体ノ状況,家庭ノ事情等ヲ斟酌シテ之ヲ選定スルコト」,「右ニ依リ選定セラレタル者ニ対シテハ必要ニ応ジ挺身隊組織ニ依リ必要業務ニ挺身協力スベキコトヲ命ジ得ルモノトスルコト」などと定め,国民登録者である女子を強制的に挺身隊に組織し,必要業務の協力を命令することを可能にした。そして,同年6月21日に「女子挺身隊受入側措置要綱」が閣議決定された後,同年8月23日には,「女子挺身勤労令」(同年勅令第5
19号)が公布施行され,朝鮮においても同時に施行された。
朝鮮における勤労挺身隊の動員は,「女子挺身勤労令」施行以前から行われていたが,1
944年(昭和19年)以降に特に多く,主に国民学校を通じて同校の6年生又は卒業生を対象に募集が行われた。勤労挺身隊が動員された工場は,本件工場のほか,不二越鋼材鉱業株式会社富山工場,東京麻糸紡績株式会社沼津工場などの軍需工場であった。
(2)本件勤労挺身隊員らが国民学校で受けた教育
本件勤労挺身隊員らは,1930年代の後半に国民学校に入学したが,当時の国民学校では,児童らは,毎朝の朝礼で東に向かって見えない天皇陛下に最敬礼をし(皇居遙拝),声を合わせて皇国臣民の誓詞を唱えさせられた。歴史の授業では韓国の歴史ではなく日本 の神話が取り上げられ,「天皇は神である。」,「日本は良い国である。」などと教えられた。xxの授業では,xxxxx,xxxx,xxxxxなどが教えられ,また,教育勅語を暗記させられ,覚えないと罰を受けた。君が代や軍歌なども教えられた。学校内では,朝鮮語の使用が禁止され,使うと罰を受けた。1940年(昭和15年)ころに創氏改名が行われ,学校内では日本名で呼び合った。本件勤労挺身隊員らは,これらの教育をxxに受け入れていた。
(3)勤労挺身隊への勧誘及び日本への出発
1944年(昭和19年)5月ころ,本件勤労挺身隊員らは,国民学校の校長,担任教諭等を通じて,勤労挺身隊への参加を勧誘された。この際,本件挺身隊員らは,「日本に行けば,学校にも行けるし,お金ももらえる。」などと言われていたため,日本に行けば女学校へ通えると信じて,勤労挺身隊に参加することとした。
同年5月末ころ,全羅南道のxx,xx,順天,麗水及び光州の各地から,本件勤労挺身隊員らを含め,勤労挺身隊に参加する少女らが汽車で麗水に集合した。xxから約40
人,xxから約24人,順天から約14人,麗水から約25人及び光州から約50人の合計約
150人が集まった。同年6月初めころ,麗水に集合した少女らは,xx大正国民学校のJ教諭とK憲兵に引率されて麗水港から船で下関に向かい,下関に到着した後は汽車で名古屋まで行き,本件工場の第四菱和寮に到着した。寮の前の門では,10人ほどの職員が
出迎えた。
(4)本件工場での生活
本件工場には,部品工場と組立工場とがあり,約2000人が昼夜2交替で働いていた。 第四菱和寮では,全羅南道から来た本件勤労挺身隊員らを始めとする約150人,xxxxから来た約150人が,寮長のL舎監らの監督の下,8畳程度の部屋に6人ないし8人で生活した。
勤労挺身隊は,出身地別に中隊,小隊に分けられ,全羅南道出身者は第1中隊,xxxx出身者は第2中隊とされ,第1中隊のうち,xxが第1小隊,xxが第2小隊,順天が第
3小隊,xxが第4小隊,光州が第5小隊とされた。
勤労挺身隊員らは,午前6時に起床し,朝食後,寮から工場まで徒歩20ないし30分の距離を,「神風」と書かれた鉢巻きをして4列縦隊で「我ら乙女の挺身隊」などを歌いながら行進して行った。工場では,出身地別に仕事に配置され,午前8時から午後5時ないし6時ころまで働いた。工場での作業は,厳しい監視の下で行われ,作業中はよそ見をしたり話をしたりすることはできなかった。トイレに行くときも,許可をもらって行かなければならず,決められた時間内に戻らない場合には,怒られたり罰せられたりした。休憩時間は,昼食時間も含めて午後零時から午後1時までの1時間であり,休日は日曜日だけであった。また,食事の量も少なかったため,本件勤労挺身隊員らは常に空腹を感じていた。
勤労挺身隊員らは,団体で,名古屋城,xx神宮,護国神社,xx動物園及び松坂屋などを訪ねたことはあったが,自由な外出は禁止されており,集団で外出するときは監視員がついた。また,朝鮮に手紙を出すことはできたが,検閲を受けなければならなかったため,本件勤労挺身隊員らは,生活上の不満を書くことはできなかった。
また,本件勤労挺身隊員らは,第四菱和寮で日本の歌や礼儀作法,裁縫などを教えられることはあったが,学校へ通うことはなかった。
(5)xxx地震
1944年(昭和19年)12月7日午後1時半ころ,xxx地震が発生した。この地震により,本件工場の建物の多くが倒壊し,全羅南道出身の勤労挺身隊員であったI,M,N,O,P及びQの6人を含む57人が死亡した。
(6)帰国まで
xxx地震後,名古屋への空襲が激しくなり,勤労挺身隊員原告らは,毎晩のように防空壕に避難していた。1945年(昭和20年)1月,本件工場の本部事務所,主な組立部門及び部品製作部門が,富山県にある旧会社のxx工場(以下「xx工場」という。)に移転された。これに伴い,勤労挺身隊員原告らを含む全羅南道出身の勤労挺身隊員は,1945xxころ,xx工場へ移動した。
同年8月15日,日本がポツダム宣言を受諾して終戦を迎えた。勤労挺身隊員原告らは,同年10月ころ,朝鮮へ帰国した。
(7)韓国社会における勤労挺身隊員に関する認識
韓国社会では,1990年代初めころまで,従軍慰安婦(以下「慰安婦」という。)は一般的に
「挺身隊」と呼ばれており,1990年代後半に入ってようやく学者の間では勤労挺身隊員と慰安婦とを区別するのが一般的になったが,一般人の間では依然として両者が区別されずに認識されていることが多い。
韓国社会では女性に対する貞操観念が強く,勤労挺身隊員として日本に行っていたことが知られると慰安婦であったと思われ,結婚の障害となったり,周囲の非難の対象になったりするため,勤労挺身隊員として日本に行った者の多くは,そのことを夫や子に隠して生活した。
第3争点及びこれに対する当事者の主張
1本件における争点は,原告ら各自に関する事情のほか,次の(1)ないし(16)のとおりである。
(1)原告らと被告国との間における争点
ア本件勤労挺身隊員らが勤労挺身隊の募集に応募して日本で労働したことに関する民法
709条,715条,719条に基づく不法行為責任(争点(1))イ立法不作為による国家賠償責任(争点(2))
ウ行政不作為による国家賠償責任(争点(3)) エ国際法違反に基づく損害賠償責任(争点(4))
オ原告Xの負傷及びIの死亡に関する不法行為責任,安全配慮義務違反による債務不履行責任(争点(5))
カ原告Xに対する戦傷病者戦没者遺族等援護法(以下「援護法」という。)に関する不作為による国家賠償責任(争点(6))
(2)原告らと被告会社との間における争点
ア被告会社と旧会社との同一性(争点(7))
イ本件勤労挺身隊員らが勤労挺身隊の募集に応募して日本で労働したことに関する民法
709条,715条,719条に基づく不法行為責任(争点(8))
ウ先行行為に基づく作為義務違反による不法行為責任(争点(9))エ国際法違反に基づく損害賠償責任(争点(10))
オIの死亡に対する不法行為責任,工作物設置管理責任,安全配慮義務違反による債務不履行責任(争点(11))
xxxXの傷害に対する不法行為責任,安全配慮義務違反による債務不履行責任(争点
(12))
キ会社経理応急措置法及び企業再建整備法による債務の消滅(争点(13))
(3)財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定(昭和40年条約27号。以下「本件協定」という。)2条又は財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定第2条の実施に伴う大韓民国等の財産権に対する措置に関する法律(昭和40年法律第144号。以下「財産権措置法」という。)1項1号による解決(争点(14))
(4)時効又は除斥期間の適用(争点(15))
(5)原告らの損害(争点(16))
2争点(1)ないし(16)に対する当事者の主張
(1)原告ら及び被告国との間における争点
ア争点(1)(本件勤労挺身隊員らが勤労挺身隊の募集に応募して日本で労働したことに関する民法709条,715条,719条に基づく不法行為責任)
(原告らの主張)
(ア)a本件勤労挺身隊員らは,当時十三,四歳であったのに,第2次世界大戦前における被告国の関与の下で,欺罔により我が国へ実質的に強制連行され,本件工場等で,軍隊式の厳格な規律と厳重な監視の下,無給で労働を強いられた。勤労挺身隊員として来日し,労働させられた実態は,被告国による強制連行,強制管理,強制労働であった。これらの本件不法行為につき,被告国は,民法709条,715条,719条により賠償責任を負う。 b植民地政策によって朝鮮は経済的な窮迫状況に陥っており,政治的にも憲兵警察の支 配が徹底化され,また,朝鮮の女性には,植民地政策に基づく民族的かつ性別的な差別が蔓延し,朝鮮社会に対する希望や夢が持てない状況下に置かれていた。このような状況下で皇民化教育が徹底された本件勤労挺身隊員らは,その心に深く皇民化教育が浸食
し,日本のために奉仕することを当然のように思い込まされていたため,甘言,欺罔に満ちた勧誘に応じやすく,他方,その志願に反対する親,兄弟らに対しては,戦意高揚に向けた社会風潮を形成し,又は憲兵警察への恐怖心を利用して,その意を抑圧してきたのである。以上のような植民地支配の歴史的事実を考慮すれば,勤労挺身隊への動員が強制連行であることは明らかである。 c強制動員,強制労働における加害行為は,大別すると,①謀略的欺罔により意に反して勤労挺身隊に動員した行為,②軟禁状態に置き,意に反して過酷な労働に従事させた行為,③xxx地震及びその後の空襲についての注意義務違反の行為に分けることができる。被告国は,強制動員を支え,旧会社における強制労働を指揮監督し,支配したのである。
(イ)国家無答責の法理について a被告国は,強制的であることと権力的であることを同一視して,被告国による本件不法行為が権力作用であると主張するが,両者はレベルを異にする概念である。権力的か否かは,国が優越的意思の主体として私人に対するか否かによるのであり,強制的であっても権力作用に該当しない場合がある。
被告国は,単に戦争遂行のための総動員政策によるから権力作用に該当するものであると主張するにすぎず,権力作用に該当する具体的根拠を示していない。 b国の権力作用に対する民法の適用を排除すべき実体法上の障害はない。また,裁判制度が司法裁判所に一元化された今日では,民法の適用を拒むべき訴訟上の障害もない。 c国家賠償法施行以前に,国が賠償義務を負担しなかったのは,国家無答責の法理が存在したからではなく,民法の不法行為規定の適用が否定されたにすぎない。したがって,国家賠償法附則6項「この法律施行前の行為に基づく損害については,なお従前の例によ る。」との規定は,国家賠償法が存在しない従前の法状態で司法裁判所は判断すべきであるとの意味にすぎない。 d原告らは被告国の国民であったことはなく,その統治権に服したこともないので,国家無答責の法理は原告らに適用されない。 e本件事案のように著しく違法な人権蹂躙行為について国家無責任説を適用することは,
xxxxの理念からして許されない。
(被告国の主張)
(ア)原告らは,勤労挺身隊への加入を強制連行であると主張するが,原告らの主張する事実によっても,強制連行には当たらない。
(イ)原告らの主張を前提とすれば,本件不法行為は,国家の権力的作用に基づいてされたものであり,昭和22年10月27日の国家賠償法施行前の行為であるから,国家無答責の法理が妥当するのであり,民法709条,715条及び719条が適用される余地はなく,原告らの請求は法律上の根拠を欠く。 a国家無答責の法理は,国家の賠償責任を認める実体法の規定がなかったことを根拠と する実体法上の法理である。 b当時の法体系では権力的作用に民法の適用はなかったから,原告らの主張する被告国の行為が権力的作用である以上,被害者が日本人であると外国人であるとを問わず,民法に基づきその損害の賠償を請求することはできない。
イ争点(2)(立法不作為による国家賠償責任)
(原告らの主張)
(ア)先行行為に基づく被告国の作為義務の存在
自らの先行行為によって損害を発生させ,又は発生させる危険を生じさせた者は,条理上保護責任を負い,損害の発生を防止し,又は損害拡大を防止する法的義務を負う。戦争という国家の行為に起因する重大な人権侵害に対して,戦争を遂行した国の政府が自国の不xxを率直に認め,謝罪し,可能な限りの補償をすることは,国際社会における条理である。
勤労挺身隊員原告らは,被告国によってだまされ,強制的に日本に動員されて,強制x x,強制労働に服させられ,解放後も韓国内で慰安婦と同一視されて,苦悩の人生を送ることを余儀なくされた。したがって,被告国は,原告らに対し過去の損害を回復し,損害の増大をもたらさないよう配慮,補償すべき法的作為義務を負っている。
(イ)戦後補償立法義務の存在
被告国の法的作為義務は,明治以来の日本の侵略戦争,植民地支配を不法のものと認め,その結果の回復を要求している憲法のxx規範,全世界の国民に平和的生存権を保障し,我が国による平和的生存権への侵害に対する謝罪及び賠償並びに苦痛の除去を当然に義務付けている憲法の前文及び9条,国籍の有無又は軍人若しくは軍属であるか否かを問わず,一律に戦争被害を補償する立法を義務付けている憲法14条,侵略戦争で被害を受けた人々に対して補償を行う立法をすることを当然に要求している憲法17条及び2
9条3項,強制連行され,強制労働を強いられた人々に対する補償立法を行うことをその趣旨から当然に義務付けている憲法40条及び国際慣習法として確立している戦後補償について,その立法義務を当然に導く憲法98条2項にそれぞれ具体化され,戦後補償立法義務という形になって表れている。
原告らの受けた損害については,xxxx宣言の受諾により,その損害を回復する措置を執るべき義務を立法機関が負うに至ったと解すべきである。
(ウ)戦後補償立法義務の程度
憲法前文で「国際社会において名誉ある地位を占めたいと思う」等と宣言している以上,被告国は,侵略戦争と植民地支配の被害者に対し,ドイツやアメリカ合衆国(以下「合衆国」という。)の例に劣らない謝罪と補償の立法を行うべきである。また,謝罪と補償の範囲や方法は,各国法令等により既にその例がある。
(エ)補償立法義務の懈怠
被告国の国会議員らは,勤労挺身隊に関する事実も,戦後補償立法義務の存在も,容易に認識することができたにもかかわらず,合理的期間をxxxに徒過しても補償立法をしていないから,過失により憲法上の作為義務に違背した立法不作為に陥っている。
(オ)被告国は,立法不作為の違憲性判断に関し,最高裁判所昭和60年11月21日第一小法廷判決・民集39巻7号1512頁(以下「昭和60年判決」という。)に依拠しているが,上記判決は,国家賠償請求訴訟によって立法行為の違憲性を問い得る場面を狭く限定している点で厳しい批判が集中しており,また,国際的な人権課題が突き付けられている本件とは全く事案を異にするものであるから,上記判決の示す「例外的な場合」については,時代背景及び憲法上の要請(少数者の権利の擁護)を踏まえて解釈すべきであるにもかかわらず,被告国は,上記判決の判示を不当に拡張し,国家賠償法上,立法不作為が違法と評価される場合について上記判決以上の限定を設けている。 a昭和60年判決の問題点
本件においては,個々の国会議員の国民総体に対する責任ではなく,国会議員総体又は国会そのものの義務の内容が問題となっているから,政治的評価ではなく法的評価が妥
当し得る場合であり,議会制民主主義から直ちに国家賠償法上の責任を免れるものではない。憲法51条は,国会の違法行為に対する国の賠償責任を否定する趣旨を含むものではないから,同条から直ちに国家賠償法上の責任が否定されるものではない。さらに,憲法81条は,憲法問題がすべて政治的なものであることを前提に,裁判所に対し,法律的に解決する任務を与えているから,政治性を根拠に国家賠償法上の責任を否定することはできない。
b昭和60年判決の「例外的な場合」について
重大な人権侵害がされ,これが回復されていない場合には,その救済を図らなければならないとするのが憲法の立場である。権利を侵害されている者が少数者である場合,必ずしも議会における多数意見とはならず,特に,本件のように現時点では外国人として自らの意思を政治の場に反映させることのできない原告らが権利を侵害された場合には,議会制民主主義の過程ではその権利を回復することができないから,司法がより積極的役割を果たさなければならない。したがって,立法不作為に対する違憲審査は,憲法上の重要な人権の侵害が現実に存在し,司法による救済が求められている場面では,憲法の解釈から一義的に立法義務が導かれなくとも,憲法の各条項,憲法制定の経緯及び我が国の先行行為に基づく条理上の作為義務から立法義務が発生する場合を認めるべきであり,これ が国会に明らかになってから相当期間経過した場合には違憲行為になると解すべきであ る。
原告らは,憲法13条の個人の尊厳及び幸福追求権を侵害され続けているから,被告国は,速やかに上記侵害状態を解消すべき義務を負う。
(カ)立法不作為に基づく国家賠償請求訴訟が認められるためには,立法の不存在が違憲であることが確認されればよく,補償の金額,支払方法等の詳細まで特定する必要はないから,国会の立法裁量を侵害することはなく,三権分立にも反しない。
(キ)したがって,被告国には,補償立法があれば補填されたであろう原告らの各損害を賠償する義務がある。
(被告国の主張)
(ア)立法不作為が国家賠償法上違法となることを例外的にせよ認めることは,憲法が予定している権力分立制度との関係で慎重な検討が必要である。裁判所が国会議員の立法不作為に対する法的責任を問うことは,裁判所が個々の国会議員に対し,特定内容の法律を特定の時期までに立法すべき義務を課することにほかならず,裁判所が国会にたや すく一定の立法義務を課することのできない権力分立の基本理念からすれば,極めて大きな困難がある。立法行為に対する違憲判断と立法不作為に対するそれとは全く異質の判断構造であるから,違憲立法審査権があることにより当然に立法不作為の違憲判断が認められることにはならない。
昭和60年判決に即して立法不作為が違法となる場合を想定すれば,同判決は立法不作為が国家賠償法上違法となることを基本的には予定していないというべきである。なお,立法不作為についての国家賠償法の違法性判断基準に関する昭和60年判決の枠組みは確立したものといえる。
(イ)原告らの主張する憲法の各条項等には,原告らに対する戦後補償立法を一義的ないし一見明白に定めた規定は存在しない。原告らの主張する被害はいわば戦争損害又は戦争犠牲であるが,憲法は戦争損害の補償を直接予想しておらず,戦争損害に対する補償の要否及び在り方については立法府の裁量にゆだねられていることは,最高裁判例でも繰り返し確認されている。
(ウ)以上のとおり,本件は,立法行為に対し国家賠償法1条1項に関して違法の評価を受ける例外的場合として昭和60年判決が挙げた要件を充足していないから,原告らの請求は理由がなく,主張自体失当である。
ウ争点(3)(行政不作為による国家賠償責任)
(原告らの主張)
(ア)被告国は,戦後,加害国として,被害国及び被害国国民に対し,戦争責任を認めて加害の実態を調査し,調査結果を公表して謝罪すべき義務を負っていたにもかかわらず,これを怠った。
そのため,勤労挺身隊員原告らは,慰安婦と同一視されて,苦痛に満ちた半生を送らねばならなかった。
(イ)行政の積極的作為義務の根拠 a先行行為に基づく作為義務
自らの先行行為によって損害を発生させ,又は発生させる危険を生じさせた者は,条理上保護責任を負い,損害の発生を防止し,又は,損害拡大を防止する義務を負うことは,法解釈上一般に確認された法的な原則である。
b法律の留保論との関係
国民の基本的人権を侵害せず,相手方の同意,協力の下であれば,行政が事実上の行為をするにつき,法的根拠は要求されない。したがって,被告国がそのような行為を行政作用として実施することは,法律の留保の原則に反せず,むしろ積極的に要請されているというべきである。
c行政裁量との関係
国民等の生命,身体及び健康の毀損という結果発生の危険があり,被害法益が重大で,条理上,行政権の不行使を座視することが国民の法感情に反すると考えられる場合は,行政権の行使の裁量が収縮し,その不行使が違法となる。 d加害公務員ないし行政機関の特定
(a)国家賠償法は「国ぐるみ責任肯定説」を根拠付ける「自己責任説」に立っていると解すべきであり,特に本件のように国ぐるみの先行行為に基づき,条理上の責任を問う場合には公務員個人の特定は不要であること,条理に基づく作為義務が認められる場合は,法令に定めがなくても作為義務が認められること及び行政の実態を考慮すれば,本件において被告国は,条理上,国ぐるみの責任を負うべきものであるから,加害公務員ないし行政機関を特定する必要はない。
(b)本件において作為義務を負うのは,厚生労働省の担当部局であり,外務省の担当部局であり,また,必要に応じてこの2つの省の関係部局が協同して対処すべきことである。なお,本件においては,①旧外務省設置法に基づく外務省の責任,②旧外務省設置法及び旧厚生省設置法に基づく両省の共管事務としての責任,③旧総理府設置法5条4号に基づく「他の行政機関に属しない事項」の1つとしての旧総理府の責任を問いうるから,被告国の行政不作為責任の前提となる加害行政機関を特定することに困難は存在しない。したがって,原告らは,加害行政機関を特定した損害賠償責任を予備的に主張する。 e作為義務が法令によって具体的に規定されていない場合における作為義務
民法と同様に国家賠償法においても,作為義務は,違法性の問題であって必ずしも法令上明文の規定がある場合に限られないのであり,政治上の義務又は公務員法の定める義務に著しく違反し,かつ,全法秩序の見地からみて,国家賠償責任を負わしめるのが正義に合致し,相当であると考えられるような場合には,政治責任に加えて法律上の責任が発生すると解すべきである。
(ウ)本件における作為義務
被告国は,戦前,植民地としていた朝鮮において,「供出」という名の物的収奪を徹底するとともに,人的収奪としての労働力の強制連行等と並び,圧倒的規模で慰安婦を連行し,朝鮮社会においては広く「処女供出」として恐れられていた。その一方で,慰安婦の連行に遅れ,かつ,これよりもごく小規模に,朝鮮の少女たちを勤労挺身隊員として連行した。加えて,両制度には多くの共通点又は類似点があり,容易に混同されやすい状況であったため,朝鮮の社会においては,「勤労挺身隊」といえば「慰安婦」であるとの認識が広く行き渡ることとなった。
このように,被告国が大規模な慰安婦の連行行為を行うとともに,これに遅れて小規模に勤労挺身隊員の連行行為を行ったことによって,勤労挺身隊員原告らが,戦後,慰安婦と同一視される原因が醸成されたものであり,その結果,同人らには,帰国後,慰安婦と同一視されて苦痛に満ちた半生を送らねばならなかったという重大な被害が生じたものである。したがって,被告国は,戦後の同一視被害の原因を創出した主体として,自ら行った上記の複合的行為によって,戦後,勤労挺身隊員原告らが同一視被害を受けることがないよう,公式に調査,公表,謝罪すべき条理上の義務を負う。
(エ)作為義務の発生時期
被告国は,慰安婦と勤労挺身隊員とが同一視されていることを知りながら,戦争遂行目的のため,本件勤労挺身隊員らを動員したのであるから,1945年(昭和20年)にポツダム宣言を受諾して連合国に降伏することにより動員目的が無くなった以上,上記受諾時点 で,勤労挺身隊員原告らを安全に帰国させるだけでなく,韓国社会において同人らに慰安
婦との同一視による新たな被害が生じることを防ぐ保護義務が生じたと解すべきである。その後も,同年9月8日に「終戦に伴う内地在住朝鮮人及び台湾人の処理に関する応急措 置」(厚生省発健第152号)を発し,朝鮮半島からの被徴用者等の送還をした時期,憲法制定時点,援護法の適用範囲拡大の時期,本件協定締結に至る時期等において,被告国は,自らの不作為責任を反省すべきであった。それにもかかわらず,無為に過ごしたことから不作為の違法の程度を深め,原告らの被害を深刻化させたのである。作為義務の時期に関しては,遅くとも,昭和63年4月25日の第112回国会衆議院決算委員会における草川昭三委員と宇野宗佑外務大臣との質疑応答の時点で,被告国が同一視被害の存在について確定的認識を持っていたことが明らかである。
(オ)本件における作為義務違反
本件は,積極的な作為による権利侵害と同視すべき被告国による作為起因性の不作為の事案であるから,その不作為が作為義務違反として違法となるための要件は,①被害発生の予見可能性,②結果回避の可能性の2つで足りると解すべきである。
被告国は,戦後の補償立法及び補償行政の前提として,戦時加害行為とその被害実態についての調査活動を行ったはずであるから,勤労挺身隊員が韓国国内で慰安婦と同一視されて新たな苦悩を受けていることについての認識を持ち得たはずであり,少なくとも,被告国は,同一視の対象である2つの制度を自ら作り出したものとして,勤労挺身隊員原告らが同一視による被害にさらされることは十二分に認識できたものと解される。また,本件被害は,内面的,精神的被害であり,誤解に基づく同一視被害であって,被告国が,適切な公式の事実調査及び公表並びに真摯な公式謝罪を行えば,比較的容易に誤解は解けたものと考えられる。
したがって,本件では,被害発生の予見可能性及び結果回避の可能性のいずれの要件も満たす。
なお,仮に,不作為が作為義務違反として違法となるための要件として,①結果発生防止の容易性,②行政権行使の不可欠性,③行政庁が危険切迫を知り,又はこれを知り得べかりし状況,④行政の規制権限行使を要請し期待することが社会的に容認され得る場合との各要件が必要であったとしても,本件においてはこれらの要件をすべて充足している。
(カ)被告国は,原告らの主張する戦後の慰安婦と勤労挺身隊員との同一視被害は,原告らが不法行為として主張する強制連行及び強制労働の拡大損害にすぎない旨主張する。しかし,原告らが戦後の法益侵害の原因たる先行行為として主張しているのは,強制連行及び強制労働そのものではなく,被告国がより大規模な慰安婦動員を先行させ,かつ,これと同一視されやすい状況及び態様の下で強行した複合的な行為であり,戦後の同一視被害は,強制連行及び強制労働による直接の被害とは独立した新たな法益侵害であるから,強制連行及び強制労働の単なる拡大損害ではない。
また,ある行為が直接的にある法益侵害を惹起していても,その行為を先行行為として,これに続くある不作為が,作為義務違反などの要件を充足する限り,違法な不作為としても独立の不法行為を構成し得ることは当然である。
なお,同一視による被害を韓国社会の責任とすることは誤りである。
(キ)したがって,被告国の行政権の不行使は,作為義務違反として違法であるから,原告らに対し,国家賠償法1条1項に基づく損害賠償責任を負う。
(被告国の主張)
(ア)加害公務員(行政機関)が特定していないこと
国家賠償法1条1項の定める賠償責任は,公務員個人の不法行為について国又は公共団体が代位責任を負うものであり,故意又は過失の有無,行為の違法性の有無はそれぞれの公務員の行為につき判断される。したがって,同条項の責任を論ずるに当たっては,加害公務員とその違法行為の特定が必要であり,これらが特定されて初めて,問題となる機関の権限が明らかにされ,当該公務員又は行政機関に与えられた権限の趣旨及び目的,権限行使に支障となる事情の有無等,作為義務の発生を認める根拠となる具体的事実を検討することができる。
原告らの主張は,作為義務を負う公務員又は行政機関の特定を欠いているから,作為義務の発生を認める根拠について的確に検討することができず,失当である。
なお,原告らは,旧外務省設置法,旧厚生省設置法及び旧総理府設置法の規定を根拠として,外務省,旧厚生省及び旧総理府が作為義務を負う旨主張する。しかし,上記各規定は行政組織法の規定であり,行政主体と国民との権利義務に関して定めたものではないから,上記各規定から直ちに個別の国民に対する公務員の法的義務を導き出すことはできない。
(イ)公務員及び行政機関の作為義務が存在しないこと a原告らの主張する調査,公表の具体的内容が明らかでない上,現行法において,原告らの主張するような作為を特定の公務員ないし行政機関の権限ないし義務とすることを具体的に規定した行政作用法は存在しない。このように,公務員の作為権限が法令によって具体的に規定されていない場合,原則として,公務員の不作為については,政治責任を負うにとどまる。 b原告らは,先行行為として主張する強制連行及び強制労働が不法行為であると主張しているのであるから,先行行為によっていわゆる慰安婦と勤労挺身隊員との同一視が起こったという被害の発生は拡大損害であり,それについて更に損害賠償義務を負うか否かは相当因果関係の有無の問題である。
なお,原告らは,先行行為が複合的行為である旨主張するが,被告国の先行行為の内容
として,強制連行及び強制労働以外に何も主張しておらず,強制連行及び強制労働という
1つの行為によって,基本的な法益侵害と慰安婦との同一視による法益侵害という2つの結果を生じたとものと主張するにすぎない。
国家賠償法上の作為義務が認められるためには,法令の定めがあるか,これに準ずるような法律関係が必要であるところ,本件で,原告らの主張する先行行為である強制連行及び強制労働が行われた当時には,同法は施行されていないから,同法上の作為義務が発生する余地はない。また,国家無答責の法理により民法も適用されないから,「違法」と評価する根拠となる法令が存在しない。このような行為を先行行為として,国家賠償法施行後の不作為を同法上の「公権力の行使」とするのは,国家無答責の法理により法的評価の対象とならない行為を法的評価の対象とするものであり,結局,原告らの主張は,国家無答責の時代における権力的行為による不法行為責任を形を変えて主張しているものであって,国家賠償法附則6項の潜脱をするものである。 c法律の留保論(侵害留保説)は,行政が国民に利益を与えたり,国民の権利義務と直接かかわりのない活動をする場合などは行政の自由な領域に属するというものにとどまるから,行政の自由な領域に属する活動を行政が行わなかったとしても,国家賠償法上の違法を問う根拠とはなり得ない。また,原告らの主張する行政裁量権収縮の議論は,行政作用法上,行政庁に権限が付与されている場合についてのものであるから,本件では前提を欠く。 d原告らの主張する慰安婦と勤労挺身隊員との同一視は,被告国が意図的に生じさせたものではない。
戦後,朝鮮半島は我が国から分離独立し,その主権は及ばなくなったのであるから,かかる地域内での調査行為を我が国政府が直ちに行い得るものではなく,このような行為をすべき法的義務を他国の国民に対して負うものではない。さらに,我が国は,ポツダム宣言の受諾から「日本国との平和条約」(昭和27年条約第5号。以下「平和条約」という。)の発効までの間,連合国による占領管理下に置かれ,また,韓国との関係では,昭和40年12月に,日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約(昭和40年条約第25号。以下
「日韓基本関係条約」という。)を締結するまでの間は国交がなかったのであるから,同条約締結以前に韓国政府及び韓国国民に対して何らかの働きかけをする余地はなかった。また,韓国の教科書に慰安婦と勤労挺身隊員とを同一視させるような記述がされているからといって,被告国が韓国政府等に対し,これらの記述を改めるように要請するなどの義務を負うものではない。
このように,原告らの主張する事実関係を前提としても,被告国が,原告ら個人との関係で前記誤解を解消すべき法的義務を負うことはなく,原告らの主張する調査,公表,謝罪の義務を負うこともない。
(ウ)原告らが侵害されたと主張する保護法益は不明であり,また,原告らの主張する作為義務違反と保護法益の侵害との因果関係も不明である。 a原告らの主張する不作為による違法な公権力の行使により拡大した被害とは,原告らの主張する戦時下の動員に基づく被害に包含されており,独自の法益侵害は生じていない。 b被告国が被害の実態を調査,公表,謝罪することにより,被害の拡大の回避,韓国国内で慰安婦と勤労挺身隊員とが同一視されてきた状況の是正,回避が可能であったかは不明であり,結果の発生を防止し得た蓋然性が高いとはいえないから,法益侵害と作為義務違反との因果関係も認められない。
エ争点(4)(国際法違反に基づく損害賠償責任)
(原告らの主張)
(ア)被告国への帰属性
本件不法行為は,被告国の侵略戦争遂行のための目的,政策に基づいて行なわれた一体のものであり,被告国の公務員の行為,被告会社の行為は,いずれも国際法上,被告国に帰属する。
(イ)被告国の国際法違反 a強制労働ニ関スル条約違反
本件勤労挺身隊員らは,欺罔によって連行され,帰国する自由や仕事を選ぶ自由は全く認められず,労働を拒否すれば不利益を課されることが確実な状況下で労働させられたか
ら,同人らが強いられた労働は,強制労働ニ関スル条約の禁止する強制労働(同条約2条
1項)に該当する。しかも,強制労働が絶対的に禁止されている女子や幼者についてのものであり,期間も無限定で,賃金の支払もされていないから,被告国の同条約違反は,高度の違法性を有する。
b国際慣習法としての奴隷制の禁止違反
被告国は奴隷条約を締結,批准していないが,奴隷制度及びこれに類似する強制労働の
禁止は,本件当時既に国際慣習法として確立していた。
被告国の本件勤労挺身隊員らに対する組織的な強制連行,強制労働政策は,奴隷条約の禁止する奴隷制又はこれに類似する制度にほかならず,仮にそうでないとしても同条約の禁止する奴隷制度類似の強制労働に当たることは明らかであり,被告国の行為は,奴隷制禁止の国際慣習法に違反する。
c人道に対する罪
極東国際軍事裁判所では,「人道に対する罪」(大量殺戮,奴隷虐使等の非人道的行為 等)が訴追の対象とされた。勤労挺身隊員の動員は,極東軍事裁判所の判決によって違法な侵略戦争であると明確に認定された戦争の遂行のために,企画,立案及び実行された政策であり,その実態は,奴隷的虐使又はそれに匹敵する非人道的行為を行うための政策であるから,被告国は,その政策の企画,立案又は実行に参加した指導者,組織者,教唆者又は共犯者として,人道に対する罪を負う。
d国際慣習法違反
我が国は,「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」(以下「ハーグ条約」という。)を1911年(明治
11年)12月6日批准,1912年(明治45年)1月13日公布し,同条約は,同年2月12日 発効しているところ,韓国併合は違法かつ無効であるから,韓国は,法的には占領地に該当し,日本軍及びその構成員は,ハーグ条約の附属規則である「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則」(以下「ハーグ規則」という。)の適用を受ける。被告国は,ハーグ規則に反した労働を本件勤労挺身隊員らに課しており,かつ同人らを我が国に連れ去るには陸軍が関与しているから,本件の強制連行及び強制労働は,ハーグ規則に違反する。なお,ハーグ条約は総加入条項を設けていたが,第2次世界大戦当時,ハーグ条約及びハーグ規則は国際慣習法として確立していた。
(ウ)被告国の損害賠償責任 aある国家が条約や国際慣習法上の義務に違反した場合には,当該国家がその義務違反行為によって生じた被害が回復されるまでその責任を負うことは,確立された法理であり,賠償義務を定める特段の条約上の規定等を要しない。また,加害国は,違反行為によって生じた被害回復責任を,条約加盟国のみならず非加盟国に対しても負う。 b個人の損害賠償請求権
ハーグ条約3条は,戦争法規違反の行為によって被害を被った被害者個人が,加害者である軍人だけでなく,その当事国の政府に対しても損害賠償請求権を取得できると規定しているから,原告らは,ハーグ規則違反の被告国の行為に対して,個人として損害賠償請求権を有する。
また,近年の研究の成果として,国際人道法違反の行為によって被害を被った個人には,損害賠償請求権が認められることが明らかとなっているから,原告らは,前記の被告国による条約違反及び国際慣習法上の義務違反により被った損害を個人の資格で直接被告 国に対して請求できる。 c本件の募集,強制労働が実行された旧憲法下においても,被告国が批准した条約は,常に直接的に国内法としての法的拘束力を有し,また,遵守を当然視される国際慣習法も同様に直接的な国内法的効力を有する。
(エ)よって,前記国際法違反に基づき,原告らは,直接被告国に対して,損害賠償請求権を有する。
(被告国の主張)
(ア)個人の国際法主体性について
国際法は,条約であれ国際慣習法であれ,第1次的には国家間の権利義務を定めるものであり,そこに規定されているのは,直接的には国家間の国際法上の権利義務である。ある国家が国際法違反行為により責任を負うべき場合,その責任を追及できる主体は国家である。個人が国際法における法主体としての権利能力を取得するには,国際法上の手続によって,国家に対し特定の行為を行うように要求し得る権能を与えられていることが必要である。
原告らの主張する国際法には個人による権利実現の手続が定められていないから,これらの国際法は,個人に加害国に対する損害賠償請求権を認めていないものと解釈するほかない。したがって,原告らに国際法の法主体性は認められず,国際法を根拠とする原告ら個人の請求は失当である。
(イ)原告らの主張する国際法違反について
強制労働ニ関スル条約は,損害賠償請求権の規定を欠いている。また,原告らの主張する奴隷制度を禁止するとの国際慣習法が仮に成立していたとしても,奴隷禁止の国際慣習法の違反行為により被害者個人が直接加害国に対し損害賠償請求を求め得るとする一般慣行及び法的確信の存在は認められない。さらに,「人道に対する罪」は,そもそも違反行
為者個人の国際刑事責任が追及されるという効果を有するに過ぎず,国家の民事的責任を基礎付けるものではない。
したがって,これらの国際法に基づく原告らの主張は失当である。
(ウ)国際法の国内法的効力に基づく損害賠償請求
条約が国内法としての効力を有するに至っても,国際法の国内適用可能性の有無の問題は別途検討する必要がある。本件において,原告らは個人の加害国に対する損害賠償を請求しているから,個人の加害国に対する損害賠償請求権を根拠づける条約条項を指摘する必要があるところ,そのような条約条項は存在しないから,条約の規定がそのまま国内法として直接適用可能な場合の要件を具備しておらず,原告らの主張は失当である。オ争点(5)(原告Gの負傷及びIの死亡に関する不法行為責任,安全配慮義務違反による債務不履行責任)
(原告らの主張)
(ア)不法行為責任 Iは,1944年(昭和19年)12月7日,東南海地震により本件工場内で死亡し,原告Gは,同年中,同工場で,ジュラルミン切断作業中に,左手人差し指の先を切断機で切断する傷害を負った。I及び原告Gは,極めて違法性の高い行為である強制連行によって日本に連れてこられ,同様に違法性の高い強制労働に従事させられている間に,強制労働の場所で,死亡又は負傷をしたものであり,このような場合には,強制連行,強制労働という被告国が責任を負う行為との間に因果関係が認められる。したがって,被告国は,Iの死亡及び原告Gの傷害について,民法709条,715条,719条により被告会社と共同で不法行為責任を負う。
原告Fは,Iの被告国に対する損害賠償請求権を相続した。
(イ)安全配慮義務違反による債務不履行責任 a安全配慮義務の存在
被告国は,原告Gらの身体の自由を拘束し,自己の支配管理下におき,強制労働に従事させるという関係を強要した。被告国は,生産過程のみならず,労務過程についてまで支配を及ぼしており,軍需管理官を通じた労務管理は,被告国による旧会社に対する支配であるとともに,旧会社で稼働させられていた本件勤労挺身隊員らに対する直接の具体的支配であった。このように,本件勤労挺身隊員らは,個別企業に対する従属関係を超えて国家的人的資源としての勤労的労働関係に立たされていたのであるから,被告国と本件勤労挺身隊員らとは特別な社会的接触の関係に入ったものというべきである。したがって,被告国は,信義則上,本件勤労挺身隊員らの生命身体の安全を配慮すべき安全配慮義務を負う。なお,被告国は,「特別の社会的接触関係」を殊更限定的に解釈しており,最高裁判例
(昭和50年2月25日第三小法廷判決・民集29巻2号143頁)の趣旨に反する。
そして,この場合の安全配慮義務は,その労働が違法に幼い者の意思に反して強制的に従事させたものであることからすれば,労働契約があって認められるいわゆる雇用契約上の安全配慮義務と比較して,より高度の配慮をすべき義務が課せられている。 b本件工場における強制労働の危険性
本件工場には,①軍事目標であることから空襲を受ける危険性,②大きな機体や塗料シンナー等を使用する作業内容から労働災害を受ける危険性,③建物の隔壁撤廃により強度が失われたことによる工場建物の危険性及び④地震等災害発生の危険性があった。 cIに対する安全配慮義務違反
被告国は,隔壁が撤廃され,強度の失われた工場建物の使用を禁止し,地震による工場の崩壊や倒壊を防止すること,また,倒壊した場合に備えて安全退避の指導を行うことを,旧会社に対して指導監督し,又は自らそのような措置を講じる等の安全配慮義務を負っていた。
しかし,被告国は,上記安全配慮義務に違反し,旧会社が危険性の高い工場建物を使用するのを漫然放置し,自らも何ら適切な措置を講じなかったため,Iは,1944年(昭和19年)12月7日の東南海地震発生時に安全に退避できず,倒壊した工場建物の下敷きになって死亡した。
d原告Gに対する安全配慮義務違反
被告国は,旧会社に対して,少女が扱い得ないような危険な切断機等の使用を禁止するよう指導監督する義務があったのに,漫然と原告Gに切断機を使用させた。かかる被告国の安全配慮義務違反により,原告Gは左人差し指の先を切断する傷害を負った。 eよって,被告国は,安全配慮義務違反による損害賠償責任を負う。
(被告国の主張)
(ア)原告Gの負傷及びIの死亡に関する不法行為責任の主張について争点(1)についての被告国の主張のとおり
(イ)安全配慮義務違反の主張について a特別の社会的接触関係について
安全配慮義務の発生の根拠となる「特別の社会的接触関係」とは,当事者間に雇用契約ないしこれに準ずる法律関係が存在し,かつ当事者間に直接具体的な労務の指揮監督等の支配管理性が存在し,当事者の一方が片面的に義務を負うのでなく,相互的に忠実義務を負うような法律関係に限定されるというべきである。原告らの安全配慮義務違反の主張は,「特別の社会的接触関係」の存在を基礎付ける具体的事実の主張を欠く。 b安全配慮義務及び同義務違反の特定について
安全配慮義務違反を理由とする損害賠償請求訴訟において,安全配慮義務の内容の特定及び義務違反の事実の主張立証責任は,義務違反を主張する側にある。しかし,原告らの主張する安全配慮義務は,労働者に対する一般的な保護政策を超えるものではなく,当時の社会情勢に照らして被告国がいかなる安全配慮義務を負っていたかを基礎付けるに足りる具体的事実の主張がないから,義務内容及び義務違反の特定に欠ける。 c以上のとおりであるから,原告らの安全配慮義務違反の主張は失当である。
カ争点(6)(原告Fに対する援護法に関する不作為による国家賠償責任)
(原告らの主張)
(ア)援護法は,1952年(昭和27年)4月30日に制定された,軍人軍属等の公務上の負傷,疾病,死亡に関して,軍人軍属であった者又はその遺族を援護することを目的とする法律である。
(イ)Iの死亡についての適用 Iは,勤労挺身隊員として,業務上死亡したものであり,女子挺身勤労令に先立つ動員ではあるが,朝鮮総督府の統制下に動員されている以上,援護法2条3項の準軍属に当たるというべきである。また,援護法附則2項は,戸籍法の適用を受けない者は当分の間,同法が適用されないとしているが,これは国籍による差別であり,経済的,社会的及び文化的権利に関する国際規約(昭和54年条約6号。以下「国際人権規約A規約」という。)2条2 項,市民的及び政治的権利に関する国際規約(同年条約7号。以下「国際人権規約B規 約」という。)26条及び憲法14条に違反し許されない。
(ウ)原告Fの精神的苦痛に対する被告国の責任
被告国は,援護法により,Iに関して,準軍属の業務上の死亡として,その遺族の救済を図るべきところ,国籍による差別によりIの父母に対する救済をしなかった。このような被告国の不作為は,いずれ戸主相続が予定されていた原告Fに対して著しい精神的苦痛を与えた。したがって,被告国は,原告Fの精神的損害に対して国家賠償責任を負う。
(被告国の主張)
(ア)Iの「準軍属」の非該当性
原告らの主張によっても,Iは女子挺身勤労令が制定される以前に勤労挺身隊に加入したものであるから,同人が「準軍属」に該当するか疑問である。
(イ)憲法14条及び国際人権規約違反の主張について
元軍人軍属の被害に対する補償は,憲法の要請に基づくものではなく,その要否等は立法府の広範な裁量にゆだねられる立法政策上の問題である。戦争損害に対する補償立法の要否及びその内容は,立法府の裁量的判断にゆだねられる。また,援護法は,生活保障としての性格も有しており,このような社会援助的色彩を有する給付については,外国人に ついて異なる取扱いをすることも立法府の合理的裁量の範囲に属するというべきである。 したがって,援護法附則2項は,憲法14条及び原告らの主張する国際人権規約の規定に違反せず,Iの父母は,援護法に規定する弔慰金の支給を受ける立場にないから,原告Fの固有の慰謝料請求は,その前提を欠き,失当である。
(2)原告らと被告会社との間における争点ア争点(7)(被告会社と旧会社との同一性)
(原告らの主張)
(ア)被告会社と旧会社との関係
昭和25年1月11日,旧会社が解散し,その現物出資等により第二会社3社が設立され,昭和39年6月30日,第二会社3社が合併して被告会社となった。被告会社関係者において,会社の実体は一体のものとして連続しているとの意識が強く,別の会社としての意識はなかったこと,旧会社の資産及び事業内容がそのまま第二会社3社に分割承継されており,第二会社3社の設立の実体は旧会社の有機的一体となった営業用財産の分割移転であったこと,第二会社3社の社長がいずれも旧会社の常務取締役であること,旧会社とその従業員との雇用関係が,新たに契約を締結することなく,そのまま第二会社3社に引き継がれたこと,GHQの政策に基づく政令によって三菱の商号及び商標の使用が禁止されていた期間以外は,三菱の商号及び商標を継続して使用していること等からすれば,旧
会社と被告会社は連続した一体性を有している。
なお,昭和32年3月25日に設立された菱重株式会社は,同年9月30日に清算事務を結了した旧会社を吸収合併しているが,被告会社は,菱重株式会社に対し,資本金並びに役員及び従業員などの人員構成において,完全な支配権を有しているから,旧会社を吸収合併した菱重株式会社は被告会社の完全子会社である。仮に,被告会社が旧会社から原告らに対する不法行為に基づく損害賠償債務を承継していないとしても,菱重株式会社は同債務を承継しており,同社が被告会社の完全子会社であることによれば,被告会社は,信義則上,菱重株式会社が被告会社とは別の法人格であることを主張することができないというべきである。
(イ)法人格の濫用,禁反言の法理 a被告会社は,形式的には新会社として設立登記されているが,実質は旧会社と同一である。このような場合,被告会社は,旧会社が負っていた労働関係に起因する債務について債権者に対し,信義則上,別の法人格であることを主張できない(民法1条2項,3項)。 b被告会社は,自ら,旧会社との連続性,一体性を認める言動をしてきているから,被告会社が旧会社と法人格が別であると主張することは,禁反言の法理(民法1条2項,3項)に反する。
(ウ)商号続用者の責任
旧会社は,一時期,第二会社3社に分割されたものの,客観的には同一の人的,物的存在として継続し,昭和27年には,第二会社3社は,新三菱重工業株式会社,三菱日本重工業株式会社及び三菱造船株式会社とそれぞれ商号変更し,昭和39年には,被告会社が旧会社と同一の「三菱重工業株式会社」との商号に変更して商号を続用し,他の第二会社2社を吸収合併しているから,被告会社は,商法26条1項により旧会社が原告らに対して負担した損害賠償債務を弁済する責任がある。
なお,一時的及び形式的には商号の続用がなかったとしても,第二会社3社が当初「三菱重工業株式会社」との商号を使用しなかったのは,持株会社整理委員会令(昭和21年勅令第233号)及び過度経済力集中排除法(昭和22年法律第207号)に基づき,持株会社整理委員会の行った再編成計画に関する決定指令に基づき,「三菱重工業株式会社」という商号の使用を禁止されたからであり,このような占領政策の一環として行われた財閥解体により,朝鮮住民に対する損害賠償債務が消滅又は減額されることは予想されていないから,原告らとの関係においては商号が続用されたとみなすべきである。
(被告会社の主張)
(ア)被告会社は,昭和25年1月11日に設立された中日本重工業株式会社(後に新三菱重工業株式会社に,更に昭和39年6月1日三菱重工業株式会社にそれぞれ商号変更) が,昭和25年1月11日に設立された東日本重工業株式会社(後に三菱日本重工業株式会社に商号変更)及び西日本重工業株式会社(後に三菱造船株式会社に商号変更)を,昭和39年6月30日に合併してできた株式会社である。旧会社は,企業再建整備法における整備計画に基づく第二会社3社の設立により,昭和25年1月11日に解散している。
被告会社の社史の記述内容並びに旧会社及び新三菱重工業株式会社等の代表者が述べたとされる内容は,旧会社から被告会社への伝統や技術等の伝承を説明する趣旨にとどまり,両社間の法的な連続性や一体性を認める趣旨のものではない。また,第二会社3社の設立も,新三菱重工業株式会社による他の第二会社2社の合併も,それぞれ法令に基づいて行われたものであり,営業用財産の移転が行われたものではない。さらに,第二会社3社は,旧会社とその従業員との雇用契約を当然に承継したものではなく,旧会社との間に商号の連続性もない。
したがって,旧会社と被告会社とは,別個独立の会社であり,被告会社は,昭和25年1月
11日の設立以前の事実については一切関与しておらず,旧会社の資産や事業内容を承継した事実はない。よって,被告会社が旧会社と別会社であると主張することは信義則に反しない。また,被告会社の社史の記載や旧会社等の代表者の述べたことは,旧会社と被告会社との間の法的な連続性や一体性を認める趣旨のものではないから,被告会社が旧会社とは別会社であると主張することは禁反言の法理に反しない。
(イ)旧会社と第二会社3社の各商号及び商標は明らかに異なっており,第二会社3社が商法26条1項の責任を負うことはあり得ないから,第二会社3社の合併により設立された被告会社が商法26条1項の責任を負うことはない。
また,被告会社が旧会社と同じ商号及び商標となったのは,昭和25年1月11日の被告会社設立から14年以上経過した昭和39年6月1日であることによれば,被告会社が旧会社と別会社であると主張することが法人格の濫用や禁反言の原則に反することはない。
イ争点(8)(本件勤労挺身隊員らが勤労挺身隊の募集に応募して日本で労働したことに関する民法709条,715条,719条に基づく不法行為責任)
(原告らの主張)
旧会社は,本件勤労挺身隊員らを,我が国へ強制連行し,本件工場で,月2回の休みの 外,1日8時間ないし12時間の労働を強制した。労働環境は劣悪で,同人らに十分な金員を支払わなかった。旧会社すなわち被告会社は,これら強制連行及び強制労働により本件勤労挺身隊員らに与えた精神的,物質的損害につき,被告国とともに共同不法行為責任を負う。
(被告会社の主張)
(ア)旧会社と被告会社とは,別個独立の会社であり,被告会社は,昭和25年1月11日の設立以前の事実については一切関与しておらず,旧会社の資産や事業内容を承継した事実はない。
(イ)なお,本件については,以下の事情が認められる。 a食事は食堂でとられており,食事の内容は,いも等ばかりでなく,米もあり,朝鮮半島出身者と内地出身者とを差別したような事情はない。 b賃金は,戦時中においても,現金で毎月給与日に本人に手渡していた。賃金の計算はすべて同一であり,朝鮮半島出身者だけに特別な計算をしていたとの事情はない。
ウ争点(9)(先行行為に基づく作為義務違反による不法行為責任)
(原告らの主張)
(ア)慰安婦と同一視されることによる勤労挺身隊員原告らの精神的苦痛
旧会社の不法行為により,戦後,勤労挺身隊員原告らは,慰安婦と同一視されて苦痛に満ちた半生を送らねばならなかった。
(イ)先行行為に基づく作為義務
旧会社は,慰安婦の連行を勤労挺身隊員動員の手段として積極的に利用する意思の下で共謀荷担し,現にそのような手段として利用したものであり,慰安婦の連行を行ったものと同様に評価される。
被告会社は,旧会社と同一の実体をなすものであり,旧会社による勤労挺身隊原告らに対する人権侵害行為は,被告会社自身による先行行為と同一視できる。したがって,被告会社は,旧会社の不法行為の被害者に対して,被害の拡大を防止すべき法的作為義務を負っている。
(ウ)被告会社の具体的作為義務及びその違反
被告会社の作為義務も被害発生の予見可能性,結果回避可能性の2つの要件が満たされれば成立するものと解されるところ,被告会社においてはいずれもそれが可能であった。
被告会社は,遅くとも昭和63年4月25日の衆議院決算委員会における宇野宗佑外務大臣の答弁以降,勤労挺身隊員原告らが慰安婦と誤解されて精神的苦痛を受けている事実を認識した。被告会社は,前記誤解を容易に解くことができる立場にあり,勤労挺身隊員原告らの名誉を回復すべき法的作為義務を負っていたのに,これに違反して放置した。被告会社のこの不作為は,勤労挺身隊員原告らに対する新たな不法行為を構成し,深刻な精神的苦痛を与え続けているから,被告会社は,先行行為に基づく作為義務違反による不法行為責任を負う。
(被告会社の主張)
原告らの主張する旧会社がしたとする各行為は,すべて被告会社の設立前のことであり,被告会社と旧会社とは別個独立の会社であるから,原告らの主張するような先行行為は 存在しない。したがって,被告会社が,先行行為に基づく何らかの作為義務を負うべき理由は存在しない。
エ争点(10)(国際法違反に基づく損害賠償責任)
(原告らの主張)
被告会社の本件勤労挺身隊員らに対する本件不法行為は,強制労働ニ関スル条約,国際慣習法としての奴隷制の禁止,人道に対する罪,ハーグ陸戦条約にかかる国際慣習法等,種々の国際人権法に著しく違反するから,被告会社は,原告らに対し,国際法違反に基づく損害賠償責任を負う。
(被告会社の主張) 原告らの主張は争う。
オ争点(11)(Iの死亡に対する不法行為責任,工作物設置管理責任,安全配慮義務違反による債務不履行責任)
(原告Fの主張)
(ア)不法行為責任 Iの死亡は,旧会社が行った強制連行,強制労働と因果関係が認められるので,被告会社は,民法709条,715条,719条に基づき被告国と共同不法行為責任を負う。
(イ)工作物設置管理責任 Iの死亡の原因となった工場建物の倒壊は,工場に要求される強度を保持していなかったために生じたもので,旧会社の建物の設置,管理に瑕疵があったといわざるを得ない。よって,旧会社と同一である被告会社は,工場の所有者として,民法717条により,Iの死亡による損害を賠償する責任がある。
(ウ)安全配慮義務違反による責任
旧会社は,被告国とともに,Iを強制的に労働に従事させていたから,Iの生命身体の安全に配慮すべき安全配慮義務を負う。しかし,旧会社は,この義務を何ら果たそうとせず,漫然と危険性の高い建物を使用し,Iに対する安全指導を全く行わなかった安全配慮義務違反により,同人は,東南海地震に際して安全に退避できず,工場建物の倒壊により死亡した。
したがって,被告会社は,安全配慮義務に違反してIを死亡させたことにつき,被告国と連帯して損害賠償責任を負う。
原告Fは,Iの被告会社に対する損害賠償請求権を相続した。
(被告会社の主張)
原告Fの主張はすべて争う。
東南海地震の発生は,被告会社設立前の昭和19年のことであるから,被告会社が工作物の設置,管理責任を負うことはない。 Iは,昭和19年12月7日に死亡しているから,それ以後に設立された被告会社が,Iに対して安全配慮義務を負うことはない。
カ争点(12)(原告Gの傷害に対する不法行為責任,安全配慮義務違反による債務不履行責任)
(原告Gの主張)
(ア)不法行為責任
原告Gの傷害は,旧会社が行った強制連行,強制労働と因果関係が認められるので,被告会社は,民法709条,715条,719条に基づき被告国と共同不法行為責任を負う。
(イ)安全配慮義務違反による責任
旧会社は,原告Gを強制的に労働に従事させていたから,Gの生命身体の安全に配慮すべき安全配慮義務を負う。しかし,旧会社は,この義務に違反し,15歳の少女による切断機の使用を禁止しなかったため,原告Gは,左手人差し指の先を切断する傷害を負った。したがって,被告会社は,安全配慮義務に違反して原告Gに傷害を負わせたことにつき,被告国と連帯して損害賠償責任を負う。
(被告会社の主張)
原告Gの主張はすべて争う。
原告Gは,遅くとも昭和20年10月末日までには,旧会社を退去していたから,それ以後に設立された被告会社が,原告Gに対して安全配慮義務を負うことはない。
キ争点(13)(会社経理応急措置法及び企業再建整備法による債務の消滅)
(被告会社の主張)
(ア)会社経理応急措置法11条2項によれば,特別経理会社について指定時(昭和21年
8月11日午前零時)以前の原因によって生じた債務はすべて旧勘定に属する。原告らが 根拠とする同法7条2項及び8条7項は,特別経理会社の所有する動産,不動産,債権その他の積極財産に関する新旧勘定の所属を定めたものであり,原告らの主張する損害賠償請求権のような消極財産の新旧勘定の所属を定めたものではない。また,同法7条2項は,特別経理会社の有する会社財産のうち,「会社の目的たる現に行っている事業の継続及び戦後産業の回復振興に必要なもの」,すなわち,生産に必要な財産だけを新勘定として,従前の債務についての責任を負わないものとし,戦時補償債務その他の不良資産と従前の債務を旧勘定として債務の弁済を禁止し,いわばこれらを区別して凍結しているのである。したがって,仮に原告らの主張する各請求権が存在したとしても,旧会社が負担していた原告らに対する債務は,旧勘定に属する債務であり,被告会社は,旧会社より同債務を承継していない。
(イ)原告らは,会社経理応急措置法及び企業再建整備法は労働債権につき特別の保護を与えている旨主張して,上記各法の条項をその根拠として示しているが,いずれも誤った条文解釈による主張であり,原告らの示す各条項により第二会社3社が旧会社から労働債権についての債務を承継しているものと解することはできない。
(ウ)会社経理応急措置法及び企業再建整備法の立法趣旨は,戦時補償打切りによる企業への影響を一定限度に食い止め,経済界の不測の混乱を防止するとともに,これを機として過去の損失を一切整理し,企業の急速なる再建整備を促進し,我が国の産業全体を健全に回復させることにある。この立法趣旨にかんがみれば,前記各法は,平和条約に
も,憲法にも,条理にも違反しない。
(原告らの主張)
(ア)原告らに対する損害賠償債務は,会社経理応急措置法7条2項の「会社の目的たる現に行っている事業の継続及び戦後産業の回復復興に必要なもの」に当たるから「新勘定」として被告会社に引き継がれている。仮に同項に当たらないとしても,新旧いずれに属するか分明でないものとして同法8条7項により「新勘定」に属し,被告会社に引き継がれている。なお,同法11条2項は,被告会社が主張するような「指定時以前の原因によって生じた債務がすべて旧勘定に属するものである」旨を規定しておらず,また,同法7条2項は,被告会社の主張するような「積極財産である会社財産」との制約を明文上規定していない。
また,会社経理応急措置法及び企業再建整備法は,労働債権につき特別の保護を与えているところ,原告らの損害賠償請求は被告会社と本件勤労挺身隊員らの労働関係に起因して生じたものであって労働債権に準じるものにほかならず,賃金等の労働債権も実質的に含まれているから,原告らに対する損害賠償債務は被告会社が承継しているものとみるべきである。
さらに,原告らに対する損害賠償債務は,企業再建整備法26条の2及び26条の6の「在外負債」に当たるから,特別な保護が与えられるべきであって被告会社は上記債務に対する履行義務を負う。
以上のとおり,原告らに対する損害賠償債務は,会社経理応急措置法上の旧勘定には当たらないから,被告会社は,企業再建整備法により,原告らに対する損害賠償債務を承継した。
(イ)平和条約違反
旧会社の不法行為に基づく損害賠償債務について,会社経理応急措置法及び企業再建整備法の適用を認めることは,平和条約4条(a)に違反する。したがって,被告会社は,原告らに対し,会社経理応急措置法及び企業再建整備法による損害賠償債務の処理を対抗できない。
(ウ)憲法違反
会社経理応急措置法及び企業再建整備法は,私有財産制及び適正手続の保障を定めた憲法に違反しており,憲法の発効によりその効力を失った。
(エ)ポツダム宣言違反
会社経理応急措置法7条が,被告会社の主張するように,戦争による被害の賠償を「新勘定」に含まず,「戦後産業の回復復興」が戦争被害の賠償を排除するものだとすれば,明らかにポツダム宣言に違反しているから,その法律自体無効である。
(オ)条理違反
被告会社は,原告らに対し,強制連行,強制労働の不法行為に基づく損害賠償債務を負担しているから,会社経理応急措置法及び企業再建整備法により,原告らに対する損害賠償債務を承継しない会社を設立することは,条理に反し無効である。
(3)争点(14)(本件協定2条又は財産権措置法1項1号による解決)
(被告国の主張)
原告らが被告国に対して主張するような請求権が存在するとしても,本件協定2条1項及び3項により,被告国には,これらの請求に応じる法的義務はない。
ア本件協定は,日韓両国間の友好関係の確立及び将来における友好関係の発展の見地から,韓国の民生の安定及び経済の発展に貢献することを目的として,我が国が韓国に対して3億ドルの無償供与及び2億ドルの長期低利の貸付けという資金供与を行うことと並行して,請求権問題を最終的に解決することとして,昭和40年12月に締結されたものであ る。
韓国は,これを受けて,1966年(昭和41年)2月に,「請求権資金の運用及び管理に関する法律」を制定し,韓国国民が持っている1945年(昭和20年)までの我が国に対する民 間請求権は,我が国からの経済協力として導入される無償供与,借款及びそれらの使用から発生する資金から補償しなければならない旨規定した(5条1項)。
イ本件協定2条の「財産,権利及び利益」とは,法律上の根拠に基づき財産的価値を認められるすべての種類の実体的権利をいうものであり,同条の「請求権」とは,上記に当たらないあらゆる権利又は請求を含む概念である。本件協定2条の「請求権」は,同条3項において,一律に「いかなる主張もすることができないものとする。」とされており,同条1項において,「請求権に関する問題」が「完全かつ最終的に解決されたこととなる。」ことが確認されているから,韓国国民が日本国に対し,判決によって確定されていない不法行為に基づく損害賠償請求権など上記「請求権」に含まれる権利に基づいて請求しても,我が国及びその国民はこれに応じる法的義務はない。
ウ条約の規定が我が国の裁判所において直接的に適用できるというためには,条約締結国が国内において直接適用を認める意思を有しているという主観的要件及び規定内容が明確であるという客観的要件が必要であるとされているところ,本件協定2条3項が国内法上の「措置」を執ることを予定するような文言を置かずに「請求権についてはいかなる主張もすることができないものとする」と規定し,同条1項で「請求権に関する問題が完全かつ最終的に解決されたこととなる」ことが確認されていることによれば,日韓両国は,「請求権」については,国内法を制定しないで本件協定の規定を直接適用する意思を有していたことは明らかであり,上記各条項の文言によると,当該請求を拒絶し得る法的効果を規定したことが明白かつ確定的に認められるから,「請求権」に関する上記各条項を日本の裁判所において直接的に適用できることは明らかである。
エ原告らが本件において主張する損害賠償請求権及び公式謝罪請求権は,いずれも,本件協定の署名の時点で,権利関係が明確でなく,法律上の根拠に基づき財産的価値を認められる実体的権利であったとはいえないから,本件協定2条1項及び3項の「請求権」に含まれ,したがって,原告らが上記の各請求権に基づく請求をしても本件協定自体の効果として,被告国はこれに応ずる法的義務を負わない。この法的義務を負わないというのは,国内法的に消滅したという意味ではなく,請求しても被告国及びその国民はその請求に応じる法的義務はないという意味である。
なお,原告らは,損害賠償請求権の成立の前提として,補償立法義務,勤労挺身隊員と慰安婦との同一視を解消するための行政の作為義務,及び弔慰金等の支払をすべき作為義務も主張するが,これらの作為を要求する請求権は,本件協定の署名の時点では法律上の根拠に基づき財産的価値を認められる実体的権利とはいえず,同協定2条1項及び3項の「請求権」に該当するから,被告国には,原告らの作為を要求する請求権に応じる法的義務はなく,したがって,原告らの主張する損害賠償請求権は,存在しない法的義務の懈怠を理由とするものというべきである。
オ戦争行為によって生じた被害の賠償問題は,戦後に締結される講和条約によって解決が図られるが,一般的に賠償その他戦争関係から生じた請求権の主体は常に国家であ
り,条約で被害者である国民個人に対して請求権者として直接必要な措置を執る方法を設けた例外的な場合以外は,国民個人の受けた被害は,国際法的には国家の被害であり,国家が相手国に対して固有の請求権を行使することになる。国家がその国民の他国又はその国民との間の財産及び請求権の問題を解決するために国際約束を締結することは国際法上可能であるとして,各国において実行が積み重ねられてきた。そして,近代戦争における戦後処理の枠組みとしては,戦後賠償は,原則として国家間の直接処理,又は求償国内の旧敵国資産による満足の方法によることとして解決が図られ,個々の国民の被害については,原則として,賠償を受けた当該当事国の国内問題として,各国がその国の財政事情等を考慮し,救済立法を行うなどして解決が図られている。
平和条約締結当時の経過からすれば,同条約14条(b)の「請求権の放棄」とは,我が国及びその国民が連合国国民による国内法上の権利に基づく請求に応ずる法律上の義務が消滅したものとして,これを拒絶することができる旨を定めたものと解すべきである。
本件協定2条についての我が国政府の見解も,上記の平和条約14条(b)の解釈と同様であり,同条によって日韓両国が外交保護権を放棄したことの一般国際法上の効果として,我が国国民の個人の財産,権利及び利益並びに請求権が韓国により否認されても,我が国として韓国に対し異議を唱えることができないことになり,この点を韓国の国内法の観点からみれば,韓国及びその国民は我が国国民の請求に応じる法的義務はないことになる。なお,原告らの主張に係るジュネーブ第4条約は第2次世界大戦中の行為には適用されない。また,そもそも原告らの引用する同条約7条は個人の賠償を受ける権利について規定するものでないし,同条約148条は個人の請求権の発生について規定するものでない。原告らの主張は,上記条項を正解しないものであって失当である。
(被告会社の主張)
ア仮に原告らの被告会社に対して主張する各請求権が過去に存在したとしても,財産権措置法1項1号に該当するから,上記請求権は,昭和40年6月22日に消滅した。
本件協定2条3項は,国内法的に個人の請求権を消滅させるものではなく,外交保護権を相互に放棄したもの,すなわち,具体的にいかなる措置を執るかを他方の締約国の決定に委ねたものと解釈すべきであり,財産権措置法1項は,上記本件協定2条3項を受けて請求権を国内法的に消滅させたものである。
イまた,仮に,原告らの主張する各請求権が財産権措置法により消滅していないとしても,上記請求権は,本件協定2条1項及び3項の請求権に該当し,いかなる主張もすることができないものとされ,完全かつ最終的に解決されたことが確認されているから,被告会社には,原告らの各請求に応じる法的義務はない。
(原告らの主張)
ア本件協定は個人の請求権に影響を与えないものであること
(ア)被告国は,平和条約について,同条約では各国国内法に基づく債権も含めて放棄され,我が国及びその国民が連合国国民による国内法上の権利に基づく請求に応じる法律上の義務が消滅したものとしてこれを拒絶することができる旨を定めたものであり,本件協定はこれと同じ意味内容の条約である旨主張する。
しかし,一般に条約の妥当範囲は原則として合意に参加した国家にのみ限られるところ,韓国は平和条約の当事国ではなく,本件協定と平和条約とでは,規定の文言及び交渉経過が異なり,両者は全く別の条約であって,平和条約の解釈は本件協定には適用されない。
また,平和条約に関して,被告国は,従来,「平和条約19条(a)の規定によって,我が国 は,国民個人の米国に対する損害賠償請求権を放棄したことにはならない」又は「個人がその本国政府を通じないでこれとは独立して直接に賠償を求める権利は,国家の権利とは異なるから,国家が外国との条約によってどういう約束をしようと,それによって直接これに影響は及ばない」旨を主張していたところ,これと,本件における主張は矛盾するものである。
平和条約締結当事国が,同条約中の「放棄」という文言の解釈について「救済なき権利」であるとの見解で一致させたことはなく,第24回国会参議院外務委員会における下田武三外務省条約局長の答弁では,同条約における個人請求権の消長について言及されておらず,また,ヘイデン法(1999年(平成11年)7月に合衆国カリフォルニア州において成立した法律であり,第2次世界大戦中にナチス政権又はその同盟国の支配下で強制労働させられた者がその労働が行われた企業又はその子会社等に対して損害賠償請求訴訟を同州裁判所に提起できるとする旨の内容を有する。)が成立した後の合衆国政府及び我が国政府の同条約に対する各見解は,平和条約締結当時の解釈とは異なるものであるから,被告国の上記主張は根拠がなく,本件協定の解釈の根拠にはならない。
(イ)近代立憲民主主義国家において,国家が国民個人の権利を自由に制限できる存在ではないということは自明の理であり,また,1949年(昭和24年)に締結されたジュネーブ第4条約において,「国家が賠償処理によって個人の賠償請求権を消滅させることはできない。」ということが国際慣習法として確認されていたから,我が国政府又は韓国政府が,本件協定によって自国民の個人請求権を消滅させることは当時の国際慣習法に違反し,不可能であった。
被告国が外交保護権の放棄について従来の政府見解と同じ立場に立つとしても,本件協定は外交保護権の放棄でしかないところ,外交保護権は国家固有の権利であり,これを放棄するか否かは私人の権利の消長とは無関係に国家が決することができるものであるから,国家同士が外交保護権を放棄しても,当該国民が加害国の国内法にのっとって請求することは妨げられず,また,当該国民個人の請求権の内容には変化がない以上,当該国 民個人からの国内法上の権利に基づく請求が救済なき権利に直ちに変容するとの効果は生じない。第50回国会衆議院「日本国と大韓民国との間の条約及び協定等に関する特別委員会」における椎名悦三郎外務大臣の答弁及び第121回国会参議院予算委員会における柳井俊二外務省条約局長の答弁によれば,本件協定締結の過程において,我が国政府がその国民個人の権利を掌握して個人に代わってその権利を消滅させたのではないことが明らかである。
したがって,本件協定において外交保護権が放棄されても,原告ら個人の賠償請求権は何ら影響を受けない。
イ原告らの請求権が本件協定の射程外であること
仮に,被告国が主張するように,本件協定が「財産,権利及び利益」又は「請求権」に当たるすべての権利につき,被告国はこれに応じる法的義務がないとの効果を生じさせるものであったとしても,勤労挺身隊の問題は,本件協定2条1項の「問題」の対象外であり,また,勤労挺身隊員原告らの解放後の同一視被害に関する損害賠償請求権及び公式謝罪請求権は,本件協定2条3項の「同日以前に生じた事由に基づくもの」ではないから,本件協定2条の適用外である。
(ア)本件協定2条1項の「問題」とは,少なくとも同協定締結時に問題にされたものでなければならないことは文言上明らかであるところ,同協定締結の経緯からすれば,韓国側が被害全体を認識しておらず,我が国側も韓国側が被害全体を把握していなかったことを認識していたものと解されるのであり,勤労挺身隊動員の事実は,同協定締結当時のみならず,現在までにおいても,沈黙を余儀なくされる状況下におかれていたから,日韓双方の当事者の合理的意思として,勤労挺身隊員が「韓国の対日請求要綱」中の「被徴用韓国人」に含まれていたとは考えられず,勤労挺身隊問題は,同協定2条1項の「問題」には当
たらない。
仮に,勤労挺身隊員が上記「被徴用韓国人」に含まれるとしても,本件協定締結に至るまでの日韓会談において,勤労挺身隊員らの韓国における解放前及び解放後の各被害について議論された事実はないから,勤労挺身隊問題は「問題」としての認識も議論もなかったものである。
さらに,仮に,勤労挺身隊員動員とその労働の事実が本件協定2条1項の「問題」に該当したとしても,解放後の被害は,解放前の被害とは独立した問題であるから,上記「問題」には当たらない。
(イ)解放後の被害に関する損害賠償請求権及び公式謝罪請求権は,1945年(昭和20年)8月15日の韓国の解放後に,勤労挺身隊員原告らが韓国社会に生活するに当たって生じた行政不作為を事由とする解放前の被害とは独立の被害であるから,本件協定2条3項の「同日以前に生じた事由に基づくもの」ではない。したがって,解放後の被害については,本件協定2条は適用されない。
ウ被告会社の財産権措置法に関する主張について
(ア)財産権措置法は,本件協定2条の実施のために制定された法律であるから,外交保護権の放棄という限度で効果が生じるにとどまり,個人の請求権そのものを国内法的な意味で消滅させたものではない。
(イ)原告らの被告会社に対する請求権は,不法行為又は安全配慮義務違反による損害賠償請求権であるところ,本件協定2条3項の「財産,権利及び利益」は,同協定締結時において存否及び金額が具体的に明確であったものであることによると,本件の原告らの請求権は,これに当たらず,同協定の「請求権」に当たるものである。したがって,財産権措置法が適用されることはない。
(4)争点(15)(時効又は除斥期間の適用)
(被告国の主張)
ア仮に,原告らの主張する本件不法行為に民法が適用され,原告らの被告国に対する損害賠償請求権が発生したとしても,原告らの本件提訴前に除斥期間の経過により請求権は消滅している。
イ民法724条後段の法的性格が除斥期間であることは最高裁判所平成元年12月21日第一小法廷判決・民集43巻12号2209頁で確認されている。また,除斥期間の効果が制限される場合として,最高裁判所平成10年6月12日第二小法廷判決・民集52巻4号10
87頁(以下「平成10年判決」という。)は,少なくとも,不法行為による損害賠償請求権の権利不行使に対する義務者の関与をその要件としているところ,本件において,原告らが不法行為に基づく損害賠償請求権を行使できなかったことに対し,義務者とされる被告国は何ら関与していないから,民法724条後段の除斥期間の適用制限に関する原告らの主張は失当である。
ウ原告らは,国際人権法違反の行為については除斥期間の適用はない旨主張するが,原告らの主張する国際慣習法は存しない。また,原告らが我が国の国内法である民法ないし国家賠償法に基づいて損害賠償を求めている以上,当然に除斥期間の適用がある。
(被告会社の主張)
ア不法行為に基づく損害賠償請求権について
(ア)Iは昭和19年12月7日に死亡し,勤労挺身隊員原告らは遅くとも昭和20年10月末日までには旧会社を退去しているから,仮に不法行為に基づく損害賠償請求権が過去に存 在していたとしても,民法724条後段の20年の除斥期間の経過により消滅した。
(イ)除斥期間に係る権利行使としては,裁判上の権利行使が必要であるところ,原告らは,除斥期間の起算点から20年の期間内に裁判上の権利行使をしていない。
(ウ)仮に,裁判外の請求の意思表示があれば足りるとしても,原告らの主張する日韓交渉において,被告会社は,我が国政府又はその主席代表に対し,明示又は黙示に個別の賠償問題に関する代理権ないし意思表示の受領権限を与えていないから,上記交渉の際に原告らの請求権行使の意思表示がされたとしても,被告会社に到達していない。
(エ)除斥期間の適用制限について述べた平成10年判決は,本件とは全く事案を異にしているので,原告らの主張する除斥期間の適用制限の根拠とはなり得ず,本件では除斥期間の適用を制限すべきではない。
イ未払賃金債権について Iは昭和19年12月7日に死亡し,H及び原告らは遅くとも昭和20年10月末日までには旧会社を退去しているから,仮に何らかの事由により原告らの主張する未払賃金債権が存在していたとしても,民法174条1号により,昭和20年11月1日から1年の経過により時効消滅している。
ウ安全配慮義務違反による債務不履行責任について
仮に,旧会社が,原告らの主張するように,Iの死亡及び原告Gの傷害に関する安全配慮義務違反による債務不履行責任を負っていたとしても,相続人がIの死亡を知った時,及び原告Gの受傷の時からそれぞれ10年を経過したことにより損害賠償債務は時効により消滅(民法167条1項)したから,被告会社はこれを援用する。
エ原告らは,国際人権法違反の行為については時効,除斥期間の適用はない旨主張するが,その旨を定めた明文規定ないし慣習法は存在しない。
(原告らの主張)
ア除斥期間について
(ア)民法724条後段の規定は,規定の文言,立法経過などによれば,時効について定めたものであって除斥期間を定めたものではない。
(イ)仮に,除斥期間を定めたものであったとしても,原告らは,我が国政府に対する賠償請求及び被告会社らに対する賠償請求について,韓国政府に対し,黙示に代理権限を授与しており,1961年(昭和36年)12月21日の日韓交渉で,韓国政府は我が国政府に対
し,補償金額約3億6400万合衆国ドルとの具体的金額を明示したので,遅くともこの時期に,原告らによる除斥期間に関する権利行使があったとみなし得る。そして,前記日韓交 渉の経緯は,我が国において詳細に報道され,また,我が国の財界も,主席代表を出す形で主体的に日韓交渉に当たっていたから,財界の一員たる被告会社としても,日韓交渉に関わっていたと見ることができ,原告らの権利行使の意思表示は,被告国のみならず,被告会社にも到達していた。
なお,判例によれば,権利行使後は,消滅時効の問題となる。
(ウ)仮に,権利行使が訴訟提起に限定されるとしても,正義・公平の理念に基づき,本件事案の特段の事情(被告国が,原告らの個人請求権行使を政治的に妨害し続けた事実,不法行為の態様の悪質性,原告らの被害の程度,被告らによる証拠の隠滅,提訴妨害,原告らの個人補償請求の困難さ等)を考慮して,除斥期間の起算点の妥当な決定,時効停止規定の準用,平成10年判決の除斥期間の適用制限等によると,本件に除斥期間は適用されるべきでない。
なお,除斥期間についても,時効と同様に「権利行使可能性」がない限り,その適用が制限されると解すべきところ,韓国における政治的事情によると,韓国国民は自由な意思表明すらできない状況にあり,また,1988年(昭和63年)11月までは実際上原告らの我が国への渡航可能性はなかったことなどによると,原告らが権利を行使することは不可能であったのであり,被告らが原告らの請求権行使の遅延に関与していたか否かは関係ない。 イ時効について
(ア)原告らの請求に対する民法724条前段の時効の適用は制限される。
同条前段における損害の認識の前提である「権利行使可能性」は,権利者の職業,地位,教育及び権利の性質,内容等諸般の事情から,その権利行使を現実に期待ないし要求できることを意味する。
(イ)I及び原告Gに対する安全配慮義務違反に基づく損害賠償請求権の消滅時効期間は,民法167条1項による。
(ウ)被告会社の消滅時効の援用は権利濫用であって許されない。
ウ国際人権法違反の行為については,除斥期間及び消滅時効の適用はない。
(5)争点(16)(原告らの損害)
(原告らの主張)ア財産的損害
勤労挺身隊員原告らは,少なくとも1944年(昭和19年)6月から1945年(昭和20年)9月まで旧会社の下で勤労挺身隊員として在籍した。この間,受けるべきであった当時の平均賃金は,1人各月額50円を下ることはない。したがって,同人らは,前記期間の未払賃金相当額として少なくともそれぞれ金800円を下ることのない損害を被った。なお平成11年度の賃金水準で算定した前記未払賃金相当額の現在の価値は,200万円を下らない。イ精神的損害
勤労挺身隊員原告らは,強制連行,強制労働により筆舌に尽くしがたい精神的苦痛を被り,更に強制連行下における内鮮一体が虚構であることを発見したことによる精神的苦痛を被った。これに対する慰謝料は,各人につき,それぞれ2000万円を下らない。
ウ被告らの不法行為による損害
勤労挺身隊員原告らは,被告らの戦後の一連の不作為により,新たに,慰安婦との同一視によって勤労挺身隊員の経験を隠蔽することを強いられ,恐怖におびえ著しい精神的苦痛を被った。これに対する慰謝料は,少なくとも各人につきそれぞれ1000万円を下らな い。
エ原告Dの帰国後の損害
被告国の行政権限に関する不作為のため,原告Dは,帰国後,勤労挺身隊と慰安婦とを同一視する韓国社会において,家庭生活を破壊される等,人生の節目節目において忍び難い重大な被害を受け続けた。原告Dが上記の同一視被害により被った著しい精神的苦痛に相当する慰謝料は,3000万円を下らない。
オ原告Fの損害
(ア)Iの損害 Iも,同様に,被告らの強制連行,強制労働により財産的損害及び精神的損害を受けた。未払賃金相当額は,合計6か月分の300円が相当であり,平成11年度の賃金水準で算定した現在の価値は70万円を下らない。精神的損害に対する慰謝料は,2000万円を下らない。 Iの死亡による逸失利益は3500万円を下らない。また,Iの死亡による精神的苦痛に対する慰謝料は2300万円を下らない。
(イ)相続による損害賠償請求権の取得
原告Fは,Iの被告らに対する前記損害賠償請求権のうち,その40分の13,すなわち,少なくとも2500万円を超える損害賠償請求権を相続により取得した。
(ウ)原告Fの固有の損害
原告Fは,Iの死亡により精神的苦痛を受けた。これに対する慰謝料(民法711条)は,10
00万円を下らない。
原告Fは,被告らの戦後の一連の不作為(被告国の立法上及び行政上の不作為,援護法の適用に関する被告国の国籍による差別,被告会社の戦後の不作為)により新たに精神的苦痛を受けた。これに対する慰謝料は,1000万円を下らない。
カ原告Gの傷害による損害
原告Gが左手人差し指の先を切断する傷害を負ったことによる逸失利益は480万円を下らない。また,その慰謝料は,2000万円を下らない。
キ原告らの損害賠償請求
(ア)原告A,同B,同C,同E及び同Gは,それぞれ,被告らに対し連帯して,上記アないしウの損害額(原告Gについては,上記カの損害額を含む。)のうち,3000万円の支払を求める。
(イ)原告Dは,(a)被告会社に対し,上記アないしウの損害額のうち,3000万円の支払を,(b)被告国に対し,上記エの慰謝料3000万円の支払を求める。
(ウ)原告Fは,被告らに対し,(a)Hの相続人として,同人の被った上記アないしウの損害額のうち,3000万円,及び,(b)上記オの(ア)ないし(ウ)の損害額のうち,3000万円の合計6000万円の支払を求める。
ク謝罪要求
原告ら,I及びHは,被告らの行為により人格権を侵害された。この損害は,金銭賠償のみでは回復し難い被害であるから,被告らによる公式の謝罪(民法723条)が必要である。
(被告国の主張)
原告らの主張は,いずれも法的根拠を欠き失当である。
(被告会社の主張)
ア被告会社が原告らに損害を与えたとの主張及び被告会社に対する損害賠償請求に係る主張は争う。
イ原告らの謝罪要求の主張は争う。第4当裁判所の判断
1原告ら各自の事情については,次のとおり認められる。
(1)原告Aの事情(以下,(1)において,原告というときは,原告Aのことをいう。)
前記前提となる事実,甲H1号証の1及び2,2号証,29,39号証,40ないし42号証の各
1及び2,原告本人尋問の結果並びに弁論の全趣旨によれば,以下の事実を認めることができる。
ア家族関係及び経歴
原告は,1930年(昭和5年)9月26日,光州市で出生した。原告の父は,原告が生まれる約半年前に病死したため,祖母,母,姉,兄及び原告の5人家族であった。母は,キリスト教の伝道師をしていたが,生活は貧しかった。
イ国民学校での生活及び卒業後の状況
1938年(昭和13年)4月から,原告は順天南国民学校に通っていたが,国民学校で受けた教育により,原告は,天皇陛下に忠誠を尽くすものであること,内鮮一体であること,日本は正義,良心の国であることなどを信じていた。
1944年(昭和19年)3月,原告は順天南国民学校を卒業した。当時,国民学校を卒業した後,中学校や女学校へ進学できる韓国人は3分の1くらいであり,貧しい家庭の子どもは
進学できなかったため,女学校へ行けるということはあこがれであった。原告の家も貧しかったが,国民学校の先生になっていた原告の姉が1年間お金を貯めて原告を女学校へ行かせるくれると言っていたため,卒業後,原告は家で家事を手伝っていた。
ウ勤労挺身隊への勧誘
1944年5月,原告は国民学校6年次の担任教諭に学校へ呼び出され,校長室で校長と憲兵から「日本に行けば,学校にも行けるし,工場で働きながらお金も稼げる。」,「国民学校の先生の給料ほども稼げる。」,「6か月に1回は韓国に帰してやる。」などと言われ,勤労挺身隊に参加するように誘われた。原告は,女学校へ行けるだけでなくお金まで稼げるという話を信じ,すぐに承諾した。原告は,校長から印鑑を持ってくるように言われたが,母に話すと反対されると思い,黙って印鑑を持ち出し,校長に渡した。
原告は,その後,母に上記の事情を話すことができずに悩んでいたが,同年5月28日にようやく打ち明けたところ,原告の母は,非常に驚き,「日本に行くのは絶対に駄目だ。」などと言って反対した。そのため,原告は,校長に日本へ行けなくなった旨を話したが,校長が
「お前の親は契約を破ったから刑務所に送られるだろう。」と脅したため,怖くて何も言えなくなり,原告の母には「行かない。」と嘘を告げて家族に秘密の内に勤労挺身隊に参加することとした。
同年5月31日,順天南国民学校に,勤労挺身隊として日本へ出発する少女たちが原告も含めて13人集まった。原告らが順天駅に移動して汽車を待っていると,原告の母と姉が駆けつけて,泣きながら「日本へ死にに行くなんて馬鹿な子だ。」と反対したが,原告は「6か月に1度は帰れるという約束だから,そのときに会いましょう。」などと言って母らを説得し た。原告の母も日本の憲兵がいる前で原告を連れて帰ることはできなかった。
原告らは,K憲兵と羅州国民学校のJ教諭に付き添われ,麗水港から船で下関に,下関から汽車で名古屋に到着したが,原告らは,名古屋に着いて初めて本件工場で働くことを聞かされた。
エ本件工場での生活
(ア)名古屋に着いた原告らは,第四菱和寮でL舎監から「私はお前達の父親だ。だから,私をお父さんと呼びなさい。」などと言われた。原告はL舎監について良い人だという印象を受けた。
到着した翌日から本件工場での仕事が始まった。原告ら順天部隊は,2人1組で,ジュラルミンの板に飛行機の部品の型を描き,その後,これを日本人の従業員がいるところまで運ぶという仕事に就いた。ジュラルミンの板は当時13歳の原告には非常に重く,あまりの重さに途中で足の上に落したこともあった。しかし,原告は,血が出て腫れていても医者に診てもらうこともなく,薬も塗ってもらえなかったため,味噌を塗るなどして我慢していたが,痛みがひどくてこっそり泣いたこともあった。
(イ)工場で夕方まで働き,寮に帰ってからは疲れて寝てしまうという状態で自由はなかった。
食事の時間には,食堂の前で一列に並び,一杯の茶碗めしと一種類のおかずをもらった が,いくら量が少なくてもお代わりはできなかったため,いつもおなかが空いており,水で空腹を満たすことが何度もあった。
家族に手紙を出したくても検閲が厳しく,また,原告には切手を買うお金すらなかったため,手紙を出すこともできなかった。
(ウ)原告は,「学校へ行ける。給料をもらえる」という話を信じていたが,仕事が終わった後に二,三回,お茶や礼儀作法を教えてもらったことがあるほかは,毎日工場での仕事だけで全く勉強などさせてもらえなかったので,L舎監に「学校には行かせてもらえないのか。」と尋ねた。しかし,L舎監は「今はその時ではない。あとでその話をしよう。」などと言うだけであった。また,給料をもらえないことについても尋ねたが,L舎監は「貯金してある。後で 韓国に帰る時にあげる。」と言うだけであった。
(エ)日本に来て何か月か経ったころ,韓国から5人の代表団が,原告らの働いている様子を見にやってきた。原告の母も順天の代表として参加していたが,皆が集まっている場で挨拶をしただけで個人的に話をする時間は持てなかったため,原告は,原告らが受けている待遇が約束と違うことなどを母に訴えることはできなかった。
オ東南海地震
1944年(昭和19年)12月7日午後1時半ころ,原告らが作業場で仕事をしていたところ,
「ウー」といううなるような大きな音がして,体が揺れるくらいの振動が続いた。原告は何が起きたかわからなかったが,日本人が「地震だ。早く木の下へ逃げろ。」と叫んだため,原告は何とか逃げようとして,ようやく工場の外に出て木の下まで避難した。工場が倒壊する大きな音が聞こえ,大勢の人の叫び声やうめき声,助けを求める声があちこちから聞こえた。血を流し頭はほこりだらけの人が出てきたり,煙突のところに見えた人影が見えなくな
っていたりと修羅場と化した光景を見て,原告は恐ろしさの余り震え続けていた。カ空襲
地震の後,間もなくしてから名古屋に空襲が続いた。毎晩のように空襲警報が鳴り,そのたびに原告らは防空壕に避難して身を縮めていた。焼夷弾が雨のように降り注ぎ,寮の周りは火の海になり,原告は水に濡らした毛布で一晩中消火活動に当たったこともあった。
原告は,空襲など戦争の実態を聞いたことがなく,危ないということを実感していなかったが,これらの体験の後,原告の母が「日本に行くことは死にに行くことだ。」と言った意味を実感した。恐怖のため,何日も眠れず,ご飯も食べられない状態になった。
このときの空襲による恐怖から,原告は,帰国後も,夜驚いて目が覚め,朝まで眠れないということがあった。
キ大門工場での生活
1945年(昭和20年)に入ると,原告らは大門工場に移動させられた。
大門工場の寮の舎監は,傷痍軍人で強圧的な態度の人であった。原告らは,地震,空襲と相次ぐ恐怖と疲労のため,舎監に対して「約束どおり韓国に帰して下さい。」と要求したことがあったが,舎監は怒って原告らを1人ずつ自分の部屋に呼び,「誰が最初にそんなことを言い出したのか。この中にはスパイがいる。」と怒鳴りつけた。このような舎監の厳しい姿 勢に,原告らはひたすら謝り,翌日から工場での勤務に就いた。
その後,日本の状況は次第に悪化し,原告らは,握り飯と一切れのたくあんでひもじさを紛らわせながら厳しい労働に従事した。
ク解放
1945年(昭和20年)8月15日,原告らは,寮の前の運動場に集められ,ラジオからの天皇陛下の放送を聞いた。流れてきた天皇陛下の声を聞いた日本人は皆,涙を流していたが,原告らは,戦争が終わったという安心感とやっと韓国に帰れるという喜びから,寮の部屋に戻って手に手を取り合い喜び合った。
同年10月,原告らは朝鮮に帰国することになったが,荷物は後で送ると言われたため,原告らは,支給された作業着のまま帰国した。また,他の勤労挺身隊員が舎監に給料のことを聞いたところ,「お前たちが朝鮮に帰ってから支払う。」と言われたため,原告は,荷物と給料は後で送ってもらえると信じて帰国した。
ケ帰国後の生活
原告は,帰国後しばらくは家にいたが,1946年(昭和21年)から,縫製工場で働きながら全南女学校の夜間部に通学し,その後,朝大中学校,光州スピア女子中学校,全州イエス病院看護学校でそれぞれ学び,同看護学校卒業後,光州済衆病院で看護師として勤務しながら助産員免許を取得し,1957年(昭和32年),光州市月山洞助産院を開業した。そして,このころ,原告は,当時,陸軍中尉であった夫と見合い結婚をし,その後,二男二女をもうけ,仕事と子育てで多忙な日々を送っていた。
韓国では,戦前に日本に行ってきたというと,親日派とみられて非難され,加えて,勤労挺身隊員は慰安婦と同視されており,勤労挺身隊員であったことが分かると結婚できなかったため,原告は,結婚する際に,夫に勤労挺身隊員として日本に行ったということを話さ ず,結婚後も,夫にも子供にも話せないままであった。
原告の子供らがそれぞれ独立した後,原告は,原告B及び同Dらとともに,名古屋を訪問し,勤労挺身隊員であったことを公表した。原告の子供らは,原告の話を聞いて事実を理 解したものの,原告の夫は,勤労挺身隊員は慰安婦ではないという原告の話を信用せず,家を出てしまったため,1994年(平成6年)10月,原告は夫と離婚した。
原告は,助産婦として周囲の人から尊敬されており,2003年(平成15年)11月には米国でナイチンゲールミラン賞を授与されたが,新聞やマスコミが原告が勤労挺身隊員であったことを報道したのを見聞きし慰安婦と誤解した人から「汚い女だ。」だとののしられたこともあった。
原告は,日本での生活で受けた精神的な苦痛とショックで現在まで不眠症と神経性胃腸障害を患い,体重が減り,気持ちが不安定であるため,治療を受け続けている。
(2)原告Bの事情(以下,(2)において,原告というときは,原告Bのことをいう。)
前記前提となる事実,甲A8号証,甲C55ないし57号証,甲H2,4号証,6号証の1及び
2,29号証,43号証の1及び2,43号証の5,原告本人尋問の結果並びに弁論の全趣旨によれば,以下の事実を認めることができる。
ア家族関係及び経歴
原告は,1931年(昭和6年)3月6日,全羅南道羅州で出生した。原告の父は,羅州において「V商店」との名称で,塩,高麗人参,たばこなどの販売業を営んでおり,家庭は裕福であった。原告の母は,原告が5歳のころ死亡したため,以後は継母との生活であった。
原告は,羅州大正国民学校を1944年(昭和19年)3月に卒業し,主に日本の子女が通う
大和女学校を受験したが,不合格となった。イ勤労挺身隊への勧誘
原告は,再度女学校を受験するため,羅州大正国民学校を卒業した後も同校において「再習」と称する課程を履修していた。1944年(昭和19年)5月ころ,学校の教室に5年生,6年生及び再習課程の各児童が集められ,R校長及びK憲兵から,「日本に行けばお金がもらえるし,女学校にも通える。」,「日本に行きたいものは手を上げなさい。」と言われた。女学校に不合格となって落ち込んでいた原告は,日本の女学校の方が朝鮮の女学校よりも偉く,日本の女学校へ行ったら自分が一番偉い人間になれると思い,願ってもない話と考え,真っ先に手を上げた。このとき,原告は,日本の工場で働くなどとは思っていなかった。原告は,女学校へ行ける喜びに急いで家に帰って原告の父に報告したところ,原告の父 は,当初,日本に行くことに猛反対したが,商売の関係で日本人と親交があったことから,原告がどうしても行きたいとせがむのを反対し通すことができず,やむなく承諾した。
1944年(昭和19年)5月末ころ,原告を含めた24人は,K憲兵及び羅州大正国民学校の J教諭に引率され,羅州駅から汽車で麗水に向かった。原告の父及び継母は,麗水まで同行して麗水で「みどり旅館」という旅館に原告とともに1泊し,原告の父は,別れの際に原告に着替えのほか30円を持たせた。原告の父は泣いていたが,原告は,女学校へ行けることを考えるとひたすらうれしい気持ちだけであった。
麗水で一泊した翌日の夜,麗水港から大型船で日本へ向かった。航行中,魚雷が通過したためサイレンが鳴った。このとき原告は,初めて子供心にも危険な状況に身を置いていることを感じ,後悔の気持ちが芽生えたが,下関に到着して山などが見えたときは少し安心し た。下関からすぐに汽車に乗り換え名古屋へ向かったが,目的地が名古屋であることは到着するまで知らされなかった。
ウ本件工場での生活
第四菱和寮では1部屋に6人で寝起きを共にした。寮長のL舎監は原告らに親切であり,原告らはL舎監をお父さんと呼んでいた。
原告に与えられた仕事は,飛行機の部品に国防色のペンキを塗る作業であった。作業場に換気扇はなく,マスクもなかったため,原告は,2回ほど,ペンキの溶剤の臭気で頭が痛くなり意識を失って倒れたことがあった。工場での作業は,作業に従事する者どうしが互いに話ができないように作業場所を分断して作業させられた。作業中,少しでも横を見たり話をしたりすると,監督に怒鳴りつけられた。トイレに行くときも,戻るのが少し遅れただけで ひどく怒鳴られた。そして,そのたびに,監督は「朝鮮人だからそうなんだ。」,「半島人」などと言って差別したので,原告は,内鮮一体と教えられたのにどうして差別されるのかと思うと悔しく,「内鮮一体を知らないか。」と言い返したこともあったが,監督から怒鳴り返されるだけであった。
食事は,主食はご飯に豆やジャガイモなどが混ざったもので量は少なく,おかずも1品程度であり,原告は常に空腹の状態であった。
寮の2階の部屋には「内鮮一体」の額がかかげられ,日本の天皇のこと,日本の歌及び礼儀作法は教えられたが,学校に通うことなどはなく,他の勉強はなかった。
原告は,つらい気持ちを原告の父に伝えるために,指を切り,その血で「日本は必ず勝つ」と書き,父あてに送ったところ,心配した原告の父が間もなく日本へ駆け付けた。原告の父は,原告に一緒に朝鮮へ帰るように言ったが,原告は,どうしても日本の学校へ行きたく,また,自分1人で帰ることはできないと思い,日本に残った。
エ東南海地震
1944年(昭和19年)12月7日午後1時半ころ,昼食を終え,作業を再開したときに東南海地震が発生した。朝鮮半島で生まれ育った原告は,大きな地震の経験はなく,驚いていると,監督が「地震だ。みんな外へ出ていけ。」と大声で叫んだので,原告は何とか外へ逃げ出すことができたが,地震で工場の屋根が落下し,鉄骨が原告の右肩に当たったため傷害を負った。工場の煙突は大きく揺れ,地面はひび割れ,水道管は破裂して水があふれ出ており,原告らはおびえてあちこち逃げまどい,恐怖と不安で,お母さん,お父さんと呼びながら泣くばかりであった。
地震の話を聞いた原告の父は,地震の数日後に日本に駆け付けたが,原告は,このときも日本の学校へ行きたいという気持ちがあり,父と一緒に朝鮮に帰らなかった。
オ空襲
1945年(昭和20年)1月ころから特に空襲が激しくなり,毎日のように昼夜を問わず警戒警報や空襲警報が鳴り,そのたびに防空壕に避難した。防空壕にも焼夷弾が落下し,勤労挺身隊員の1人が死亡した。寮にも焼夷弾が落ち,室内が燃えたこともあった。このとき,原告は,自分の布団で火事を消し止めたが,以後,代わりの布団は支給されなかった。
カ大門工場での生活
1945年春ころ,原告らは,大門工場に移転した。大門工場には山口師範学校の生徒も来ていた。
大門工場での生活は,本件工場と同様のものであり,仕事も航空機部品にペンキを塗ることであった。食事も量が少なく,原告は,あまりの空腹のため,工場の裏にある畑からキュウリやトマトを盗って食べたこともあった。
大門工場の寮の舎監は,原告らに厳しく差別的であり,暴力を振るうこともしばしばあった。夏になると蚊が多く,山口師範学校の生徒らには蚊取り線香が配給されていたのに,原告らには配給されなかったため,原告が蚊取り線香を買いに外出したところ,舎監に見つかり殴られたことがあった。また,山口師範学校の生徒や日本人の子供らから,「朝鮮人かわいそう。なぜかと言えば,地震に空襲にぺっしゃんこ」などと歌いはやされて侮辱されることがしばしばあった。
キ解放
1945年(昭和20年)8月15日,ラジオから天皇の玉音放送が流れ,日本人は皆泣いていたが,原告は放送内容がよくわからず,どうして皆が泣いているのか理解できないでいたところ,山口師範学校の生徒らに,「朝鮮人だから日本が戦争に負けたことを喜んでいる。」と言われ,大勢の生徒から殴られた。
同年10月,原告らは汽車と船を乗り継いで帰国した。朝鮮に帰国した原告は,羅州大正国民学校のR校長の話などがすべてうそであり,自分はだまされたとはっきり感じたため,胸が張り裂けるような思いがした。
ク帰国後の生活
原告は,帰国後しばらくは羅州で原告の父らと共に生活していたが,1946年(昭和21年)に原告の父及び継母とともに釜山へ移転した。原告は肺結核にかかり,釜山の病院に3年弱ほど入院した後,光州師範学校に入学した。
解放後の韓国では,日本に協力的であった韓国人は迫害され,挺身隊員として日本に渡った少女たちは「供出」とみなされ,日本人男性のなぐさみものにされたと認識されていた。原告は,軍人と婚約したことがあったが,原告が勤労挺身隊員であったことが知られて破談となった。その後,1度結婚したものの,勤労挺身隊員であったことが知られ,それが原因で別れた。別れてから子供を1人出産したが,肺結核を患って入退院を繰り返していたため,結局父親に引き取ってもらった。
その後,原告は,和順で水商売や小さな食堂,パン屋をやったりし,その間に男の子を1人出産した。
ケ本件訴訟に至るまで
1995年(平成7年)ころ,原告は,原告Dと偶然再会し,その後,日本で開催された戦後5
0年の記念集会に原告D及び同Aとともに参加し,本件訴訟の原告団に加わることとなっ た。原告は,以前は勤労挺身隊員であったことはできるだけ知られたくないと考えていたが,裁判活動にかかわるなかで,勤労挺身隊員としてのつらい経験を後代に伝えることが自分たちの責任であると考えるようになった。
また,原告は,東南海地震で死亡した勤労挺身隊員6人のうちの日本名「Q'」という少女の身元が探せないままであるという話を聞き,その少女を不憫に思って必死に探したところ,木浦の山亭国民学校の学籍簿に「Q'」の名前があるのを見つけ,少女の韓国名が「Q」であること,その本籍地が全羅南道務安郡(現在の新安郡)押海面であること及びその遺族を探し出すことができた。
(3)原告Cの事情(以下,(3)において,原告というときは,原告Cのことをいう。)
前記前提となる事実,甲H46号証の1及び2,原告本人尋問の結果並びに弁論の全趣旨によれば,以下の事実を認めることができる。
ア家族関係及び経歴
原告は,1929年(昭和4年)12月1日に全羅南道羅州で出生した。兄弟は兄3人,姉3人で,原告が2歳の時に父が,4歳の時に母がそれぞれ相次いで死亡したため,原告の兄が農業で一家の生活を支えていたが,生活は苦しかった。原告は,幼いころ,日本人に対して,怖いというイメージを持つとともにその豊かさに対するあこがれのような気持ちを抱いていた。
1944年(昭和19年)3月,原告は,羅州大正国民学校を卒業した。イ勤労挺身隊への勧誘
1944年5月ころ,原告及び原告と同い年の姪が,国民学校6年次の担任教諭から呼ばれて学校に行ったところ,校長室で,R校長とK憲兵から,日本の立派な家が写ったりしている写真を見せられ,「日本に行きたいか。」,「日本に行ったら何をしたいか。」などと聞か れ,さらに「日本に行けば,女学校に進学できるし,お金がもらえる。」などと言われ,日本に行くように勧められた。
その際,原告らは,名古屋に行くとは聞かされておらず,労働の内容,給料の額,勤務日数,勤務時間については何も知らされていなかった。また,原告は,当時,日本が戦争していたことを知らず,知らされることもなく,そもそも,戦争が何であるかも知らなかった。したがって,日本に行けば空襲があるなどと言うことも全く知らず,逆に,日本に行っても家に帰りたければいつでも帰れると言われていた。
原告は日本へ行くという話を聞いた時,「行けないと思っていた女学校へ行ける。」と喜んだが,親代わりの兄にこの話をしたところ,「絶対に行っては駄目だ。」と反対された。原告
は,今のままでは家庭の都合で女学校には行けないと思ったので,「このままでは女学校に行けないので私は行きます。」と言い張った。しかし,兄から「幼いお前たちが遠い外国に行ってどうするのだ。お前たちを誰が保護してくれるのか。」,「行ったら帰れるか帰れないか知らないぞ。」などと繰り返し言われたため,原告は姪と2人で相談し,日本に行くのはやはり不安だということになった。そこで,翌朝,原告と姪は学校に行って,日本には行かない旨を告げたところ,刀を下げていて,体格も立派で怖い感じを受けていたK憲兵から,「1度行くと言った人は絶対に行かなければいけない。行かなかったら警察が来て家族,兄さんを縛って行く。」と怒られた。R校長からも「絶対に行かなければいけない。」と言われたた め,原告と姪は,家に帰った後,2人で1晩中心配していたが,校長らから印鑑を持って来るように言われていたので,印鑑を盗み出して学校へ持って行き,結局,2人で勤労挺身隊に参加することになった。
ウ日本への出発
1944年(昭和19年)5月末ころ,原告は,羅州大正国民学校から日本に向けて出発したが,家族の見送りはなかった。羅州駅で,原告らは,個人行動は絶対禁止であり,憲兵の命令に従うようにと厳しく注意を受けた。そのため,原告らは行き先などを聞くこともできなかった。
日本に向けて麗水港から出港し,翌日の明け方,下関に到着したが,原告は,気分が良くなく,そのまま帰りたいという気持ちになっていた。
エ本件工場での生活
原告らが名古屋に着いた翌日の朝早くには,早速工場に行き,労働に関する教育を受けた後,工場での労働が始まった。
原告に割り当てられた工場での作業は,飛行機部品のさびを取ることとペンキ塗りであった。さびを落とす仕事は腕が痛くなり,また,ペンキ塗りはきつい臭いに酔ってしまい,息が苦しく,ひどい頭痛がした。1日中立ったままの作業であったため,夜寝るときには足が腫れていた。蚊に刺されてひどく腫れたこともあったが,薬は与えられなかった。
作業場での監視はとても厳しかった。よそ見をせずに間違いなく作業をするようにとの命令が幾度となく飛んでいたため,仕事の際には横も向けず,話もできなかった。トイレに行くときは,許可をもらって誰かと行かなければならず,決められた時間内に戻らなければ,罰が加えられた。特に勤労挺身隊員はいつも怒鳴られていた。体が痛くて仕事に出ていけない者に対しては食事が与えられなかった。
原告らは,工場にいる日本人とは,仕事を教える人及び指揮官以外に付き合いがなく,日本人は原告らを「半島人」,「朝鮮人」と呼び,原告らに日本人の友人ができるような状況ではなかった。
朝鮮に手紙を送るには検閲を受けなければならなかったため,原告は,朝鮮には1度も手紙を送らなかった。そのため,朝鮮にいる家族の状況についても知ることができなかった。原告は,朝鮮では貧しい生活ではあったが,それでも欲しいだけのものは食べることができた。しかし,日本では,労働がきつい反面,食事は主としてジャガイモで,量はいつも不足していた。原告は,空腹に耐えられないときには,厨房にこっそり入ってゴミ箱に捨てられた ご飯を拾い,水で洗って食べて飢えをしのいだこともあった。また,持ってきた服を遠くまで行って豆と交換し,豆をお粥にして食べたこともあった。
オ東南海地震
1944年(昭和19年)12月7日午後1時半ころ,午後の作業に取りかかっていた原告は,急に「地震だ。」という大きな声を聞いて,急いで工場内の防空壕に入ろうとしたが,体が動かず,やっとのことで防空壕に入り,姪と2人で抱き合いながら一緒に死のうと言っていたところ,工場が倒壊した。原告は,地震が収まるとすぐに防空壕のふたを開け,外の様子を見たが,血まみれの人が担架で運ばれていったり,地面が割れたり,水があふれたりしているような状況であったため,このまま家に帰ることもできずに死ぬのではないかと思っ
た。また,原告も,つぶれた建物をかきわけて出てきた時にけがをした。
原告は,韓国では地震を経験したことがなかったため,現在でも東南海地震の恐怖を忘れることができないでいる。
カ空襲
東南海地震後,毎日のように空襲があり,そのたびに避難した。空襲があると,死の恐怖のために誰もが互いに押し合って防空壕へ避難しようとした。1日に何回も空襲警報のある日もあり,原告らは防空壕へ逃げるたびに,「今日も生きていた。」,「私たちは,こうして生きている。」と言ったり,心に思っていた。1晩中空襲が続いたこともあり,原告は本当に空襲が怖く,家に帰りたくて仕方がなかった。原告は,ここで死ぬのではないかと毎日泣いていた。
原告は,防空壕へ避難する際に,寮の2階の階段で後ろから押されて転倒し,階段の1番上から下まで落ちて腰を打ち,足の爪が1枚はがれるなどのけがをしたことがあった。現在でも長く座っていると,立とうとしても立てず,姿勢も悪い状態である。
キ韓国への帰国
その後,原告らは,大門工場に移動させられたが,監視のもとでの労働,食事の不足など仕事や生活については,本件工場と同じような状況であった。
1945年(昭和20年)8月15日,日本の敗戦で戦争が終わったことを知り,原告らは,これで故郷に帰れると思い,手をたたいて喜び合った。
同年10月21日に,原告は,作業服とモンペの格好で,徴用で日本に連れてこられた人たちと一緒に帰国した。
ク帰国後の生活
原告は,ようやく帰国することができたが,たくさんお金がもらえるという話であったのに無一文で帰ってきたため,兄や姉に見せるお金がなく,また,自分がだまされたと思うと恥ずかしく,親代わりであった兄にも,「日本へ行って飛行機を作った。」と話しただけであり,ほかには何も言えなかった。
帰国後の韓国での生活の中で,原告は,勤労挺身隊員が慰安婦と同一視されており,勤労挺身隊員として動員された人は皆これを隠しているという事態を経験し,勤労挺身隊に参加したことは隠さなければならないということをいやでも理解しなければならなかった。そのため,原告は,勤労挺身隊員として動員されたつらい体験を誰にも話すことができず,
「大変なことがあったのに死なずに帰って来てよかった。」と自分を慰めるよりほかになかった。
原告は,結婚をして幸せな家庭を築くことを願っていたが,勤労挺身隊員に動員されたことがわかると,日本兵に体を売ったと誤解されて結婚相手として見てもらえなくなるため,これを隠して結婚するしかなかった。
原告には,最初,憲兵との結婚話があったが,原告は「憲兵」というとK憲兵を思い出し,怖くて結婚する気になれず,また,相手方も,原告が勤労挺身隊に参加していたことをどこかで聞き,「勤労挺身隊から帰った人とは結婚しない。」と断ってきた。
その後,原告は,勤労挺身隊員に動員されたことを隠して22歳のときに見合い結婚をし,
5人の男の子と1人の女の子をもうけた。原告は,勤労挺身隊員に動員された事実は絶対に夫に知られてはならないと思い,ひたすら隠し続けようとしたが,結婚後,四,五年してから,原告の夫は原告が勤労挺身隊に参加していたことを聞き及び,原告を疑うようになっ た。原告の夫は,原告の過去について何度も根ほり葉ほり聞き,原告がありのままに答えても決して信用せず,ついには原告に暴力を振るうようになり,原告は,夫の暴力によって意識を失ったり,手首を骨折したりすることもあった。結局,原告の夫は家を出てしまい,結婚生活は破綻した。
原告の夫は,家を出る際に家にあるお金を一切持って出てしまい,その後,生活費や養育費はほとんど仕送りしてくれなかったため,原告は,実家の援助を受けながら6人の子供を育てた。医大に進んだ原告の長男は,学費が足らずに途中休学をしたこともあったが,ア ルバイトをしたり,原告の兄や姉から援助を受けたりして医大を卒業し,現在は大学医学部の教授になっている。
なお,原告の夫は,晩年に病気になり,原告の長男が医師として勤務していた病院で検査を受けることを希望したことがきっかけとなって,手術後,家に戻り,原告らの看病の末に死亡した。
ケ本件訴訟への参加について
本件訴訟に参加することについて,原告は三男以外の子供には話しておらず,三男からもあきらめるよう忠告されたが,自分の人生を狂わせた原点を見つめ直し,生涯の恨みを晴らし,慰安婦であったという誤解を解きたいと思い,本件訴訟に参加することとした。
(4)原告Dの事情(以下,(4)において,原告というときは,原告Dのことをいう。)
前記前提となる事実,甲H3号証の1及び2,29号証,45号証の1ないし3,原告本人尋問の結果並びに弁論の全趣旨によれば,以下の事実を認めることができる。
ア家族関係及び経歴
原告は,1929年(昭和4年)11月30日,全羅南道羅州の貧しい農家に生まれた。父母,
姉4人及び兄1人がおり,家庭は貧しかったが,両班(ヤンバン)という一番格の高い家柄であった。
1939年(昭和14年)4月,原告は羅州大正国民学校に入学したが,当時,原告は国民学校で受ける教育を信じ切って受け入れていた。
イ勤労挺身隊への勧誘
原告が6年生になったばかりの1944年(昭和19年)5月,R校長とK憲兵が教室に入ってきて,「体格が良く頭が良い子が挺身隊として日本に行って働けば,金もたくさん稼げるし,女学校にも入れてもらえ,帰ってくるときには家1軒買える金を持って帰れるようになる。だから勤労挺身隊に志願してはどうか。行きたい者は手を上げろ。」などと言って,勤労挺身隊への参加を募ったところ,クラスの全員が手を挙げた。R校長は担任教諭と相談して,頭が良くて体格の良い児童10人をその場で指名した。原告は,その10人のうちの1人に入っていた。
原告は大喜びで家に帰り,両親に報告したところ,両親は驚き,激怒して,「幼い娘を日本にやることは絶対できない。」,「女学校へ行かせるなんてうそだ。」などと言って強く反対した。しかし,原告は,頭が良いとして選ばれたことを非常にうれしく思っており,また,天皇陛下は絶対であるとの教育を受けた原告は,学校の先生は間違ったことを教えたりしないと思っていたため,両親の言うことよりも教諭の言うことを信じた。原告は,翌日,R校長に両親が反対していることを告げたところ,R校長から「このような指名を受けたのに行かなければ,警察がお前の父親を捕まえて閉じ込める。」,「行く人は父親の印鑑を押さなければならない。」などと言われた。原告は,自分が行かなければ警察が父を捕まえるのではない かと心配し,父が寝ている間にこっそりと印鑑を持ち出して担任教諭に渡した。このようにして,原告は,勤労挺身隊員として日本に行くことになった。
その約20日後,J教諭の引率で出発したが,原告の両親は見送りに来て泣いていた。
麗水に集まった勤労挺身隊に動員された児童らを,軍楽隊が歓迎した。K憲兵ら憲兵2人が引率に加わったが,原告は軍刀を持つ憲兵に恐怖を覚えた。
原告らは,船で下関に渡り,汽車に乗って名古屋に行き,本件工場に到着した。ウ本件工場での生活
原告の仕事は,シンナーやアルコールで飛行機の部品のさびを取り,その上にペンキを塗ったり,ヤスリをかけて部品を切断したりするという作業であった。工場では24人の班に2人の日本人の班長がおり,作業中,作業場を行き来して終始監視していた。作業場にはシンナーの強い刺激臭が充満していたため,頭痛がしたが,倒れそうになっても倒れると怒られるのでこらえていた。手袋もなく,手の皮が破れて出血したこともあった。原告は背が低く,ペンキを塗るときは背を伸ばして作業しなければならなかったので大変つらかったが,手を休めて班長の方を見ただけで殴られたこともあり,手を休めることはできなかった。作業中トイレに行くことはできたが,他の人が並んでいて時間がかかってしまっただけでも殴られたことがあった。班長が原告らをたたいたり怒鳴ったりするときは,「朝鮮人」「半島人」と言ってののしった。
第四菱和寮では1部屋に8人が寝起きを共にしていた。食事は,寮の大きな食堂で食べ た。朝食は,麦を混ぜたご飯に,おかずは梅干しとみそ汁だけのことが多く,ご飯の分量も
少なかった。昼食は工場の食堂で,福神漬かたくあん,夕食はほとんどいわしなど1品だけのおかずであった。
原告は,あるとき,日本人と朝鮮人が交替する際に,食べ残しのご飯が少しバケツの中にあるのを見つけ,食べようとして手に取ったところ,通りかかった日本人の少女から「朝鮮人汚い。」と言われて,足で手を踏みつけられたことがあった。
エ東南海地震
1944年(昭和19年)12月7日午後1時半ころ,地面が揺れ,「地震,地震,みんな外へ出なさい。」という大きな声が聞こえたので,原告は走って逃げたが,逃げる途中で壁が倒
れ,原告の前を逃げていた寮の小隊長のNと,原告の後を逃げていたMが下敷きになってしまった。そして,施盤の上から器具が落ちてきて原告の脇腹や肩に当たり,その後,天井が落ち,原告はがれきの中に埋もれてしまった。2人の友が死ぬのを目の当たりにした原告は,ぶるぶる震えながら助けを求めていたところ,誰かが原告の手を引っ張って助け出してくれた。現在でも,原告の左脇腹には傷の跡が残り,強い打撲を受けた左肩には痛みが残っている。また,原告は,東南海地震で感じた強い恐怖を今でも忘れることができない。オ敗戦と帰国
その後,原告らは大門工場に移動し,本件工場と同様の作業に従事した。
日本の敗戦により,1945年(昭和20年)10月,原告らは帰国することになった。会社の班長に汽車で下関まで連れていかれ,そこから船で韓国に渡った後,汽車に乗って羅州駅に到着したのは,同月22日午後11時のことだった。原告は家に帰って再開した父母と抱
き合って泣き続けた。
給料は,大門工場に移動する際には「同じ三菱なので富山に行って帰るときにやる。」と舎監に言われ,大門工場から家に帰るときには「家に連絡して送ってやる。」と言われたの で,原告は,帰国後,連絡を待っていたが,何の連絡もなかった。
カ帰国後の状況
原告の母は,日本で働いてきたという原告の話を信じていたが,近所の人に「娘が生きて帰ってきた。」と話したところ,「体を売っていくらもうけてきたのか。」と言われたため泣いていた。原告は,日本に行くときは「偉いことをしに行く。」と思っていたが,母の泣いている姿を見て,母を泣かせてしまうようなことをしてしまったのだと感じ,恥ずかしいと思った。原告は,母や姉から「日本に行ってきた女はみんな体を売ってきたと思われるから,日本に行ってきたことは絶対に言うな。」などと言われていた。
1946年(昭和21年)3月から,原告は,自宅から8キロメートルほど離れたところにある中学校の夜間部に通学し始めた。原告と同じように勤労挺身隊に参加した人が他に2人いたが,中学校のある場所が町から離れていたこともあり,原告らが勤労挺身隊に参加してきたことを知っている生徒はいなかった。しかし,原告らは,他の生徒より年上で体も大きかったため,勤労挺身隊に参加したことが知られるのではないかといつも不安に思っており,結局,原告は,勤労挺身隊に参加したことを知られる前に中学校をやめてしまった。
その後,原告は,見合いをした相手と結婚の約束までしたが,原告が勤労挺身隊に参加したことを知った相手の母親は,見合いを紹介した原告の義兄に対して「あなただったら自分の子供をそんな子と結婚させるか。」と言って結婚に反対した。その話を聞いた原告は,とても悔しく,また恥ずかしく思い,泣いていた。
1949年(昭和24年),原告は,勤労挺身隊に参加したことを知られないうちに結婚しろと家族に言われ,これを隠してやむなく結婚した。
原告は,1952年(昭和27年)に長男を,1954年(昭和29年)に二男を出産したが,その後,夫が突然知らない子供を3人連れてきたため,これが原因で夫との間にけんかが絶えなくなった。原告が「なぜ外で子供を作って連れてくるのか。」と問いつめると,夫は,「お前だって日本帰りで汚いじゃないか。」,「汚れた女じゃないか。」と原告を罵倒した。その後,原告は,毎日のように夫とけんかとなり,夫から慰安婦であったと疑われて「汚い」などと言われることは非常につらいと思っていたが,子供たちに罪はなく,これも運命だと思って我慢して,夫とは別れなかった。
1963年(昭和38年)ころ,夫が病気になり働けなくなったので,原告が働いて家計を支えるようになった。1964年(昭和39年)には長女を出産したが,翌1965年(昭和40年)に夫が死亡し,以後,原告は1人で子供6人を育てた。
現在,原告は光州広域市の自宅に1人で住んでおり,週に一,二回,市場で売る野菜の整理をする仕事をして月に5ないし6万ウォン(日本円で5000ないし6000円程度)の収入を得ており,加えて月8万ウォンの国からの援助(2003年2月から受給)を受けて何とか生活している。原告の自宅の近くには,二男のaと長女のbが住んでいるが,いずれも生活が苦しく,原告の生活を十分に援助することはできない。
キ本件訴訟に至る経緯等
1993年(平成5年)ころ,原告は,慰安婦を扱ったテレビ番組で「慰安婦,勤労挺身隊員であった人は申告してください。」との報道を見たことがきっかけで,二男のaと一緒に,太平洋戦争犠牲者光州遺族会の会長であるSの事務所を訪れた。その途中,原告がaに,自分も勤労挺身隊員として日本に行ってきたことを告白したところ,aは,「おかあさんは偉
い。」,「時代的な状況があったから仕方がない。」,「これも神様が助けてくれたんだ。」などと言って原告の事情を理解した。原告は,Sの仲介で日本の弁護士に会い,その後,山口地方裁判所下関支部に対し,国を被告とする損害賠償請求訴訟(平成4年(ワ)第349号,同5年(ワ)第373号,同6年(ワ)第51号)を提起した。
原告は,自分の体験を広く知ってもらうために,テレビに出演して訴えるなどしており,これを見聞きした人の中には「日本へ行って苦労したんだね。」と理解してくれる人もいるが,
「日本に行った人はみな慰安婦をしているのに,どうしてあなただけが違うというのか。」,
「どうして慰安婦でない人がテレビに出演するのか。」などと言われたり,「今夜一緒に遊ぶか。」とからかわれたり,陰口を言われたりすることもあり,なかなか理解してもらえない状況が続いている。
(5)原告Eの事情(以下,(5)において,原告というときには,原告Eのことをいう。)
前記前提となる事実,甲H44号証の1ないし5,原告本人尋問の結果及び弁論の全趣旨によれば,以下の事実を認めることができる。
ア家族関係及び経歴
原告は,1930年(昭和5年)1月20日,全羅南道羅州で出生した。
家族は,父母,兄弟姉妹及び原告の9人家族であった。原告の父は小作人をしており,非常に貧しかった。
原告は,1937年(昭和12年)春に羅州大正国民学校に入学した。なお,原告は,「E」が本名であるが,国民学校入学時に,原告のおじの娘の「Z」という名前を使い,生年月日を
1928年9月16日として届け出たため,学籍簿には,戸籍抄本と異なる氏名及び生年月日が記載されている。
国民学校では,「天皇は神である。」,「日本は良い国である。」と教えられ,幼い原告はそれを信じていた。
1943年(昭和18年)3月,原告は羅州大正国民学校を卒業した。イ勤労挺身隊への勧誘
原告は,国民学校卒業後,家の手伝いをしていたが,1944年(昭和19年)5月ころ,同学年で親友であったNが「先生が呼んでいる。学校に行けて,お金ももらえるという話があ
る。」と言って原告を呼びに来たので,原告はNと一緒に国民学校へ行ったところ,6年次の担任教諭,R校長及びK憲兵から「日本に行けば,女学校に行ける。」,「仕事をすればお 金がもらえて家計を助けることができる。」,「半年に一度は故郷に帰れる。」などと言われた。
原告は,羅州の女学校に通っている生徒を見てうらやましく思っていたため,校長らの話を聞いて,女学校に行けると信じて大変うれしく思い,また,お金をもらえるなら貧しい家族を助けることができるとも思った。しかし,その他に具体的な労働の内容,勤務時間,そして日本が戦争をしていることなどについては,何も教えてもらわなかった。
原告は,家に帰って両親に勧誘の話をしたところ,強く反対された。しかし,原告はどうしても女学校へ行きたいと思っており,また,校長らから強く誘われたので断ることもできないと考え,Nと一緒ならば自分も行こうと思い,親の反対にもかかわらず原告は日本に行くことにした。原告は,父の印鑑を内緒で持ち出して学校へ持っていき,校長に「親が反対するので親に秘密で日本に行きます。」と話をした。そして,原告は,Nと一緒に親に内緒のまま,荷物も持たずに家を出て勤労挺身隊に参加した。両親には,名古屋に着いてから手紙で日本に来たことを知らせた。
1944年5月末ころ,羅州大正国民学校に集合して羅州駅から出発し,他の地方から来た少女らと合流して,麗水港から船に乗って下関まで行き,下関から汽車で名古屋に行き,第四菱和寮に到着した。
ウ本件工場での生活
本件工場で原告に与えられた仕事は,飛行機の小さな部品にペンキを塗ることであった。その日のうちに塗らなければならない部品が台の上に並べられており,原告は「早くやりなさい。」と大声で怒鳴られながら必死でペンキを塗った。シンナーとペンキの臭いがきつく て,頭が痛くなり,休みたいと思っても休むことができなかった。仕事のときの監視はとても厳しく,私語は許されず,トイレに行くときも許可がなければトイレに行かせてもらえなかった。
寮では,原告は,原告Dを含めた七,八人で同じ部屋で生活した。食事は,朝食はジャガイモと麦と米を混ぜたご飯とみそ汁,昼食はジャガイモと麦と米を混ぜたご飯,夕食はジャガイモと麦と米を混ぜたご飯とおかずが少しであり,韓国にいたときと比べても量が大変少なかったが,どんなにおなかがすいても,他のものを買って食べることはできなかったため,原告はいつも空腹状態であり,水を飲んでおなかを膨らませていた。
原告は,両親に内緒で日本に来ていたため,家族への手紙に「辛いです。」,「苦労がたくさんあります。」などと書くことはできず,いつも「幸せです。」としか書けなかった。
女学校へは行かせてもらえず,勉強もさせてもらえず,仕事はきついので,原告は早く家に帰りたいと思ったが,怖くてとても言い出せなかった。
エ東南海地震
1944年(昭和19年)12月7日午後1時半ころ,原告が工場の中でペンキを塗る仕事をしていたところ,日本人が大きな声で「地震だ。」と叫んだので,原告は,日本人と一緒に工場の下にある穴に避難した。揺れが収まり,原告が穴から外に出てみると,建物が倒れ,地面が割れたり,地面から水がわき出ていたりした。建物の下敷きになって死んでいる人もおり,大変恐ろしい思いをした。原告は,寮に戻ったときにNがれんがの下敷きになって死んだという話を聞き,大変な衝撃を受け,大声で泣いた。なお,原告は,帰国後,一緒に日本へ行ったNと一緒に帰ることができなかったつらさから,国民学校の卒業写真の中のNの 顔をボールペンで黒く塗りつぶしてしまった。
オ解放及び帰国
東南海地震後,名古屋への空襲がひどくなり,1945年(昭和20年)の3月か4月ころ,原告らは大門工場に移動したが,本件工場のときと同様に,労働はきつくて,食事なども粗末
なものばかりだった。
つらい日々が続く中,同年8月15日,原告は,工場のラジオで戦争が終わったことを知り,
「これで家に帰ることができる。」ととてもうれしく思った。ただ,一緒に来たNが死んでしまい,自分1人で帰ることを思うととてもつらかった。
解放後,しばらくたってから,原告は,下関から船に乗って麗水に行き,そこから汽車に乗って1人で実家に戻った。
カ帰国後の生活
原告の実家は,家が7軒ほどしかない青洞里の集落にあったため,原告が勤労挺身隊として日本に行って帰ってきたことは,青洞里の集落の人が皆知っていた。原告は,青洞里の集落の人にも日本に行ってペンキを塗る仕事をしてきたと説明した。原告の家族も青洞里の集落の人も原告の話を信じてくれた。
しかし,帰国後しばらくしてから,原告は,「挺身隊」という言葉が「処女供出」という言葉と 合わせて,日本の男性達に「身体まで尽くす」という意味で使われていることを知り,勤労挺身隊に参加したことを恥ずかしいと強く感じるようになり,日本に行ってきたことは誰にも話さないようにしようと心に決めた。
原告は,勤労挺身隊に参加したことを隠して17歳(数え)で結婚した。原告は,勤労挺身隊に参加したことが夫に知られたら恥ずかしいと思い,結婚後,日本で撮った写真を破って捨てた。原告は,夫にも,その親戚にも,近所の人にも,勤労挺身隊員として日本に行ってきたことを知られないようにしていた。原告は夫との間に娘4人と息子2人をもうけたが,原告の夫は53歳(数え)の時に,低血圧で突然倒れて死亡した。原告の夫は,原告が勤労挺身隊として日本に行ってきたことを死ぬまで知らなかった。
夫の死後,原告らの生活は大変苦しくなり,原告は,家政婦などをして生活を成り立たせていた。
キ本件訴訟提起に至る経緯
原告は,勤労挺身隊員として日本に行ったことをずっと忘れようとして生活してきたが,19
88年(昭和63年),東南海地震で亡くなったNの故郷を探しに韓国に来た日本の記者がNの家族から原告のことを聞き,原告の住んでいるところまで訪ねてきた。その際,韓国の新聞記者も同行していたことから,韓国の新聞に原告の記事が顔写真付きで掲載され,原告の子供らもこの記事を読んだために,原告は,初めて子供らに,小さいころに勤労挺身隊員として日本に行き,飛行機の部品にペンキを塗る仕事をしてきたことを説明した。なお,その後,原告は,子供らに勧められて再婚したが,再婚相手に勤労挺身隊の話をすると結婚生活が壊れてしまうと思い,話さなかった。
1997年(平成9年)ころ,原告は,再婚相手が死亡したため,原告の子供らが住んでいる光州に移り住んだところ,原告Dと再会した。そして,同人を通じて太平洋戦争犠牲者光州遺族会に入り,もらえなかった給料を払ってもらえるように請求したいと考えて,被告らを相手にした本件訴訟に原告として加わることとした。原告の子供らは,本件訴訟に参加することについて賛成しているが,原告は,本件訴訟への参加によって勤労挺身隊員として日本に行ってきたことが知られてしまうと,慰安婦だったと誤解されると考え,近所の人や友人 に対しては,勤労挺身隊員として日本に行っていたこと及び本件訴訟に参加していることを隠している。
(6)原告Fの事情(以下,(6)において,原告というときは,原告Fのことをいう。)
前記前提となる事実,甲C3号証の1,甲H9号証,11,13及び17号証の各1及び2,31号証,32号証,原告本人尋問の結果並びに弁論の全趣旨によれば,以下の事実を認めることができる。
ア原告の経歴,家族関係
(ア)原告は,1924年(大正13年)11月1日に全羅北道の淳昌で生まれた。原告の父母には,4男4女の子供がおり,原告は4番目の子供で長男であったが,長女及び二女は早くに死亡し,三女も1942年(昭和17年)に死亡した。Iは,6番目の子どもで四女であった
が,3人の姉の死亡により事実上1人娘となったため,父母に特に大切にされていた。原告の父は,地主で土地を貸して農業をしていたが,夫婦で料理屋もしており,生活は豊かで あった。
(イ)原告は,1930年(昭和5年)に普通学校(後に小学校と改名)に入学し,2年生のころ家族で全羅南道の光州に移り,1936年(昭和11年)に小学校を卒業した。その後,光州農業学校を受験したが合格することができなかったため,1939年(昭和14年),原告が1
5歳のとき,日本人警察官の世話で日本に留学することになった。原告は,当初,大阪にある帝塚山工業に入学したが,6か月後に大阪市淀川区にあった関西工学校に転入学し,1
944年(昭和19年)に同校を卒業した。同年,原告は,日本大学法学部に入学したが,長男であったことから氏族を受け継ぐために徴兵前に結婚するよう父に強く言われ,やむなく
5月に退学して韓国に帰った。原告が帰国したとき,Iは,後に原告の妻となったHとともに既に勤労挺身隊に勧誘されていた。
イHの家族関係等 Hは,1929年(昭和4年)7月3日,3男6女の9人兄弟の四女として,忠清南道江景で出生した。Hの父は主に農業をし,地主として多くの土地を所有していたが,金の採掘事業に失敗したために,光州で旅館を経営していた母の妹を頼って,1942年(昭和17年)光州に移った。
HとIとは家が近いこともあり,仲がよかった。ウH及びIに対する勤労挺身隊への勧誘
H及びIは,1944年(昭和19年),光州の北町国民学校を卒業し,卒業後はそれぞれ家の手伝いなどをして過ごしていたが,同年5月ころ,隣組の愛国班の班長から,「遊んでいないで日本へ行ってみませんか。2年間軍需工場で働いて勉強すれば,その後卒業証書がもらえる。」,「日本の方が来られて勧められたんだから,あんたたち一緒にどうですか。」などと,日本へ行くことを誘われた。班長の話によると,1日仕事をすれば二,三日は勉強をし,期間は2年間で,2年間経てば4年間勉強して卒業したのと同じ資格が与えられるとのことであった。班長の話を聞き,勉強が好きな方だったHは,日本に行けば勉強ができると素直に信じ,また,国民学校で「内鮮一体」「八紘一宇」などと教えられていたため,お国のために尽くすのだという気持ちにもなった。また,Iも女学校へ行きたいと思っていたため,Hとともに「行きましょう。」などと言い合って行くことに決めた。
しかし,2人が日本に行くことについては,それぞれの親や兄が強く反対した。日本留学から帰国して話を聞いた原告も,東京で空襲を経験していたことから,Iらも日本で空襲に遭うのではないか,空襲で命を落とすのではないかと不安を強く感じ,日本へ行くのは危険だと思った。しかし,Iらが女学校へ行きたいと強く望んでいたため,原告は,まだ幼いIらであれば,昼は仕事をするとしても夜には勉強をさせてもらえるだろうと考えた。最終的には,H及びIの各父母もしぶしぶ日本に行くことに応じた。
エ日本への出発
原告は,Iらだけで日本に行かせるのはあまりに不安であり,何より事前に行き先が知らされていなかったためにこれを確認する必要があると考え,Iらに付き添って日本に行くことにした。
1944年(昭和19年)6月,光州市庁舎の前に,光州市近辺からの約50人が集合し,「半島女子挺身隊勤労奉仕隊」と書かれた2メートルくらいの旗をHが持ち,市内本町通りを行進した後,光州駅から汽車に乗って麗水へ,麗水から船に乗って下関へ向かった。原告は船の中で,同行していた日本人から行き先が名古屋であることを初めて聞いた。Iらは名古屋と知らされることもなく,誰も行き先を知らなかったが,特に不安な様子はなかった。下関に着いた後,汽車で名古屋まで行き,本件工場に着いた。原告もこのとき初めて,Iらの勤務先が本件工場であることを知った。
オH及びIの本件工場での生活
原告は,L舎監にあいさつをし,寮に1泊した後,Iらにがんばるようにと言って寮を去った。原告は,旧会社であれば大きな会社であり信頼できると思い,特に不安は感じなかった。 Hは,縫工場(ほうこうば)と呼ばれる作業場で勤労挺身隊4人と日本人女性2人とで長いパイプに布を縫い付ける仕事をした。Iは,機体へのペンキ塗りの仕事であり,Hの作業場のすぐ横の仕事場であった。
食事は,朝食はみそ汁,たくあんと麦ご飯,その他主としてジャガイモが出される程度であった。
名古屋に来たころは,午前中に仕事をして午後に勉強をしたり,たまには1日勉強をしたりというように,週に2回くらいの勉強の時間があった。男性の先生からは日本の歴史などを教えられ,女性の先生からは礼儀作法を教えられた。 Iらが日本に来て二,三か月経過したころ,原告は,大阪へ馬具の購入に行くついでに,Iらの様子を見るために名古屋にある第四菱和寮に立ち寄り,L舎監に来訪を告げた。原告 は,Iら2,3人を連れて外出しようと考えてL舎監に外出許可を求めたが,断られたため,やむなく寮の2階でIらと話をした。原告がIらに勉強をしているかと聞いたところ,時々寮母が来て裁縫などを教えてくれるだけであるとの答えであったが,原告は,Iらが名古屋に来てまだ間もないためであり,そのうち勉強が始まるだろうと考えた。1時間ほど話をしたが,原告は,Iらが厳しい状況に置かれているとは思わなかった。
本件工場での生活は,その後も,仕事ばかりで4年の卒業証書がもらえるという話はなかったため,Iらは,「うそばかり言ってる。」,「勉強はだめだ。」などと話し合い,朝鮮に帰りたいと思ったが,L舎監には怖くてとても言えなかった。
カ東南海地震
1944年(昭和19年)12月7日午後1時半ころ,Hは,午後の仕事にかかり始めていたが,テーブルがぐらぐらと動き,「地震だ。逃げろ。逃げろ。」と言う声が聞こえたため,縫工場から通路に出て外に出ようとした。しかし,正面の出口がつぶれて出られなくなっていたので,通路にあった機械の下に隠れた。通路の北方向からIが走って逃げてきたのが見えたが,IはHの隠れているところに来る前に倒れてきた壁と屋根に押しつぶされてしまった。
地震が収まった後,Hは自力で脱出した。すぐに第一中隊で点呼して数えたところ6人がいないので皆で探した。Iを見つけたとき,Iはうつぶせになったまま堅いれんがが頭に当たって血を流している状態であった。なお,Hは,韓国に帰ってからもIの父母にIの死んだ姿を話すことができず,夫である原告に話しただけであった。 Iが死亡したとの通知が,東南海地震後しばらくして光州市庁から原告の自宅に届いた。原告は,突然の死亡通知に驚き,その翌日,名古屋に向かった。第四菱和寮に着くと,Hが
「兄さん,死んだですよ。」と言って原告に泣きついた。原告がL舎監に確認したところ,遺 骨は既に韓国に送ったとのことであった。L舎監は原告に慰めの言葉をかけたが,原告は妹の死を受け入れることができず,せめて,死んだ場所を見たいと思い,本件工場の様子を見に行った。原告は,そのまま第四菱和寮に2泊したが,その間も,夜,警戒警報や空襲警報が鳴り響き,原告は少女らと一緒に防空壕に避難した。
キ解放に至るまで
地震後は空襲が激しくなり,しばらくして,Hらは,大門工場に移動し,1945年(昭和20 年)8月15日の解放の日を同工場で迎えた。韓国に帰ったのは,同年10月ころであった。ク解放後の生活
1945年(昭和20年)5月ころに日本軍に徴兵されていた原告は,釜山で日本の敗戦を迎え,その日から一,二週間後に光州に帰った。その後,しばらくして帰国したHが原告の家を訪れ,原告の両親に東南海地震の様子を話すと,原告の母は泣き崩れた。
原告は,光州の警察騎馬隊に入隊し,その後,全羅南道の麗水及び順天で起こった共産軍の反乱を契機に,1946年(昭和21年)の夏ころ,韓国軍隊に入隊した。
1947年(昭和22年)1月15日,原告はHと結婚した。原告は,1960年(昭和35年)に軍隊を除隊した。その後,釜山の港湾組合などで仕事をし,1987年(昭和62年)ころ,済州に移り日本語塾を開いた。
ケ本件訴訟に至るまでの経緯等
1988年(昭和63年)ころ,日本のテレビ局の記者が済州に取材に来たことがきっかけとなり,原告は,東南海地震による犠牲者の追悼記念碑建立の除幕式に参加することとなっ た。Hは名古屋には行きたくないと言ったため,原告のみが他の韓国人遺族とともに日本に行き,同年12月4日に本件工場の跡地で開催された除幕式に参加した。そして,原告 は,2000年(平成12年)12月6日,Hと共に本件訴訟を提起した。
2001年(平成13年)2月13日,Hは済州で死亡した。
(7)原告Gの事情(以下,(7)において,原告というときは,原告Gのことをいう。)
前記前提となる事実,甲H2号証,甲H37号証の1及び2,原告本人尋問の結果並びに弁論の全趣旨によれば,以下の事実を認めることができる。
ア経歴等
原告は,1929年(昭和4年)9月8日に順天で生まれ,父母のほか,妹2人及び弟1人がいた。経済的には比較的豊かな家庭であった。原告が住んでいた家の周りには日本人の家もたくさんあり,原告はそれらの日本人とも仲良く暮らしていた。
原告は,9歳のころから順天南国民学校へ通うようになった。国民学校で,原告は,日本の歴史,皇国臣民の誓詞,教育勅語,修身,君が代などの日本の歌を教わり,また,日本は世界中で一番の国であり,戦争でもずっと日本が勝っていると聞いていた。
国民学校卒業後,原告は,家庭の事情等により中学校へは進学せずに家の仕事を手伝ったり,山に木を植えたり土を運んだりする日本人の事業を手伝ったりしていた。
イ勤労挺身隊への勧誘
1944年(昭和19年)5月中旬ころ,原告は,6年次の担任教諭から,2つ年下の妹(当時
6年生)を介して学校に呼ばれ,行ってみると,原告のほかに,同級生のWと1学年上のXも呼ばれていた。原告ら3人は,教務室で6年次の担任教諭と背の高い日本人から「日本に行けば女学校に進学でき,お金も稼げる。」と言われた。行き先や仕事の内容については何も聞いていなかったが,女学校に通っている人に憧れていた原告は,周りの人は進学しているので自分も日本へ行って勉強を続けたいと思った。当時,原告は,教諭の話は一番と考えており,教諭がうそをつくとは思ってもいなかったため,日本に行けることがとにかくうれしく,また,天皇陛下のためになることはすばらしいことだと思っていた。原告は,日本が戦争をしていることも少しは知っていたが,家の近所に日本人が住んでいたこともあり,日本が戦争で勝つと信じていた。
担任教諭から印鑑を持ってくるように言われたため,原告は,家族に内緒で印鑑を持ち出した。原告は,日本に行くことを家族に言うと反対されると思い,出発の2日前に初めて,徴用のために不在の父に代わり原告の面倒を見てくれていた祖母に話をした。原告の話を聞いた祖母は,大変驚き,強く反対したが,原告が「判を押してしまったから行かなければな らない。」と言ったため,やむを得ず原告を送り出した。
同年5月末,順天南国民学校に集合して,順天駅から麗水まで行き,麗水で他の勤労挺身隊員と合流して麗水港から船で下関に向かった。原告の父方の叔父と叔母は,原告の妹と弟を連れて麗水港まで来て,日の丸の旗を振り,「天皇陛下万歳」と泣きながら言い見送った。下関から汽車で名古屋に向い,名古屋に到着後,第四菱和寮に行った。
ウ本件工場での生活
(ア)第四菱和寮では,7人が同じ部屋で寝起きしていた。
名古屋到着後2か月間くらいは,鉄を磨く訓練,くぎを打つ訓練などの研修をして過ごしていた。
食事は,朝食は味噌汁とご飯であり,昼食及び夕食も同じような食事であり,ご飯の量は足りなかった。また,入浴は,2日に1回で入浴時間は自由だった。
手紙は自由でなく,封をしないまま事務所に持っていった。原告は,二,三日に1回手紙を出していたが,すべての手紙が家に着いていたわけではなかった。
原告は,「日本に行っても,朝鮮にはいつでも帰らせてあげる」と言われていたが,日本に行って1年くらい過ぎたころ,叔父からの手紙で原告の弟の死亡を知らされたため,L舎監に「弟が死んだので朝鮮に帰らせて欲しい。」と言ったが,「残り少ないから,もう少しいなさい。」,「2年の契約期間がきたら帰らせてあげる。」などと言われ,結局帰らせてもらえなかった。なお,原告の妹のYは,1944年(昭和19年)の秋ころ,国民学校の担任教諭から
「姉に会える。」などと誘われて,勤労挺身隊員として富山の不二越に来ていたが,原告は,一度,妹に会いに行くことを許され,会いに行ったことがあった。
(イ)原告の仕事は,当初は,順天国民学校から来た他の勤労挺身隊員と一緒に飛行機の翼の型を取る作業であったが,その後,日本人の男性と一緒に切断機でジュラルミンの板を切る作業をすることとなった。切断機の使い方は,一緒に仕事をしている日本人男性から教えてもらっただけであった。工場内では,日本人の班長及び副班長がしきりに巡回して注意をするなど監視が厳しく隣の友達と言葉を交わすこともできなかった。
切断機の仕事を始めて2か月くらい経ったころ,原告は,ジュラルミンの板を切る作業中に誤って左手の人差し指の先を切断機で切ってしまった。原告は,切断された指の先が床の上に落ちてとんとんと転がり,指から血が流れ出ているのを見て,驚きの余り,大声で泣いた。全身の力が抜けるほど怖く,母と祖母の顔が目に浮かんだ。原告の叫び声を聞いた班長が,原告を病院へ連れて行き,応急処置を受けさせた。その後,原告は,しばらく班長に付き添われて病院に通い治療を受けたが,包帯が傷口に付着して包帯を取り替えるたびに出血したため,なかなか傷が治らず,結局,工場の仕事は2か月くらい休み,その間,班長の横に椅子を置いて座っていた。再び仕事を始めるようになった当初は,雑用のような仕事をしていたが,その後,再び,危険性の低い切断機での切断作業を担当するようになった。なお,原告以外にも,忠清南道出身の勤労挺身隊員が,危険性の最も高い切断機を使って作業をしているときに,右手の人差し指から小指までの4本を切断するけがをしたことがあった。
エ東南海地震
1944年(昭和19年)12月7日午後1時半ころ,原告が切断機の作業をしていたところ,頭が機械に何度もぶつかるため,おかしいと思っていたら,「地震だ早く外に出ろ。」と叫ぶ声が聞こえてきたため,原告は慌てて,みんなが避難する方向とは逆の方向へ逃げ出してしまった。そのため,逃げてくる多くの人に押し倒され,何人かに手を踏まれた。また,倒れたときに足をねんざし,左足がはれてしまった。原告は,今でも歩くと足が痛むことがある。
原告は,地震が収まってから工場を見に行ったところ,屋根があちらこちらで倒れ,壁が崩れていた。塗装工場では,小隊長のNの首の辺りに倒れた材木が落ち,更にれんがでけがをして血を流して,同人が死んでいるのを見た。寮に帰って人数の報告をしたときに,原告は,勤労挺身隊員のうち6人が亡くなったことを知り,非常に悲しい思いをした。その後も小さな地震が何度かあり,原告はびっくりして飛び起きた。
オ解放に至るまで
1944年(昭和19年)11月ないし12月ころから,空襲が激しくなり,夜2回及び昼1回の1日3回くらいあった。防空壕にはいつも水がたまっていて寒く,加えて風が吹くので,震えながら爆撃が過ぎ去るのを待っていた。原告は,空襲警報が鳴るたびにもう死ぬかもしれないと思っていた。
1945年(昭和20年)4月ころ,大門工場へ移動した。大門工場での仕事は,ペンキを塗る
などの作業であった。
同年8月15日,原告は,寮の部屋でラジオから流れる天皇陛下の玉音放送を聞いた。原告は,日本が負けたことを知って,悲しい気持ちになり,玉音放送を正座して聞きながら泣いた。
同年10月,原告は,大門,下関,釜山,大田,順天という経路で韓国へ帰った。帰国する際,旧会社から一銭も賃金はもらっておらず,また,荷物は荷造りしておけば送ってくれると舎監から聞いたので,作業服のまま体一つで帰ってきた。荷物の中には熱田神宮,名古屋城などに行ったときの写真や,家族の写真など大切なものも入っていたが,いまだに受け取っていない。
カ帰国後の生活
帰国後,原告は,家の手伝いをしていたが,勤労挺身隊に参加したことが慰み者にされたことと同じに思われるということをうわさで知っていたため,人前では左手の人差し指のけがを隠していた。
1947年(昭和22年)12月,原告は,勤労挺身隊に参加したことを隠して結婚し,3人の子供をもうけた。結婚してしばらくしたころ,国民学校の同級生が原告の夫に原告が勤労挺身隊員として日本に行っていたことを告げたため,その後,原告は,夫から「なぜ言わなかったのか。」,「どういう所だったのか。」,「何人くらい相手にしたのか。」などとしつこく聞かれたり,暴力を振るわれたりするようになった。原告が「なぜ殴るのか。」と聞いても,夫は「自分の胸に手を当てて良心に聞け。反省しろ。」などと言い,原告が「何もしていない。」というと暴力が更にひどくなった。毎日のように暴力を振るわれたので,原告はいざとなれば逃げられるように用意をしていた。このような状況は,1960年(昭和35年)ころに原告の夫が 肝臓を悪くするまで続いた。
原告の夫の体調が悪くなってからは,暴力もなくなり,比較的平穏な生活ができるようになったが,生活は苦しかった。1962年(昭和37年)ころに原告の夫が亡くなった後,原告は家政婦などをしながら子供を育てた。1966年(昭和41年)ころに原告Bと再会し,一緒に和順で食堂を経営することとなったが,経営が苦しくなり長く続けることはできなかった。食堂を経営していたころ,原告は,勤労挺身隊に参加したことを隠して再婚し,子供を1人もうけたが,再婚相手が酒やたばこにお金を浪費したことから離婚した。
キ本件訴訟に至るまで
1999年(平成11年)7月,原告は,原告Bに会いたいと思って電話をしたところ,同人から
「名古屋から弁護士が来るので,7月11日に光州に来るように。」と言われた。そこで,原告は,光州へ行き,名古屋から来た弁護団に会って話をし,これをきっかけに本件訴訟に参加することとなった。そして,その際,原告は,子供たちに初めて,勤労挺身隊員として日本に行っていたことを話したところ,子供たちは誤解をせずに理解してくれた。
2原告らは,上記のとおり,被告らに対し,上記の各請求権を有する旨主張する。これに対し,争点(14)のとおり,被告らは,原告らがその主張する各請求権を有していたとしても,本件協定2条1項,3項により,被告らは原告らの請求に応じる法的義務を負わない旨主張し,更に被告会社は,原告らの主張する各請求権は財産権措置法1項1号により昭和4
0年6月22日に消滅した旨主張するので,この点について検討する。
(1)本件協定について
ア本件協定締結に至るまでの経緯
甲A13号証,甲B6,9号証,乙12号証及び弁論の全趣旨によると,次の事実が認められる。
(ア)我が国は,昭和27年4月28日に発効した平和条約2条において,朝鮮の独立を承認して,朝鮮に対するすべての権利,権原及び請求権を放棄した。そして,同条約4条において,朝鮮地域に関し,我が国及びその国民に対する同地域の施政を行っている当局及び住民の請求権(債権を含む。)の処理等は,我が国と同当局との間の特別取極の主題とするものとされた。
(イ)ところで,1948年(昭和23年)8月15日に韓国の独立宣言がされ,平和条約の発効に先立って,昭和26年10月20日から我が国と韓国との間で予備会談が開催された。そして,昭和27年2月15日から,平和条約の発効までに日韓両国の国交樹立のために必要な一切の懸案を解決することを目標として第1次日韓会談が開催された。しかし,韓国政府が,大要次のとおりの8項目の請求要綱(以下「対日請求要綱」という。)を提示し,これが我が国の立場と相いれなかったことなどから,短期間に解決することは困難になった。
①朝鮮銀行を通して搬出された地金及び地銀の返還請求
②1945年(昭和20年)8月9日現在の我が国政府の対朝鮮総督府債務の返済請求
③同日以降,韓国から振替又は送金された金員の返還請求
④同日現在,韓国に本社,本店又は主たる事務所があった法人の在日財産の返還請求
⑤韓国法人又は韓国自然人の,我が国又はその国民に対する日本国債,公債,日本銀行券,補償金及びその他の以下に係る請求
(a)日本有価証券
(b)日本通貨
(c)被徴用韓国人の未収金
(d)戦争による被徴用者の被害に対する補償
(e)韓国人の我が国政府に対して請求し得る恩給その他
(f)韓国人の我が国の国民又は法人に対する請求
⑥韓国法人又は韓国自然人の,我が国又は我が国の国民に対する個別的権利行使に関する項目
⑦前記諸財産又は請求権から発生した諸果実の返還請求
⑧前記の返還及び決済の開始及び終了時期に関する項目
(ウ)昭和28年4月15日からの第2次日韓会談以降,昭和36年10月20日からの第6次日韓会談までの間は,様々の曲折を経ながらさしたる進展を示すことなく推移した。 a日韓会談において,当初は平和条約4条の解釈をめぐって争われた。
(a)在韓合衆国軍政府は,1945年(昭和20年)12月6日付けの軍令第33号において,
38度線以南のすべての日本側の財産を同年9月25日をもって取得する旨を定め,次いで,同軍政府は,上記のとおり取得した財産を1948年(昭和23年)9月に韓国政府に引き渡した。
(b)韓国政府は,上記軍令第33号による効果を没収と同様に解しようとし,日韓会談において交渉の対象となるのは,我が国にある韓国側の財産並びに韓国側の我が国及びその国民に対する請求権の処理の問題だけであると主張した。
(c)これに対し,我が国政府は,ハーグ規則46条が「私有財産ハ之ヲ没収スルコトヲ得ズ」と規定していることから,平和条約4条(b)は,合衆国軍政府が国際法上適法に行った財産の処分は有効と認め,その効力について争わないという意味であり,国際法上認められていない私有財産の処分まで認めたものではない旨主張した。そして,上記軍令第33号による日本側の財産の処理のうち私有財産に対するものについては,その管理権が移転したとしても,所有権が移転したことを意味しないから,当該財産に対する原権利者である我が国の国民個人の権利は残っており,韓国及びその国民に対して請求する根拠を失うものではない旨主張した。
(d)我が国側と韓国側との上記の見解の対立に対し,合衆国政府は,1957年(昭和32年)に,「合衆国は,平和条約4条(b)並びに在韓合衆国軍政府の関連指令及び措置により,韓国の管轄内の財産についての日本国及びその国民のすべての権利,権原及び利益が取り去られていたという見解である。したがって,日本国はこれら資産又はこれらの資産に関する利益に対する有効な請求権を主張することはできない。もっとも,日本国が平和 条約4条(b)において効力を承認したこれらの資産の処理は,平和条約4条(a)に定められている取極を考慮するに当たって関連があるものである。」旨の解釈を示した。
同年12月31日,日韓両国は,ともに合衆国政府の上記の解釈に同意することを明らかにした。
(e)上記の経過によると,日韓両国は,韓国の管轄内の財産についての我が国及びその国民のすべての権利は失われており,これに関する請求権を我が国及びその国民が主張することのできないことは平和条約4条(b)において我が国が承認したものとするが,これについては韓国側の我が国及びその国民に対する請求権問題についての取極を考慮するに当たって関連があるものとすることにしたことが明らかである。 b対日請求要綱について
対日請求要綱に対し,我が国側は,法的根拠があり,事実関係が十分立証されたものについてのみ支払を認めるという立場で交渉を進めたが,法的根拠の有無に関する日韓両国の見解には大きな隔たりがあった。韓国側においては,戦後10数年が経過し,特にその間に朝鮮動乱を経てきたことから,関係資料の散逸など事実関係の立証が極めて困難となっていたため,韓国内の日本側の財産を韓国政府が引き取ったことにより我が国側に対する請求権がどの程度まで消滅し,満たされたものと認めるかを決定するための算出が困難とされた。また,上記の対日請求要綱⑤の個人補償が問題となった際,韓国側は,生存者,負傷者,死亡者を問わず,軍人及び軍属を含む徴用されたすべての人に対する補償を要求した。これに対し,日本側は,両国の国交が回復した後に,個別的に解決する方法もある旨などを伝えたが,韓国側は,上記請求は,国交の回復に先立って解決されなければならないこと,被害者に対する補償は韓国内で措置すべき性質の問題と考えることなどを主張した。
こうしたことから,いわゆる積み上げ方式によって支払うべきものを支払うという解決方法を
採ることは困難とされた。
(エ)上記の財産及び請求権の処理の問題に関する対立を放置し,両国の国交正常化の実現を遅らせることは適当でないことから,この問題の解決を図るため,韓国の民生の安定,経済の発展に貢献することを目的とし,我が国の財政事情や韓国の経済開発計画のための資金の必要性をも勘案した上で,韓国に対し経済協力を供与し,これと並行して,日韓の間の請求権問題は解決し,存在しないこととするという方法が採られることになった。この解決方法は,昭和37年12月に実質的にまとめられ,昭和40年4月に具体的に合意事項が取りまとめられた。そして,同年6月22日,両国において,日韓基本関係条約などとともに,本件協定への署名が行われ,我が国においては,同年12月11日に日韓基本関 係条約及び本件協定等につき,国会で承認され,同月18日,本件協定が発効した。
イ本件協定の規定について
(ア)本件協定は,「日本国及び大韓民国は,両国及びその国民の財産並びに両国及びその国民の間の請求権に関する問題を解決することを希望し,両国間の経済協力を増進することを希望して,次のとおり協定した。」との前文を置いている。そして,1条1項(a)において,我が国が韓国に対して,3億合衆国ドルに等しい円の価値を有する我が国の生産物及び我が国の国民の役務を10年間にわたって無償で供与する旨を,同項(b)において,我が国が韓国に対して,2億合衆国ドルに等しい円の額に達するまでの長期低利の貸付けを10年間にわたってする旨を規定している。
(イ)本件協定2条は,別紙4のとおりであり,同条1項において,日韓両国は,両国及びその法人を含む国民の財産,権利及び利益並びに両国及びその国民の間の請求権に関する問題が,完全かつ最終的に解決されたこととなることが確認されている。そして,同条3 項において,同条2項に規定するものを除いて,①一方の締約国及びその国民の財産,権利及び利益であって本件協定の署名の日である昭和40年6月22日に他方の締約国の管轄の下にあるものに対する措置,②一方の締約国及びその国民の他方の締約国及びその国民に対するすべての請求権であって同日以前に生じた事由に基づくもの,に関して は,いかなる主張もすることができないものとされた。
そして,日韓両国政府において,上記の「財産,権利及び利益」は,法律上の根拠に基づき財産的価値を認められるすべての種類の実体的権利をいうことが了解され(本件協定についての合意された議事録2項(a)(以下,上記議事録を「合意議事録」という。同議事録2項は,別紙5のとおりである。)),本件協定2条1項にいう完全かつ最終的に解決されたこととなる財産,権利及び利益並びに請求権に関する問題には,韓国側から提出された対日請求要綱の範囲に属するすべての請求が含まれており,対日請求要綱に関してはいかなる主張もなし得ないこととなることが確認された(合意議事録2項(g))。
ウ本件協定締結に伴う措置等について
(ア)我が国における措置
我が国においては,昭和40年12月17日に財産権措置法が公布され,同法は本件協定の効力発生の日である同月18日から施行された(同法附則)。同法1条1項には,韓国又はその国民の我が国又はその国民に対する債権であって,本件協定2条3項の財産,権利及び利益に該当するものは,昭和40年6月22日において原則として消滅したものとする旨の規定が置かれている。
(イ)韓国における措置
乙13,14号証の各1及び2によると,韓国において,次の立法がされたことが認められ る。 a「請求権資金の運用及び管理に関する法律」(1966年(昭和41年)2月19日法律第17
41号)において,本件協定1条1項(a)により導入される資金,同項(b)により導入される資金及びこれらの使用で発生する資金を「請求権資金」というとした(2条1ないし4項)上 で,韓国国民が持っている1945年(昭和20年)8月15日以前までの我が国に対する民 間請求権は,同法で定める請求権資金中で補償しなければならないものと定めた(5条1 項)。 b上記法律5条1項で規定された対日民間請求権の正確な証拠と資料を収集するのに必要な事項を規定することを目的として,「対日民間請求権申告に関する法律」(1971年(昭和46年)1月19日法律第2287号)が制定された。同法2条には,同法の規定による申告対象の範囲は,1947年(昭和22年)8月15日から1965年(昭和40年)6月22日までの間に我が国に居住したことがある者を除く韓国国民(法人を含む。)が,1945年(昭和20年)8月15日以前に我が国及びその国民(法人を含む。)に対して有していた請求権等で,
①旧軍政法令第57号「日本銀行券・台湾銀行券の預け入れ」の規定によって指定された金融機関に預け入れられた預け入れ金と金融機関が保有している日本銀行券及び我が国政府の補助貨幣,②我が国によって軍人,軍属又は労務者として召集又は徴用され,1
945年8月15日以前に死亡した者などとする旨定められている(同条1項1号ないし9号)。
(2)上記のとおり,平和条約4条(a)により,我が国及びその国民に対する朝鮮地域の施政を行っている当局及び住民の請求権の処理は,我が国と同当局との間の特別取極の主題とするものとされ,この特別取極の主題となるものを含めて解決するものとして,本件協定が締結されたのであるが,その締結に至るまでの間,我が国及び韓国の政府は,いずれも,国と国との間の請求権についてだけでなく,それぞれの国民の相手国及びその国民に対する請求権の処理を重要な課題として検討を重ねたことが明らかである。
上記に認定した,本件協定締結に至るまでの経緯,本件協定2条の文言,本件協定締結に伴って日韓両国において執られた措置によると,我が国又はその国民に対する韓国及びその国民の,(a)債権については,それが本件協定2条3項の財産,権利及び利益に該当するものであれば,財産権措置法1項によって,原則として,昭和40年6月22日に消滅し,(b)その他の同日以前に生じた事由に基づくすべての請求権については,本件協定2条2項に規定されたものを除き,同条1項,3項によって,韓国及びその国民は,我が国及びその国民に対して何らの主張もすることができないものとされたことが明らかである。
そして,上記認定の諸事情を前提として本件協定2条1項,3項の趣旨を考えると,我が国及びその国民は,韓国及びその国民から,上記(b)に該当する請求権の行使を受けた場合,韓国及びその国民に対し,本件協定2条1項,3項によって上記の請求権については主張することができないものとされている旨を主張することができるものと解するのが相当である。
なお,平和条約14条(b)には,「連合国は,連合国のすべての賠償請求権,戦争の遂行 中に我が国及びその国民がとった行動から生じた連合国及びその国民の他の請求権を放棄する」旨の規定が存するところ,同条約26条には,「我が国がいずれかの国との間で,同条約で定めるところよりも大きな利益をその国に与える平和処理又は戦争請求権処理を行ったときは,これと同一の利益は,この条約の当事国にも及ぼされなければならない。」旨の規定が存する。韓国は,平和条約の当事国ではないが,仮に我が国がいずれかの国との間で,同条約14条(b)において合意した内容よりも大きな利益を与える旨の処理をしている場合には,我が国と韓国との間の合意の効力を検討するにつき,上記の点を考慮 すべきことになるものと考えられるが,本件各証拠及び弁論の全趣旨によっても,我が国がいずれかの国に対し同条約で定めるところよりも大きな利益を与える旨の戦争請求権処理等を行ったことは認められない。したがって,この点から本件協定に関する上記の解釈を検討すべき余地はないというべきである。
(3)以上に検討したところに基づいて,原告らの本件における請求について検討する。
ア被告会社は,原告らの主張する各請求権は財産権措置法1項1号によって消滅している旨主張する。
しかし,上記認定の本件協定締結に至るまでの経緯等に照らして考えると,財産権措置法
1項1号に規定されている,韓国又はその国民の我が国又はその国民に対する債権であって本件協定2条3項の財産,権利及び利益に該当するものとは,本件協定の署名の日である昭和40年6月22日当時,日韓両国において,事実関係を立証することが容易であ
り,その事実関係に基づく法律関係が明らかであると判断し得るものとされた債権をいうものと解するのが相当である。これを本件についてみると,原告らの被告会社に対する各請求権は,上記の債権に当たらないものであることが明らかである。したがって,被告会社の上記主張は採用することができない。
イ原告らは,本件協定が締結された当時に問題として取り上げられていない請求権は本件協定の対象にならない旨主張する。
しかし,(a)上記認定の本件協定締結に至るまでの経緯によると,本件協定の締結に際して,韓国側が資料によって法律関係を明確にすることの困難なものの存することが考慮されていたことがうかがわれること,(b)本件協定2条1項,3項は,同条2項に規定するものを除き,請求権について,何らの限定や留保を置いていないこと,(c)法律上の根拠に基 づき財産的価値を認められる実体的権利である財産,権利及び利益は消滅したものとする措置を執ることについて何らの主張もすることができないものとされていることとのバランスを考慮すると,本件協定の締結当時に具体的な問題として取り上げられていなかった請求権についても,それが昭和40年6月22日以前に生じた事由に基づくものであれば,いかなる主張もすることができないものとされたと解するのが相当である。したがって,原告らの上記主張を採用することはできない。
ウ原告らの被告らに対する各請求権について
(ア)上記に検討したところによると,原告らが被告らに対して有すると主張する各請求権は,いずれも本件協定2条1項,3項に規定する財産,権利及び利益に該当するものでな
く,同各条項に規定する請求権に当たるものと解される。そして,これらが同条2項に該当しないものであることは明らかである。
(イ)原告らが,本件勤労挺身隊員らが我が国に連行され,本件工場及び大門工場において強制労働させられたこと,Iが昭和19年12月7日に本件工場において死亡したことが被告らの不法行為によるものであるなどとして,これらに基づいて被告らに対して有すると主張する各請求権は,昭和19年から同20年10月ころまでの間の事由に基づくものであることが明らかである。
(ウ)原告らは,勤労挺身隊員原告らが,帰国後に韓国社会において慰安婦と同一視されたことによって被った損害,被告らの不作為を原因として生じた解放後の被害に係る請求権は,本件協定2条1項,3項に規定する請求権に該当しない旨主張する。
しかし,原告らの上記主張に係る被害も,結局のところ,勤労挺身隊員原告らが,昭和19年から同20年に勤労挺身隊員として我が国にいたとの事実を原因として生じたものといわざるを得ない。したがって,上記被害に関して原告らが被告らに対して有すると主張する各請求権も本件協定2条1項,3項に規定する請求権に該当するものと解される。
(エ)上記に検討したところによれば,本件において原告らが被告らに対して有すると主張する各請求権が存するとしても,被告らが,本件協定2条1項,3項によって原告らはこれらについていかなる主張もすることができないものとされている旨を主張する以上,原告らの請求を認容して被告らに対し上記の各請求権についてその履行をすべき旨を命じる余地はないものといわざるを得ない。
3原告Fの援護法に関する主張(争点(6))について
(1)原告Fは,Iが援護法2条3項に定める準軍属に当たるというべきであるとし,援護法附則2項が戸籍法の適用を受けない者は当分の間,同法が適用されないとしているのは国籍による差別であり,国際人権規約A規約2条2項,同B規約26条,憲法14条に違反して許されないとして,被告国は,援護法により,Iの遺族の救済を図るべきであった旨主張する。
(2)そこで検討するに,憲法14条1項は,絶対的平等を保障したものではなく,合理的理 由のない差別を禁止する趣旨のものであって,法的な取扱いに区別を設けても,その区別が合理的根拠に基づくものである限り,同条項に違反するものではないと解される。国際人権規約A規約2条2項及び同B規約26条も同旨に帰するものと解するのが相当である。そして,前記認定のとおり,平和条約により我が国の国籍を失ったものの請求権の処理に関しては,特別取極の主題とするものとされ,その後,我が国と韓国との間では本件協定が締結されるに至ったことによると,昭和27年4月30日に公布された援護法の附則2項において,戸籍法の適用を受けない者については,当分の間,援護法を適用しない旨を規定したことは合理的根拠に基づくものであると解される。また,戦傷病者に対する保障の要否及びその在り方は立法府の裁量的判断にゆだねられていること,本件協定の内容等に照らして考えると,本件協定が締結された後に上記附則2項が存置されてきたことについて も,合理的な根拠を欠くに至ったものということはできない。したがって,原告Fの上記主張は,前提を欠くものであって採用することができない。
4上記に検討したところによると,その余の点について判断するまでもなく,本件において原告らが被告らに対して有すると主張する各請求権については,いずれも認容することができない。
5以上のとおりであって,原告らの被告らに対する各請求は,いずれも理由がないから棄却することとし,訴訟費用の負担について民事訴訟法61条,65条を適用して主文のとおり判決する。
名古屋地方裁判所民事4部裁判長裁判官佐久間邦夫裁判官倉澤守春
裁判官及川勝広
別紙は省略