Contract
世界銀行の先進国に対する借款: 1947~66 年(下)
x x x x
x はじめに
ù 先進国に対する世銀借款とその分析視角 ú 復興借款
û 先進国に対する開発借款 ü 植民地開発に対する借款
6 おわりに
4 先進国に対する開発借款(承前)
(û)フィンランド
フィンランドは,先進国の中で,ø970 年時点において世銀借款を受けていた唯一の国である。本稿が対象とする û9~7ø 年に,世銀はフィンランドに対して ø6 件,ù 億 7,680 万ドルの借款を行った。7ù 年 øù 月の第 ø7 次借款(ù,000 万ドル)と,最後の 7ü 年 ü 月の第 ø8 次借款(ù,000 万ドル)も含めれば,合計金額は ú 億 ø,680 万ドルに達する(表 15)。人口約 ûü0 万人(ø960 年)のxxに対する世銀の融資額としては多額である。
フィンランドは,ø9ø7 年の建国以前から第二次世界大戦後の今日まで,つねに複雑なxxx的な位置に置かれた。第二次世界大戦期にはソ連とナチス・ドイツの狭間に置かれ,戦後の冷戦期には東西勢力の境界に存在しながら,巧みな外交で独立を維持し,経済繁栄を実現した。第二次世界大戦直後には,一方でマーシャル・プランへの不参加を選択し,他方で IMF・世銀に加盟する(û8 年 ø 月)など,東西勢力の間でバランスを取る
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成城・経済研究 第ùú6 号(ù0ùù 年ú 月)
表 15 フィンランドに対する世銀借款
承認年月日 | 金額 | 期間 | 融資先 | 対象事業 | |
百万ドル | 年 | ||||
ø | ø9û9 年 7 月 ù6 日 | øù.ü | øü | フィンランド銀行 | 電力・工業 |
ù | ø9û9 年 ø0 月 øú 日 | ù.ú | ù | フィンランド政府 | 木材加工 |
ú | ø9üù 年 û 月 ù9 日 | ù0.0 | ø8 | フィンランド銀行 | 電力・工業(木材加工) ・農業 |
û | ø9üù 年 øø 月 øù 日 | ú.ü | ø8 | フィンランド銀行 | 工業(木材加工) |
ü | ø9üü 年 ú 月 ùû 日 | øù.0 | øü | フィンランド銀行 | 工業(木材加工)・電力 |
6 | ø9ü6 年 ü 月 ùù 日 | øü.0 | ù0 | フィンランド抵当銀行 | 電力 |
7 | ø9ü9 年 ú 月 øú 日 | ú7.0 | øü | フィンランド抵当銀行 | 電力・パルプ |
8 | ø96ø 年 8 月 8 日 | ùü.0 | øü | フィンランド抵当銀行 | 工業(パルプ・製紙) |
9 | ø96ù 年 8 月 øû 日 | ùü.0 | ù0 | フィンランド抵当銀行 | 電力 |
ø0 | ø96ú 年 9 月 ø0 日 | 7.0 | øü | フィンランド工業化基金 | 工業 |
øø | ø96û 年 7 月 9 日 | ù8.ü | øü | フィンランド政府 | 道路 |
øù | ø96ü 年 6 月 ù9 日 | øû.0 | ø7 | フィンランド工業化基金 | 工業 |
øú | ø966 年 û 月 ù6 日 | ù0.0 | øü | フィンランド政府 | 道路 |
øû | ø969 年 ø 月 ùø 日 | ùù.0 | ø7 | フィンランド工業化基金 | 工業 |
øü | ø970 年 ø0 月 øú 日 | ù0.0 | ø7 | フィンランド工業化基金 | 工業 |
ø6 | ø97ø 年 ù 月 9 日 | øú.0 | øü | フィンランド政府 | 道路 |
ø7 | ø97ù 年 øù 月 ùø 日 | ù0.0 | øü | フィンランド政府 | メラ林業計画 |
ø8 | ø97ü 年 ü 月 6 日 | ù0.0 | øü | フィンランド抵当銀行 | 水質汚染対策 |
合計 | úø6.8 |
[出所] WBGA の Projects Database (xxxx://xxx.xxxxxxxxx.xxx/xxxxxxxx/xxxxxxxx) および各借款の総裁提案書より作成。
ことに腐心した。
パリ講和条約までの戦後賠償問題 ø9û9 年の世銀の ù 件のフィンランド借款は,冷戦初期の欧州の周辺地域の政治・経済状況を反映しており,西欧の復興とは異なる歴史的視座を提供して呉れる。以下,戦後初期に重点を絞ってフィンランド借款を検討したい。
敗戦国であることは,フィンランドの戦後復興の過程を規定した。第二次世界大戦中にフィンランドは,「冬戦争」(ø9ú9 年 øø 月~û0 年 ú 月)と
「継続戦争」(ûø 年 6 月~ûû 年 9 月)との二度にわたる対ソ戦を経験した。
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世界銀行の先進国に対する借款:ø9û7~66 年(下)
ドイツのポーランド侵攻に危機感を抱いたソ連は,ドイツ軍の侵攻に備え てバルト海の防衛を強化するため,ú9 年 ø0 月,フィンランドに対して相 互援助条約締結を迫った。フィンランドがソ連の要求を拒否すると,øø 月,ソ連軍は突如,フィンランドに侵攻し,「冬戦争」が始まった。ソ連 はフィンランドの予想以上に激しい反撃に遭って苦戦し,休戦条約を結び,いったん戦争は終結した。û0 年 6 月に,バルト三国がソ連に軍事占領さ れると,フィンランドは,英国等の連合国からの支援を期待できない状況 下で,独立を維持するためにドイツとの軍事協力を進めた。しかし,ûø 年 6 月の独ソ戦開始により,フィンランドは困難な立場に立たされること になった。中立を表明したにもかかわらず,ソ連はフィンランドをドイツ の同盟国とみなしてフィンランドの諸都市を空襲し,両国はふたたび交戦 状態に入った。これを「継続戦争」と呼ぶøûû)。
「継続戦争」は,ø9ûû 年 9 月にフィンランドとソ連・英国との休戦条約 により終結したøûü)。ヘルシンキに置かれたソ連と英国が構成する連合国 管理委員会は,ソ連の有力者xxxxx・xxxxxがイニシアティブを 取っていた。ただし,東欧諸国やドイツ,オーストリア,日本とは異なり,フィンランドは占領軍の駐留を経験せずに済んだ。休戦条約によりフィン ランドは,ú 億ドルの対ソ賠償(支払期間 6 年間),領土の割譲,海軍基地 のソ連への提供等の重い義務を負うことになったøû6)。連合国との講和条 約は,û7 年 ù 月に,イタリア,ルーマニア,ハンガリー,ブルガリアと 同時に締結された(パリ講和条約)。この時に,ûû 年の休戦条約の条項は追 認された。
このようにフィンランドは敗戦により甚大な損失を蒙り,多額の負債を負った。しかし意外にも,その後のフィンランドは順調に経済復興を遂げ
øûû) 対ソ戦に関しては,xxxx [2017] 第 û 章を参照した。
øûü) 英国は ø9ûø 年 øù 月にフィンランドに宣戦布告をしたが,アメリカは第二次世界大戦でフィンランドと戦争状態に入ったことはない。
øû6) xxx [2011] pp. 45-46.
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成城・経済研究 第ùúý 号(ù0ùù 年ú 月)
た。フィンランドの賠償と戦後復興の関係に着目したのが,金融史のxx,キンドルバーガーであるøû7)。xxxxxxxxは,アメリカ国務省の職 員として,戦後の連合国の賠償交渉に関わった経験を持つ。キンドルバー ガーの論考を,外交史の側面から実証的に深めたのがフィンランドの歴史 家xxxxx (Xxxxxxxx) である。xxxxxは,戦時からパリ講和条約ま での時期の,ソ連とxxとの戦後賠償をめぐる思惑や対立を,フィンラン ドを中心に検証したøû8)。以下では,xxxxxxxxとヘイッキラにお もに依拠して,フィンランド賠償の経緯をḷっておきたい。
キンドルバーガーは,フィンランドが賠償を生産物で支払ったことが戦後フィンランドの経済復興にプラスに作用したか否かという問題提起を行った。xxxは第一次大戦後の賠償処理に対する反省から,第二次世界大戦後の枢軸国に対する賠償を,金銭賠償方式ではなく,実物賠償方式にすることで,早期から合意していた。ただし,実物賠償をデモンタージュ
(生産設備の撤去・移転)の形で実施するか,生産物賠償(年々の生産物の譲渡)の形で実施するかについてはxxソ間の合意は存在しなかった。
xxソ間の賠償問題の協議は ø9ûú 年 ø0 月から始まる。ûú 年 øø 月~øù 月のテヘラン会談では,まだドイツ賠償は議題にならなかったが,近い将 来に締結予定のフィンランドとの休戦条約について議論が交わされたøû9)。この会議でxxxxxは,フィンランド休戦条約についてxxxxxとロ ーズヴェルトの一任を取り付けることに成功した。この時にxxxxxは,フィンランド賠償を木材,紙等の生産物で受け取る意向を表明したøü0)。 フィンランドとソ連との交渉は ûû 年 ú 月から始まり,休戦条約は同年 9 月 ø9 日に締結された。ソ連は被害額を øù 億ドルと見積もり,その半分の ý 億ドルの賠償支払いを求めたが,最終的には賠償額は ú 億ドルになった。
øû7) Xxxxxxxxxxxx [1987], “Chap. 12 Finnish War Reparations”.
øû8) Xxxxxxxä [1989].
øû9) xxx [2011] p. 39.
øü0) Xxxxxxxä [1989] p. 20.
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当初英国は,フィンランドの休戦条約が,他の枢軸国とのxx交渉の前例になることを警戒し,条約に賠償額を盛り込むことに否定的であった。また英国は,ソ連の多額の生産物賠償の取り立てが,英国のフィンランドからの木材輸入の妨げになることも懸念したøüø)。英国の石炭産業の復興のためにはフィンランドの坑木は不可欠であり,また,住宅建設のためにも大量の木材が必要であったから,フィンランド貿易は英国の戦後復興にとって重要な意味を持っていた。しかし,ø9ûû 年 9 月 øù 日にルーマニアと連合国との休戦条約が結ばれ,賠償額 ú 億ドルが決定すると,英国がフィンランド賠償の決定を躊躇する理由はなくなり,9 月 ø9 日の休戦条約締結に至ったøüù)。
フィンランドに続いて,ø9ûü 年 ø 月 ù0 日にはハンガリーと連合国との休戦条約が締結され,賠償額は ú 億ドルに決まり,ルーマニア,フィンランド,ハンガリーの賠償額は ú 億ドルで横並びとなった。しかし人口規模で,ルーマニアの ù,000 万人台,ハンガリーの ø,000 万人台に対して,フィンランドは û00 xxに過ぎなかったので,フィンランドの賠償額は,人口比では他の二国よりも多額であったøüú)。
ø9ûü 年 ù 月のヤルタ会談,同年 7 月のポツダム会談の際には,賠償問 題の中心はドイツに移り,それとともに,デモンタージュ方式がクローズ アップされることになった。ドイツ賠償の協議では,ドイツの強大な軍事 力が復活し,連合国の安全を脅かす事態を防ぐことに関心が集まった結果,軍需生産設備の撤去と,重化学工業の規模削減が賠償計画の柱になった。 一方,生産物賠償方式については,戦勝国に先駆けてドイツを復興させる 結果になるという理由から,否定的な意見が強かった。こうした状況を背
øüø) Xxxxxxxä [1989] p. 24.
øüù) Xxxxxxxä [1989] p. 37. 賠償支払い期間は,当初は 6 年間であったが,賠償支払い開始から ù 年後に,8 年間に延長された。
øüú) Xxxxxxxxxxxx [1987] p. 217. なお,パリ講和会議で決定したブルガリアの賠償額は ø 億 ù,ü00 万ドルであった。
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景にして,「ドイツ農業国化」のモーゲンソー・プランが,ûü 年前後の一時期,強い影響力をもったøüû)。
ポツダム会談に先立ってモスクワ賠償会議(xxソ)で合意された対独賠償 7 原則では,デモンタージュ方式を基本とし,長期にわたる生産物賠償は最低限に抑えることが謳われたøüü)。また,ポツダム会談では,デモンタージュ方式を原則とすることで合意が成立し,ソ連はとくに異議を唱えなかったøü6)。
ドイツ,イタリア,オーストリアの賠償に関する連合国の具体的協議はポツダム会談後に持ち越された。イタリアについては,フィンランド,ルーマニア,ハンガリー,ブルガリアとともに,ø9û7 年 ù 月のパリ講和条約で決着したが,ドイツとオーストリアについては,xx仏ソ û 国のモスクワ外相会議(û7 年 ú 月~û 月)が決裂したため,ソ連を含む講和条約を締結する道は閉ざされた。
モスクワ会議の決裂の要因の一つは,生産物賠償問題であった。この会議に,ソ連は生産物賠償の要求を改めて持ち出し,xxの拒否に遭った。 ø9ûü 年 ù 月のヤルタ会談でソ連はドイツ賠償としてデモンタージュと生産物賠償の両方を要求しておりøü7),ポツダム会談でも,生産物賠償方式が却下されたわけではなかったので,ソ連の主張にも根拠はあった。しかし一方で,ポツダム会談前後の時期に,ソ連がデモンタージュ重視に傾いていたことも事実である。
ソ連が生産物賠償に積極的になった理由としては,モスクワ外相会議までにすでにソ連はドイツの占領地域のデモンタージュを完了しており,焦
øüû) モーゲンソー・プランをアメリカの対ソ協調政策の一環とみなす通説に対しては,河㟒xxの批判がある(河㟒xx [2012] 第 ø 章)。
øüü) Xxxxxxxä [1989] p. 79. モスクワ外相会議でまとまったのは 8 原則であるが,そのうち ø 項目はソ連が同意しなかった。
øü6) 歴史学研究会編 [2006] pp. 402-404。 øü7) Xxxxxxxä [1989] p. 63.
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点がxx仏占領地域に移っていたことが指摘されている。それに対して,xxxxxは,フィンランド・ルーマニア・ハンガリーの賠償が実行に移されるに連れ,ソ連が生産物賠償の利点を再認識したと推測するøü8)。もちろん,ドイツ賠償問題は,冷戦開始以前に限っても,領土問題,xx仏ソの分割占領,占領地域からのソ連の戦利品獲得などの問題が絡み合っており,賠償支払い方式だけを取り出して論じてみても,全体像を歪める結果に終りかねない。フィンランドの戦後復興を考えるための導線として,以下,フィンランドに限定してこの問題を論じる。
賠償とフィンランドの戦後復興 フィンランド賠償が「過酷」と言われる 理由は,他の枢軸国と比べて人口一人当たりの負担が重いことだけでなく,賠償額の算定方式がフィンランドにとって不利であったことにもある。 ø9ûû 年の休戦条約では,戦前の ú8 年価格を基準とすると定められた。戦 時のインフレを考慮すれば,この基準はフィンランドにとって不利である。その後,ソ連は û8 年 7 月に,残余の賠償の ø/ù を免除したので,フィン ランドの名目賠償額は ù 億 ù,6ü0 万ドルに減ったøü9)。しかしこの額でも, üù 年価格で ü 億ドル以上に相当すると推計されているø60)。
キンドルバーガーは,多額の賠償をフィンランドが滞りなく支払うことができた理由として,①有利な交易条件のもとでの順調な輸出ø6ø),②スウェーデン・アメリカ等の外国からの借款の獲得,③ソ連による賠償額の軽減措置を挙げつつも,それだけでは説明できないとして,④フィンランド国民の賠償支払いに対する自発的な努力にとくに注目している。xxxxxxxxが国民の努力という非経済的な理由を重視する前提には,賠償
øü8) Xxxxxxxä [1989] p. 134.
øü9) Erkki [1999] p. 32.
ø60) Xxxxxxxä [1989] p. 47, Xxxxxxxxxxxx [1987] pp. 212-213.
ø6ø) 交易条件は戦前と比べ,ø9ûü 年以降顕著に改善した (Xxxxxxx & Jalava [2006]
p. 61, Figure2-12)。
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支払いがフィンランドにとってとてつもなく重い負担であったという認識がある。しかし,フィンランドの賠償負担の重さは,これまで誇張されて来たようにも見える。パリ講和会議に先立って作成された ø9û6 年 7 月のアメリカの推計では,フィンランドの賠償額の対 GDP 比は 0.7%で,ハンガリーの û.ú%,ルーマニアの ú.0%よりもxxxに小さく,イタリアの 0.7%と並んでいるø6ù)。この数値がどこまで信頼できるかは疑問であるが,xxxxxxxは賠償負担は,戦争直後には GNP の ü~6%に達したものの,ü0 年までに ù%以下に低下したと推計しておりø6ú),エルッキによれば賠償支払額の対 GDP 比は ûü~û7 年 û.ü%,û8~û9 年 ú.ú%, ü0~üù 年 ø.ü%であるø6û)。一方で,フィンランドは û6 年には早くも戦前水準の GDP(ø9ú8 年)を回復しているø6ü)。
とは言え,国土の約 ø/ø0 のソ連への割譲,割譲した領土からの û0 万人以上の避難民の流入など,フィンランドが受けた敗戦による打撃は決して軽微ではなかった。賠償支払いを可能にし,その後のフィンランドの経済発展をもたらした経済的条件である貿易と外貨借款にもう一度注目してみたい。
国際収支を見ると,経常収支は貿易収支の赤字を貿易外の運輸収入の黒字が補う形で,ほぼ均衡している。賠償支払は ø9û9 年頃までは相当の負担であったが,それがなければ,自力で国際収支均衡を維持できる状態であったことがわかる(表 16)。輸出の好調を支えていたのは,西欧諸国の復興需要であった。フィンランドの木材と木材製品に対する国外需要は♛盛であり,戦前から ü0 年代半ばまで,フィンランドの輸出品の 8 割以上を木材・木材製品・紙パルプが占めた(表 17)。しかし木材伐採・加工用の機械・設備が不足していたので,アメリカからの輸入のためのドル資金
ø6ù) Xxxxx [1999] p. 32.
ø6ú) Xxxxxxxxxxx [1960] p. 20.
ø6û) Erkki [1999] p. 32.
ø6ü) Xxxxxxxxxxx [1960] p. 20.
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表 16 フィンランドの国際収支(ø9ûü-üù 年)
(単位:ø0 億旧 FIM)
暦年 | 貿易 | 運輸 | その他サービス | xx | 移転収支 | 経常収支 | 長期資本収支 | 短期資本収支 | 誤差脱漏 | 賠償 | ||
輸出 | 輸入 | 貿易収支 | ||||||||||
ø9ûü | üù | 68 | △ ø8 | 6 | 0 | △ ú | û | △ øø | øù | 9 | △ ø0 | △ 8ù |
û6 | ùúø | ùûú | △ ù7 | ø8 | 0 | △ 9 | ø8 | 0 | 9ø | △ øù | △ 76 | △ 88 |
û7 | ûüù | û70 | △ ø8 | ù7 | ú | △ øú | øû | øú | 8ø | ø0 | △ 78 | △ ø0û |
û8 | ü6ü | 66û | △ ø00 | ûü | △ ù | △ øú | øû | △ ü6 | 7ù | △ ùø | ü | △ øø6 |
û9 | 6ü6 | 66ù | △ úø | 6û | ù | △ øü | 9 | ù9 | üü | ùü | △ ø09 | △ øùù |
ü0 | 8øü | 89ù | △ 76 | 6û | △ ù7 | △ ùû | ü | △ ü8 | △ ú | ü8 | ú | △ 79 |
üø | ø,869 | ø,üüü | ú0ü | øøü | △ 6û | △ ùû | ü | úú7 | △ 7ø | △ ù9ü | ø | △ øùü |
üù | ø,ü68 | ø,8ùù | △ ù6ø | ø0û | △ úú | △ ù8 | ü | △ ùøú | △ øü | ø7ü | üú | △ 8û |
[注]ø.1 FIM(フィンランド・マルッカ)= ø00 旧マルッカ(ø96ú 年 ø 月デノミ実施)。 ù.ø9üø 年に ø ドル= ùú0FIM の固定平価導入。ü7 年,ø ドル= 320 FIM に平価切り下げ。 ú.貿易収支は調整勘定を含む。
û.ø9ûü 年および û9 年の誤差脱漏は通貨切り下げによる影響を含む。
[出所] Xxxxxxx Xxxxx, “The Political Economy of Post-War Finland, 1945-1952,” Scandinavian Esonomic History Reveiew, 47-3, p. 35 より作成。
表 17 フィンランドの輸出品の構成
年 | 農産物 | 林産物 | ||||||
木製品 | 紙パルプ | 繊維 | 金属・機械 | その他工業 | 小計 | |||
ø9ùü | øú.7 | ø0.ú | ûû.0 | ù7.7 | 0.7 | 0.9 | ù.7 | 76.0 |
ú0 | øø.8 | 8.ø | ûø.0 | úû.ü | 0.ü | ø.û | ù.7 | 80.ø |
úü | 8.9 | 7.0 | ú6.ü | û0.6 | ø.ø | ù.û | ú.û | 8û.0 |
ú8 | ø0.ø | 9.0 | úø.ú | ûø.7 | ø.0 | ú.7 | ú.ù | 80.9 |
ü0 | û.ø | ø0.0 | úü.ø | ûø.6 | 0.8 | û.9 | ú.ü | 8ü.9 |
üü | ù.ø | øø.0 | ù8.ú | ûø.8 | ø.ø | øú.7 | ø.9 | 86.8 |
60 | ü.0 | 6.8 | ù6.9 | ûù.ù | ø.ú | øû.û | ú.û | 88.ù |
6ü | ü.ü | ø.ú | ù0.ø | û7.û | ù.9 | ø7.ü | ü.ú | 9ú.ù |
70 | û.û | 0.9 | øü.9 | ú9.ø | 6.ü | ùü.ù | 7.8 | 9û.ü |
工業製品
(単位:%)
[出所] Xxxxxx Xxxxxxx, The Finnish Economy,1860-1985 - Growth and Structural Change, Bank of Finland, 1989, p. 262 より作成。
の確保が課題であった。
一方でソ連に対する賠償が,おもに金属製品や機械等の重工業製品によって支払われたことが,戦後フィンランドの重工業発展の道を開いた。賠償終了した後も,ソ連への重工業製品の輸出はフィンランドの貿易において重要な位置を占め,フィンランドは,西欧・アメリカに木材・木材製品・紙製品を,ソ連に重工業製品を輸出することで,輸出製品を多様化す
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ることができた。このように生産物賠償が,戦後のフィンランドの産業構造の高度化と,経済の成長に寄与したことは明らかであるø66)。
EXIM 借款 復興のための外貨資金をフィンランドは主として,アメリカ,スウェーデン,世銀から得たø67)。アメリカは,フィンランドに対する借 款供与に,最初は必ずしも積極的ではなかった。アメリカは,フィンラン ドがソ連の勢力圏に入るかどうか不明な段階での援助に慎重であるべきと 考えた。
これに対して,フィンランド側は積極的であり,フィンランド政府は,早くも休戦条約締結直後の ø9ûû 年 øø 月からアメリカに対して経済援助を打診し始めた。しかし,アメリカ側の消極的姿勢のために,EXIM(ワシントン輸出入銀行)との交渉は ø 年後の ûü 年 øø 月にようやく開始されたø68)。その後,NAC(国際通貨金融問題に関する国家諮問委員会)は,û6 年 ø 月にフィンランドに対する ú,ü00 万ドル,û7 年 ø 月には ù,ü00 万ドルの EXIM 借款を相次いで承認した。ただし,û8 年 ø0 月にフィンランドが ù,000 万ドルの EXIM 借款を要請した際には,世銀借款を申請するように示唆し,EXIM の借款額は ø,000 万ドルに削減したø69)。XXXX は,フィンランドに対して ûü 年 7 月~û9 年 6 月までに,短期借款を含めて,約 9,000 万ドル(ディスバースメント・ベース)を融資したø70)。この金額は他の欧州のxxよりも多かったものの,フランスやオランダに対する EXIM借款などと較べると,アメリカの慎重さが目立つ。東側ブロックが警戒心
ø66) Xxxxxxxxxxxx [1987] pp. 220-225.
ø67) ø9ü0 年 ø 月 ø 日現在のフィンランドの対外債務残高(未ディスバース分を含む)は,アメリカ ø 億 ú,üû0 万ドル,スウェーデン ø 億 ø,7ú0 万ドル,世銀 ø,û80 万ドルであった (“Finland’s Economic Position,” May 10, 1950 [WBGA 66995])。
ø68) Xxxxxxxä [1982] pp. 207-209.
ø69) NAC Meeting, January 8, 1946; January 7,1947 [NARA]. Xxxxxxxä [1982] p. 215.
ø70) 本稿,上,p. 17.
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を持たないように,アメリカは用心深くフィンランド借款を進めたというヘイッキラの評価は妥当だと言えようø7ø)。
世銀借款の開始 フィンランドに対する最初の世銀借款は ø9û9 年 8 月 ø日契約締結の ø,ùü0 万ドルの借款であり,第 ù 次は同年 ø0 月 ø7 日契約締結の ùú0 万ドルの木材借款である。
フィンランドは ø9û8 年 ø 月に IMF・世銀に加盟し,その直後の ù 月に ø 億ドルの復興借款を打診した。同年 ø0 月~øø 月に現地調査団による調査が実施され,û9 年 7 月に第 ø 次借款が成立した。目的は,電源開発
(ù00 万ドル),木材工業(ø,000 万ドル),石灰石砕石(ü0 万ドル)の ú つであるが,主たる目的は,木材加工業に必要な機械・器具のアメリカからの輸入資金の獲得であったø7ù)。中央銀行であるフィンランド銀行が借主となり,電力企業,木材加工企業,石灰石砕石企業に転貸する形の契約が結ばれたø7ú)。
第 ø 次借款と並行して,ヨーロッパの複数国が加わる「木材借款」が計画され,その一環として第 ù 次借款が実現した。「木材借款」の目的は,西欧経済復興のために,鉄,石炭と並ぶ重要な資材である木材の供給を促進することにあった。ø9û7 年 ü 月,チェコスロヴァキアで開催された国際木材会議が,ヨーロッパにおける深刻な木材不足に対して注意を喚起した。これを欧州経済委員会 (Economic Commission for Europe, ECE) の木材委員会が取り上げ,世銀資金を用いて北欧・東欧の木材生産国にドル圏から製材用機械を輸入し,増産する計画(総額 ø,700 万ドルの世銀借款を予定)を作成し,û8 年 ý 月と ø0 月の木材委員会(ジュネーブ)に諮ったø7û)。
ø7ø) Xxxxxxxä [1982] p. 217.
ø7ù) “Report and Recommendations of the President to the Board of Executive Directors on the Loan Application of the Bank of Finland,” July 22, 1949 [WBGA AP-10].
ø7ú) “Loan Agreement between International Bank for Reconstruction and Development and Suomen Pankki -Finlands Bank,” August 1, 1949 [WBGA].
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成城・経済研究 第ùúý 号(ù0ùù 年ú 月)
当初の計画には,北欧・東欧 ü か国(オーストリア,チェコスロヴァキア,フィンランド,ポーランド,ユーゴスラヴィア)が含まれていたがø7ü),実現したのはフィンランド(ùú0 万ドル)とユーゴスラヴィア(ù70 万ドル)の計 ü00 万ドルだけであった。融資の対象は,住宅等の建設のための軟材と石炭生産に必要な坑道支柱の生産であった。この世銀借款は,ù 年間の短期の借款であり,貿易金融の性格が強い。これは,ドル不足に直面していたヨーロッパ諸国が,世銀のドル融資を利用して,域内貿易を復活させる試みだと見ることができるø7ý)。借款協定には,世銀・木材輸出国・輸入国の三者による木材支払協定 (Timber Payments Agreements) が付された。木材輸入国が輸出国に代わって世銀に返済し,その返済分を輸入代金から差し引くという内容である。世銀にとっては,西欧諸国を組み込むことで,返済を確実にできるというメリットがあった。対象となった西欧諸国は,フィンランド借款では英国(øû0 万ドル),ベルギー(ûü 万ドル),デンマーク
(ûü 万ドル),ユーゴスラヴィア借款では,英国(ø70 万ドル),イタリア(û0万ドル),オランダ(û0 万ドル),フランス(ù0 万ドル)であった。
ルーティーン化する世銀借款 世銀借款の主たる対象は,最大の輸出産業の木材加工業のほかは,電力と道路であった。世銀借款の ùý 年間を通じて,その内容につぎのような変化があった。
第 ø は ø9üý 年 ü 月の第 ý 次借款の時から,借主がフィンランド銀行からフィンランド抵当銀行に代わったことである。第 ø 次~第 ü 次借款(第
ø7û) “Report and Recommendations of the President to the Executive Directors Concerning Timber Equipment Loans to the Republic of Finland,” September 23, 1949 [WBGA AP-15].
ø7ü) “European Timber Situation and the Proposed Timber Equipment Loan,” August 9, 1949 [WBGA 66968]. NAC Staff Committee Meeting, October 8, 1948 [NARA].
ø7ý) アメリカの ECA は木材借款を,欧州内の貿易を促進し,欧州決済制度への移行過程で重要な役割を果たすと評価した (NAC Staff Committee Meeting, October 15, 1948 [NARA])。
─ øù ─
ù 次を除く)では,中央銀行であるフィンランド銀行が世銀資金を導入し,プロジェクトの実施主体である企業や自治体に転貸していた。それが第 ý次借款では借主がフィンランド抵当銀行に代わった。フィンランド抵当銀行(üý 年 ú 月設立)の資本は全額フィンランド銀行が所有し,役員もフィンランド銀行と同一であった。世銀借款の借主がフィンランド抵当銀行に変更になった理由は,フィンランド銀行の長期債権・債務のこれ以上の増加を抑えることと記されているø77)。フィンランド抵当銀行の設立に当ってフィンランド銀行と世銀との間で,フィンランド抵当銀行の業務は世銀借款関連業務に限ること,世銀借款プロジェクトに必要な国内資金の確保をフィンランド銀行とフィンランド政府が保証することなどが取り決められたø78)。こうした経緯から見ると,フィンランド政府は世銀借款の継続を前提にして,半永久的な受け皿銀行としてフィンランド抵当銀行を設立したと考えられる。
第 ù の変化は ø9ýú 年からフィンランド工業化基金への借款が始まったことである。フィンランド工業化基金は,üû 年に中小工業への長期資金供給を目的に設立された機関である。ýú 年の第 ø0 次借款の際に,フィンランド工業化基金は増資を行い,世銀の姉妹機関の IFC(国際金融公社)が資本参加した(投票権の 7%を保有)。世銀借款を受けた結果,基本の資金規模は一挙に約 ü 倍に拡大した(約 ý,ù00 万マルッカ=約 ø,900 万ドル)ø79)。フィンランド工業化基金に対する世銀借款は,ýú 年,ýü 年,ý9 年,70 年の û 回(計 ý,ú00 万ドル)実施された。ýû 年末までに承認されたフィンランド工業化基金の融資の約半分は世銀融資に基づくものであったø80)。
ø77) “Report and Recommendations of the President to the Executive Directors on a Proposed Loan to Mortgage Bank of Finland Oy,” May 8, 1956 [WBGA P-106].
ø78) “Appraisal of Power Projects in Sixth Loan Application, Finland,” May 7, 1956, p. 2 [WBGA TO-105a].
ø79) “Appraisal of the Reorganization Plan for the Industrialization Fund of Finland,” August 29, 1963 [WBGA DB-8a].
ø80) “Appraisal of the Industrialization Fund, Finland,” June 18, 1965 [WBGA DB-20b],
─ øú ─
このように,世銀借款はフィンランド政府が進める国内開発に組み込まれ,ルーティーン化していった。ø960 年代に,世銀融資を途上国に限定すべきだという声が強まるなかで,フィンランドはなぜ 7ü 年まで世銀借款を継続できたのだろうか。フィンランドは,経済パフォーマンスは良好であるが,xxx的に難しい位置にあるxxであるが故に,国際資本市場から資金を調達するのが困難だというのが世銀がフィンランド借款を正当化する理由であったø8ø)。第 øú 次借款(66 年 û 月)の際には,世銀は 6ü 年に国際市場の起債環境が悪化したことを理由に挙げ,今後もしばらくは世銀借款を継続する必要があるとしたø8ù)。フィンランドが 67 年 6 月に借款を申し込んだ際には,世銀は前年に先進国借款を終了する方針を決めていたので,いったんはフィンランドの申請を却下した。しかし,68 xxにフィンランドが再度申請すると,世銀はこれを受理した(69 年 ø 月,第 øû 次借款成立)ø8ú)。
(5)南アフリカ
南アフリカ借款の性格 南アフリカはアフリカ大陸最大の工業国として, ø970 年代までは先進国に数えられていたø8û)。世銀の南アフリカ借款が実 施された ü0 年代から 60 年代は同国の高成長の時期と重なる。û6 年から 7ø 年までùü 年間にわたって,南アフリカは年平均ü.0%の成長を続けたø8ü)。
p. 17.
ø8ø) “Report and Recommendations of the President to the Executive Directors on a Proposed Loan to Mortgage Bank of Finland Oy,” July 28, 1961 [WBGA P-258] p. 5. Xxxxx & Xxxxx [1975] p. 193.
ø8ù) “Report and Recommendation of the President to the Executive Directors on a Proposed Loan to Republic of Finland,” April 14, 1966 [WBGA P-475].
ø8ú) “Report and Recommendation of the President to the Executive Directors on a Proposed Loan to Toellistamisrahasto Oy ─ Industrialization Fund and Finland Ltd. (Third Development Bank Project),” January 9, 1969 [WBGA P-663] p. 1.
ø8û) 南アフリカは,ø9ø0 年に南アフリカ連邦として独立し(英連邦の自治領), 6ø 年に南アフリカ共和国に移行し,英連邦からも離脱した。本稿では,時期にかかわらず南アフリカの呼称を用いる。
─ øû ─
世銀は,南アフリカに対して,ø9üø~ýý 年に øø 件,計 ù 億 û,ø80 万ドルの借款を行ったø8ý)。目的は,鉄道建設 7 件,ø 億 û,780 万ドル,電源開発 û 件,9,û00 万ドルである。鉄道建設借款はすべて南アフリカ政府
(鉄道港湾局)に,電源開発はすべて政府機関の電力供給局 (South African Electricity Supply Commission, ESCOM) に貸し付けられた(表 18)。
世銀の融資対象が鉄道と電力であったことは,南アフリカ経済の特徴の 一面を反映している。鉱山業を基軸とする南アフリカでは,中核の鉱山業 を英国系の民間資本が支配し,南アフリカ政府が鉄道や電力等のインフラ を整備するという分業関係が成立していたø87)。鉱山・農場の多くが内陸 に位置したため,海港とを結ぶために,早い時期から鉄道網が敷設された。これらの鉄道は,ø9ø0 年の南アフリカ連邦への移行に際して,国営化さ れた。第二次世界大戦後,世界的に鉄道輸送から道路輸送に転換するなか でも,南アフリカ政府は鉄道を重視し,道路輸送業を規制し,鉄道業を保 護した。また,電力業は,莫大な電力を消費する鉱山と,ú0 年代以降急 速に発展した工業の需要拡大で,電力ṧ迫の状態が続き,発電・送電設備 の拡張が求められた。電力業は û8 年に国営化された。この国営化の眼目は, ESCOM による英国資本のヴィクトリア瀑布・トランスヴァール電力会社 (Victoria Falls & Transvaal Power Company) の買収にあり,金鉱山への安定的で 安価な電力の供給確保という金鉱業資本の要求に沿うものであったø88)。
前記のように,世銀の øø 件の南アフリカ借款は,鉄道港湾局 (Railways and Harbours Administration) と ESCOM の ù つの事業体に集中して供与された。
ø8x) Xxxxx & Müller [1992] p. 278.
ø8ý) ø9ýý 年に終了した世銀借款は,アパルトヘイト体制崩壊後の 97 年 ü 月に再開された。
ø87) 第二次世界大戦後の南アフリカ経済では,鉄道・電力以外においても公営企業が枢要な位置を占め,国家持株会社 IRI(産業復興公社)が産業の中枢を担ったイタリアとの疑似が指摘されている(Xxxxx [1976] 邦訳,p. 207)。なお,公営企業はアフリカーナの影響下にあった。
ø88) Xxxxxxxx [1984], Chap. 6, Chap. 7.
─ øü ─
表 18 南アフリカ
承認年月日 | 金額 | 期間 | 融資先 | |
百万ドル | 年 | |||
ø | ø9üø 年 ø 月 ø6 日 | ù0.0 | øû | 南アフリカ政府 |
ù | ø9üø 年 ø 月 ø6 日 | ú0.0 | ø9 | 南アフリカ電力供給局 (ESCOM) |
ú | ø9üú 年 8 月ù7 日 | ú0.0 | ø0 | 南アフリカ政府 |
û | ø9üú 年 8 月 ù7 日 | ú0.0 | ø0 | 南アフリカ電力供給局 (ESCOM) |
ü | ø9üü 年 øø 月 ù8 日 | ùü.ù | øø | 南アフリカ政府 |
6 | ø9ü7 年 9 月 ú0 日 | ùü.0 | ø0 | 南アフリカ政府 |
7 | ø9ü8 年 øù 月 ø 日 | ùü.0 | ø0 | 南アフリカ政府 |
8 | ø9ü9 年 6 月 9 日 | øø.6 | ø0 | 南アフリカ政府 |
9 | ø96ø 年 øø 月 ú0 日 | øø.0 | ø0 | 南アフリカ政府 |
ø0 | ø96ø 年 øø 月 ú0 日 | øû.0 | ø0 | 南アフリカ電力供給局 (ESCOM) |
øø | ø966 年 7 月 ù8 日 | ù0.0 | ø0 | 南アフリカ電力供給局 (ESCOM) |
合計 | ùûø.8 |
[出所] WBGA の Project Database および各借款の総裁提案書から作成。
鉄道港湾局は,全国の鉄道を所有・管理する運輸省の一部局であるø89)。第二次世界大戦までに鉄道網建設はほぼ完了していたが,ø9ü0~60 年代には,鉱工業の急速な発展に対応する輸送力の増強が求められた。üø 年冬には鉄道輸送力の不足から,火力発電所が必要とする石炭の輸送に支障が生じており,鉄道輸送量の拡大は急務であったø90)。世銀が関わったのは,鉄道港湾局が実施した,電化とそれを補完するディーゼル化,複線化事業であるø9ø)。世銀借款は,機関車・貨車等の資材の輸入に用いられた。
ESCOM は,ø9ùù 年に設立された電力業の公企業である。金鉱山が集中するトランスヴァール州とオレンジ自由州を含む地域に電力を供給し,国内電力供給の ú/û までを占めた。鉱業は電力の最大の需要者であり, ESCOM の電力消費量のうち鉱業が占める比率は,ü0 年に 60.ù%,60 年
ø89) 鉄道港湾局は港湾,空港も管理したが,その収入の 97.ü%までが鉄道収入 であったので,実態は国営鉄道会社と見てよい (Jones & Müller [1991] p. 190)。
ø90) “Report on the Economy of South Africa,” August 20, 1953 [WBGA EA-12b] pp. 7- 8.
ø9x) Xxxxx & Müller [1992] pp. 189-191.
─ ø6 ─
に対する世銀借款
対象事業 | 外債の抱き合わせ発行 |
鉄道 | |
電力 | |
鉄道 | |
電力 | |
鉄道 | 南アフリカ連邦債 ù,ü00 万ドル(ニューヨーク市場) |
鉄道 | 南アフリカ連邦債 ø,ü00 万ドル(ニューヨーク市場) |
鉄道 | 南アフリカ連邦債 ù,ü00 万ドル(ニューヨーク市場) |
鉄道 | ESCOM 債 ø,øü0 万ドル(スイス市場) |
鉄道 | |
電力 | |
電力 | |
に üù.0%にのぼったø9ù)。南アフリカでは,安価な石炭が国内に豊富に存在したために,発電はもっぱら火力発電に依存していた。ESCOM は,急増する電力需要に追いつくべく,火力発電所の新増設を急いだが,世銀借款はその設備投資資金の一部を供給した。アメリカの EXIM も,ウラン生産に電力を供給するという軍事戦略的目的から,üù 年に ESCOM に ù,000 万ドルの借款を提供したø9ú)。
南アフリカ借款は,ø9ü0-ý0 年代に世銀の代表的融資分野であった輸送と電力の開発を目的とし,世銀資金が海外からの資材の調達に充てられた点に着目すれば,典型的なプロジェクト・ローンのように見える。しかし
ø9ù) “Appraisal Report, Power Expansion Program, Electricity Supply Commission (ESCOM), South Africa,” November 16, 1961 [WBGA TO-295b] Annex 2.
ø9ú) Fine & Xxxxxxxxx [1996] p. 158. NAC Staff Committee Minutes, July 8, 1952 [NARA]. ウランは金採掘の副産物として生産される。第二次世界大戦期にはアメリカはコンゴからウランを調達したが,ø9ûû 年のxx間の協定にもとづいて,第二次世界大戦後,xxは協力して新たな鉱山開発を急いだ。ü0年 øø 月に,xxの合同開発機関 (Combined Development Agency, CDA) と南ア原子力委員会との協定が締結され,üû 年から南アフリカにおけるウラン採掘が始まった(xxx [2004] 第 ú 章補論「金鉱山のウラン生産」)。
─ ø7 ─
実際には,世銀借款は個別のプロジェクト開発の枠を超えた役割を担っていた。すなわち,南アフリカの急速な工業化の過程で生じた,経常収支赤字を継続的に補填し,外貨危機の際に IMF を補完する役割である。
世銀の鉄道・港湾局および ESCOM 対する融資は繰り返して行われ,ル ーティーン化した。世銀借款は,フィンランドと同様に,南アフリカ政府 の資金調達計画の一環に組み込まれていたように見える。ø9ü7 年 9 月 ú0 日の世銀理事会においてマチャド理事(Xxxx Xxxxxxx,キューバ)は,南ア フリカに対する鉄道借款はプロジェクト・ローンではなく,プログラム・ ローンではないかと質したように,南アフリカ借款が継続的性格を持ち, プロジェクト借款の枠を越えていることは,当時から認識されていたø9û)。南アフリカは,第二次世界大戦前に多額の直接投資・間接投資を海外から 導入していた。戦後,英国が大規模な海外投資を行う余力を失ったために,南アフリカが,スターリング圏に代わる資金調達の役割を世銀に求めたと 見ることもできようø9ü)。
また,南アフリカは ø960 年代半ばまでに,û8~û9 年,üú~üû 年,ü8年,60~6ø 年の û 回の国際収支危機を経験し,û8 年,ü8 年,60 年,6ø年に,IMF から資金を引き出したø96)。これらの国際収支危機の際に,世銀借款が IMF 融資を補完する役割を果たしたと見られる。このうち,û8
~û9 年,60~6ø 年について触れておきたい。
ø9û8~û9 年の国際収支危機は,輸入急増と資本流出によって起きた。 úø 年の英国の金本位制離脱を契機とした世界的な金価格の上昇で,南アフリカ経済は産金ブームに湧き,ú0~û0 年代にスターリング圏から大量
ø9û) これに対してブラック総裁は,融資目的が鉄道建設計画だからプロジェクト・ローンであるという形式的な回答をした (“Transcript of Minutes of 104th Regular Meeting of Executive Directors,” November 13, 1958 [WBGA 89489])。
ø9ü) “Report on the Economy of South Africa,” December 13, 1950 [WBGA 67030] p. 20.
ø96) Xx Xxxxx & Xxxxxxxxxx [1969] pp. 462-463. ø9ü8 年はスタンドバイ取り決め。
─ ø8 ─
の民間資本が鉱業部門に流入した。この投資資金がブームの終了にともない,û8 年後半から一転して流出に向かったため,ü0 年にかけて外貨準備が急減した。南アフリカ政府は貿易の輸入規制を実施したが,金・外貨準備は ûü 年末の øø 億 6,000 万ドルから,û9 年末には ù 億 9,ú00 万ドルにまで減少した。南アフリカを調査した世銀の一般経済報告書は,世銀借款は「外貨準備状況に悪影響を与えずに,必要な電力・輸送への投資を可能にする」と述べ,外貨準備を下支えする世銀の役割を強調しているø97)。
ø960~6ø 年の国際収支危機は,60 年 ú 月に起きたシャープビル事件
(黒人の抗議運動に対して非常事態宣言が出された事件)を契機とする資本逃避によるところが大きい。60 年には,年間約 ù 億 7,000 万ドルの民間資本が流出し,金・外貨準備は年末に ù 億 6,600 万ドルにまで減少した。政府は資本流出規制を実施したが,資本流出は 6û 年まで ü 年間も続いた(表 19)ø98)。6ø 年 øø 月に世銀借款を承認した際の総裁の借款提案書は,「外貨準備の観点からも,投資の観点からも,外国からの借入が望まれていた」と述べ,世銀借款が資本逃避対策であったことを示唆しているø99)。
一時的な景気の後退はあったものの,南アフリカは経済は ø970 年代初めまで順調に推移した。ú0 年代に新たに発見されたトランスヴァール州西部とオレンジ自由州の金鉱山の開発が ü0 年代に軌道に乗り,金輸出が急増した(表 19)ù00)。60 年に南アフリカは,ソ連を除く世界の金生産の 6ú.6%を占めた。輸出額に占める金の比重は,ú0 年代(ø9úú 年,67.û%)と較べれば低下したが,それでも 6ø 年に û0.ü%を占めたù0ø)。金鉱山の
ø97) “Report on the Economy of South Africa,” December 13, 1950 [WBGA 67030] p. 17, pp. 24-25.
ø98) “Current Economic Position and Prospects of South Africa,” November 21, 1961 [WBGA EA-126a] pp. 3-4. Xxxxx & Müller [1992] p. 355.
ø99) “Report and Recommendations of the President to the Executive Directors on Two Proposed Loans, One to the Republic of South Africa and the Other to the South African Electricity Supply Commission,” November 21, 1961 [WBGA P-269] p. 6.
ù00) ø9ú0 年代以降の南アフリカの金鉱業の発展についてはxxx [2004] 参照。 ù0ø) Xxxxx and Müller [1992] p. 158, p. 213.
─ ø9 ─
表 19 南アフリカの国際収支(ø9û8-6û 年)
(単位:ø00 万ランド)
貿易 | 金産出 | 運賃・保険 | 旅行 | 投資収益 | その他経常項目 | 経常収支 | 民間資本 (ネット) | |||
輸出 | 輸入 | 貿易収支 | ||||||||
ø9û8 | ù88 | 7ø6 | △ ûù8 | ø99 | △ 78 | - | △ üú | 7 | △ úüú | ø8ü |
üù | ü80 | úûù | △ ù6ù | ú0û | △ 88 | - | △ øø8 | ü | △ øü9 | øù0 |
üú | ü98 | 86ú | △ ù6ü | ú06 | △ 8ù | - | △ øùù | ø | △ ø6ù | ø00 |
üû | 666 | 89ø | △ ùùü | úù9 | △ 8ø | - | △ øúø | ú | △ ø0ü | øüù |
üü | 7ûø | 978 | △ ùú7 | ú6ü | △ 90 | - | △ øû0 | øø | △ 9ø | ùù |
ü6 | 8ùû | ø,00ø | △ ø77 | ú9ü | △ 87 | - | △ øû9 | ù7 | 9 | ø7 |
ü7 | 89ú | ø,øø6 | △ ùùú | ûù9 | △ ø06 | - | △ øû7 | ù8 | △ ø9 | △ 6ø |
ü8 | 77û | ø,øù9 | △ úüü | ûû0 | △ 8ú | △ ø0 | △ øüù | 7 | △ øüú | ü9 |
ü9 | 877 | 99ü | △ øø8 | ü09 | △ 69 | △ 9 | △ øû9 | ù | ø66 | △ ú9 |
60 | 879 | ø,øù7 | △ ùû8 | üú0 | △ 7ú | △ øù | △ øü6 | △ ù0 | ùø | △ øüù |
6ø | 9úø | ø,ø08 | △ 87 | ü76 | △ 66 | △ øü | △ ø78 | △ ù7 | ù0ú | △ 6ü |
6ù | 9üù | ø,0ûú | △ 9ø | 6úù | △ 6ù | △ øú | △ øüú | △ ü | ú08 | △ 7ü |
6ú | ø,0ø7 | ø,ù96 | △ ù79 | 688 | △ 8ü | △ 9 | △ øü8 | △ 9 | øû8 | △ 97 |
6û | ø,08ù | ø,ü89 | △ ü07 | 7ú6 | - | - | - | △ ú07 | △ 78 | △ 6ù |
[注]ø.南アフリカの通貨単位は ø96ø 年 ù 月に南アフリカ・ポンドからランドに切り替わったが、本表ではすべてランドで表記。ø ポンド= ù ランド。
ù.ø9û9~üø 年は記載なし。
ú.ø96û 年の「その他経常項目」は,運賃・保険,旅行,投資収益を含む。
[出所] ø9û8‐ü7 年は,“Current Economic Position and Prospects of South Africa,” November 21, 1961 [WBGA EA-126a],ø9ü8-6û 年は,“Current Economic Position and Prospects of South Africa,” August 3, 1965 [WBGA EA-152a]。
活況に支えられて,工業化は金属・機械の輸入代替化の段階まで進んだ。 60~6ø 年には経済危機・政治危機が起きたが,その後は 70 年代初めまで高い成長が続いた。しかし,7ú 年のxxx・xxxxを契機に成長は鈍化,80 年代に入ると,アパルトヘイト政策への国際的批判の高まりにより,外資の引き揚げ,経済制裁がなされ,経済は停滞した。国民ø 人当たり実質 GDP 成長率は 70 年代に年 0.7%,79-88 年には年 0.ù%にまで低下した。工業製品の輸出競争力は低下し,鉱産物輸出への依存が高まる工業化が逆行する現象が起きたù0ù)。
ø9ü0~60 年代の高度成長期の南アフリカは,世銀にとって,優良かつ安
ù0ù) 輸出総額に占める工業製品の割合は ø970 年には ûø%に達していたが,8ü 年には úú%にまで低下した。金は 8ü 年には輸出総額の ûú%を占めていた (Xxxxx & Müller [1992] p. 233, pp. 343-344)。
─ ù0 ─
全な理想的な融資先であった。南アフリカ政府は üü 年には米国市場で国債発行を果たし,国際的な信用力も勝ち得たù0ú)。この時期には,まだアパルトヘイト問題は潜在的なリスクにとどまっていた。60 年代まで世銀借款はアパルトヘイト問題とどのように関わっていたのか,また世銀はアパルトヘイト問題をどのように認識していたのかをつぎに見ておきたい。
アパルトヘイト政策と世銀 南アフリカは人種差別の長い歴史を持つが,アパルトヘイト政策と呼ばれる人種隔離政策は,第二次世界大戦後の ø9û8 年に始まる。この年の総選挙でアフリカーナー民族主義を掲げる国民党がxxし,xxx (Xxxxxx Xxxxxxxx Xxxxx) を首班とする国民党単独政権が誕生した。マラン政権(û8-üû 年)は,「人種間通婚禁止法」(û9 年),「人口登録法」(ü0 年),「集団地域法」(ü0 年)などを制定し,人種隔離を推し進めたù0û)。以後,国民党は 9û 年まで長期政権を維持し,アパルトヘイト政策は,60~70 年代には,ホームランド政策(アフリカ人を指定した居住区域に隔離する政策)へとエスカレートしていった。アパルトヘイト政策は, ú0 年代以降に急速に進んだ工業化の産物でもあった。大量の黒人の都市流入に危機感を抱いたアフリカーナーのプア・ホワイト層の存在がその背景にあったù0ü)。しかし,アパルトヘイト政策は経済合理性にも反していたために,労働市場の効率性を損ない,国際競争力を低下させる結果を招いたù06)。
ù0ú) 日本興業銀行特別調査室 [1959] p. 67. 戦後,米国市場で外債を発行した国のなかでは 6 番目であった。
ù0û) 南アフリカの人種区分は,白人,カラード,インド人,黒人のû 種類であった(Omond [1985] 邦訳,pp. 15-16)。ø960 年の人口構成は,白人 úø0 万人,カラード øû0 万人,アフリカ人 990 万人,アジア系 ü0 万人の計 ø,û90 万人であった。
ù0ü) Xxxx [2005] 邦訳,p. 131.
ù06) Xxxx [2005] 邦訳,pp. 148-159. 非白人を都市から離れた居住地に隔離した結果,非白人労働者の通勤に困難が生じることになった。そのため,政府はホームランド周辺地域に工場を移す工業の地方分散政策を実施したが,こうし
─ ùø ─
南アフリカに対する世銀の最初の借款は,アパルトヘイト政策が開始されてから間もない ø9üø 年 ø 月に理事会で承認された。この時の一般経済報告(ü0 年 øù 月)は,「人種間の社会的緊張」を南アフリカ経済の潜在的リスクとして認識していた。しかし世銀は,このリスクが借款返済までの øü~ù0 年の間に経済に深刻な影響は与える事態は起きないと判断した。一方でこの報告書は,熟練労働=白人,非熟練労働=非白人の厳格な区別にもとづいて人為的に構築されている賃金体系が,白人の熟練・半熟練労働者の賃金をヨーロッパよりも著しく高い水準に引き上げ,国際競争力上の障害になっていると指摘したù07)。
ø9ü0 年代には,世銀理事会で南アフリカの人種差別問題が議論になる場面も見られた。
ø9üú 年 8 月 ù7 日の世銀理事会では,インドが,人種差別を理由に南アフリカ借款承認の際に棄権をした。世銀総裁の融資提案書は,南アフリカの繁栄は「欧州人,アジア人,ネイティブ・アフリカンの間の協力の実行に掛かって」おり,人種間の緊張が高まれば,南アフリカの経済の安定が損なわれかねないと指摘しつつも,世銀融資の返済に影響を及ぼすほどにまで緊張が高まる恐れはないと結論付けていたù08)。総裁の提案に対してインド理事代理のシェノイ (B. R. Xxxxxx) は,南アフリカ政府の非寛容な人種政策が,人種間の協調を損ね,南アフリカを政治的・経済的危機に陥れる要因を作り出しているという理由から,南アフリカ借款は国際機関の借款の条件を満たしていないと,異議を申し立てたù09)。それに対してオー
た政策は非効率を高めた。
ù07) “Report on the Economy of South Africa,” December 13, 1950 [WBGA 67030] p. iii, pp. 22-23.
ù08) “Report and Recommendations of the President to the Executive Directors on Two Proposed Loans, One to the Union of South Africa and the Other to the Xxxxx Xxxxxx Xxxxxxxxxxx Xxxxxx Xxxxxxxxxx,” Xxxxxx 00, 0000 [WBGA P-50] p. 6.
ù09) “Transcript of 57th Special Meeting of the Executive Directors,” August 27, 1953 [WBGA 89485].
─ ùù ─
世界銀行の先進国に対する借款:ø9û7~ýý 年(下)
ストラリア理事のxxx (L. H. E. Xxxx) は,世銀理事会では政治問題を取り上げるべきではないと反論したùø0)。世銀理事会は,インドの棄権は経済的理由にもとづくもので,政治問題ではないというシェノイの説明を受け入れ,理事会議事録には,インド政府が「人種政策により,借入国の信用力と返済能力が危うくなる事態が生じかねないとの懸念を示した」旨が記録されたùøø)。
ø9ü7 年 9 月 øù 日の理事会では,世銀事務局側が南アフリカの人種差別について,かなり踏み込んだ批判的コメントを行った。借款案の説明に立った世銀のルジューヌ (Xxxxxxx Xxxxxxx) の語調は,以下のように,かなり辛辣であった。「自己主張と自己xxの欲求は,アフリカを含め,最近,世界の至る所で湧き上がっている。南アフリカではこうした基本的な欲求が白人の既得権 (the vested interests of the white race) と激しく衝突している。」
「不幸なことに,この問題は南アフリカでは,将来,しかも遠い将来の問題である。それは,目前の問題である場合よりも,いっそう不吉である。」この説明に対して,xxxxx(B. B. Xxxxxxxxx,オーストラリア理事)は,
「白人の既得権」という表現を取り上げ,世銀事務局は人種問題を強調し過ぎていると批判したùøù)。ブラック総裁は,人種問題をことさら強調したわけではないが,借款に懸念な点があれば,それを理事会に伝えるとい
ùø0) 世銀理事は,任命理事(単独で理事を出せる世銀出資上位国の理事)と選任 理事(複数国のグループのなかから互選で選ばれる理事)からなる。選任理 事は,あらかじめ設けられたグループのなかから,互選で選出される。当時,オーストラリアと南アフリカが ù 国で ø つのグループを作っていたので,オ ーストラリア理事は南アフリカを代弁する立場にあった。
ùøø) “Minutes of the 57th Special Meeting of the Executive Directors,” August 27, 1953 [WBGA 89438]. 理事会で,日本理事のxxxxは,南アフリカの人種差別を理由にビルマが棄権の意向を持っていることを紹介した。日本がビルマの意向を理事会に伝えたのは,日本,ビルマ,セイロン,タイが同じグループで,湯本がこのグループから選任理事として選出されていたためである。ただし日本は,南アフリカ借款は南アフリカ国民全体の利益になるという理由で,原案に賛成した。世銀理事会の投票には,その理事が所属する国の意向のみが反映される。
ùøù) この時も,オーストラリアと南アフリカは同じグループに属していた。
─ ùú ─
う世銀事務局の方針に従ったまでだと答弁したùøú)。
このように,世銀理事,世銀事務局員のなかに,アパルトヘイトに対す る批判は存在したが,世銀事務局は,アパルトヘイト問題が近い将来に, 南アフリカの社会・経済を崩壊させるとまでは考えていなかった。むしろ,南アフリカの高成長が持続すれば,問題は自然に解消されるという楽観的 な見方に立っていた。ø9ýü 年の南アフリカに関する一般経済報告はつぎ のように論じているùøû)。
ホームランド政策により,アフリカ人が都市に永住する権利は否定され たが,実際には多数のアフリカ人が都市に住み続けており,アフリカ人の 熟練労働者・半熟練労働者も増えている。また,特定の職業を白人だけに 限定する制度も近年の好況と人手不足によって,厳格には適用されていな い。ø9ý0 年から政府が進めている,ホームランド周辺に工場を誘致する 政策は,アフリカ人に就業機会を提供している。アフリカ人の都市へのx xに障害が設けられているにもかかわらず,アフリカ人の都市進出は進み,都市のアフリカ人の生活水準はアフリカ大陸平均よりも遥かに高くなった。現在の急速な経済成長の下では,アフリカ人の抵抗は起きにくい。国内で は,現政権に対する反対勢力は分裂しており,組織力も弱い。近隣諸国か ら経済制裁が発動されたとしても,南アフリカのアフリカ諸国との貿易は
ᷮかなので,影響は少ない。
人種によって分断された南アフリカは,いわば国内に低開発地域を抱えた国であったと言えるが,アパルトヘイト問題を開発の問題としてとらえる視点が世銀には弱かったように見える。世銀がイタリア南部の低開発を宿痾とみなし,その克服を目指したのとは対照的であった。
ùøú) “Transcript of 000xx Xxxxxxx Xxxxxxx xx Xxxxxxxxx Xxxxxxxxx,” Xxxxxxxxx 00, 0000 [WBGA 89487].
ùøû) “Current Economic Position and Prospects of South Africa,” August 3, 1965 [WBGA EA-152a].
─ ùû ─
世界銀行の先進国に対する借款:ø9û7~66 年(下)
南アフリカ借款の打ち切り ø960 年代に入ると,国連を中心に,南アフリカのアパルトヘイト政策に対する国際的な非難が高まった。世銀は,制度上は国連の外郭機関として位置付けられている。6ü 年に国連は,世銀に対して,国連の反植民地・反アパルトヘイト政策に同調し,ポルトガルと南アフリカに対する借款供与を停止するよう求めた。これに対して世銀は,世銀協定では,借款の可否は経済的側面だけで判断すべきで,政治的要因に左右されてはならないと定められているので,植民地・アパルトヘイトを理由に借款を拒否できないと答えたùøü)。国連の要請を無視して,世銀は 66 年に,南アフリカとポルトガルに対して借款を行ったùø6)。この経緯から見れば,世銀は国際世論に背を向けて,南アフリカ借款を継続したように見えるが,実態はかならずしもそうではなかった。
たしかに,ø966 年 7 月に南アフリカ借款を理事会で承認した際の世銀総裁の提案書でも,遠い将来はともかくとして,人種紛争は南アフリカが借款返済に困難を来す事態を引き起こすほどのリスクではないと述べられていたùø7)。しかし,世銀は 66 年を最後に南アフリカに対する融資を実質的に打ち切った。この措置は,どのようにしてなされたのだろうか。この世銀総裁の融資提案書には,つぎの記載がある。
南アフリカ経済が強靭であることは,国際収支,外貨準備,貯蓄率を見れば明らかである。南アフリカに対する世銀借款は,ø9üü 年以来,国際資本市場における債券発行と抱き合わせで実施されて来た。また,南アフリカはさまざまな機会をとらえて独力で外債発行を行っており,6ü 年 ø0月には ESCOM はドイツで ü,000 万マルク(ø,ùü0 万ドル)の調達にも成功している。こうした点から,南アフリカはすでに「市場からの資金調達が
ùøü) Bleicher [1970] pp. 34-35.
ùø6) Xxxxx & Xxxxx [1973] pp. 586-591.
ùø7) “Report and Recommendations of the President to the Executive Directors on a Proposed Loans to Electricity Supply Commission for the Camden Thermal Power Project South Africa,” July 18, 1966 [WBGA P-496] p. 5.
─ ùü ─
可能な国」(market eligible countries) の仲間入りをしたと判断できるùø8)。 このように,世銀はアパルトヘイトという理由は持ち出さずに,世銀借
款から「卒業」させる形で,南アフリカ借款を打ち切った。
ø97û 年に国連総会が南アフリカ追放決議を行った(ただし安保理事会で決議は拒否された)際に,国連事務総長は IMF・世銀に対して同調を呼び掛けた。世銀は,国連の行動に制約されるものではないと,この要請を拒否したが,同時に,今後南アフリカに融資する意向はない旨を表明した。さらに,同年にオーストラリアとニュージーランドが,IMF・世銀理事選出グループを南アフリカと組むことを拒否したため,南アフリカは年ø 回の IMF・世銀総会以外の場に参加し,意思表示することができなくなった。ただし,IMF は 8ù 年に南アフリカにスタンドバイ融資と補償融資を認めており,IMF との関係は 80 年代初めまで続いたùø9)。南アフリカが, IMF・世銀から実質的に追放されたのは 8ü 年頃であったùù0)。
(6)その他の先進国
世銀の開発借款の総額が ù 億ドル以下の先進国について,その概要のみを記す。
ノルウェー ノルウェーに対する世銀借款は,ø9üû~6ú 年に 6 件,総額 ø億 û,ü00 万ドルであった(付表参照)。üû 年 û 月と üü 年 û 月の最初の ù 件は,資本財(主として船舶)の輸入に必要な外貨調達が目的であったùùø)。
ùø8) “Report and Recommendation of the President to the Executive Directors on a Proposed Loan to Electricity Supply Commission for the Camden Thermal Power Project South Africa,” July 18, 1966 [WBGA P-496] p. 1.
ùø9) ø98ù 年の IMF 融資は「IMF が経験した中でも,もっとも議論が多かったケース」とされる (Boughton [2001] pp. 590-595)。世銀借款は 76 年までに全額返済が終わった。
ùù0) Xxxxxxx & Xxxx [1989] pp. 98-105.
ùùø) “Report and Recommendations of the President to the Executive Directors on a Loan to the Kingdom of Norway,” March 31, 1954 [WBGA P-66]. “Report and
─ ù6 ─
世界銀行の先進国に対する借款:ø9û7~ýý 年(下)
第 ù 次借款 ù,ü00 万ドルはニューヨークにおける ø,ü00 万ドルの外債発行と抱き合わせであった。それに続く û 件は水力発電事業に対するプロジェクト・ローンである。第 ú 次~第 ü 次はトッケ (Tokke) 水力発電所,第 ý次はラーナ (Rama) とトロールハイム (Trollheim) 発電所建設が目的であった。水力発電事業がノルウェー政府の国営事業であったため,融資はノルウェー政府に対してなされた。水力発電借款はプロジェクト・ローンであったが,世銀借款の資金は主として国内での資材調達に向けられたùùù)。
オーストリア オーストリアは第二次世界大戦後,米・英・仏・ソの û か国の占領下にあり,独立回復は ø9üü 年 7 月であるが,それ以前の û8 年 8月に IMF・世銀に加盟している。オーストリアに対して世銀は,üû 年 7月~ýù 年 ý 月に 9 件,総額 ø 億 ýû0 万ドルの借款を行った(付表参照)。そのうち 8,øý0 万ドル(7ý.7%)が電力業に対する融資,ù,û80 万ドル
(ùú.ú%)がオーストリア投資金庫 (Oesterreichische Investitionskredit A. G.) を経由した民間製造業向け融資であったùùú)。ø9ü8 年の第 7 次借款は,ニューヨーク市場での ù,ü00 万ドルの国債発行と抱き合わせであった。
オランダ 復興借款の部分で述べたように,オランダは ø9û7 年に ø 億 9,ü00 万ドルの復興融資(第 ø 次借款)を受けた。その後,オランダは û8
Recommendations of the President to the Executive Directors on a Proposed Loan to the Kingdom of Norway,” April 7, 1955 [WBGA P-83].
ùùù) ø9üý 年のトッケ水力発電事業借款の場合には,総事業費 7,000 万ドルのうち,9 割以上がノルウェー国内で支出され,外国から調達する部分は ø 割以下になる見込みであった (“Report and Recommendations of the President to the Executive Directors on a Proposed Loan to the Kingdom of Norway,” April 26, 1956 [WBGA P-105])。
ùùú) オーストリア投資金庫は,オーストリア輸出銀行(Oesterreichische Kontrollbank A. G.,オーストリアの ü 大商業銀行が出資)が全株式を保有する会社であった (“Report and Recommendations of the President to the Executive Directors on a Proposed Loan to Oesterreichische Investitionskredit A. G. for Industrial Enterprises in Austria,” April 14, 1958 [WBGA P-157])。
─ ù7 ─
年から ü7 年までに計 7 件,総額 û,900 万ドルの開発融資を受けている
(付表参照)。7 件のうち,第 ù 次~ 第 ü 次借款(û8 年)ø,ù00 万ドル
(ùû.ü%)は船舶購入のための融資であり,第 6 次と第 8 次の計 ú,000 万ドル(6ø.ù%)は Herstelbank(復興金庫)を介した製造業・運輸業・商業の民間企業に対する融資でありùùû),第 7 次借款 700 万ドル(øû.ú%)は KLM
(オランダ王立航空会社)のアメリカから航空機を輸入に対する融資(第 7次)であった。海運 ü 社(ø9û8 年)と KLM(ø9üù 年)に対する借款は,純粋のプロジェクト・ローンであり,借入資金はすべてアメリカからの輸入に充てられたùùü)。
オランダ借款は,復興借款とその後の借款とが連続的で,全体が復興融資の色彩を帯びていた。海運 û 社の借款では,戦争で失われたオランダ海運業の復興が掲げられおり,復興金庫に対する工業借款でも戦災からの復興が強調されている。
デンマーク デンマークは,すでに述べたように,ø9û7 年に û,000 万ドルの復興借款を受けたが,その後,ü9 年 ù 月と 6ú 年 7 月に,ù 件計 û,ü00 万ドルの借款を得た(付表参照)。いずれも,火力発電所の建設・整備のためのプロジェクト・ローンであり,世銀資金は,設備・資材の輸入のために用いられたùù6)。第 ù 次借款はニューヨーク市場での外債発行
ùùû) “Report and Recommendations of the President to the Executive Directors on a Proposed Loan to the Maatschappij tot Financiering van het Nationaal Herstel N. V.” May 6, 1957 [WBGA P-129].
ùùü) 海運会社に対する融資は,軍用船から改造した貨物船のアメリカからの輸入に用いられた (“First Loan Administration Report on the $195,000,000 Loan to the Kingdom of the Netherlands of August 7, 1947, the $12,000,000 Loan to Dutch Shipping Companies of July 15, 1948 and the $15,000,000 Loan to the Herstelbank of July 26, 1949,” December 20, 1950 [WBGA L-109] p. 5)。
ùù6) “Preliminary Report of the President to the Executive Directors on a Proposed Loan to the Kingdom of Denmark,” December 30, 1958 [WBGA P-184] p. 3. “Report and Recommendations of the President to the Executive Directors on an Proposed Loan to the Kingdom of Denmark,” July 15, 1963 [WBGA P-332] p. 3.
─ ù8 ─
世界銀行の先進国に対する借款:ø9û7~66 年(下)
(ù,000 万ドル)と抱き合わせであった。
ü 植民地開発に対する借款
(1)英国
世銀の対英植民地借款 英国は,ø9üù 年から 67 年まで,計 ø8 件,総額 ù億 9,000 万ドルの世銀借款に関与した(表 20)。すべて植民地を対象とする借款である。直接の借入主体は植民地行政当局ないし電力事業や道路事業を運営する植民地の公共事業体であり,英国政府は債務を保証する役割を担った。
時期別に見ると,ø960 年以前が 8 件,6ø 年以降が ø0 件,金額では 60年以前が ù 億 ûù0 万ドル(70.û%),6ø 年以降が 8,ü80 万ドル(ù9.6%)であり,大型の借款は 6ø 年以前に集中している。地域別では,アフリカ
(øû 件,ù 億 û,ù70 万ドル,8ú.7%),ラテンアメリカ(ù 件,ù,û80 万ドル, 8.6%),アジア(ø 件,ø,ü00 万ドル,ü.ù%),ヨーロッパ(ø 件,7ü0 万ドル, ù.6%)で,アフリカが圧倒的に多い。さらに,アフリカのなかでも,中央アフリカ(南北ローデシア,ニヤサランド,ø 億 ü,ûú0 万ドル),東アフリカ
(ケニヤ,ウガンダ,タンガニーカ,û,6û0 万ドル),南アフリカ高等弁務官領
(スワジランド,700 万ドル)のケニア以南の地域がアフリカに対する借款の 8ü.6%を占めているùù7)。以下では,英植民地に対する借款の üú.ù%,アフリカに対する借款の 6ú.6%を占める中央アフリカ借款を検討し,他の地域については表 20 に要点を掲げるにとどめるùù8)。
ùù7) 英国の植民地区分は正式には存在しないが,ø9ü0 年頃の英領アフリカは,西アフリカ,東アフリカ,中央アフリカ,南アフリカ高等弁務官領のû 区分が一般的に用いられていた。自治政府を持っていた南ローデシアは,形式上は植民地には区分されていなかったが,以下,本稿では南ローデシアも英領中央アフリカに含めて論じる。
ùù8) ø970 年代以降の世銀の東アフリカ諸国への借款については,Kapur, Lewis & Xxxx [1997] Vol. 2 Chap. 9 “The World Bank as a Project Lender: Experience from Eastern Africa,” (Xxxx Xxxxxx) 参照。
─ ù9 ─
表 20 英植民地
契約年月日 | 金額 | 期間(年) | 融資先 | 保証者 |
アフリカ (242.7)
中央アフリカ (154.3)
ø9üù 年ù 月ù7 日 | ù8.0 | ùü | 南ローデシア自治政府 | 英国 | |
ø9üú 年ú 月øø 日 | øû.0 | ø9 | 北ローデシア保護領 | 英国 | |
ø9ü6 年 6 月ùø 日 | 80.0 | ùü | ローデシア=ニヤサランド連邦電力局 | 英国 ローデシア=ニヤサランド連邦 | |
ø9ü8 年 6 月 ø6 日 | ø9.0 | ø8 | ローデシア=ニヤサランド連邦 | 英国 | |
ø960 年û 月ø 日 | ü.6 | 9 | ローデシア=ニヤサランド連邦 | 英国 | |
ø96û 年ø0 月ù 日 | 7.7 | ùü | 中央アフリカ電力公社 | 英国 南ローデシア北ローデシア |
東アフリカ (46.4)
ø9üü 年ú 月øü 日 | ùû.0 | ø9 | 東アフリカ高等弁務官 | 英国 | |
ø960 年ü 月ù7 日 | ü.6 | ø0 | ケニア保護領 | 英国 | |
ø96ø 年ú 月ù9 日 | 8.û | ù0 | ウガンダ保護領 | 英国 | |
ø96ø 年 øø 月 ù9 日 | 8.û | ù0 | ケニア保護領 | 英国 |
西アフリカ (28.0)
ø9ü8 年ü 月ù 日 | ù8.0 | ù0 | ナイジェリア連邦 | 英国 |
南アフリカ高等弁務官領 (7.0)
ø96ú 年ü 月ø6 日 | û.ù | ù0 | スワジランド | 英国 | |
ø967 年û 月ùû 日 | ù.8 | ù0 | スワジランド | 英国 |
英国
モーリシャス
ù0
7.0
インド洋 (7.0)
ø96ø 年 6 月ùú 日 | ø.ú | 8 | 英領ギニア | 英国 | |
ø96ø 年 8 月ø6 日 | ùú.ü | ù0 | トリニダード・トバゴ | 英国 |
ø96ú 年 9 月ùú 日ラテンアメリカ (24.8)
アジア (15.0)
ø96ú 年ü 月ø6 日 | øü.0 | ù0 | シンガポール | 英国 |
ヨーロッパ (7.5)
ø96ú 年 9 月 6 日 | 7.ü | ù0 | マルタ | 英国 |
合計 | ù90.0 |
[出所] 各借款の世銀総裁提案書より作成。
─ ú0 ─
世界銀行の先進国に対する借款:ø9û7~ýý 年(下)
に対する世銀借款
(単位:ø00 万ドル)
融資対象事業 | 事業計画の内容 | 備考 |
南ローデシア開発(電力) | 南ローデシアの開発ûヵ年計画(総額ù 億 8,000 万ドル)のうち,世銀借款は発電(火力)・送電設備の拡張事業に充当。設備の大半は英国から調達する。 | |
北ローデシア開発(鉄道) | ローデシア鉄道(国有)の拡張事業(総額 7,900 万ドル)の資金の一部を世銀が融資。 | |
ローデシア=ニヤサランド開発(電力) | ザンベジ川カリバ・ダム建設費用 ù 億 ù,ü00 万ドルの一部を世銀 が融資。世銀借款のうち ø,000 万ドルは英国の ø8%出資分で賄う。 | ø9üú 年,ローデシア=ニヤサランド連邦成立 |
ローデシア=ニヤサランド開発(鉄道) | ローデシア鉄道(連邦政府管轄)の鉄道拡張計画 ù,ü00 万ドルの うち,ø,ü00 万ドルを世銀が融資する予定(実際は ø,900 万ドル)。 ø,000 万ドルはニューヨーク市場で調達する(実際は ý00 万ドル)。 | |
ローデシア=ニヤサランド開発(農業) | 連邦政府が実施する農業開発事業(水利・道路・土壌改善など)に要する費用のうち,外貨による資材調達分を世銀が融資。 | |
中央アフリカ電力公社のカリバ・ダム建設 | 中央アフリカ電力公社が実施するカリバ・ダム送電設備建設に必要な費用 ø,üû0 万ドルのうち,半分を世銀が融資。外貨支出を必要とする金額は 970 万ドル。英国の保証に加え,北ローデシアと南ローデシアが世銀借款の返済を折半して保証する。 | 北ローデシアはø9ýû 年独立(ザンビア),ニヤサランドはø9ýû 年独立(マラウィ)。南ローデシアは ø9ýü 年に白人植民者の政権が一方的独立宣言,ø979 年に英植民地に復帰し,ø980 年に独立(ジンバブエ)。 |
東アフリカ開発 (鉄道・港湾) | 東アフリカ鉄道・港湾管理局が実施する輸送および港湾設備拡張 ûヵ年計画に要する資金ø 億 û00 万ドルの一部を世銀が融資。 | 東アフリカ高等弁務官は ø9û8 年に設けられ,ケニア,ウガンダ,タンガニーカの地域を管轄。 |
ケニア開発(農業・道路) | ケニアの開発úヵ年計画(農業および道路)ø,700 万ドルのうち,外貨支出を伴う部分を世銀が融資。 | |
ウガンダ開発(電力) | ウガンダ電力局が実施する電力拡充計画(配送電設備)ø,ýø0 万 ドルのうち,資材・サービスの輸入に必要な外貨分を世銀が融資。 | ø9ýù 年独立。 |
ケニア開発(農業) | ケニア土地開発・入植局が実施する入植計画(7,800 人,ø8 万エーカー)ù,ûü0 万ドルのうち,土地収用・家屋建設費用を除く分の半分を世銀が融資。入植地は,非欧州人にも開放する。 | ø9ýú 年独立。 |
ナイジェリア開発(鉄道) | ナイジェリア鉄道会社(公営)の鉄道拡張事業 ûヵ年計画総額 8,700 万ドルの一部を世銀が融資。 | ø9ý0 年独立。 |
スワジランド(電力) | スワジランド電力局が実施する,小規模な水力発電所・火力発電所の建設に必要な費用ý00 万ドルの一部を世銀が融資。 | |
スワジランド(電力) | スワジランド電力局が実施する電力拡充計画 üûü 万ドルの一部を世銀が融資する。 | ø9ý8 年独立,ù0ø8 年国名をエスワティニに変更。 |
モーリシャス(電力) | モーリシャス中央電力局が実施する発電・送電設備増設事業の費用 8ý0 万ドルのうち,外貨支出を要する部分を世銀が融資。 | ø9ý8 年独立。 |
英領ギニア開発(農業) | 英領ギニア信用公社の農業融資資金の補充のため世銀が融資。世銀借款の一部は後にキャンセルされ,90 万ドルのみ実施。 | ø9ýý 年独立(ガイアナ)。 |
トリニダード・トバゴ (電力) | トリニダード・トバゴ電力局が実施するポート・オブ・スペインの火力発電所建設費用ú,770 万ドルの一部を世銀が融資。 | ø9ýù 年独立。 |
シンガポール(電力) | シンガポール公益事業庁が行う火力発電拡充計画 ù,øü8 万ドルのうち,外貨支出を必要とする部分に対して世銀が融資する。 | ø9ýú 年マラヤ連邦に参加,ýü 年分離独立。 |
マルタ(電力) | マルタ電力局が実施する火力発電所および海水蒸留設備建設に要 する費用 ø,000 万ドルのうち外貨支出を要する部分を世銀が融資。 | ø9ýû 年独立。 |
─ úø ─
英国が植民地の開発に正面から取り組むようになったのは,ø9û0 年の植民地開発・福祉法 (Colonial Development and Welfare Act) の制定以降である。同法が ûü 年に改正された際に,ø0 年間に総額 ø 億 ù,000 万ポンドの植民地援助が決められた。この援助を実行する目的で,û8 年に海外資源開発法 (Overseas Resources Development Act) が制定され,同法にもとづいて,同年に植民地開発公社 (Colonial Development Corporation, CDC) と海外食糧公社 (Overseas Food Corporation) が設立されたùù9)。その後,û0 年代末から ü0 年代にかけて,英国は植民地開発に積極的に取り組み,この時期は「第二の植民地占領期」とも称されている。この植民地開発熱の背景には,戦後にxxx・xxxxxxが直面したドル不足の苦境があった。いまだ英ポンドが交換性が未回復のなかで,英国は,植民地からの輸出によってドルを稼ぎ,また,自国のドル地域からの輸入品を植民地産品で代替することによりドル支出を節約することを迫られた。そのために,植民地開発が英国にとって喫緊の課題となったùú0)。
英国の最初の世銀借款計画 英国の最初の世銀借款は ø9üù 年 ù 月の南ローデシア借款であるが,それ以前に,実現に至らなかった û8~û9 年の植民地開発公社借款交渉がある。英国政府は,û8 年 ú 月から世銀と非公式に折衝を始め,植民地開発計画に対する総額 ø 億ドル~ù 億ドルの借款を打診した。世銀側の姿勢は好意的であった。世銀の調査は,英国植民地のドル収支黒字は,û7 年の ø 億 8,000 万ドルから û8 年には ú 億ドル程度に増える見込みだと述べ,英植民地は本国の国際収支改善にかなりの寄与ができると見た。また,世銀は,英国側が示した開発計画のリストに輸送手段への投資が含まれていないことに疑問を提示し,英国の植民地資源利用の最大のネックである輸送問題を解決するためには,機関車,貨車等の資
ùù9) xxxx [1983] pp. 15-33.
ùú0) xxxx [2012],xxxx [2013].
─ úù ─
世界銀行の先進国に対する借款:ø9û7~66 年(下)
材を英国以外から調達し,迅速に鉄道の改善を図るべきだと指摘したùúø)。ここには,開発において輸送を重視した当時の世銀の認識が反映されている。
ø9û9 年末までに,英国と世銀との間で,植民地開発公社が開発事業に必要な資材をドル圏から購入する目的で ü00 万ドルの借款を行う案が固まった。しかし,最後の段階で,英国側は世銀が示した条件に難色を示し,借款交渉は決裂した。交渉決裂の理由については,公表文には,「とりわけ金融条項以外の点で」折り合えなかったと記載されているùúù)。当時,英国政府内では,①世銀からの借入金利がxxxxより高いこと,②世銀資金はドル圏からの輸入にしか使えないこと,③世銀が資金の使途を監督すること,などの難点が指摘されていたùúú)。
英領中央アフリカの経済的位置 17 のアフリカ諸国が独立した ø960 年は
「アフリカの年」と呼ばれるが,独立国の大部分はフランス植民地であった。英国植民地では,西アフリカのガーナ(ü7 年),ナイジェリア(60 年)の独立は早かったものの,英領東アフリカ,英領中央アフリカ,南アフリカ高等弁務官領の独立は,6ø 年以降にずれこみ,ジンバブエ(南ローデシア)が独立したのは 80 年であったùúû)。独立に時間を要したのは,この地
ùúø) “Preliminary Economic Report on the U. K. Colonial Development Corporation’s Loan Proposal,” January 8, 1949 [WBGA 66847].
ùúù) “Press Release No. 164,” January 1, 1950 [WBGA 146764]. Xxxxx and Xxxxx
[1973] によれば,ネガティブ・プレッジ,計画遂行の保証,当該借款の世銀による市場売却の可能性,借入資金の使途の監督などが争点となった (pp. 174-175)。
ùúú) Hinds [2001] pp. 141-143.
ùúû) タンザニア(タンガニーカ)ø96ø 年,ウガンダ 6ù 年,ザンジバル(タンザニアに合流)6ú 年,ケニア 6ú 年,マラウィ(ニヤサランド)6û 年,ザンビア(北ローデシア)6û 年,ボツワナ(ベチュアナランド)66 年,レソト
(バストランド)66 年,モーリシャス 68 年,スワジランド 68 年(以上の独立年次は Hyam [2006] 付表による)。白人植民者のxxx政権が一方的に独立を宣言した南ローデシアでは,紛争が長期化し,79 年にいったん英国の植民地に復帰した後,80 年にジンバブエとして独立した。
─ úú ─
域にヨーロッパ系移民が比較的多かったこと,アパルトヘイト体制の南アフリカの経済圏に組み込まれた地域が存在したという事情による。とりわけ英領中央アフリカは,アフリカ人のナショナリズムの高揚に対抗する形で,「移民者ナショナリズム」,「白人ナショナリズム」が強まり,両者の緊張関係が極限に達した地域であった。
以下では,ø9üú~ýú 年にローデシア=ニヤサランド連邦(中央アフリカ連邦)を形成した南ローデシア(現ジンバブエ),北ローデシア(現ザンビア),ニヤサランド(現マラウィ)に対する世銀の認識と政策を見ていきたい(図 1)。
ローデシアはxxx・xxxの英南アフリカ会社(ø889 年特許取得)の所有地であったが,南アフリカ会社が行政権を返上したことにより,ø9ùú年に南ローデシアに南ローデシア自治政府が成立し,ùû 年に北ローデシアは英国の保護領になった。なお,ニヤサランドは ø89ø 年以来,英国の保護領であり,南アフリカ会社の支配地であったことはない。この ú つの地域のうち,中心的位置を占めたのはヨーロッパ移民人口 øû 万人を擁する南ローデシアであった(表 21)。気候条件のよい南ローデシアには, ø9ø0 年頃からヨーロッパ人が入植し,タバコを中心とする輸出向け農業生産が盛んになり,ù0 年代には,南ローデシアは周辺地域(北ローデシア,ニヤサランド,モザンビーク等)から出稼ぎ労働者を集めるようになった。さらに,第二次世界大戦中には,繊維産業を中心に工業化が進み,政府主導で小規模な鉄鋼生産も始まった。戦後の移民ブームで,自治政府成立時
(ùú 年)に ú 万 ü,000 人に過ぎなかったヨーロッパ移民の数は,üø 年には øú 万 8,000 人に達したùúü)。これに対して,北ローデシアは,ヨーロッパの農業移民が少なく,貨幣経済が浸透しなかったが,ù0 年代後半に銅のxxが発見されたことで状況が一変した。第二次世界大戦期から ü0 年代
ùúü) “The Economy and Development Plans of Southern Rhodesia,” January 17, 1952 [WBGA E-200a].
─ úû ─
世界銀行の先進国に対する借款:ø9û7~ýý 年(下)
コ ン ゴ
タンガニーカ
カタンガ
ニヤサ湖
ルサカ ザンベジ川
ブランタイヤ
カリバ湖
ソールズベリー
ワンキー
xxxxxxxx
xxxxxx
xxxx
xxx
xxxxxxxx
xxxxxxx
xxxxx
xxxxxxxxxxxx
xxxxxxx
ロレンソマルケス
スワジランド
0
鉄道
000 000 0000 km
コ
ッ
パ
ー
ベ
ザンベジx
xxxランド
ル
ト
アンゴラ
ア
シ
デ
ー
ロ
北
図 1 ローデシア=ニヤサランド連邦
モ
ザ
ン
ビ
ー
リンポポ川
ク
[出所] Xxxxxx Xxxx, Britain’s Declining Empire: The Road to Decolonization, 1918-1968, Cambridge University Press, 2006, p. 218.
前半にかけての世界的な銅ブームにより,北ローデシアの鉱山地帯の経済は急膨張をした。南北ローデシアと対照的に,xxxxxxはアフリカ人の人口は稠密であり,南北ローデシアと南アフリカに多数の出稼ぎ労働者
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成城・経済研究 第ùú6 号(ù0ùù 年ú 月)
表 21 英領中央アフリカの概要
南ローデシア | 北ローデシア | ニヤサランド | 合計 | ||
面積 ヨーロッパ人人口 (ø9üø 年) アフリカ人人口 (ø9ü0 年) 国民所得(ø9ü0 年)輸出(ø9üø 年) 輸入(ø9üø 年) | 千 km2 千人 千人 百万ポンド百万ポンド百万ポンド | ú89 øú8 ø,960 88.0 ûù.0 8ü.7 | 7û6 ú8 ø,8û9 úù.û 66.û úü.û | 96 û ù,úú0 - ü.8 7.ú | ø,ùúú ø80 ü,979 - øø0.ù øøú.8 |
[注]ø.アフリカ人人口合計値は重複分を除いた数値。 ù.輸出入の合計値は、ú 地域間の貿易額を控除した数値。
[出所] “Maps, Charts and Tables for British Central Africa,” IBRD, February 10, 1953 [WBGA, Appendix to EA-1 and EA-2] より作成。
を送出した。鉱物資源は乏しく,ヨーロッパ人のプランテーションもほとんど発達しなかったùú6)。
英領中央アフリカ経済の特徴を理解するためには,中央アフリカ内部の地域差に着目するだけでなく,隣接する南アフリカの経済圏との関係にも目を向ける必要がある。ローデシア=ニヤサランド連邦の人口(ø9ü6 年= 7ù8 万人)は南アフリカ(ø,ú70 万人= ø9üü 年)の約半分であり,国民総生産は,南アフリカの(û7 億ドル= üû 年)の約 ø/ü(8 億 7,000 万ドル= üü 年)であった。ニヤサランドを中心に南アフリカに出稼ぎに出る労働者も多く
(ø96û 年にローデシア,ニヤサランド全体で約øø 万人),また,南アフリカ資本はローデシアの鉱山や基幹産業に多額の投資を行っていた。こうした特徴を,xxxは「南アフリカへの従属化」と呼んでいるが,同様の傾向はローデシア,ニヤサランドだけでなく,レソト(バストランド),スワジランド,ベチュアナランド(ボツワナ),南西アフリカ(ナミビア),モザンビーク,アンゴラでも認められ,南アフリカと周辺国との政治対立が激化した 60~70 年代にも深化する傾向を示したùú7)。
ùú6) “The Economy of British Central Africa,” February 10, 1953 [WBGA EA-2].
ùú7) xxx [1999] 第 û 章。
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世界銀行の先進国に対する借款:ø9û7~66 年(下)
ø9ú0 年代から南ローデシア自治政府は,北ローデシアを併合する意思を示していたが,英国の反対で実現しなかった。そこで,第二次世界大戦後に,両ローデシアは連邦方式での合併を模索することになった。連邦移行の交渉は ø9û8 年に南ローデシアのハギンス首相 (Xxxxxxx Xxxxxxx) と北ローデシアの指導者xxxxxxx (Xxx Xxxxxxxx) との間で始まり,英国も üø 年秋に連邦移行を認めた。こうして,短期間のうちに連邦移行が決定し,üú 年 ø0 月にローデシア=ニヤサランド連邦(中央アフリカ連邦)が成立した。
連邦結成は,政治的・経済的に優位に立つ南ローデシアの主導で進んだ。南ローデシアにとっては,有力な銅鉱山を有する北ローデシアと連邦を組 むことに経済的メリットがあった。北ローデシアのヨーロッパ人は,英国 植民地当局の束縛から脱し,南ローデシア同様の自治を享受することを望 んだ。英国が連邦結成を支持したのは,英国経済の立て直しのために植民 地資源を活用したいという経済的動機に加え,南アフリカのローデシアへ の勢力拡張を阻むという政治的意図もあったùú8)。アフリカ人は,南ロー デシアの人種差別が北ローデシアやニヤサランドに拡大することを警戒し,こぞって連邦に反対した。
xxxxxxxxサランド連邦は,ヨーロッパ人とアフリカ人の「パートナーシップ」を旗印に,南アフリカのアパルトヘイトとアフリカ人の民族主義との間の中道を目指して国造りに乗り出したものの,わずか ø0 年後の ø96ú 年 øù 月 úø 日に解消してしまった。「パートナーシップ」とは名ばかりで,公民権でも,経済的権利でも,ほとんど譲る姿勢を示さないヨーロッパ系移民に業を煮やしたアフリカ人は,ü9 年以降,ニヤサランド,北ローデシアで大規模な暴動を起こし,連邦の維持は困難に陥った。連邦は解消し,6û 年にニヤサランド(マラウィ)と北ローデシア(ザンビア)は
ùú8) Hyam [2006] pp. 130-134, pp. 139-146, pp. 215-220.
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成城・経済研究 第ùúý 号(ù0ùù 年ú 月)
アフリカ人の国家として独立した。南ローデシアでは,白人少数支配を維持すべくxxx政権が ýü 年に英国からの一方的な独立を宣言したùú9)。南ローデシアの政権は,80 年のジンバブエ独立まで,英国の頭痛の種となった。そのため,ローデシア=ニヤサランド連邦創設は英国がかかわった国家建設のなかでも最大級の失敗とされるùû0)。
世銀のローデシア=ニヤサランド連邦に対する評価 つぎに,世銀のローデシア=ニヤサランド連邦に対する評価を検討したい。世銀は,連邦成立の直前の ø9üú 年 ù 月から,ý0 年 ú 月まで,û 回,この地域全体に関する一般経済報告を作成している。
ø9üú 年の報告書は,連邦結成を積極的に評価して,以下のように述べ たùûø)。この地域が連邦に移行すれば,各地域の生産物の価格変動が相殺 されて,財政収入が安定し,長期開発計画の立案も容易になる。アフリカ 人は,ヨーロッパ人保守層の支配を恐れて連邦に反対している。そうした 懸念も理解できるが,現在のヨーロッパ系住民の世論は比較的寛容であり,そうした傾向が今後も持続すれば,アフリカ系住民は経済,政治の両面で 利益を享受できるだろう。複合人種国家の試みにṌける価値は十分にある。
ø9üý 年の報告書は,ローデシア=ニヤサランド連邦電力局に対するカリバ・ダム建設のための 8,000 万ドルの借款承認の際に作成されたùûù)。カリバ・ダム建設は,連邦の国家建設を象徴する大事業であった。
報告書は,この地域の経済を,ヨーロッパ人の貨幣経済とアフリカ人の部族的自給自足経済の二重経済と規定する。この地域の多くのアフリカ人
ùú9) Xxxxxxxxxx [1996] pp. 213-219.
ùû0) Hyam [1987] p. 145.
ùûø) “The Economy of British Central Africa,” February 10, 1953 [WBGA EA-2].
ùûù) “The Economy of the Federation of Rhodesia and Nyasaland,” June 6, 1956 [WBGA EA-60]. この報告書には,カマーク (A. M. Xxxxxxx) が作成したという記載がある。
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世界銀行の先進国に対する借款:ø9û7~ýý 年(下)
男性は,農村から鉱山・工場に出稼ぎに出ており,貨幣経済と伝統経済の両方に足を置いている。こうした状態は,アフリカ人の労働を非効率的な状態に留めるとともに,労働者に家族から離れた貧困で不安定な生活を強いることになっていると指摘する。
報告書は,人口の 97%を占めるアフリカ人と,政治・経済を掌握するヨーロッパ人との関係の重要性を強調して,次のように述べている。
政界・財界の指導者たちは「アフリカ人の前進のために扉はつねに開けておかねばらない」と主張し,プラグマティックな対応を行っている。その結果,ローデシアの銅鉱山とニヤサランドの鉄道のアフリカ人の強力な労働組合も穏健な姿勢を保っている。しかし,ヨーロッパ人が独占してきた鉱山の職種の一部が,最近,アフリカ人にも開放されたものの,それはごく部分的で,アフリカ人の指導者たちからは改革のペースが遅すぎると批判されている。生産性の上昇が続けば,ヨーロッパ人の生活水準を落とさずにアフリカ人の待遇を改善できるが,経済状態が悪化すれば,ヨーロッパ人の不熟練労働者とアフリカ人労働者との競争・対立が強まる可能性が高い。少数のヨーロッパ系移民と圧倒的多数のアフリカ人が「自由な」複合人種国家を作った先例は,これまで世界に存在しないので,確実なことは言えない。しかし,アフリカ人が漸進的な改革を受け入れるならば,少くとも現世代の間は政治的・経済的安定が維持できるだろう。
このように,報告書はヨーロッパ人とアフリカ人との協調の先行きは不 透明だと指摘する一方で,産銅業とタバコがݗ引する経済の見通しは明る いと述べた。その根拠として,①ヨーロッパ系移民の流入により,管理者,熟練労働者が供給されていること,②英国政府や大企業グループ(アング ロ・アメリカン社,ローデシア・セレクション・トラスト)の支援があること,
③ボトルネックであった海港との鉄道輸送の問題はすでに解決し,電力不足もカリバ・ダムにより解消する見込みであること,を挙げている。
ø9ü8 年の報告書は,üý 年の報告書の分析を引き継ぎ,内容には変化は
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成城・経済研究 第ùú6 号(ù0ùù 年ú 月)
ない。ü6 年以降に国際的な銅価格の下落が起きたが,報告書は,生産費の安いローデシアの銅は国際競争に十分に勝つことができると予想していた。人種問題についても楽観的で,この地域では「ヨーロッパ人とアフリカ人との平和と友好の長い伝統がある」ので,人種対立が経済成長を脅かさすほどに悪化することはないだろうと述べているùûú)。
ø960 年の報告書は,国際銅価格が上昇に転じ,景気が回復する過程の ü9 年の状況を踏まえているにも関わらず,以前の報告書よりも悲観的トーンで書かれているùûû)。同報告書は,ü6 年以降,カリバ・ダム,鉄道建設の大規模事業が順調に実施されてきたことを評価する半面,人種問題については,つぎのように述べている。連邦は 6 年前に,アフリカ人とヨーロッパ人との「パートナーシップ」を理念に掲げて発足したが,両者の間の巨大なギャップは依然として埋まっていない。三地域の統合は経済的効果を収めており,このまま経済成長が続けば,アフリカ人とヨーロッパ人がともに利益を享受できるはずである。アフリカ人の要求は今のところ比較的穏健であり,ヨーロッパ人の方もプラグマティックに対応しているので,経済危機に陥るほど,両者の関係が悪化せずにも済むかも知れない。しかし,ベルギー領コンゴやタンガニーカなど近隣地帯の政治的変化は予想以上に速いペースで進んでおり,将来の予測は困難である。
このように,世銀はローデシア=ニヤサランド連邦の経済を,ヨーロッ パ人とアフリカ人の二重経済と規定し,国内に低開発問題が存在すること を認識していた。しかし,二重経済は工業化が進めば自然に解消し,人種 間対立も緩和するという楽観的見通しに立ち,連邦制自体は評価していた。ヨーロッパ系移民の不寛容な姿勢が強まるにつれ,次第に悲観的認識に傾 いていったものの,ニヤサランドで連邦離脱を求める暴動が起きた後も,
ùûú) “Economic Position and Prospects of the Federation of Rhodesia and Nyasaland,” May 23, 1958 [WBGA EA-83].
ùûû) “Current Economic Position and Prospects of the Federation of Rhodesia and Nyasaland,” March 23, 1960 [WBGA EA-105].
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世界銀行の先進国に対する借款:ø9û7~66 年(下)
最後まで世銀は,両者の政治的妥協に望みを繋いでいた。
世銀借款とカリバ・ダム 世銀の英領中央アフリカに対して行った借款 ø億 ü,ûú0 万ドルの目的別内訳は,電力 7ü.0%,鉄道 ùø.û%,農業 ú.6%であった。そのうち,カリバ・ダムだけで全体の ü6.8%を占めている。世銀のすべての借款を,ø9ü9 年末現在で部門別に見た構成比は,電力 úü.0%,運輸úû.0%,通信 0.6%,農林業 7.6%,工業ø8.0%,総合開発 û.8%であったùûü)。電力,運輸(鉄道・道路)重視という世銀の開発に対する姿勢が,ここでも貫徹していることが確認できよう。
この地域に対する世銀の最初の借款である ø9üù 年の南ローデシア借款は,世銀の働きかけで実施されたものである。世銀のカマークは,回顧録のなかで,コンゴ借款を実施する際に,英国,フランスにも借款への応募を呼び掛けたところ,英国がこれに応じ,南ローデシアに対する電力借款が実現したと述べている。カマークによれば,南ローデシア電力借款は,世銀の希望に沿う理想的な借款であったùû6)。
この,英領中央アフリカに対する第 ø 次借款は,ø9üø 年 6 月に南ロー デシア自治政府首相が世銀に対して調査団の派遣を要請したことに始まる。世銀は,南ローデシアの開発 ûヵ年計画(üø 年 û 月~üü 年 ú 月,総額 ù 億 8,000 万ドル)を検討し,総額の ù/ú 以上が鉄道・電力を中心とするインフ ラ投資に充てられている点を高く評価し,üù 年 ù 月に ù,800 万ドルの電 力借款が実現したùû7)。この借款の融資は,南ローデシアの火力発電設備
ùûü) IBRD [1960] p. 58. この数字は,開発融資の累積額の目的別構成比であり,復興融資は含まない。
ùû6) “Transcript of Interview with Xxxxxx Xxxxxxx,” August 10, 1961 [WBGA 79050] pp. 6-7.
ùû7) “Report and Recommendations of the President to the Executive Directors on the Proposed Loan to Southern Rhodesia,” February 19, 1952 [WBGA P-30]. “The Economy and Development Plans of Southern Rhodesia,” January 17, 1952 [WBGA E-200a].
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成城・経済研究 第ùúý 号(ù0ùù 年ú 月)
の拡充を目的としていた。南ローデシア政府は,火力発電だけでは電力需要を満たせないと予想し,xxxxxxxのカリバ渓谷に水力発電所を建設する長期計画を持っていたが,ダムが完成するまでの電力不足を火力設備の増設によって補う必要があったùû8)。
中央アフリカに対する第 ù 次借款は,北ローデシアに対する ø,û00 万ド ルの借款であった。世銀は ø9üù xxに南北ローデシアからローデシア鉄 道に対する借款の打診を受け,üú 年 ù 月に借款を承認した。融資対象は,ローデシア鉄道会社が計画する鉄道拡張事業であった。この地域の鉄道は, ú7 年にローデシア鉄道会社に統合され,同社は û7 年に南ローデシア政府 により国営化された。同社の鉄道網は,南北ローデシアとベチュアナラン ドに跨っており,管理運営には三地域の代表が当った。内陸国ローデシア の貿易にとって,海港に至る鉄道は不可欠の輸送手段であった。中央アフ xxは,ポルトガル領モザンビークのベイラ (Beira) を主たる輸出港にし てきたが,ベイラの港湾能力が限界に達したため,拡大する鉱物資源とタ バコの輸出のために,モザンビークのロレンソマルケス(Lourenço Marques,現マプト)港に通じる鉄路を建設する必要があった。ローデシア鉄道会社 は実質的に南ローデシアが所有しており,主要な鉄道も南ローデシア地域 内にあったので,本来は南ローデシアが借主になるはずである。北ローデ シアが借主になったのは,南ローデシア政府が,すでに鉄道建設のために,ロンドン市場で社債を発行し,ECA 借款 ø,ü00 万ポンド(û,ù00 万ドル) も受けていたためではないかと推測されるùû9)。
第 ú 次借款は,ローデシア=ニヤサランド連邦発足後の ø9üý 年 ý 月の
ùû8) “Technical Report on the Southern Rhodesian Power Expansion Project,” February 1, 1952 [WBGA L-156]. “The Economy and Development Plans of Southern Rhodesia,” January 17, 1952 [WBGA E-200a].
ùû9) “Report and Recommendations of the President to the Executive Directors on a Proposed Loan to the Territory of Northern Rhodesia,” February 20, 1953 [WBGA P-47].
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世界銀行の先進国に対する借款:ø9û7~ýý 年(下)
カリバ・ダムに対する電力借款(8,000 万ドル)であった。カリバ・ダムは,当時世界で最大級のダムであり,新たに発足したばかりの連邦の国家建設 の象徴的存在でもあった。当時は,銅価格の高騰による景気が最高潮に達 していた時期であり,北ローデシアのコッパー・ベルト地帯と南ローデシ アの工業地帯(ソールズベリー Salisbury〔現ハラレ〕,ブラワヨ Bulawayo)で深 刻な電力不足が発生していた。コッパー・ベルトでは,燃料を木材に頼っ たり,火力発電のために西海岸のロビト(アンゴラ)から石炭を輸送しな ければならない状態であった。また南ローデシアでは,唯一の炭鉱ワンキ ー (Wankie) からの輸送力の不足が隘路となって,電力設備の稼働に支障 が生じていた。連邦政府は,üú 年,ビクトリア瀑布付近のザンベジ川に 大規模な水力発電所を建設する方針を決定した。カリバとカフエ (Kafue) の ù カ所の候補地のうち,規模が大きいカリバが選ばれた。第 ø 期計画で ý0 年までに 500 MW の発電能力(その後 600 MW に変更)を,第 ù 期計画で 7ø 年までに 700 MW の計 1,200 MW の発電能力を備えることになってい た(第 ø 期計画は予定通り ø9ý0 年に完了)。世銀借款は,第 ø 期計画の建設費 ø 億 ø,ûý0 万ポンド(約 ú 億 ù,ù00 万ドル),借入資金 7,900 万ポンド(約 ù 億 ù,000 万ドル)のうち,8,000 万ドルを融資するというものであった(表 22)ùü0)。英国政府は,植民地開発は本国の経済的利益にもなるとして, 建設計画に関与した。しかし,英国企業は入札に敗れて,イタリアの企業 グループが建設工事を担当することになったùüø)。
第 û 次借款(ø9ü8 年 ý 月)は,ローデシア鉄道の設備更新のための借款 ø,900 万ドルの借款であり,機関車の購入等に充てられた。
第 ü 回借款(ø9ý0 年 û 月)の üý0 万ドルは,南ローデシアのアフリカ人
ùü0) “Report and Recommendations of the President to the Executive Directors on a Proposed Loan to the Federal Power Board of the Federation of Rhodesia and Nyasaland,” June 14, 1956 [WBGA P-112]. カリバ・ダムについては,World Commission on Dams [2000] も参照。
ùüø) Tischler [2013] pp. 46-49.
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表 22 カリバ・ダム建設(第ø 期)の資金調達計画
(単位:ø00 万)
ポンド | ドル | |
国外資金 | û6.6 | øú0.ü |
世銀借款 | ù8.6 | 80.ø |
英植民地開発公社 (CDC) | øü.0 | ûù.0 |
英連邦開発金融会社 (CDFC) | ú.0 | 8.x |
国内資金 | úù.û | 90.7 |
銅企業(アングロ・アメリカン社,セレクション・トラストの û 系列会社) | ù0.0 | ü6.0 |
民間銀行(バークレー銀行,南ア・スタンダード銀行) | û.0 | øø.ù |
英南アフリカ会社 | û.0 | øø.ù |
連邦財政資金貸付 | û.û | øù.ú |
合計 | 79.0 | ùùø.ù |
[注] ø ローデシア・ポンド= ø 英ポンド
[出所] “Appraisal of the Kariba Hydroelectric Project in the Federation of Rhodesia and Nyasaland,” June 14, 1956 [WBGA TO-116a], Annex 6.
の農業の改善(土壌改良・入植等)事業のうち,外貨支出部分に対して融資された。
最後の第 6 次借款(ø96û 年 ø0 月)770 万ドルは,カリバ・ダム事業への追加借款であった。カリバ発電所から銅山の所在地キトウェ (Kitwe) まで 330 KV の送電線を追加設置し,銅山の電力ṧ迫を解消することを目的としていた。この借款は,連邦解消の翌年 6û 年 ø0 月に,中央アフリカ電力公社に対してなされている(北ローデシアの英国からの独立は同年 ø0 月)。連邦解消にともなって,カリバ・ダムの建設・運営は,ローデシア=ニヤサランド連邦電力局から,南北ローデシアの共同出資の中央アフリカ電力公社 (CAPC) に移されていた。
世銀は,この借款の承認に当って,南北ローデシアの一般経済調査を行っている。調査報告書は,北ローデシアに関しては,産銅業に依存する経済であり,高い成長は望めないと指摘しつつも,対外債務 ø 億 6,800 万ドルであり,ø96û 年の返済額 ø,6ü0 万ドルは輸出額の ü%にすぎず,信用面での問題はないと判断した。それに対して,南ローデシアは,世銀が求め
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世界銀行の先進国に対する借款:ø9û7~66 年(下)
る信用基準に達しないと判定した。その理由として,6ú 年 ü 月の選挙でxxしたヨーロッパ人のローデシア戦線 (Rhodesia Front) が,一方的独立論を主張し,アフリカ人民族主義運動との対立が激化しているという政治的要因を挙げた。また,こうした政治混乱により,ヨーロッパ系住民が国外に流出し,マイナス成長(ø96ú 年)に陥っていると指摘する。また,6û 年の対外債務は ú 億 ú,600 万ドルであり,年間の債務返済額は現在の ú,ø00万ドルから 70 年には 8,000 万ドルに増える点にも注意を促した。報告書は,政治状況の不安定を理由に,評価は不可能という結論を出したùüù)。それにもかかわらず世銀は,南ローデシアのリスクを考慮すれば,英国の保証は不可欠であるという但し書きをつけて借款案を理事会に提出したùüú)。
連邦解消後のカリバ・ダム建設の経過についても触れておこう。世銀は,さらに ø970 年 6 月に,カリバ・ダム建設のために û,000 万ドルの借款を ザンビア(北ローデシア)に供与した。この借款は,南ローデシアのスミ ス政権が 6ü 年 øø 月に一方的に独立を宣言し,世銀借款の元利返済を拒否 しているなかで実施されたものである。
連邦解消の際にローデシア=ニヤサランド連邦電力局の世銀債務は,x xアフリカ電力公社に引き継がれた。これらの世銀借款には,南北ローデ シア政府と英国政府の二重の保証が付いていた。電力借款を返済する際に は,中央アフリカ電力公社が現地通貨で両政府に返済額を半分ずつ納入し,それを両政府が世銀にドルで返済するという手続きを経る。ところが,ス ミス政権が対外債務の元利返済を拒否したため,南ローデシアが返済すべ き部分が支払われなくなった。そこで,英国が,南ローデシアに代わって
ùüù) “The Economy of Northern Rhodesia,” September 23, 1964 [WBGA AF-30a]. “The Economy of Xxxxxxxx Xxxxxxxx,” Xxxxxxxxx 00, 0000 [WBGA AF-29a].
ùüú) “Report and Recommendations of the President to the Executive Directors on a Proposed Loan to the Central African Power Corporation of Northern Rhodesia and Southern Rhodesia,” September 23, 1964 [WBGA P-400].
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世銀借款を返済することになった。しかし,旧債務の返済については英国が肩代わりするとしても,南ローデシアが対外債務返済を拒否している状態では,中央アフリカ電力公社の新規借款は不可能である。この難点を回避するため,ø970 年のカリバ・ダム借款では,ザンビアが新たに設立したカリバ北岸会社 (KNBC) に対して,世銀が融資を行うという形が考案された。本来,南北ローデシア共同出資の中央アフリカ電力公社の実施する事業なので,ザンビアと南ローデシアが折半で保証するはずであるが,この案では,ザンビアが全額,保証しなければならない。そこでザンビアの負担を軽減するため,英国が中央アフリカ電力公社の旧世銀債務のうち,ザンビアが保証している部分を肩代わりすることになった。すなわち,英国が同公社の旧世銀債務の全額について支払義務を負うことになったわけであるùüû)。
ローデシア=ニヤサランド連邦の経済効果を検証したヘーズルウッドは,つぎのように述べているùüü)。連邦結成が経済効果を発揮したという主張 の大部分は誤りである。連邦移行で生じた実質的な変化は,北ローデシア から南ローデシアとニヤサランドへの財政資金の移転だけであった。これ は,北ローデシアの犠牲にもとづいて,南ローデシアとニヤサランドがx x資金の配分で利益を得たことを意味する。連邦結成で経済的にプラスの 効果があったとすれば,それは財政基盤の強化により,対外信用が増して,外国からの投資を呼び込みやすくなったことだけである。たしかに,連邦 に移行していなければ,カリバ・ダム建設は実現が難しかっただろう。し かし,北ローデシアにとっては,カリバより建設費が安いカフエという選 択肢もあった。カリバ・ダムや鉄道建設の負債は,連邦解消後,南北ロー デシアで折半され,北ローデシアが過大な負担を負う結果となった。
ùüû) “Report and Recommendation of the President to the Executive Directors on a Proposed Loan to the Kariba North Bank Company with thr Garantee of the Republic of Zambia for a Hydro Electric Power Project,” June 24, 1970 [WBGA P-843].
ùüü) Hazlewood [1967].
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世界銀行の先進国に対する借款:ø9û7~ýý 年(下)
カリバ・プロジェクトは,輸出商品である銅の生産のために安価で大量の電力を必要とする鉱山企業と,世界最大級のダムの建設を新興国家の建設の象徴としたい連邦政府と,大規模ダム建設を開発政策の柱に据える世銀の思惑の一致によって実現したのであるùüý)。
(2)フランス
フランス植民地に対する借款は,ü 件,ø 億 ý,8ü0 万ドルであった。地域別では,西アフリカ 7,úü0 万ドル,アルジェリア ý,000 万ドル,ガボン ú,ü00 万ドルである。ø9û7 年の復興借款(第 ø 次借款)を含めれば,フランスに対する借款は ý 件,û 億 ø,8ü0 万ドルに上る(付表参照)。対仏借款についてはxxxx論文に譲り,ここでは ü 件の植民地借款の概要を記録するにとどめるùü7)。
フランス植民地借款の対象地域は,西アフリカ,アルジェリア,ガボンの ú カ所であった。
西アフリカ借款は,ø9üû 年の海外領土鉄道局 (Office Central des Chemins de Fer de la France d’Outre-Mer) に対する 7ü0 万ドルの借款(第 ù 次借款)と,ý0年 ú 月の MIFERMA(Société Anonyme des Mines de Fer Mauritanie,モーリタニア鉄鉱会社)に対する ý,ý00 万ドルの借款(第 ý 次借款)の ù 件である。前者の海外領土鉄道局に対する借款は,フランス海外領土鉄道局の下にあるフランス西アフリカ鉄道管理公団 (Régie des chemins de Fer de l’Afrique Occidentale Française) が運営する,フランス領西アフリカの鉄道の近代化を目的とするものであったùü8)。また,後者はモーリタニアの MIFERMA に対する鉄
ùüý) このダム建設によって ü 万 7,000 人のグウェンベ・トンガ族の住民が立ち退かされるという問題が発生した。連邦政権に抵抗していたアフリカ人民族運動指導者たちも,基本的にはカリバ・ダム建設を支持しており,農村の犠牲によって都市化を促進するという面では,ヨーロッパ移民の政権も,アフリカ人の民族運動も共通する側面を持っていたとティシュラーは指摘する (Tischler [2014])。
ùü7) xxxx [2012],Yago [2021].
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鉱石開発のための借款であった。MIFERMA は,英・仏・独・伊の û か国の企業とフランス政府が出資する鉄鉱石採掘の企業であるùü9)。
アルジェリア借款は,ø9üü 年のアルジェリア電力ガス公社 (E. G. A) に 対する借款(第 ú 次借款)ø,000 万ドルと,ü9 年のジェランス石油会社 (SOPEG) に対する借款(第 ü 次借款)ü,000 万ドルの ù 件であった。前者は,アルジェリア電力ガス会社(国営企業)の発送電設備の拡充を目的とする 借款であるù60)。後者は,サハラ砂漠のハシメサウドxxからベジャイア
(ブージー)港まで 660 km の送油パイプを建設する事業に対する借款であったù6ø)。
ø9ü9 年のガボンに対する借款(第 û 次借款)は ú,ü00 万ドルは,ガボンのマンガン鉱山の開発を目的に,オゴエ鉱業会社 (Companie Minière de l’Ogooué) に対して融資された。オゴエ鉱業会社の資本は,フランス出資者
(政府および民間)が üø%,US スチールが û9%を保有していたù6ù)。
(ú)ベルギー
世銀のベルギーに対する借款 ø0 件,ù 億 80 万ドルのうち,約 ú/û
ùü8) “Report and Recommendations of the President to the Executive Directors on a Proposed Loan to the Office Central des Chemins de Fer de la France d’Outre-Mer,” May 27, 1954 [WBGA P-67].
ùü9) “Report and Recommendations of the President to the Executive Directors on a Proposed Loan to Société Anonyme des Mines de Fer de Mauritanie,” March 3, 1960 [WBGA P-217]. 世銀借款契約は ø960 年 ú 月に締結。同年 øø 月にモーリタニアは独立している。
ù60) “Report and Recommendations of the President to the Executive Directors on a Proposed Loan to Électricité et Gaz d’Algerie (E. G. A.),” August 15, 1955 [WBGA P-93].
ù6ø) “Report and Recommendations of the President to the Executive Directors on a Proposed Loan to Société Pétxxxxxxx xx Xxxxxxx,” Xxxxxxxx 00, 0000 [XXGA P-210].
ù6ù) “Report and Recommendations of the President to the Executive Directors on a Proposed Loan to the Compagnie Minière de L’ Ogooué,” June 22, 1959 [WBGA P-198].
─ û8 ─
世界銀行の先進国に対する借款:ø9û7~66 年(下)
表 2ú ベルギー対する世銀借款
承認年月日 | 金額 | 期間 | 融資先 | 対象事業 | |
百万ドル | 年 | ||||
ø | ø9û9 年 ù 月 8 日 | ø6.0 | ù0 | ベルギー政府 | 鉄鋼・電力設備 |
ù | ø9üø 年 9 月 øú 日 | û0.0 | ùü | ベルギー領コンゴ | ベルギー領コンゴ開発計画 (OTRACO) |
ú | ø9üø 年 9 月 øú 日 | ú0.0 | ùü | ベルギー政府 | ベルギー領コンゴ開発計画 |
û | ø9üû 年 øù 月 ø0 日 | ù0.0 | øü | ベルギー政府 | 港湾・運河 |
ü | ø9ü7 年 6 月 ù6 日 | û.8 | ù0 | ルアンダ・ウルンディ委任統治領 | 道路・港湾 |
6 | ø9ü7 年 9 月 6 日 | ø0.0 | øü | ベルギー政府 | 運河 |
7 | ø9ü7 年 øø 月 ù7 日 | û0.0 | ø9 | ベルギー領コンゴ | 道路 |
8 | ø960 年 ú 月 ú0 日 | 7.0 | øù | ベルギー領コンゴ | 農業(開拓事業) |
9 | ø960 年 ú 月 ú0 日 | ù8.0 | øù | ベルギー領コンゴ | 運輸(道路・港湾・河川交通整備) |
ø0 | ø960 年 ú 月 ú0 日 | ü.0 | ø0 | ベルギー領コンゴ | 運輸 (OTRACO) |
ù00.8 |
[出所] WBGA の Projects Database (xxxx://xxx.xxxxxxxxx.xxx/xxxxxxxx/xxxxxxxx) および各借款の総裁提案書より作成。
(77.ø%),ø 億 ü,û80 万ドル(7 件)は植民地を対象とする借款であった
(表 2ú)。植民地借款 7 件中 6 件(計 ø 億 ü,000 万ドル)はコンゴ借款であり,ほかには委任統治領ルワンダ・ウルンディに対する借款 ø 件(û80 万ドル) のみが存在するù6ú)。以下では,ベルギー借款の中心を占めていたコンゴ 借款を中心に述べていく。
ベルギーとコンゴ 歴史を通じてコンゴはベルギーが支配した唯一の植民地であり,ベルギーは「単一植民地帝国」(The single - colony empire) とも言われるù6û)。唯一の植民地といっても,xxベルギーの規模と比較するとコンゴは広大であり,面積で ú0 倍,人口で ø.ü 倍もあった。ø88ü 年のベルリン会議の際に,ベルギー国王xxxxxxxは巧みな外交手腕によっ
ù6ú) 旧ドイツ領のxxxx・xxxxxは,国際連盟により ø9ùù 年にベルギーの委任統治領に指定された。
ù6û) Vellut [2007].
─ û9 ─
て列強に国王の私領・コンゴ自由国を認めさせた。しかし,ゴム・プランテーションでの過酷なアフリカ人の強制労働が国際的なスキャンダルに発展し,ø908 年にコンゴはベルギー政府に移管された。
ベルギーとコンゴとの関係には,他の植民地保有国と植民地との関係と比べて独特な側面がある。それは,ベルギー経済のなかで持株会社ソシエテ・ジェネラル・ド・ベルジック(Société Générale de Belgique,以下ソシエテ・ジェネラルと略す)を始めとする一部のベルギー民間資本だけがコンゴと強い利害関係を持ったこと,ベルギー政府が終始,コンゴの植民地経営と距離を置いたことである。
コンゴを関税を課さない自由貿易地域にすることは,xxxxxxxが列強からコンゴ承認を取り付けた際の条件であった。それは,自由貿易体制に依存するxxベルギーにとっては,必ずしもマイナスではなかった。しかし,自由貿易の結果,コンゴへの輸出に強い利害関係を持つベルギー国内の産業が育たなかったù6ü)。
コンゴの輸入でベルギーが大きな割合を占めなかったのとは対照的に,コンゴからの輸出についてはベルギーが支配的な地位を占めた。コンゴには銅を始めとする鉱物資源が豊富であり,ゴム,綿花,パーム油といった輸出農産物の生産も盛んであった。コンゴの一次産品の多くは,ベルギーに輸出された。それらの産品はベルギーを中継地として再輸出される部分も大きかったとはいえ,原料調達面においてベルギーの産業が大きな便宜を得たことは間違いない。それらの輸出一次産品は,コンゴ経済の半分以上を掌握するソシエテ・ジェネラルを筆頭とするベルギーの持株会社が独占的に取り扱っていた。海運等の輸送手段もベルギー資本の支配下にあった。
こうした特徴は国際収支にも反映されており,鉱産物を中心とする一次
ù6ü) Vanthemsche [2012] pp. 146-157.
─ ü0 ─
6界銀行aƒxx½対þる借款:l947~66 4(7)
産品輸出½よるCンCa貿易収支a大幅な黒ÇS,¼資収益a国外~a流出*,運輸・保険a貿易外収支a赤ǽよって相殺Stる構造½なって“た(表 2û)。
ベ0ギー政府は,CンCS$国a財政負À½なるこ*G警戒t,CンC a財政G$国*完全½分離tた。l908 4以降,ベ0ギーはCンC支配½付け2tた「収奪経済 (Raubwirtschaft)]a汚名GṢ回þYÇ努TたS,活動は布教活動やłोリȉク教会½よる教ȹa支援なYS中”であり,経済開発½は大きな関”は払ntなSった。P5ポ0Ȕ≃6i代以来,ベ0ギーSCンCG財政的½支援tたこ*はほ*んYなÇ,ø≃次6界大戦後a
「開発 l0 S4計画]で@ベ0ギー政府は財政支援G予定tて“なSった。 CンC開発aÀ“手は,私的資$*CンCa植$“行政当局であった。 20 6xxT½始まったł4ンȔ“方a鉱t開発は,lニ5ン・ミニ^ ー0(Union Minière du Haut Katanga,Sシ^テ・ジvネラ0a系列会社)等a$xx$½よって実施Stた。鉱t業はø≃次6界大戦期S2 l9ü0 4代½ Sけて飛躍的な発展G遂げ,こai代aCンCa繁栄は,中東産油国½匹
表 2û ベ0ギー領CンCa国際収支
(単位:l00 ffGラン)
貿易 | 保険·運輸 | xx·配当 | そa他 | 経g収支 | $間Ç期資$収支 | 公的Ç期資$収支 | |||
輸出 | 輸Z | 貿易収支 | |||||||
l948 | l3,l00 | 0,0xx | x,000 | X 0x0 | X x,0l9 | A l,ü62 | 2,l6ü | l3ü | A 27 |
49 | l2,üü0 | 9,089 | 3,46l | A l,2ü2 | A l,2ü6 | A 947 | 6 | A 34ü | A 36 |
ü0 | lü,776 | 8,804 | 6,972 | A l,l23 | A l,29ü | A l,467 | 3,087 | 378 | 2,üü7 |
ül | 20,2l0 | l4,3ü8 | ü,8ü2 | A l,8l4 | A l,3l6 | A l,36l | l,36l | 00x | X x00 |
ü2 | 22,73ü | l8,7l3 | 4,022 | A 2,83l | A l,778 | A l,2l4 | A l,80l | 763 | 2,46l |
ü3 | 2l,70x | x0,x00 | x,x00 | X 0,x00 | X 0,0x0 | X 000 | A l,668 | l2ü | 2,602 |
ü4 | 24,l33 | l7,202 | 6,93l | A 4,ü83 | A 2,4ü9 | A l,867 | A l,978 | A 326 | 2,ül2 |
üü | 27,l23 | l7,486 | 9,637 | A ü,328 | A 3,266 | A 3,082 | A 2,039 | l36 | 2,836 |
ü6 | 29,949 | l8,ü84 | ll,36ü | A 6,409 | A 4,4ll | A 4,406 | A 3,86l | A 623 | 4,326 |
ü7 | 27,6lü | l9,86ü | 7,7ü0 | A 6,873 | A 3,ü69 | A ü,l36 | A 7,826 | 36ü | 76 |
ü8 | 24,9ül | l6,ü62 | 8,389 | A ü,44ü | A 3,476 | A ü,038 | A ü,ü70 | A l79 | ü,46ü |
[注] x XxX・Xxx= l ベ0xx・Xxx
[出所] Xxx Xxxxxxxxxxx, Belgium and the Congo, 1885-1980, Cambridge University Press, 2012, p. 278 より作成。
— ül —
敵するとも言われるù66)。コンゴへの投資は高い収益を生み出し,植民地企業は自己金融により投資を拡大することができた。サブサハラでは南アフリカにつぐと言われたコンゴの工業も,一次産品生産の発展に支えられていた。そのために,工業は地域的な広がりに欠け,鉱山地帯のカタンガ地方と交通の要所レオポルドヴィル周辺に限られたù67)。
一次産品を生産地から輸出港まで輸送する大動脈は,年間を通じて水量の豊富なコンゴ川であり,貨物輸送には舟運が大きな役割を果たした。コンゴ川の本支流をレオポルドヴィル(Leopoldville,現キンシャサ)まで貨物を船で運び,下流の航行不能な区間は鉄道に載せ替え,xxに近いマタディ (Matadi) 港から輸出するルートが幹線であった。河川交通を中心に輸出入物資輸送の半分を担ったのが,植民地運輸開発局 (Office d’Exploitation des Transports Coloniaux, OTRACO) であった。また,河川交通が利用できないカタンガ地方の場合は,北ローデシアとアンゴラ経由の鉄道輸送が重要な役割を果たした。
不首尾に終わった 19û9 年の第 2 次世銀借款計画 べルギーの最初の世銀借款(ø9û9 年 ú 月契約)は,ベルギー国内の設備建設を目的とした借款であった(ø,600 万ドル,期間 ù0 年)。借款の対象は,国内の ù カ所の製鉄所の圧延設備(冷間圧延装置と分塊圧延装置の導入)と ø カ所の火力発電設備であったù68)。この時はまだマーシャル援助の実施期間中であったが,ベルギーがxxxxx援助の被援助国であることは,世銀から借款を得る上で妨げにはならなかったù69)。
ù66) Xxxxxxxx & Xxxxxxx [2009] p. 158.
ù67) Xxxxxxxx & Xxxxxxxx [2013].
ù68) “Press Release No. 130,” February 28, 1949 [WBGA 146603].
ù69) 世銀は,この借款を,「ヨーロッパの生産能力の増大に寄与するプロジェクトへの融資を通じて,欧州復興計画を補完するという世銀の政策」に基づくものであり,マーシャル援助との重複は問題ないとした (“Press Release No. 130,” February 28, 1949 [WBGA 146603])。
─ üù ─
しかし,第 ø 次借款に引き続き ø9û9 年にベルギーが申請した,国有鉄道の電化,港湾近代化(アントワープ,ゲント,ブリュッセル)を目的とする ø 億 900 万ドルの借款は,交渉が難航し,実現には至らなかった。その原因は,第 ø 次借款とは異なり,世銀借款の対象事業に必要な資材・労働等をすべて国内で調達する,基本的に外貨を必要としない計画であったためである。世銀は,借款がベルギーの外貨準備の積み増しに帰結し,安易な財政・金融政策を促すことを懸念し,つぎのような厳しい評価を下した。ベルギー政府および政府機関の ø9û9 年度投資計画に必要な資金のうち 約 70 億フラン(約 ø 億 ý,000 万ドル)はいまだ調達のめどが立っていない。加えて,政府は IMF から 9 億 ü,000 万フラン(約 ù,øý0 万ドル)の返済を迫られている。ベルギーが申請したプロジェクトは生産性向上への寄与度が低い。政治的理由からベルギー政府は投資計画を縮小できないのかもしれないが,世銀としては,生産性上昇に寄与しないのであれば,融資する
わけには行かないù70)。
このように批判しつつも,世銀はベルギーの申請を拒否せず,融資要請額を û,ùú0 万ドルに縮小し,ベルギーの鉄道電化と港湾の改良が西ヨーロッパ全体の復興に寄与するという理由をつけて借款を承認しようとした
(ø9û9 年 ý 月)ù7ø)。ところがベルギーは,この段階になって,スイス市場で資金調達の目途が立ったという理由で,この申請を取り下げたù7ù)。
実際には,取り下げはベルギーの自発的意思によるものではなく,ECA
ù70) “Economic and Financial Aspects of the Belgian Loan Application,” Economic Department, June 28, 1949 [WBGA 66958].
ù7ø) “Preliminary Report on Belgian Transport Projects,” Economic Department, June 28, 1949 [WBGA 66956].
ù7ù) IBRD, Fifth Annual Report, 1949-1950, pp. 35-36. ベルギー国有鉄道は,ø9û9 年 ý 月に ü,000 万スイス・フラン(ø,øûú 万ドル)の債券を発行した(日本興業銀行外国部 [1961] p. 206)。しかし,これはベルギー国鉄の û9 年度の投資資金不足額 ùú 億フラン(=約 ü,ù00 万ドル)の一部をカバーするにすぎない (“Economic and Financial Aspects of the Belgian Loan Application,” Economic Department, June 28, 1949 [WBGA 66958] p. 4)。
─ üú ─
が反対したためであったù7ú)。ECA は,xxxxx援助の被援助国であるベルギーが世銀からも融資を受ければ,米議会で批判の対象となり,翌年度のマーシャル援助額が削減されかねないと懸念した。そのためにベルギーに世銀借款の申請を取り下げさせたのである。ただし,ECA はマーシャル援助の被援助国に対する世銀借款であっても,植民地を対象とする借款の場合は例外として認めていたù7û)。ø9û9 年にコンゴ借款計画が浮上してきた背景には,こうした事情があった。
コンゴ開発と世銀借款 ø9üø 年 9 月に総額 7,000 万ドルのコンゴ借款
(第 ù 次・第 ú 次ベルギー借款)が承認された。この借款の対象は,「コンゴ開発 ø0 か年計画」(以下,「ø0 か年計画」と略す)ù7ü)の最初の ù 年間の事業であった。
この借款の特徴は,植民地コンゴに対する借款(û,000 万ドル)と,ベルギーに対する借款(ú,000 万ドル)を組み合わせた点にあるù76)。コンゴ借款が,コンゴの植民地開発事業に必要な資金のうち,外貨支出の部分に対する融資であったのに対して,ベルギー借款はインパクト・ローンであった。インパクト・ローン方式は,直接に外貨を必要としない事業への世銀融資を可能にするために工夫された方式であり,先に見たようにイタリア借款でも用いられた。xxxxx・xxxは,つぎのような論理で正当化されていた。ベルギーがコンゴ開発を進めれば,ベルギーのコンゴ向け輸出が増大し,ベルギー国内の生産が拡大する。この生産拡大によって原材料輸入が増大し,ベルギーの外貨バランスは悪化する。世銀の融資対象プ
ù7ú) “Office Memorandum from J. Xxxxx Xxxxx,” May 26, 1950 [WBGA 1535586].
ù7û) “Mission to Brussels, May, 1951, Report No. 1” [WBGA 1535586].
ù7ü) 計画の正式名称は「ベルギー領コンゴの経済社会開発に関するø0 か年計画」, ø9ü0 年にベルギー議会で承認。
ù76) “Report and Recommendations of the President to the Executive Directors on the Proposed Loans to the Belgian Congo and the Kingdom of Belgium,” September 11, 1951 [WBGA P-20].
─ üû ─
ロジェクト自体が外貨を必要としなくても,プロジェクトの遂行が外貨準備に負の影響(インパクト)を及ぼすならば,その影響を相殺するために借款を行うことは世銀の目的に反しない。
コンゴ借款を最初に世銀に打診したのはベルギー植民地省であったù77)。 ø9û9 年 ø0 月にウィニー (M. Wigny) 植民地相が,「ø0 か年計画」に対する ü,000 万ドルの借款を非公式に要請し,ü0 年 û 月から下交渉が始まったù78)。「ø0 か年計画」は ø9ü0-ü9 年を対象とするコンゴ全域の開発計画で,当初の予定額は約 ü 億ドル,そのほぼ半分は道路・港湾・鉄道等の交通インフラ計画で占められていた(表 25)。植民地省は,資材の輸入(ベルギー本国からの輸入を含む)に必要な金額(計画総額の約 ø/ú)を,世銀等からの外貨を仰ぐ予定であったù79)。
「ø0 か年計画」のうちカミナ (Kamina)-カバロ (Kabalo) 間の鉄道建設,スタンレーヴィル (Stanleyville)-コスターマンスヴィル (Costermansville) 間の自動車道路建設,河川航行用船舶の購入,水力発電所建設が融資対象事業の候補に挙がったù80)。この鉄道・道路は,大西洋側のロビト(Lobito,ポルトガル領アンゴラ),マタディとインド洋岸のダルエスサラーム(イギリス委任統治領),ベイラ(Beira,ポルトガル領モザンビーク)を結ぶ大陸横断交通網の一環であった。この案は,銅をはじめとする一次産品の輸出のための輸送網を重視していた世銀の意図と一致するù8ø)。最終的には,コン
ù77) ベルギー領コンゴの場合には,英国植民地のように現地に独立した行政機関は存在せず,本国の植民地省が事実上の植民地政府であった (“Belgium and Belgxxx Xxxxx,” Xxxxxxxx Xxxxxxxxxx, Xxxxx 0, 0000 [XXXX 0000000])。
ù78) “Belgium ─ Loan for Belgian Congo Development,” J. M. Xxxxxx, October 20, 1949 [WBGA 1535586]. “Points on Congo Loan Application,” May 10, 1951 [WBGA 1535586].
ù79) “Memorandum on Belgian Congo,” May 1950 [WBGA 1535586]. ベルギー本国からの輸入の場合には,ベルギー・フランとコンゴ・フランとは実質的に同一通貨であるので,外貨は用いられないことになる。
ù80) “Memorandum on Belgian Congo,” May 1950 [WBGA 1535586].
ù8ø) “Congo Railway,” Memorandum from H. E. Tolley to P. Xxxxxxx, June 14, 1949 [WBGA 1535586].
─ üü ─
表 25 コンゴ開発ø0 か年計画(ø9ü0-ü9 年)の概要
投資分野 | 当初期計画(ø9û9 年) | 改定計画 (ø9üû 年) | ø9ü9 年末 までの投資額 | ||
百万フラン | 百万ドル | 構成比% | 百万フラン | 百万フラン | |
インフラ OTRACO 道路水路鉄道空港 レオポルドヴィル都市交通電力 水道・配電 電信 | ø6,üúú ú,ù06 6,ø00 ø,û00 ø,088 96û - ø,909 ø,6ø6 ùü0 | úú0.7 6û.ø øùù.0 ù8.0 ùø.8 ø9.ú - ú8.ù úù.ú ü.0 | 6û.8 øù.6 ùú.9 ü.ü û.ú ú.8 - 7.ü 6.ú ø.0 | ù7,ü9ú 8,ú67 6,869 ù,ûûû ø,6øü ø,8ø0 øûù ú,ûøù ù,ù78 6ü6 | ùú,úø8 6,ûû9 6,068 ù,øü0 ø,6ù9 ø,668 øú9 ù,û87 ù,øû6 ü8ù |
農業・社会サービス農業 農業調査 ヨーロッパ人植民事業アフリカ人住宅建設 公衆衛生 アフリカ人教育調査 行政施設 | 8,979 ø,ù99 úú9 ù66 ø,900 ø,97ù ø,8ú8 ø6ü ø,ù00 | ø79.6 ù6.0 6.8 ü.ú ú8.0 ú9.û ú6.8 ú.ú ùû.0 | úü.ù ü.ø ø.ú ø.0 7.û 7.7 7.ù 0.6 û.7 | ù0,üùø ø,7û8 978 ú8ù û,úù0 ù,89ü ù,ø79 ú9û 7,6ùü | ù0,ú86 ø,ü9ü 9ü9 ú6ù û,ú00 ù,ûú9 ù,úúú ûø6 7,98û |
総計 | ùü,üøù | üø0.ù | ø00.0 | û8,øøû | ûú,706 |
[注] 通貨単位はコンゴ・フラン。ø コンゴ・フラン= ø ベルギー・フラン。ø ドル= ü0 フラン。
[出所] “The Economy of the Belgian Congo,” November 19, 1957 [WBGA EA-77a], “The Economic Position and Prospects of the Belgian Congo,” Fewbruary 29, 1960 [WBGA EA-102b] より作成。
ゴ借款の対象は,ベルギー政府の希望により,コンゴの河川運輸の 9ü%を管理していた植民地運輸開発局 (OTRACO) になったù8ù)。
ところが,世銀と植民地省との交渉が進んでいた ø9ü0 年 ø0 月に,ベルギー財務省から異論が出た。財務省は世銀借款の責任主体は植民地省ではなく,財務省にあると主張し,コンゴ 6,000 万ドル,ベルギー 6,000 万ドルの ù 本の借款を要請したù8ú)。財務省は,コンゴ借款単独の交渉であれ
ù8ù) “Report and Recommendations of the Executive Directors on the Proposed Loans to the Belgian Congo and the Kingdom of Belgium,” September 11, 1951 [WBGA P. 20] p. 6.
ù8ú) “Summary and Conclusions,” L. B. Rist, October 22, 1950 [WBGA 1535586].
─ ü6 ─
ば,継続する意思はないという強い姿勢を示したù8û)。そのため,世銀はインパクト・ローン方式の採用を検討しù8ü),ú,000 万ドルのインパクト・ローンをベルギー本国に対して行うことを決め,ECA からも一応の了解を得たù86)。
これらの予備協議ののち,ø9üø 年 û 月 øû 日にベルギー政府は正式に世銀に対して借款を申請したù87)。この時点で世銀は,ù つの借款ともコンゴ開発の目的を掲げるが,実態としては,一方はコンゴ開発(û,000 万ドル)に,もう一方はベルギー国内の公共投資(ú,000 万ドル)に向けることを考えていた。û 月 ùü 日の世銀案には,ベルギー借款の見返り資金(世銀借款をベルギー・フランに交換した後の資金)は,ベルギー国内の投資計画のうちで優先度の高い事業に用いると記されていたù88)。
この段階になって,アメリカ政府の NAC において,ベルギー借款はベ ルギーの外貨準備を増やすだけであり,好ましくないという強い異論が出 た。議論の結果,XXX は「ベルギーがコンゴ開発に必要な物資の調達を 保証する」という条件を付けて,ベルギー借款を承認したù89)。これは, ベルギー借款とコンゴ開発との紐づけをアメリカが求めたことを意味する。
ø9üø 年 ü 月 9 日,ブラック総裁は ù 件のコンゴ借款案を理事会に示して,了解を得たù90)。続いてxxxxは,ü 月 øû 日にベルギーを訪れ,ア
“Belgian Congo,” Memoraudum from A. S. Xxxx, November 10, 1950 [WBGA 1535586].
ù8û) “Belgium,” Memorandum from S. R. Xxxx to W. A. B. Iliff, March 19, 1951 [WBGA 1535586].
ù8ü) “Belgium,” Memorandum from S. R. Xxxx to W. A. B. Iliff, March 29, 1951 [WBGA 1535585].
ù86) “Belgium,” W. A. B. Iliff, March 23, 1951 [WBGA 1535586].
ù87) “Letter from J. Van Houtte, The Minister of Finance, to E. R. Black,” April 14, 1951 [WBGA 1535586].
ù88) “Proposal for IBRD Linked Loans to the Congo and Belgium,” April 25, 1951 [WBGA 1535586].
ù89) NAC Minutes, May 8, 1951 [NARA].
ù90) “Transcript from the Twenty-fourth Special Meeting of the Executive Directors,” May 9, 1951 [WBGA 86369].
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成城・経済研究 第ùúý 号(ù0ùù 年ú 月)
xxxの要請を入れて修正済みの案をベルギー側に示し,最終協議を行った。ベルギー借款の見返り資金をコンゴ開発事業に紐づける世銀案に,ベルギー財務省側は強い不満を示した。しかし世銀側は一切の譲歩を拒み,最終的に財務省側は,「非常にためらいはあるが,この状況を受け入れざるを得ない」として世銀案を了承したù9ø)。
こうして,ベルギー財務省の企図はアメリカの異議申し立てによって挫折した。ベルギー財務省が,ベルギー借款とコンゴ借款との両建てに固執した背景には,ø9ù0 年代からのベルギー本国と植民地コンゴとの,資金調達をめぐる競合・角逐があった。たとえば,ùû 年に財務省はコンゴがベルギー国内市場で公債を発行することに反対したことがあり,第二次世界大戦後にも,üý 年に財務省は植民地省がアメリカ市場で外債を発行することに異議を唱えたù9ù)。コンゴ債はベルギー国債を上回る信用力があり,ベルギー財務省にとっては強力なライバルであった。
その後の経緯について述べれば,ベルギーは,xxxxx援助の終了後,国内事業のために,ø9üû 年(第 û 次借款,ù,000 万ドル)と ü7 年(第 ý 次借 款,ø,000 万ドル)の ù 回,世銀融資を受けたù9ú)。目的は,第 û 次借款は 港湾・運河改良事業,第 ý 次借款は運河改良事業であった。いずれもの場 合も,世銀借款と抱き合わせで ú,000 万ドルのベルギー国債が米国市場で 発行された。ベルギーは早い時期から国際資本市場に復帰しており,世銀 借款以外に外国から資金を得る道も開けていた。スイス市場では,û7 年 以降,ほぼ連年,社債・国債を発行しており,ý0 年 ø0 月までのスイス市 場での外債発行額は,他のいずれの国も上回ったù9û)。それにもかかわら
ù9ø) “Missions to Brussels, May 1951, Report No. 2.” [WBGA 1535586]. “Memorandum on Proposed Financing,” May 15, 1951 [WBGA 1535586].
ù9ù) Vanthemsche [2012] pp. 164-165.
ù9ú) “Report and Recommendations of the President to the Executive Directors on Proposed Loan to the Kingdom of Belgium,” December 1, 1954 [WBGA P-75] p. 2. “Report and Recommendations of the President to the Executive Directors on a Proposed Loan to the Kingdom of Belgium,” August 23, 1957 [WBGA P-13] p. 2.
─ ü8 ─
ず,ベルギーが世銀借款に頼ったのは,スイス市場での起債には限界があり,より大きな米国市場に参入するため,世銀の信用力が必要であったためと推測されるù9ü)。
1957 年のコンゴ借款 ø9üø 年以後,コンゴに対しては,ü7 年と 60 年の ù回,借款が行われている。ü7 年は,銅価格が下落し,それまで順調に成長を続けていたコンゴ経済に変調が生じた年である。ü6 年に戦後最高の約 ù 億 ø,900 万ドルを記録した銅輸出額は,ü7 年には約 ø 億 ü,000 万ドル,ü8 年には ø 億 800 万ドルに減少したù96)。産銅業の不況は,コンゴ財政を直撃し,ü7 年に財政収支は急激に悪化した。ベルギーの金融市場が ṧ迫していた折であったため,コンゴは本国市場での資金調達もできず,
「ø0 か年計画」の遂行に支障を来す事態となった。
世銀は,ø9ü7 年 øø 月にベルギー領コンゴとの間に û,000 万ドルのコンゴ借款契約を結んだ(ベルギー政府保証)。借款の対象は,「ø0 か年計画」の一部,コンゴ川下流地域のマタディ-レオポルドヴィル-ケンゲ間の道路建設であった。
この時点では,世銀はコンゴの将来に関しては楽観的であった。一時的な銅価格の下落による不況を乗り切れば,コンゴ経済は成長軌道に戻ると見ていた。ベルギーは「徹底したリアリズム」に立ってコンゴを統治しているので,政治情勢が経済に悪影響を及ぼす懸念はなく,本国からの長期投資も順調に増加していくと予想していたù97)。
ù9û) 累計で øú 件,6 億 û,000 万 SF(ø 億 û,8ú0 万ドル)(日本興業銀行外国部
[1961] pp. 47-48)。
ù9ü) ø9ü0 年代のスイス市場での ø 回の起債額は,国を問わず,だいたい ü,000万 SF(約 ø,ø60 万ドル)程度で,規模が小さかった(日本興業銀行外国部 [1961] pp. 37-38)。
ù96) “The Economic Position and Prospects of the Belgian Congo,” February 29, 1960 [WBGA EA-102b] Table 18.
ù97) “The Economy of the Belgian Congo,” November 19, 1957 [WBGA EA-77a], Summary and Conclusions, pp. 18-20.
─ ü9 ─
ベルギー領時代最後のコンゴ借款(1960 年 ú 月) ベルギー領コンゴは ø960 年 6 月 ú0 日に独立した。ü9 年 ø 月のレオポルドヴィル暴動で動揺したベルギー政府は,60 年 ø 月にコンゴの独立を認める決断を下し,わずか ü か月の準備期間の後,コンゴは独立した。この極度の準備不足が,その後のコンゴの大混乱を招いたとされる。
この独立準備の最中の ø960 年 ú 月 ú0 日に,最後の世銀コンゴ借款 û,000 万ドルの契約がなされた。この借款は,農業借款 700 万ドル(借主:ベルギー領コンゴ,期間 øù 年間),運輸借款 ù,800 万ドル(借主:ベルギー領コンゴ,期間 øù 年間),植民地運輸開発局 (OTRACO) 借款 ü00 万ドル
(借主:OTRACO,期間 ø0 年間)の ú 件の借款からなる。前二者の保証者はベルギー政府であり,OTRACO 借款の保証者はベルギー政府とベルギー領コンゴであった。借款交渉は,契約の ø 年半ほど前から始まっていた。ベルギー政府は,この ú 回目のコンゴに対する借款を ü8 年秋の世銀に非公式に打診し,ü9 年 ù 月に正式に申請した。世銀は同年にベルギーおよびコンゴに調査団を派遣,9 月から交渉が進められたù98)。
第 ø の農業借款は,üú,000 人の開拓農民を創出し,商品作物(綿花・パーム・オイル,コーヒーなど)を増産する計画を柱とする ùヵ年の計画(ø960
-6ø 年)を対象とするものであった。世銀は,この計画の所要資金 ø,üü0万ドルのうち,外貨支払分 700 万ドルを融資したù99)。
第 ù の運輸借款は,道路と河川交通の ù つの計画から成っていた。道路に対する借款は ø9ü9-6ø 年のコンゴの道路計画 ú,øü0 万ドルのうち,外貨必要分の ù,0ü0 万ドルを融資する計画であった。また,河川交通に対する借款は,ü9-6ø 年の河川交通計画 ø,0ø0 万ドルのうち,外貨必要分の 7ü0万ドルを融資する計画であるú00)。
ù98) “Report and Recommedations of the President to the Executive Directors on the Proposed Loans to the Belgian Congo,” February 29, 1960 [WBGA P-216].
ù99) “Appraisal of the Belgian Congo Agricultural Project,” February 26, 1960 [WBGA TO-218a].
─ 60 ─
第 ú の OTRACO 借款は,OTRACO の ø9ü9-60 年の道路・港湾・河川交通への投資 ù,0ø0 万ドルのうち,外貨必要分の ü00 万ドルを融資するというものであったú0ø)。
当時,コンゴの財政は極度に悪化していた。「ø0 か年計画」の投資計画は終了年度までに完了せず,また,ø960 年代の新たな計画を立案する目途も経っていなかったú0ù)。政情不安から ü9 年以降,資本逃避も進んだ。独立直前の不安定な時期にもかかわらず,世銀がコンゴに対して借款を行った理由としては,独立後の政治変化に不安を抱いたものの,コンゴ経済の将来に対して楽観的であったことが指摘できようú0ú)。その根拠は,第 ø にコンゴには豊富な地下資源が存在し,ü9 年には銅の輸出が回復に向かっていたこと,第 ù に,資源開発を支えるベルギー企業が独立後も投資を継続すると見込まれたことにあったú0û)。また,世銀借款返済をベルギー政府が保証したことも大きな意味を持った。世銀の融資委員会は,借款の正式交渉が始まる前にベルギー政府に対して,①コンゴの財政の均衡を図る措置を取ること,②今後数年にわたって基幹的公共投資のための資金を確保することを確約するよう求めたú0ü)。徹底してコンゴに対する財政支出を避けて来たベルギー政府も,コンゴ統治の最終段階で支援に乗り出さざるを得なくなったú06)。
ú00) “Appraisal of the Road, Port and Waterway Projects in the Belgian Congo,” February 26, 1960 [WBGA TO-220a].
ú0ø) “Appraisal of the OTRACO Transport Project, Belgian Congo,” February 25, 1960 [WBGA TO-237a].
ú0ù) “The Economic Position and Prospects of the Belgian Congo,” February 29, 1960 [WBGA EA-102b] p. i, p. 12.
ú0ú) “Report and Recommendations of the President to the Executive Directors of the Proposed Loan to the Belgian Congo,” February 29, 1960 [WBGA P-216] p. 8.
ú0û) “The Economic Position and Prospects of the Belgian Congo,” February 29, 1960 [WBGA EA-102b] p. 21.
ú0ü) “Minutes of Staff Loan Committee Meeting held on August 26, 1959,” [XXXX 00000000].
ú06) “The Economic Position and Prospects of Belgium,” February 29, 1960 [WBGA EA- 106a], p. 13, pp. 21-22. Vanthemsche [2012] pp. 162-163.
─ 6ø ─
結果的に,コンゴ経済の将来に対する世銀の楽観的な見通しは,独立後 に起きた大規模な内戦によって完全に裏切られた。ベルギー資本がただち に引き揚げることはなかったが,結局は,コンゴ政府の国有化政策により,撤退を余儀なくされた。世銀が,内乱が収まった後の ø968 年に借款を再 開したのは,国際的に資源価格が好調であり,コンゴの資源開発にも期待 が持てたためであったú07)。しかし,オイルショック後の銅価格の暴落に より,70 年代後半にコンゴ経済は破綻に追い込まれることになる。
6 おわりに
世銀が ø9û0~60 年代に実施した先進国借款について,本稿の検討を通じて明らかになった点を示して置きたい。
世銀の先進国借款の始点は ø9û7 年,終点は 66 年であった。先進国借款が世銀の融資活動のなかで大きな比重を占めたのは 60 年頃までであり,
60 年代初頭に,世銀の途上国の開発に対する貢献が強く求められるようになると,世銀は先進国への融資活動から急速に撤退した。
世銀の業務開始から ø960 年代半ばまでの世銀の活動は,復興と開発という ù つの任務および,銀行経営(銀行としての世銀)と援助(国際開発援助機関としての世銀)という ù つの運営原則の間の相克と調整という視点から整理することができよう。
復興と開発という世銀の ù つの任務のうち,世銀が復興の任務に携わったのは,公的には,開業(ø9û6 年 6 月)から û7 年までの,ø 年半ほどにすぎない。この時期の世銀は,開発よりも復興に力を傾注した。世銀復興借款は,西欧諸国の戦後の経済危機への救済融資の性格が強く,第二次世界大戦終結直後のアメリカ EXIM 借款から û8 年に始まるマーシャル援助へと繋ぐ役割を果した。マーシャル援助が発足すると,世銀は,復興の役割
ú07) “Democratic Republic of the Congo: The Congo’s Economy, Vol. 1, The Main Report,” November 19, 1968 [WBGA AF-85].
─ 6ù ─
をマーシャル援助に譲り,開発機関に特化する方向を目指した。マーシャル援助の実施された間(û8~üù 年),世銀はマーシャル援助のレシピエントである西欧諸国への融資を自制した。しかし,まったく融資を行わなかったわけではなく,イタリア(üø 年),オランダ(û8 年,û9 年,üù 年),ベルギー(û9 年)に対して借款を供与している。また,xxxxx援助を受けなかったフィンランドに対しても融資を行った(û9 年,üù 年)。
国際機関において,開発という言葉が,低開発国(開発途上国)に限定して用いられるようになるのは ø960 年代以降である。ü0 年代末までは,先進国,低開発国の境界,区別は明瞭ではなかった。û8 年以降,世銀は最先進国ではなく,その周辺の日本,イタリア,オーストラリア,南アフリカ,フィンランドなどに融資を行った。
世銀融資の主な資金源は,払込資本と借入金(世銀債)である。世銀債は国際資本市場で発行され,ø9ü0 年代末まで,大部分はニューヨーク市場で起債されていた。6ø 年に IDA のソフトローンが始まり,低開発国援助機関の性格を強める以前の世銀においては,融資の安全性と融資先事業の採算性を重視する銀行家的側面が,援助機関の側面よりも勝っていた。この「銀行としての世銀」の時代は,ブラック総裁時代(ø9û9~6ù 年)にほぼ重なる。
ブラック総裁時代の世銀が先進国借款に積極的であったのは,安全な投資先を求めたためである。世銀の貸付金利は一律であったから,経営的には,リスクの高い低開発国融資を選好する理由はなかった。
しかし,先進国借款には難点もあった。世銀協定は,プロジェクト・ローン原則と,世銀融資をプロジェクトのうち外貨を必要とする部分に限るという原則を定めていた。ただし,世銀協定には例外規定も設けられていたので,この例外規定に合致するように,ø9üø 年のイタリア借款,ベルギー借款の際にインパクト・ローン方式が考案された。ただし,その後世銀はインパクト・ローン方式ではなく,世銀融資資金の用途を例外的に国
─ 6ú ─
内における支出にも認めること(「現地支出に対する融資」)で対応するようになった。たとえば日本の場合には,世銀交渉のかなりの労力は,「現地支出に対する融資」を世銀に認めさせることに注がれた。また,先進国借款の中には,プロジェクト・ローンの体裁を取りながら,実態は,大まかな長期計画にもとづく継続的融資のプログラム・ローンであったケース
(南アフリカなど)も少なくなかったú08)。
一方で植民地借款は,世銀にとって理想的な借款であった。設立当初から世銀は,個々の植民地帝国を繋ぐ役割を果たしたいと考えていたようである。また,植民地借款は宗主国(=世銀加盟国)が保証を行うので,安全性の面での問題はなかった。開発の目的にもかない,プロジェクト・ローン原則にも合致していた。世銀は,宗主国に積極的に働きかけて,植民地借款を実現した。
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ú08) 公式に世銀が,ø960 年代までの借款のうちで,プログラム・ローンに区分しているのは,ルクセンブルクを除く復興借款(û 億 8,ü00 万ドル),オーストラリアに対する ü0~ü6 年の借款(ú 億 8ü0 万ドル),イタリアに対する üø 年,üú 年の借款(ù,000 万ドル),ベルギーに対する ø9üø 年のコンゴ借款(7,000 万ドル),ノルウェーに対する üû~üü 年の借款(ü,000 万ドル)の 9 億 ú,úü0 万ドルである。
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─ 69 ─
付表 先進国に対する世銀借款:ø9û7 年ü 月~7ø 年ý 月
成城・経済研究 第ùúý 号(ù0ùù 年ú 月)
─ 70 ─
(単位:ø00 万ドル)
国名 | 次数 | 契約調印年月日 | 金額 | 期間(年) | 金利(%) | 融資対象・目的 | 融資先 |
ø 復興借款 フランス デンマーク ルクセンブルクオランダ | ø ø ø ø | ø9û7 年 ü 月 9 日 ø9û7 年 8 月ùù 日 ø9û8 年 8 月ù8 日 ø9û7 年 8 月 7 日 | ùü0.0 û0.0 øù.0 ø9ü.0 | ú0 ùü ùü ùü | û ø/û û ø/û û ø/û û ø/û | 復興復興 鉄鋼・鉄道 復興 | クレディ・ナシオナルデンマーク政府 ルクセンブルク政府 オランダ政府 |
小計 | û97.0 | ||||||
ù 開発借款 オーストリア | ø ù ú û ü ý 7 8 9 | ø9üû 年 7 月 ø9 日 ø9üü 年 ý 月 øû 日 ø9üý 年 9 月 ùø 日 ø9üý 年 9 月 ùø 日 ø9ü7 年 ø0 月 ø0 日 ø9ü8 年 û 月 ù8 日 ø9ü8 年 øù 月 ù 日 ø9ü9 年 9 月ùü 日 ø9ýù 年ý 月øü 日 | øù.0 ø0.0 ùø.0 ø0.0 ú.ý ø0.8 ùü.0 9.0 ü.0 | ùü ùü ùü ù0 ùù ø8 ùü øü øü | û ú/û û ú/û ü ü ü ú/û ü ø/ù ü ú/û不定* ü ú/û | 電力(水力,ライセック-クロイツェック水力発電事業) 電力(水力,リュナー湖水力発電事業) 電力(水力,イブス-ペルゼンベウブ水力発電事業) 電力(火力,フォイツベルク-ザンクトアンドレー火力発電事業) 電力(水力,リュナー湖水力発電事業) 工業 電力(水力,アシャッハ事業)工業 工業 | オーストリア電力会社,ドナウ電力会社 フォアァールベルガー・イルベルケ社 連合電力,ドナウ電力会社 連合電力,ドラウ電力会社 フォアァールベルガー・イルベルケ社 オーストリア投資金庫 連合電力,ドラウ電力会社オーストリア投資金庫 オーストリア投資金庫 |
小計 | ø0ý.û | ||||||
ベルギー | ø ù ú û ü | ø9û9 年 ú 月 ø 日 ø9üø 年 9 月 øú 日 ø9üø 年 9 月 øú 日 ø9üû 年 øù 月 øû 日 ø9ü7 年 ý 月 ùý 日 | øý.0 û0.0 ú0.0 ù0.0 û.8 | ù0 ùü ùü øü ù0 | û ø/û û ø/ù û ø/ù û ü/8 ü ü/8 | 工業(鉄鋼)・電力(火力)コンゴ開発(設備輸入) コンゴ開発計画 港湾(アントワープ港改修)・運河 ルアンダ・ウルンディ開発(運輸) | ベルギー政府 ベルギー領コンゴベルギー政府 ベルギー政府 xxxx・xxxディ委任統治領 |
6 7 8 9 ø0 | ø9ü7 年 9 月 ø0 日 ø9ü7 年 øø 月 ù7 日 ø960 年 ú 月 ú0 日 ø960 年 ú 月 ú0 日 ø960 年 ú 月 ú0 日 | ø0.0 û0.0 7.0 ù8.0 ü.0 | øü ø9 øù øù ø0 | ü ú/û 6 6 6 6 | 運河 コンゴ開発(運輸)コンゴ開発(農業)コンゴ開発(運輸)コンゴ開発(運輸) | ベルギー政府 ベルギー領コンゴベルギー領コンゴベルギー領コンゴ 植民地運輸開発局 (OTRACO) | |
小計 | ù00.8 | ||||||
デンマーク | ù ú | ø9ü9 年 ù 月 û 日 ø96ú 年 7 月 ùû 日 | ù0 ùü | ù0 ù0 | ü ú/û ü ø/ù | 電力(火力) 電力(火力) | デンマーク政府 デンマーク政府 |
小計 | ûü | ||||||
フィンランド | ø ù ú û ü 6 7 8 9 ø0 øø øù øú øû øü ø6 | ø9û9 年 8 月 ø 日 ø9û9 年 ø0 月 ø7 日 ø9üù 年 û 月 ú0 日 ø9üù 年 øø 月 øú 日 ø9üü 年 ú 月 ùû 日 ø9ü6 年 ü 月 ùù 日 ø9ü9 年 ú 月 ø6 日 ø96ø 年 8 月 9 日 ø96ù 年 8 月 øü 日 ø96ú 年 9 月 ø8 日 ø96û 年 7 月 ø0 日 ø96ü 年 6 月 ú0 日 ø966 年 û 月 ù6 日 ø969 年 ø 月 ùû 日 ø970 年 ø0 月 øü 日 ø97ø 年 ù 月 ø7 日 | øù.ü ù.ú ù0.0 ú.ü øù.0 øü.0 ú7.0 ùü.0 ùü.0 7.0 ù8.ü øû.0 ù0.0 ùù.0 ù0.0 øú.0 | øü ù ø8 ø8 øü ù0 øü øü ù0 øü øü ø7 øü ø7 ø7 øü | û ú û ú/û û ú/û û ü/8 û ú/û ü ú/û ü ú/û ü ú/û不定* ü ø/ù ü ø/ù 6 6 ø/ù 7 ø/û 7 ø/û | 電力・工業 工業(木材加工) 電力・工業(木材加工)・農業工業(木材加工) 工業(木材加工)・電力電力 工業(パルプ・製紙)工業(パルプ・製紙)電力(火力) 工業道路工業道路工業工業 道路 | フィンランド銀行フィンランド政府フィンランド銀行フィンランド銀行フィンランド銀行 フィンランド抵当銀行 フィンランド抵当銀行 フィンランド抵当銀行 フィンランド抵当銀行 フィンランド工業化基金フィンランド政府 フィンランド工業化基金フィンランド政府 フィンランド工業化基金 フィンランド工業化基金フィンランド政府 |
小計 | ù76.8 | ||||||
フランス | ù ú û ü 6 | ø9üû 年 6 月 ø0 日 ø9üü 年 8 月 ù6 日 ø9ü9 年 6 月 ú0 日 ø9ü9 年 øù 月 ø0 日 ø960 年 ú 月 ø7 日 | 7.ü ø0.0 úü.0 ü0.0 66.0 | øù ù0 øü øù øü | û ø/ù û ú/û 6 6 6 ø/û | 鉄道(西アフリカ)電力(アルジェリア)鉱業(ガボン) 石油(アルジェリア) 鉱業(モーリタニア) | 海外領土鉄道局 アルジェリア電力ガス公社 (E. G. A) オゴエ鉱業会社 ジェランス石油会社 (SOPEG) モーリタニア鉄鉱会社 (MIFERMA) |
小計 | ø68.ü |
世界銀行の先進国に対する借款:ø9û7~ýý 年(下)
─ 7ø ─
イタリア | ø ù ú û ü 6 7 8 | ø9üø 年 ø0 月 ø0 日 ø9üú 年 ø0 月 6 日 ø9üü 年 6 月 ø 日 ø9ü6 年 ø0 月 øø 日 ø9ü8 年 ù 月 ù8 日 ø9ü9 年 û 月 ùø 日 ø9ü9 年 9 月 ø6 日 ø96ü 年 6 月 ù8 日 | ø0.0 ø0.0 70.0 7û.6 7ü.0 ù0.0 û0.0 ø00.0 | ùü ùü ù0 ù0 ù0 ù0 ù0 øü | û ø/ù ü û ú/û ü ü ø/ù ü ú/û 6 6 ø/û | 開発資材調達(南部開発)開発資材調達(南部開発) 電力・農業・工業(南部開発)電力・農業・工業(南部開発)電力・農業・工業(南部開発)電力・工業(南部開発) 原子力発電(南部開発) 工業(南部開発) | 南部開発金庫南部開発金庫南部開発金庫南部開発金庫南部開発金庫南部開発金庫南部開発金庫 南部開発金庫 |
小計 | ú99.6 | ||||||
オランダ | ù ú û ü 6 7 8 | ø9û8 年 7 月 øü 日 ø9û8 年 7 月 øü 日 ø9û8 年 7 月 øü 日 ø9û8 年 7 月 øü 日 ø9û9 年 7 月 ù6 日 ø9üù 年 ú 月 ù0 日 ø9ü7 年 ü 月 øü 日 | ù.0 û.0 ù.0 û.0 øü.0 7.0 øü.0 | ø0 ø0 ø0 ø0 øü 6 ü | ú 9/ø6 ú 9/ø6 ú 9/ø6 ú 9/ø6 û û ø/8 ü ü/8 | 海運(船舶購入)海運(船舶購入)海運(船舶購入)海運(船舶購入)工業 航空 工業 | オランダ合同海運会社オランダ汽船会社 オランダ・アメリカ・ライン ロイヤル・ロッテルダム・ロイド復興金庫 (Herstelbank) KLM ロイヤル・ダッチ航空 復興金庫 (Herstelbank) |
小計 | û9.0 | ||||||
ノルウェー | ø ù ú û ü 6 | ø9üû 年 û 月 8 日 ø9üü 年 û 月 ø9 日 ø9ü6 年 ü 月 ú 日 ø9ü9 年 7 月 8 日 ø960 年 øù 月 ù 日 ø96ú 年 ø0 月 øü 日 | ùü.0 ùü.0 ùü.0 ù0.0 ùü.0 ùü.0 | ù0 ù0 ù0 ùü ùü ùü | û ú/û û ú/û û ú/û 6 ü ú/û ü ø/ù | 開発資材輸入開発資材輸入電力 電力電力 電力 | ノルウェー政府ノルウェー政府ノルウェー政府ノルウェー政府ノルウェー政府 ノルウェー政府 |
小計 | øûü.0 | ||||||
英国 | ø ù ú û ü | ø9üù 年 ù 月 ù7 日 ø9üú 年 ú 月 øø 日 ø9üü 年 ú 月 øü 日 ø9ü6 年 6 月 ùø 日 ø9ü8 年 ü 月 ù 日 | ù8.0 øû.0 ùû.0 80.0 ù8.0 | ùü ø9 ø9 ùü ù0 | û ú/û û ú/û û ú/û ü ü ú/8 | 電力(南ローデシア)鉄道(北ローデシア)鉄道(東アフリカ) 電力(ローデシア=ニヤサランド連邦) 鉄道(ナイジェリア) | 南ローデシア植民地 北ローデシア植民地 東アフリカ高等弁務官 ローデシア=ニヤサランド連邦電力局 ナイジェリア連邦 |
成城・経済研究 第ùúý 号(ù0ùù 年ú 月)
─ 7ù ─
6 7 8 9 ø0 øø øù øú øû øü ø6 ø7 ø8 | ø9ü8 年 6 月 ø6 日 ø960 年 û 月 ø 日 ø960 年 ü 月 ù7 日 ø96ø 年 ú 月 ù9 日 ø96ø 年 6 月 ùú 日 ø96ø 年 8 月 ø6 日 ø96ø 年 øø 月 ù9 日 ø96ú 年 ü 月 ø6 日 ø96ú 年 ü 月 ø6 日 ø96ú 年 9 月 6 日 ø96ú 年 9 月 ùú 日 ø96û 年 ø0 月 ù 日 ø967 年 û 月 ùû 日 | ø9.0 ü.6 ü.6 8.û ø.ú ùú.ü 8.û øü.0 û.ù 7.ü 7.0 7.7 ù.8 | ø8 9 ø0 ù0 8 ù0 ù0 ù0 ù0 ù0 ù0 ùü ù0 | ü ú/8 6 6 ü ú/û ü ú/û ü ú/û不定* ü ø/ù ü ø/ù ü ø/ù ü ø/ù ü ø/ù 6 | 鉄道(ローデシア=ニヤサランド連邦) 農業(ローデシア=ニヤサランド連邦) 農業・道路(ケニア)電力(ウガンダ) 農業(英領ギニア) 電力(トリニダード・トバゴ)農業(ケニア) 電力(シンガポール)電力(スワジランド)電力(マルタ) 電力(モーリシャス) 電力(北ローデシア・南ローデシア) 電力(スワジランド) | ローデシア=ニヤサランド連邦 ローデシア=ニヤサランド連邦ケニア植民地・保護領 ウガンダ保護領英領ギニア トリニダード・トバゴケニア植民地・保護領シンガポール政府 スワジランドマルタ政府 モーリシャス 中央アフリカ電力公社 スワジランド | |
小計 | ù90.0 | ||||||
南アフリカ | ø ù ú û ü 6 7 8 9 ø0 øø | ø9üø 年 ø 月 ùú 日 ø9üø 年 ø 月 ùú 日 ø9üú 年 8 月 ù8 日 ø9üú 年 8 月 ù8 日 ø9üü 年 øø 月 ù8 日 ø9ü7 年 ø0 月 ø 日 ø9ü8 年 øù 月 ù 日 ø9ü9 年 6 月 ø0 日 ø96ø 年 øù 月 ø 日 ø96ø 年 øù 月 ø 日 ø966 年 7 月 ù8 日 | ù0.0 ú0.0 ú0.0 ú0.0 ùü.ù ùü.0 ùü.0 øø.6 øø.0 øû.0 ù0.0 | øû ø9 ø0 ø0 øø ø0 ø0 ø0 ø0 ø0 ø0 | ú ú/û û û ú/û û ú/û û ø/ù ü ú/û ü ú/û 6 ü ú/û ü ú/û 6 ø/û | 鉄道電力鉄道電力鉄道鉄道鉄道鉄道鉄道電力 電力(カムデン火力発電所) | 南アフリカ政府 南アフリカ電力供給局 (ESCOM) 南アフリカ政府 南アフリカ電力供給局 (ESCOM) 南アフリカ政府南アフリカ政府南アフリカ政府南アフリカ政府南アフリカ政府 南アフリカ電力供給局 (ESCOM) 南アフリカ電力供給局 (ESCOM) |
小計 | ùûø.8 |
世界銀行の先進国に対する借款:ø9û7~ýý 年(下)
─ 7ú ─
オーストラリア | ø ù ú û ü ý 7 | ø9ü0 年 8 月 ùù 日 ø9üù 年 7 月 8 日 ø9üû 年 ú 月 ù 日 ø9üü 年 ú 月 ø8 日 ø9üý 年 øø 月 øü 日 ø9üý 年 øù 月 ú 日 ø9ýù 年 ø 月 ùú 日 | ø00.0 ü0.0 üû.0 üû.ü 9.ù ü0.0 ø00.0 | ùü ù0 øü øü ø0 øü ùü | û ø/û û ú/û û ú/û û ü/8 û ú/û û ú/û ü ú/û | 開発資材輸入開発資材輸入開発資材輸入開発資材輸入 航空(カンタス航空)開発資材輸入 電力(スノーウィー・マウンテン計画) | オーストラリア政府オーストラリア政府オーストラリア政府オーストラリア政府オーストラリア政府オーストラリア政府 オーストラリア政府 |
小計 | ûø7.7 | ||||||
日本 | ø ù ú û ü ý 7 8 9 ø0 øø øù øú øû øü øý ø7 ø8 ø9 ù0 ùø | ø9üú 年 ø0 月 øü 日 ø9üú 年 ø0 月 øü 日 ø9üú 年 ø0 月 øü 日 ø9üü 年 ø0 月 ùü 日 ø9üý 年 ù 月 ùø 日 ø9üý 年 øù 月 ø9 日 ø9üý 年 øù 月 ø9 日 ø9ü7 年 8 月 9 日 ø9ü8 年 ø 月 ù9 日 ø9ü8 年 ý 月 øú 日 ø9ü8 年 ý 月 ù7 日 ø9ü8 年 7 月 øø 日 ø9ü8 年 8 月 ø8 日 ø9ü8 年 9 月 ø0 日 ø9ü8 年 9 月 ø0 日 ø9ü9 年 ù 月 ø7 日 ø9ü9 年 øø 月 øù 日 ø9ü9 年 øø 月 øù 日 ø9ý0 年 ú 月 ø7 日 ø9ý0 年 øù 月 ù0 日 ø9ý0 年 øù 月 ù0 日 | ùø.ü øø.ù 7.ü ü.ú 8.ø ù0.0 û.ú 7.0 8.0 ú7.0 ùü.0 úú.0 ø0.0 ù9.0 ùù.0 ø0.0 ùû.0 ù0.0 û0.0 ý.0 7.0 | ù0 ù0 ù0 øü øü øü øü ù0 øû ùü ùü øü øü ùü øü ùü øü øü ùú øü øü | ü ü ü û ü/8 û ú/û ü ü ü ú/û ü ü/8 ü ú/8 ü ú/8 ü ú/8 ü ú/8 ü ú/û ü ú/û ü ú/û ý ý ý ø/û ü ú/û ü ú/û | 電力(火力,関西電力)電力(火力,九州電力)電力(火力,中部電力)鉄鋼(八幡製鉄) 工業(機械・鉄鋼)鉄鋼(xx製鉄) 農業(農地開発機械公団)農業(愛知用水) 鉄鋼(xx製鉄) 電力(関西電力・黒部)電力(北陸電力・有峰)鉄鋼(住友金属) 鉄鋼(神戸製鋼) 電力(中部電力・畑薙)鉄鋼(日本鋼管) 電力(電源開発・御母衣)鉄鋼(富士製鉄) 鉄鋼(八幡製鉄)道路(名神高速)鉄鋼(xx製鉄) 鉄鋼(住友金属) | 日本開発銀行日本開発銀行日本開発銀行日本開発銀行日本開発銀行日本開発銀行 農地開発機械公団愛知用水公団 日本開発銀行日本開発銀行日本開発銀行日本開発銀行日本開発銀行日本開発銀行日本開発銀行日本開発銀行日本開発銀行日本開発銀行日本道路公団日本開発銀行 日本開発銀行 |
成城・経済研究 第ùúý 号(ù0ùù 年ú 月)
─ 7û ─
ùù | ø9ýø 年 ú 月 øý 日 | øù.0 | ù0 | ü ú/û | 電力(九州電力・火力) | 日本開発銀行 | |
ùú | ø9ýø 年 ü 月 ù 日 | 80.0 | ù0 | ü ú/û | 鉄道(東海道新幹線) | 日本国有鉄道 | |
ùû | ø9ýø 年 øø 月 ù9 日 | û0.0 | ùú | ü ú/û | 道路(名神高速) | 日本道路公団 | |
ùü | ø9ýú 年 9 月 ù7 日 | 7ü.0 | ùý | ü ø/ù | 道路(東名高速) | 日本道路公団 | |
ùý | ø9ýû 年 û 月 ùù 日 | ü0.0 | ùü | ü ø/ù | 道路(東名高速) | 日本道路公団 | |
ù7 | ø9ýû 年 øù 月 ùú 日 | ùü.0 | ùû | ü ø/ù | 道路(首都高速道路公団) | 首都高速道路公団 | |
ù8 | ø9ýü 年 ø 月 øú 日 | ùü.0 | ùü | ü ø/ù | 電力(電源開発・九頭竜) | 電源開発 | |
ù9 | ø9ýü 年 ü 月 ùý 日 | 7ü.0 | ùü | ý ø/ù | 道路(東名高速) | 日本道路公団 | |
ú0 | ø9ýü 年 9 月 ø0 日 | ùü.0 | ùû | ý ø/ù | 道路(阪神高速道路公団) | 阪神高速道路公団 | |
úø | ø9ýý 年 7 月 ù9 日 | ø00.0 | øü | ý ü/8 | 道路(東名高速) | 日本道路公団 | |
小計 | 8ýù.9 |
世界銀行の先進国に対する借款:ø9û7~ýý 年(下)
[注]ø.先進国= OECD・DAC 第 ø グループ国。 ù.金利は手数料 (commission) を含む。
─ 7ü ─
ú.金利の欄の「不定」は,あらかじめ金利が定められず,個々の貸付が実施される際に,その時の金利が適用される場合を指す。 û.ø9ýý 年の南アフリカ借款は,契約調印日を確認できなかったので,理事会承認日を取った。
[出所] IBRD, Eighteenth Xxxxxx Xxxxxx 0000-00, Xxxxxxxx X Xxxxxxxxx xx Xxxxx, Xxxx 00, 0000 を基にして,他の史料から情報を追加して作成した。