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平成15年3月14日判決言渡平成11年(ワ)第1960号 損害賠償請求事件主文
1 被告は,原告に対し,120万円及びこれに対する平成11年2月16日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
2 原告のその余の請求を棄却する。
3 訴訟費用はこれを20分し,その1を被告の負担とし,その余は原告の負担とする。
4 この判決は,第1項に限り,仮に執行することができる。事実及び理由
第1 請求
被告は,原告に対し,2412万8020円及びこれに対する平成11年2月16日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
第2 事案の概要
本件は,原告が,被告の設置する国立がんセンター中央病院において右の乳房を切除する手術を受けたが,原告の症状に照らし同手術は不要なものであり,的確なインフォームドコンセントがなかったと主張し,診療契約の債務不履行に基づく損害賠償を求めた事案である。
1 前提となる事実
(1) 原告は,昭和18年a月b日生まれ(平成4年7月当時48歳)の既婚の女性である。
被告は,国立がんセンター中央病院(以下「本件病院」という。)を設置しており,A医師は,同病院に勤務する医師である。
(2) 診療契約の締結
原告は,被告との間で,平成4年5月6日(以下,年を明記しないで月日を表示したときは,すべて平成4年当時のものとする。)以降,右乳房の分泌やしこりの診察,治療を目的として,本件病院乳腺外科を受診し,診療契約を締結した。
(3) A医師は,原告が本件病院を受診した5月6日以降,原告の主治医となった
(A証人)。
(4) A医師は,5月25日,原告の右乳房に存する病変部(以下「本件病変部」という。)を診断するために,腫瘤の摘出生検(腫瘤を周囲の健常部乳腺組織を含めて外科的に採取し病理組織診断を行う方法)を実施した。
(5) 原告は,7月27日,本件病院のB医師(術者)及びA医師(助手)により,単純乳房切除術(乳頭を含めた全乳腺を切除する方法,乙17)を受けた。
2 争点
(1) 単純乳房切除術は原告の症状には過大な措置であったかどうか。
(2) 被告の説明について過失があったかどうか。
(3) 原告の被った損害額
3 争点に対する当事者の主張
(1) 争点(1)(単純乳房切除術は原告の症状には過大な措置であったかどうか。)について
(原告の主張)
ア 本件病変部が良性腫瘍であり経過観察の適応があることについて
(ア) 本件病変部は,生検の後に行われた病理診断結果報告及びこれを前提 としたA医師の診断では,乳頭部腺腫である。乳頭部腺腫は,前がん状態ではない良性腫瘍であり,がん化の報告は極めて少なく,がんとの関連性はないとされ,切除後の再発,転移の報告も見当たらない。
したがって,同診断がされた以上は,良性腫瘍であることを前提に治療方針を決すべきであり,良性腫瘍である限り経過観察にとどめておくべきものであった(ただし,この場合の経過観察とは,漫然と放置することではなく,両乳房につき最低年
1から2回程度乳房検診を実施するとともに月1回の自己検診を行うよう医師が患者を指導することが前提である。)。
乳がん治療においては,近時,いわゆる乳房温存療法として,切除範囲をできるだけ限定する治療方針が望ましいとされる傾向にあり,乳房温存療法に対する評価も上がっていた。
このことは,良性腫瘍にすぎない乳頭部腺腫に対する治療にはより妥当し,医師には,身体に対する侵襲を必要最小限度にとどめるべきとの基本的な注意義務があ る。
しかし,A医師は同注意義務に違反し,本来経過観察で十分であるところ,必要も
ないのに侵襲の大きな単純乳房切除術を採用したものであって,この点に過失がある。
(イ) 病理医の診断について
生検のため摘出した腫瘤の病理組織検査報告書には,確かに異型を伴う病変であるとの記載があるが,同時に良性を示す所見として,乳管上皮と筋上皮細胞の二層性を示す部分があること,異型性の強い細胞についても,その核は微細であり,かつ核小体も小さいものが多いことが記載されている。そうすると総合的にみると,本件病変部は悪性に近いものとみるべきではない。
なお,被告は,病理組織検査報告書を作成するに当たって財団法人癌研究会癌研究所病理部にも標本を持参して診断内容のチェックを受けたと主張するが,診療録にその旨が一切記載されておらず,虚偽である。
イ 仮に本件病変部を切除する必要があるとしても,侵襲のより少ない他の術式を採るべきであることについて
良性腫瘍である乳頭部腺腫と確定診断された以上は経過観察によるべきである。しかし,仮に原告の本件病変部について切除が必要であったとしても,部分的な切除で足り,単純乳房切除術の必要はなかったものである。
(ア) 生検において,本件病変部を完全に除去すべきであったことについて
被告は,生検に際し,その実施前に乳管造影を実施して,罹患している乳腺を特定するか又は乳頭部の触診によって乳頭分泌の乳管開口部を特定すべきであった(そもそも,乳頭から分泌のある症状については,全例で乳管造影及び乳頭部触診をすべきである。)。そして,生検において,病変部を遺残なきよう切除すべきであった。
しかし,被告は,同注意義務に違反して病変部を特定しないまま生検を施行し,本件病変部を完全に除去しなかったものであり,この点に過失がある。
(イ) 生検後に追加切除するとしても部分切除で足りることについて
良性腫瘍である乳頭部腺腫の場合,基本的には腫瘤摘出術にとどめるべきであり,同乳腺腫瘤摘出(生検)組織標本を顕微鏡で見て病変部分を特定し,併せて乳腺腫瘤摘出(生検)前に実施した乳房X線撮影検査,乳房超音波検査,乳腺腫瘤摘出時の手術所見などを総合的に判断して追加切除部位を特定し,腫瘤が小さい場合は,腫瘤のみを切除し残った乳頭を寄せる乳頭部分切除術を,腫瘤が大きい場合は,腫瘤を含めた乳頭全切除術が推奨されている。
本件においても,より侵襲の少ない上記いずれかの術式を採ることができたものであって,単純乳房切除術の選択は誤りである。
(被告の主張)
ア 本件は良性腫瘍とはいえず,経過観察が適応しないことについて
(ア) 一般に乳頭部腺腫とは,乳頭内又は乳輪直下乳管内に生ずる乳頭状な いし充実性の腺腫であるところ,その病変は,良性の場合と,がんと断定できないが異型,すなわち悪性と良性との境界領域に属する場合とがみられる。本件病変部は異型を伴う乳頭部腺腫である。
そして,同疾患の場合,経過観察によるべきかどうかは,異型の程度,生検により病変が取り切れたかどうか,病変の部位,大きさ等により判断されるべきものである。
本件では,右乳頭,乳輪に近接し,一部乳輪下に及ぶ,1.8センチメートル×
1.2センチメートルの辺縁不整の腫瘤が認められ,生検の結果,異型性が強く悪性に近い病変があり,それが切除断端に露出しており,取り残しの可能性があっ て,完全に取り切ることが望ましいとされたものである。このような場合,単に経過観察によることは,浸潤性(進行性)乳がんの発生の危険性を考慮すると適切ではなく,むしろ病変部等の切除が必要不可欠であった。
(イ) 病理医の診断について
原告は,原告の乳頭部腺腫を総合的にみた場合,悪性に近い病変とみるべきではないと主張する。
しかし,病理組織検査の結果によれば,原告の病変部は,筋上皮細胞を伴い二層性構造を示す部分もあるが,二層性構造が不明瞭な部分もあり,そのような部分では個々の乳管上皮細胞の異型性はいちだんと強くなっており,やや大型の核を有することや,病変自体の硬い変化もみられ,かなり異型性の強い病変であることが診断されているのであるから,悪性に近い病変であることは明らかである。
病理組織検査に当たっては,2名の病理医(C病理研究室長,D病理部長)による二重の病理組織診断をした上,更に念のため財団法人癌研究会癌研究所病理部にも
標本を持参して同研究所の医師2名(E乳腺病理部長,F病理部研究員)にも見分してもらい,病理検査報告書記載の診断内容が適当であることを確認しているものであって,上記診断はこの意味からも適当である。
イ より侵襲の少ない他の術式を採ることができたかどうかについて (ア) 生検において病変部を除去すべきであったとの原告の主張について
乳管造影は,血性・漿水性乳頭分泌があるのに腫瘤が触知できないか,画像診断によってもその原因と思われる病巣が特定できない場合に,乳管内に発生したと思われる病変の存在とその部位を知るために行うものであって,腫瘤を触知できる症例について,病巣の広がりを検討するために行うものではない。乳頭部の触診による乳管開口部の特定も,腫瘤が非触知病変である場合にその病変部の特定のために行うにすぎない。
本件においては,腫瘤の触知とともに乳頭部の視触診により腫瘤部分付近に病変が存在することを確認できたのであるから,乳管造影の適応がなく,また,当時の医療水準のみならず現在においても,乳管造影や乳頭部の触診により病変の範囲を特定することは不可能である。
そして,生検は,病変の病理組織検査を目的として行うものであって,病変を取り切るためのものではない(結果的に病変を取り切れた場合には治療的効果をもつものにすぎない。)。
したがって,本件においても,病変の病理組織診断を目的として摘出生検を実施したものであるところ,結果的には病変を取り切ることができなかったものであるにすぎず,同病変を取り切ることができなかった点について被告に何らの過失もないことは明らかである。
(イ) 生検後に追加切除するとしても部分切除で足りるとの原告の主張について 摘出生検後においては,病変の遺残の程度は推定できず,原告主張の乳管造影,触診を含む諸検査によっても,適切な切除範囲を設定することは不可能であるから,乳頭・乳輪を含む広範囲切除である単純乳房切除術によらざるを得ない。
医療実務においては,一般に,単純乳房切除術は乳腺病変が広範囲に及ぶものや病変が高度の上皮増殖を示すものにも適応し,乳腺全摘手術は病理組織学的に判定が困難な境界領域病変に対しても行われるものである。本件では,前記の病変部の特性に照らし,小範囲の追加切除をしたとしても乳頭,乳輪を大きく損傷し,しかも病変部の取り残しの可能性があるのであるから,治療的にも,美容的にも単純乳房切除術が適応する。
(2) 争点(2)(被告の説明について過失があったかどうか。)について
(原告の主張)
ア A医師の説明状況について
(ア) A医師は,5月6日の初診の際には,原告の症状から推測される病名,これから行う検査の内容について全く説明せず,同月20日には,検査の結果を説明せず,乳頭分泌物の細胞診の結果について「結果はマイナスでした。でも取ってみなければ分からないんですよ。25日に手術しますから書類を書いて持ってきて下さい。」と言ったのみであった。
生検手術(5月25日)後には,原告が「結果は分からないのですか。」と尋ねたが,A医師はそれには答えず,「ご主人を連れてきて下さい。」と言ったのみであった。
(イ) 6月5日,原告と原告の夫がA医師と面会したが,その際,A医師は,生検の結果について境界領域であるとの結果を告げたが,境界領域の意味は説明せず,がんではないが悪性度が高く再発するとがんになる,手術についても部分的な切除は不可能であると断言したものの,術式に関する説明は一切されなかった。
原告は,このような誤った説明に基づいて手術を決心したものである。
(ウ) 6月11日に入院した後も,執刀医がA医師であることは告げられたもの の,手術についての具体的な説明がなく,境界領域がいかなるものなのかも依然として不明であった。
原告は,手術予定日の前日に,夫の勧めもあって手術の延期を申し出たところ,A医師は「構いませんよ,こちらは何も損をしませんからね。そちらが損をするだけですから。」と言い放ち,退院する際も今後について一切指示,説明をしなかっ た。
(エ) 1回目の退院後,原告は,A医師に対し,病状の説明や今後の方針等についての指示を求めたが,同医師は,病状については,「たちが悪い,再発するとがんになる,飛びますよ。」との説明しかせず,入院予約を入れておくよう指示したの
みであった。
原告は,原告の病状についてA医師が再発するとがんになる,飛ぶかもしれないと断言したことから,早急に手術する必要があると考え入院予約した。
(オ) 再入院後,手術実施までの間も,原告の病状及び手術について説明がなく,わずかに直前に原告が「どこをどれくらい切るのですか。」とA医師に質問したのに対して,無言のまま両手の人差し指で幅を示したのみであった。
(カ) 手術直後は,A医師から,原告の夫に対し,手術が無事終わったことと,摘出した組織を病理検査に回す旨は伝えられたが,手術内容の説明はなく,原告の夫が傷口はどれくらいか尋ねた際も,白板に15センチメートルほど斜めに線を引いて「きれいに仕上がった。」とのみ告げて退出した。その後数度原告が本件病院を受診した際も,診断が明らかにならなかった。
イ ところで,医師は,患者において当該治療行為を受けるかどうかを判断,決定する前提として,患者の現状とその原因,当該治療行為を採用する理由,治療行為の具体的内容,治療行為に伴う危険の程度,当該治療を受けなかった場合の予後について当時の医療水準に基づいてできるだけ具体的に説明する義務があり,同説明があっても承諾したであろうと認められない限り,患者の自己決定の機会を不当に奪ったものとして診療契約上の注意義務に違反した過失があるというべきである。これを本件についてみると,A医師は,手術の前後に原告の症状についての診断 名,「境界領域」の意味,病気の内容,治療方法についての内容,危険性,治療を回避した場合の予後等について一切説明しなかった上,原告の病状について再発したらがんになる,飛ぶ等の誤った説明をしたものであり,手術の執刀医もA医師と説明していながら実際はB医師が執刀したものであって,A医師の説明には上記注意義務に違反した過失があり,原告の自己決定権が侵害されたことは明らかであ る。
仮に手術の必要性があったとしても手術方法の選択について様々な検討や患者への丁寧な説明,患者が参加した治療方針の検討がされてしかるべきところ,A医師はこのような配慮は一切示さなかったものであり,この点でも義務違反があるというべきである。
そして,同説明義務を尽くしていたなら,原告は本件手術を回避していたものであるから,原告の後記損害の全部について因果関係がある。
(被告の主張)
ア A医師の説明状況について A医師が原告に対してした説明のうち主要なものは次のとおりである。
(ア) A医師は,5月6日の初診の際,原告に対し,診断名は乳管内がんあるいは乳頭腫が疑われること,検査としては,細胞診,マンモグラフィー,超音波検査が必要であることをそれぞれ説明した。
(イ) A医師は,原告の細胞診の結果は陰性であったが,マンモグラフィーではがんあるいは乳頭腫の疑いがあり,超音波検査では乳頭腫と判断されたので,5月2
0日,原告に対し,これらのことを報告した。そして,これらの結果からがんの疑いがあると認めて生検(腫瘤摘出生検)を勧め,生検を施行するにつき本人の了解
(手術承諾書への署名,捺印)を得た。
(ウ) A医師は,6月3日には原告に対し,同月5日には原告と原告の夫に対し,病理医作成の病理組織検査報告書を示しながら,病理検査の結果,病名は異型を伴う乳頭部腺腫で,異型,すなわち悪性と良性の境界領域であるが悪性に近い病変があり,それが切除断端に露出しており取り残しの可能性があること,経過観察中に浸潤性乳がんが発生する可能性があること,乳頭,乳輪,全乳腺を含む広範囲切除すなわち単純乳房切除により完全に取り切ることが望ましいことを説明し,原告が悪いところだけ取ればよいのではないかという趣旨の質問をしたのに対しては,病変が残っているかどうか,あるいは残っている場合でも,どこにどのような病変が残っているのかは予測できないと答えた。
(エ) 原告が入院した6月11日の翌日である6月12日には,病状は悪性 に近い異型を伴った境界領域の病変であり,切除断端に病変が露出していること,治療方針としては手術が望ましく,ある程度広く取ると乳頭,乳輪,全乳腺も含まれる単純乳房切除になるのはやむを得ないことなどを説明した。
(オ) A医師は,6月18日,原告に対し,手術が6月23日に決まった旨を連絡するとともに,既に6月3日,5日,12日に行った手術内容の説明を確認の趣旨で繰り返し説明した。
(カ) 原告が6月22日に退院するに際しては,A医師は,原告との間で3か月に
一度は経過観察することで了解し,また患者が退院した場合には通常1,2週間後に来院を指示しているので,本件でも同様に指示した結果,同月26日に原告は外来の診察を受けたものである。
(キ) 7月1日,A医師は原告から他院あての紹介状の作成を依頼され,同月3日までに作成しておくので取りに来るよう告げた。そして,3日に原告が紹介状を取りに来た際,原告が「紹介先の先生と相談して手術をすることになったら,そのときはもう一度入院したいので,今入院予約できますか。」と尋ねたので,「手術を受ける気持ちになられても当院ではかなりの日数を入院待ちとなってしまい,すぐ入院できないので,入院予約をしておきましょう。」と回答した。
その結果,原告は入院予約をしたものである。
(ク) A医師は,2回目の入院後の7月23日午前,原告に対し,登録番号,患者氏名,手術名,実施予定年,担当医師名を記載した手術同意書(手術日はまだ決まっていなかった。)を渡してその作成を求め,同日原告からその署名,捺印及び年月日の記載を得た上,手術当日(7月27日)の朝,看護記録を見て原告が手術は受け入れているが傷の心配をしていることを知り,原告の下に行き,確認の意味で手術の術式と傷の大きさと部位を説明した。
なお,執刀医については,複数の医師で手術を行うので,A医師自身も手術に加わる旨の説明をした。
(ケ) 退院日(8月3日)ころ,A医師は追加切除標本の病理組織検査の結果について説明し,8月12日には,経過観察のため,6か月後に来院するよう指示し た。
イ 上記のように,A医師は,原告及び原告の夫に対し,手術前には検査結果や正確な病名,手術方法等について十分に説明し,原告の選択,同意を得た上で単純乳房切除術を施行したものである。
原告は,A医師から十分に病名,症状,治療方針等の説明を受けながら第1回目の入院で手術を取りやめ,退院後,他の病院あての紹介状の発行を依頼,受領し,積極的にセカンドオピニオン(他の医師に意見を求めること)を求めて行動していることや,第2回目の入院日である7月17日から本件手術日である同月27日に至るまでの間,複数の本件病院の看護師に対し,自己の意思によって本件手術を受ける決断をした旨の意向を複数回表明していることに照らすと,A医師の説明について過失がないことは明らかである。
(3) 争点(3)(原告の被った損害額)について
(原告の主張)
ア 治療費及び入院費
原告は,本件手術での過失により,治療費相当額の損害を被ったところ,本件病院に支払った治療費及び入院費は12万8020円である。
イ 乳房形成費
原告は,失った右乳房について,乳房再建のための形成手術を予定しているとこ ろ,その手術費用としては少なくとも150万円の金額が必要であり,被告は同損害を賠償する責任がある。
ウ 慰謝料
原告は,本件手術で右乳房を失ったことにより,身体的には,右手を上げたときの不快感や傷の痛み,肩こりなどの症状が残り,傷の保護なしでは物を背負ったり,シートベルトをしたりすることができなくなった。また,精神的には,乳房を失ったことによる喪失感が強く,また実際的な問題としては温泉入浴や病院における上半身の診察に躊躇を覚え,周囲が必ずがん患者であると誤解してしまうなどの苦痛を受けている。
これらの苦痛を金銭に換算すると,その金額は2000万円を下らない。エ 弁護士費用
原告は,原告訴訟代理人らに対し,本件訴訟の提起,追行を依頼し,その費用として東京弁護士会報酬会規に基づき250万円の支払を約した。したがって,被告 は,上記アないしエの合計2412万8020円及びこれに対する訴状送達の日の翌日(平成11年2月16日)からの遅延損害金を支払う義務がある。
(被告の主張)
原告の主張を争う。 第3 当裁判所の判断
1 本件の経緯及び当時の医学的知見等
(1) 原告の診療の経過について,証拠(甲19,29,53,55ないし58,乙
1,9,15,19,23,29,30,33,38,41,47,49,A証 人,原告本人,枝番号略,以下同じ。)及び弁論の全趣旨によれば,以下の事実が認められる。
ア 原告は,左鼻出血が続いたため,昭和61年6月12日,本件病院とは別の病院において左上顎洞のX線検査を受け,上顎洞がんの疑いがあると診断された。原告は,同月20日,原告の夫(内科医)の紹介で本件病院を受診したところ,上記 X線写真により,がんではなく上顎洞炎であると診断され手術を免れた。そのた め,原告及び原告の夫は,本件病院の専門医の診断能力を強く信頼するようになった。
イ 原告は,4月20日ころ,右乳頭からの黄色の分泌物,乳頭部の変形,しこりがあったことから,同月23日及び5月1日,H病院を受診して,視診,触診,乳房X線検査(マンモグラフィー),乳腺超音波検査,細胞診を受けた。同病院の医師は,これらの検査の結果,のう胞内腫瘍(悪性)の疑いがあると診断した。
ウ 原告は,上記病院の待ち時間が長く疲労を感じるなどしたため,原告の夫と相談して,5月6日,本件病院を外来受診し,A医師の診察を受けた。A医師は,右乳頭部上方に1.8センチメートル×1.2センチメートルの腫瘤を認めるとともに,右乳頭部より黄色分泌物を認め,乳管内がん(乳頭腫)の疑いがあるとして,乳頭分泌の細胞診検査を施行した。細胞診検査の結果は,がんについては陰性であった。
エ 原告は,5月13日,A医師の指示により,本件病院において,乳房X線検査
(マンモグラフィー)及び乳腺超音波検査を受けた。乳房X線検査の結果は乳がん又は乳頭腫であり,乳腺超音波検査の結果は乳管内乳頭腫であった。 A医師は,5月20日,原告を診察し,上記各検査結果から乳腺のう胞内乳頭腫の疑いがあるとみて,原告に対し,腫瘤を取ってみなければ分からないと告げて,腫瘤の摘出生検を勧め,5月25日に生検を実施することになった。
オ A医師は,5月25日,腫瘤の摘出生検を施行し,原告の右乳頭の真上を水平に約28ミリメートル切開して腫瘤を摘出し,摘出した組織について悪性の有無の判断を目的として病理組織検査を依頼した。
本件病院のC医師及びD医師は,摘出した腫瘤の病理組織検査を行い,財団法人癌研究会癌研究所病理部に標本を持参してE医師及びF医師のコンサルテーションを受けた上で(C医師及びD医師がコンサルテーションを受けた事実については,診療録及び病理組織検査の報告書中にこれをうかがわせる記載はないが,E医師及び F医師が当時病理組織上診断困難でまれな症例について本件病院から依頼を受けてコンサルテーションを行っていたこと(乙15,49),本件腫瘤が後記のとおり病理組織上診断が困難,かつ,まれな症例であったこと,C医師及びD医師がコンサルテーションを受けたと供述していること(乙49)から,これを認めることができる。),「組織学的には病変は著しい乳頭状増殖を示す異型的な乳管上皮の増加からなる。それらの中には筋上皮細胞を伴い二層性構造を示す部もあるが,そのような所見が不明瞭な部もある。そのような部では個々の乳管上皮細胞の異型性は一段と強くなっており,やや大型の核を有す。ただし,核質は微細であり,核小体も小型のものが多い。病変自体の硬い変化もある。かなり異型性の強い病変であるが,その発生部位も考慮に入れると,乳頭部腺腫が最も考えられる。
不完全切除である。断端に病変が露出している。明らかに悪性とは言い切れないが異型を伴う病変であり,完全に取り切ることが望ましい。」との所見から,「右乳房の異型を伴った乳頭部腺腫」と診断し,5月29日,診断結果をA医師に報告した。
本件病院のC医師は,摘出した腫瘤の病理免疫染色検査を行い,病理免疫染色によっても,異型を伴った乳頭部腺腫という診断に変更はないと診断し,6月4日,診断結果をA医師に報告した。
カ A医師は,6月3日,生検の際の傷について抜糸を施行し,傷に問題がないことを確認した。原告は,A医師に対し,同日,生検の結果を尋ねたところ,同医師は原告の夫を連れてくるよう指示した。
ところで,A医師は,同日の原告に対する説明状況について,生検の結果に基づいて,悪性とは言い切れないが異型を伴う病変であり,切除断端が病巣に露出していること,病名は異型を伴う乳頭部腺腫であること,経過観察をした場合相当数の浸潤性がんが認められること,小範囲の部分切除を行ったとしても乳頭・乳輪を大きく損傷し,病変の再遺残の可能性があることから,単純乳房切除術の適応があると説明した上,病変の状態を記載した図面を交付したと供述する。
しかしながら,診療録にはA医師が原告に上記説明をした旨の記載は一切ない上, A医師が,病理免疫染色(予後とがんとの区別を目的とする)の診断結果が報告される前の時点において事後の治療方針を説明したというのは不合理であるから,A医師の上記供述を採用することはできず,A医師が上記説明をした事実及び図面を交付した事実は,これを認めることができない。 A医師は,本件病院の外来を訪れた原告及び原告の夫に対し,6月5日,病理診断の結果は境界領域であるが,悪性度が高いこと,病理医の判断によると全部完全に切除しないと再発してがん化して危険であること,放置すれば命にかかわるので乳房を切除する必要があることを説明した。原告は,A医師に対し,がんではないのだから悪いところだけを部分的に取ればよいのではないかと尋ねたところ,同医師は,部分的に取ると跡が噴火口のようになり,そのような中途半端な手術はできないと答えて,単純乳房切除術を勧めた。原告は,前記のとおり,本件病院の専門医の診断能力に対する強い信頼もあって,本件病院ががんに関しては日本で最も権威があり,同病院の乳腺外科の専門医であるA医師の言うことは正しく絶対的なものであると考えていたことから,同医師の上記説明により手術以外の選択肢はないものと考え,同医師の指示に従い,同日,本件病院の入院を予約した。
キ 1回目の入院
原告は,6月11日,本件病院に入院し,翌12日,看護師から外泊の指示を受けて,同日から18日までを自宅で過ごした。
ところで,A医師は,原告が入院した際に病気の性質や手術の妥当性を説明した し,看護記録に「ムンテラ後外泊す」と記載されていることは,A医師が説明したことを示していると供述する。
しかしながら,上記診療録の記載は看護師の指示を記載したものと認めるのが相当であって,A医師が上記説明をしたと認めることはできない。
原告の夫は,6月12日,A医師の診察室を訪れて,病理診断が悪性であるかどうかの確認を求めたところ,同医師は,悪性と考えてよい,完全に取り切れば治癒するが残しておけば命にかかわると答えた。なお,原告の夫は,自身が内科医であることから,A医師と面会した際,手術の立会を申し入れたが,A医師はこれを拒否した。 A医師は,6月18日,帰院した原告に対し,手術が6月23日に決まったことを告げた。原告は,6月18日,再度同月21日までの外泊を指示されて同期間を自宅で過ごした。
原告は,6月21日に帰院したものの,病状については,A医師から境界領域という説明を受けただけで,その具体的内容は理解できなかったこと,同室の患者が術後苦しそうにしているのを見たことから手術の必要性に対する不安を募らせ,A医師に対し,同月22日,手術の延期を申し出た。これに対して,A医師は,「構いませんよ。こちらは何も損はしませんからね。そちらが損をするだけですから
ね。」と述べた。原告は,看護師からも手術の予定が決まっていたのだからA医師が立腹するのもやむを得ないと言われ,その後の指示もなかったので,そのまま帰宅した。
原告は,6月26日,A医師の外来を受診して病状の確認とその後の指示を求めたところ,同医師は,これには答えず,同日の時点で腫瘤及び腋窩リンパ節腫の触知がないと診断するとともに,原告に対し,原告の夫を連れてくるよう指示した。 そこで,原告の夫は,同月29日,本件病院にA医師を訪ねた。同医師は,ナースセンターの前で原告の夫に面談し,今後の対応について尋ねられると,「2,3か月先に予約を入れておいて下さい。」とのみ述べて,そのまま立ち去ってしまっ た。原告の夫は,A医師の応対及び原告の病状等について詳しい説明をしない態度に不審を抱き,帰宅後,原告に対し,本件病院からの転院を勧めた。
ク 原告は,本件病院からの転院を考え,7月1日,A医師の外来を受診して,転院のための紹介状の作成及び病変に関する資料の交付を依頼した。A医師は,同日中には渡すことはできないと告げ,次の患者がいるのでと述べて原告に退出を促した。その後,同日付けの紹介状を作成した。
原告は,なおも本件病院を強く信頼しており手術するのであれば本件病院でと希望していたが,手術の延期を申し出た後のA医師の対応から気を悪くしているのではないかと不安になり,また,A医師から以前にがん化の危険を指摘され,手術の延期を申し出た際も「そちらが損をするだけですからね。」などと言われていたことから,手術を先送りすると手遅れになるのではないかと不安が募った。そこで,原告は,再度同医師の話を聞いた上で転院するか本件病院で手術を受けるかを決めよ
うと考え,7月3日,A医師の外来を受診して,境界領域の意味や2,3か月後の予約で手遅れにならないかについて尋ねた。A医師は,病状や予後について詳しい説明はせず,「xxxのはたちが悪い。再発するとがんになって危険ですよ。飛ぶかもしれませんよ。」などと述べた。原告は,A医師の発言を聞いて,自身の病変はいつ転移するかも分からないものであり,早急に手術を受けなければ手遅れになると考えて,本件病院において手術を受けることを決意し,同日,本件病院の入院を予約した。その際,A医師は,原告に紹介状を交付しなかった。
ところで,A医師は,同日の診察状況について,同日,原告に紹介状を交付し,後日,原告から返還を受けたと供述する。
しかしながら,A医師が作成した紹介状の記載は原告が他の病院を受診することを前提とするものであるから,A医師が,単純乳房切除術の施行のための入院予約
(入院予約から2回目の入院までは2週間と短期間であり,この間に原告が他の病院において診察を受けることが予定されていたとはいい難い。)を指示しておきながら,これと同時に原告に対し上記紹介状を交付するということは相容れない上,本件病院の領収書上も文書作成料が計上されていないから(甲56の10・1
1),A医師の供述は,これを採用することができない。
原告は,7月10日及び同月15日,A医師の診察を受けた。ケ 2回目の入院
原告は,7月17日,本件病院に再度入院し,同日,同月19日までの外泊を指示されて同期間を自宅で過ごし,7月19日,帰院した。 A医師は,同月23日,原告の病室を訪れ,原告に対し,「一応形式ですから。」と告げて,「手術名 右乳房切除術」「このたび上記の手術を受けるにあたり,その内容,予後などについて担当の医師から詳細な説明を受け,了解しましたので,その実施に同意いたします。」と記載された手術同意書をベッドの上に置いて立ち去った。原告は,A医師からの詳細な説明は受けていなかったものの,手術前に詳細な説明があるはずであり,命にかかわることはA医師に任せるしかないと考え て,同書面に日付を記入して署名捺印した。 A医師は,同月24日,原告の病室を訪れ,原告に対し,手術を同月27日に行うことを告げて退室した。その後,原告は,看護師に対し,A医師から手術内容等に関する説明を受けることを要望したが,結局,その機会を得ることはできなかっ た。
原告は,2回目の入院期間中,病変の転移に対する恐怖心からA医師に任せるほかないという気持ちと乳房喪失を受け入れられない気持ちとの間で揺れつつ,夜間は眠れずに過ごしていた。
原告は,切除部分及び切除後の傷の大きさがよく分からなかったことから,手術当日の7月27日,病室を訪れたA医師に対し,これを尋ねたところ,同医師は,無言のまま両手で20から30センチメートル位の幅を示して退室した。
コ 本件手術 B医師(術者)及びA医師(助手)は,7月27日,原告に対する単純乳房切除術を施行し,残存腫瘍の有無及び悪性の有無の判断を目的として,追加切除標本について病理組織検査を依頼した。 C医師及びD医師の2名の検査医は,その後,追加切除標本の病理組織検査を行 い,「乳頭部腺腫の遺残を認めず,乳腺組織にはアクポリン腺,盲端腺増生症及び導管内乳頭腫症といった病変が散見される」との所見から,「線維性のう胞性疾 患」と診断した。 A医師は,原告の夫に対し,本件手術後,説明室において,手術は無事終了した,触ったところ腫瘍はなく割を入れたが何もなかった,切除した組織は病理検査に回したと説明した。A医師は,原告の夫が傷の大きさを尋ねたのに対し,白板に15センチメートルほど斜めに直線を引き,きれいに仕上がったと告げて退室した。 B医師は,7月29日,原告のドレーンを抜去し,原告は,8月3日,本件病院を退院した。 A医師は,同月12日,原告の夫を伴って通院した原告の抜糸を行い,病理検査の結果,遺残はないこと,今回の治療は終了したこと,残存した左乳房について年に
1回か半年に1回検査すればよいことを説明した。
サ 原告は,その後,乳がん患者の団体である「あけぼの会」の会報の送付を受けるなどして乳がんに関する知識を得て,乳房再建手術を考えるようになり,10月
27日,都立駒込病院形成外科のG医師の診察を受けた。G医師は,乳房再建手術の前提として原告の診断名を把握するために,A医師あての照会状を作成して,こ
れを原告に渡した。
原告は,11月2日,本件病院に診断書の発行を申請した。また,原告は,同月6日,A医師の外来を受診して,G医師からの照会状を渡して原告の正確な診断名及び手術内容の説明を求めるとともに,重ねて診断書の作成を依頼した。A医師は,
11月18日付けで原告の入院証明書(診断書)を作成し,これを原告に送付し た。入院証明書(診断書)には,原告の傷病名として「右乳腺腫瘍」と記載されていた。
シ 原告は,他の医師による手術後の検診を受けようと考えて,11月27日,江戸川病院乳腺外科を受診した。同病院の医師は,原告に対し,本件病院から病変の標本及び病理診断報告書を借りてくるよう指示した。
原告及び原告の夫は,12月16日,A医師の外来を受診して,病変の標本と病理診断報告書の貸与を申し入れたところ,標本のみが貸与された。
ス 原告は,本件手術後,精神的に落ち込む日が続いたほか,手術の創傷の突っ張り感,乳房を喪失したことにより左右の均衡が取れない不快感,物を背負ったりシートベルトを着用した際の痛みを感じるようになった。また,温泉等の公衆浴場に入ったり,病院で上半身の診察や検査を受けることがためらわれるようになり,薄い服を着る際には容姿を整えるための下着及びパッドを入れなければならなくなった。
一般に,乳房の再建手術を行う場合,入院費,手術料,麻酔費などを含め概ね10
0万円前後の費用(健康保険の適用がある。)がかかる。
(2) 乳頭部腺腫に関する医学的知見について,証拠(甲1,5ないし10,13,
15,16,18,22,30ないし32,38,60ないし62,66,乙4,
7,8,20,21,34,35,43,44,49)及び弁論の全趣旨によれば,以下の事実が認められる。
ア 乳頭部腺腫は,乳頭内又は乳輪直下の乳管内に生じる乳頭状ないしは充実性の腺腫であり,乳腺腫瘍のうち良性の上皮性腫瘍に分類される。乳頭部腺腫の臨床症状には,乳頭部のびらん・潰瘍,腫瘤・硬結,乳頭異常分泌等がある。
乳頭部腺腫は,本件病院の開院後26年間で10症例以下と比較的まれな病変であること,乳管内の上皮細胞の増殖性,軽度の核異型を伴うことなどから,浸潤がんと見誤られることがある。乳頭部腺腫と浸潤がんとの病理組織学的な鑑別点とし て,①腺管上皮の二層性が保たれていること,②上皮細胞に異型性がみられないこと,③上皮壊死を伴わないことが挙げられている。
イ 乳頭部腺腫は,がん化の報告が極めて少ないことから,一般に前がん状態ではない良性腫瘍であり,腫瘤摘出のみで十分であるといわれている。
乳頭部腺腫は,良性腫瘍に分類されるが,前がん病変である場合や良悪性の鑑別が困難な場合(境界病変)も存在し,まれではあるが,乳頭部腺腫が悪性化した症例の報告もある。また,異型を伴う乳腺病変の場合,乳がん発生の危険性は通常人の
13ないし16倍であるとの報告もある。乳頭部腺腫とがんとの因果関係については未だ不明な点が多くあって症例の集積が必要であるとされている。
ウ 単純乳房切除術は,乳頭及び乳輪を残さずに,内側は胸骨外縁,上方は鎖骨 下,外側は後背筋外縁,下方は腹直筋鞘の上までの範囲で,乳腺組織を切除する手術であり,良性疾患,乳腺病変が広範囲に及ぶもの,境界病変にも適応があるとされている。
エ 乳管造影は血性あるいは漿液性の乳頭分泌の認められる乳管開口部から造影剤を注入し乳管開口部を密封した後X線撮影を行う検査であり,乳管の病変の部位診断には有力な手段とされている。乳管造影は,一般に乳頭異常分泌があるが,腫瘤が触知できない場合に行われ,腫瘤が触知できれば乳管造影を行う必要はないとされている。また,腫瘤が乳頭・乳輪近くに存在する場合,腫瘤の存在により,乳管内に造影剤を注入することは困難である。
2 争点(1)(単純乳房切除術は原告の症状には過大な措置であったかどうか。)について
前記1の認定事実を前提として,原告の病変とこれに対して採るべき措置について検討する。
(1) A医師が病理組織診断等を踏まえて本件病変を「異型を伴う乳頭部腺腫」と診断したことは前記のとおりであるが,乳頭部腺腫はもともと乳管内の上皮細胞の異型を伴うという特徴を有するものであること,本件病変部については,病理組織診断において乳管上皮細胞と筋上皮細胞の二層性を保っている部分も存在していたことによれば,同診断における「異型を伴う」という部分は,病理組織検査を行った
C医師及びD医師が,乳頭部腺腫との診断に,異型の存在からこれを付記したものにすぎないと認められる。
そうすると,本件病変部は,異型を伴うからといって,直ちにこれが前がん病変であるとか良性悪性の鑑別困難な境界病変であると断定することはできないものといわなければならない。
もっとも,乳頭部腺腫は,一般に前がん状態ではない良性腫瘍とされているのであるから,本件病変部ががん化する可能性が高かったとはいえないが,前記のとおり
(前記1(2)イ),乳頭部腺腫とがんとの因果関係については,未だ不明な点が多くあったことも考慮すると,本件病変部ががん化する可能性を全く否定することはできないものである。
(2) ところで,本件手術により切除された標本には遺残腫瘍は確認されなかったものであるが,乳頭部腺腫の場合,遺残腫瘍が存在するにもかかわらず,追加手術標本中に遺残腫瘍が確認されないことはよくあることであって(甲59,乙3),他方,摘出生検の標本では断端に腫瘍細胞が露出していたのであるから,摘出生検後の原告の右乳房には遺残腫瘍が存在していたものと認められる。
このように,生検後に乳頭部腺腫の遺残腫瘍が存在する場合,病変が持続して症状の再発が起こることがあり,しかも,前記のとおり,がん化する可能性も必ずしも否定できなかったのであるから,遺残腫瘍の追加切除は必要であり,本件病変について経過観察の適応はなかったものと認められる。
もっとも,本件病変につき経過観察の適応がなかったとしても,A医師自身も認めているとおり(A証人),これを直ちに切除しなければならないというほどの緊急性があったとは認められない。
(3) 上記のとおり,原告については遺残腫瘍を追加切除する必要があったものであるが,その場合の適切な切除範囲について検討する。
原告の腫瘤は,乳頭,乳輪の近くに存在し,しかも生検後病変部が断端に露出していたため,乳管内に造影剤を注入することは困難であり,遺残腫瘍がどの範囲で広がっているかを特定することは不可能であったものと認められる。
そうすると,本件については,残存腫瘍ががん化する可能性を必ずしも否定できないこと,遺残腫瘍の広がりの範囲を特定できないこと,単純乳房切除術が病変が広範囲に及ぶ良性疾患にも適応があることから,がん化の危険を避けるために残存腫瘍を完全に除去する方法として,単純乳房切除術の適応があったものというべきである。
したがって,A医師が,単純乳房切除術を実施したことに過失があるとは認められない。
もっとも,前記のとおり,一般には,乳頭部腺腫は前がん状態ではない良性腫瘍であり,腫瘤摘出のみで十分であるとされていること,がん化の危険が高いとはいえないことから,生検において摘出した部位を中心に乳頭部を含めた範囲の部分切除にとどめることも不相当な処置とはいえないものである。
(4) なお,前記認定のとおり,A医師は,生検に際し,乳管造影により罹患している乳腺の特定をせず,また乳頭部の触診によって乳頭分泌の乳管開口部を特定しなかったことが明らかである。
しかし,前記認定のとおり,一般に乳頭異常分泌があっても腫瘤が触知できる場合には乳管造影を行う必要はないとされているところ,本件の場合腫瘤を乳頭,乳輪に近い位置に触知できたのであるから,腫瘤と乳頭分泌との因果関係が明らかであった上,乳頭・乳輪近くに存在する腫瘤のために乳管内に造影剤を注入することは困難であったと認められる。そして,触診によって乳頭分泌の乳管開口部を特定しても,乳管内部の病巣の広がりを把握することが可能となるわけではないし,摘出生検は病変の病理組織診断を目的として行われるものであって病変を除去するためのものではないことが認められる(乙19)。
そうすると,本件において,生検の実施前に乳管造影等により罹患している乳腺を特定し,生検において病変全部を除去すべき注意義務は認められないから,この点に関するA医師の過失もまた認めることができない。
3 争点(2)(被告の説明について過失があったかどうか。)について
(1) 医師は,患者の疾患の治療のために手術を実施するに当たっては,診療契約に基づき,特別の事情のない限り,患者に対し,当該疾患の診断(病名と病状),実施予定の手術の内容,手術に付随する危険性,他に選択可能な治療方法があれば,その内容と利害得失,予後などについて,これを説明すべき義務があると解され
る。
このように医師が患者に対して行うことが求められる説明は,患者が自らの身に行われようとする手術につき,その利害得失を理解した上で,当該手術を受けるか否かについて熟慮し,決断することを助けるために行われるものである。特に単純乳房切除術は,体幹表面にあって女性を象徴する乳房を切除する手術であり,手術により乳房を失わせることは,患者に対し,身体的障害を来すのみならず,外観上の変ぼうによる精神面・心理面への著しい影響ももたらすものであって,患者自身の生き方や人生の根幹に関係する生活の質にもかかわるものであるから,手術の緊急性があるというような事情のない限り,医師は,患者に対し,当該手術を受けるか否かについて熟慮し判断する機会を与えることが求められるべきものである。
(2) 前記認定のとおり,原告の病変については,診断名が「異型を伴う乳頭部腺腫」であるところ,乳頭部腺腫は一般に前がん状態ではない良性腫瘍とされてお り,生検後の遺残腫瘍の追加切除に当たっては乳頭及び乳輪下組織の切除で十分であるとされていること,生検において摘出した部位を中心に乳頭部を含めた範囲の部分切除にとどめることも不相当な措置とはいえないこと,経過観察の適応がないとしても,直ちに切除手術を受けることが必要な切迫した状況にはなかったことが明らかである。
したがって,A医師は,原告に対し,これらの事柄を説明して,本件手術を受けるか否かについて熟慮する機会を与えるべき義務を負っていたものというべきであ る。
本件については,特にがんではないのに単純乳房切除術が必要であるというA医師の診断の内容は,原告にとって理解することの困難なものであったと考えられる。実際にも,原告は,手術の必要性に対する疑念から,一度は手術の延期を申し出, A医師に対し,病状等について詳しい説明を求め,場合によっては他の病院での診断も受けるなどして,手術をするか否かを熟慮したいと真摯に申し入れていたものである。加えて,前記のとおり,本件においては,病変部を直ちに切除しなければならないほどの緊急性は認められないのであるから,A医師は,原告に対し,病状等を丁寧に説明し,熟慮する機会を与えなければならなかったものである。
さらに,前記のとおり,本件については生検において摘出した部位を中心に部分切除にとどめることも不相当な処置とはいえず,原告には,腫瘍の一部を残す危険と一部でも乳房を残す利益とを比較衡量し,単純乳房切除術を受けるか部分切除にとどめるかを選択する余地があったということができる。
しかし,A医師は,原告に対し,病状等について「悪性と良性の境界領域」という程度の説明に終始し,部分切除の可能性についてもこれを断定的に否定し,その上で「そちらが損をするだけですからね」「再発するとがんになりますよ」「飛ぶかもしれませんよ」などとがん化の危険性を殊更に強調し,原告の不安をあおるような発言をしたのであり,このようなA医師の対応から,原告は,A医師の指示に従い直ちに単純乳房切除術を受けなければ生命にかかわると思い込み,病状や治療方針について理解し熟慮したいという希望を断念し,xxは納得しないままに単純乳房切除術を受けることとなったものである。 A医師の上記のような対応は,原告に対し,単純乳房切除術を受けるか否かを熟慮し選択する機会を一切与えず,結果的に,自己の診断を受け入れるよう心理的な強制を与えたもので,診療契約上の説明義務を尽くしたとはいい難く,同義務に違反した過失が認められる。
(3) A医師は,被告の設置する本件病院の医師であり,同医師の過失はxxx上被告の過失と同視することができるから,被告は,原告に対し,A医師の説明義務違反によって原告が被った後記4の損害を賠償する義務を負う。
4 争点(3)(原告の被った損害額)について
(1) 被告は,A医師が,本件手術の施行により,原告の病変を治療し,病変のがん化による原告の生命に対する危険性を排除した限りにおいては,診療契約上の債務を履行したものということができる。
したがって,原告が損害として主張する治療費,入院費及び乳房形成費はいずれも説明義務違反により原告が被った損害とみることはできず,原告はその賠償を請求することができない。
(2) しかし,原告は,A医師の上記説明義務違反により自己決定権を侵害されたことにより精神的苦痛を被ったものと認められる。そして,原告が熟慮する機会を与えられないまま乳房を喪失し,その結果を受け入れられずに苦悩していること,A医師の説明義務違反は本件病院に対する原告の強い信頼を裏切る結果となったこ
と,他方,本件手術自体は原告の生命に対する危険性を回避するために実施された
こと等に照らせば,原告が被った精神的苦痛を慰謝するための慰謝料は100万円と認めるのが相当である。
(3) 原告が本件訴訟の追行を原告訴訟代理人らに委任したことは明らかであり,本件事案の性質,認容額その他諸般の事情を考慮すると,A医師の説明義務違反と相当因果関係のある弁護士費用の額は20万円と認めるのが相当である。
5 以上のとおり,原告の請求は,被告に対し120万円及びこれに対する訴状送達の日の翌日である平成11年2月16日から支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があるからこれを認容し,その余の請求は理由がないからこれを棄却し,訴訟費用の負担につき民訴法61条,64条本文を,仮執行宣言につき同法259条1項をそれぞれ適用し,仮執行免脱宣言については相当でないからこれを付さないこととして,主文のとおり判決する。
東京地方裁判所民事第15部
裁判長裁判官 xxxx
裁判官 xxxx
裁判官 xx x