Contract
特集 : その裏にある歴史
なぜ退職すれば違約金を支払わせることは禁止されているのか
xx xx
(茨城大学教授)
経営者は, 教育訓練などの投資をした将来xxな人材については, できるだけ長く会社に貢献してもらおうと, 一定の勤続年数を経ないうちに辞めれば違約金を払うという契約を結びたいと考える場合があろう。このような契約は, 経済的合理性をもち, 会社が有能な人材に投資をするインセンティブとなり, ひいては労働者の利益とならないのか。 しかし, 労働基準法 (以下, 労基法という) 16 条は, こうした違約金を禁止しているという。 それはなぜなのか。
労基法 16 条がなにを禁止しているのか, 許されない制度と許される制度とを具体的に検討していく必要がある。
1 労働基準法 16条
退職すれば違約金を支払わせることは, 労基法 16条で禁止されている。 労基法 16 条 (賠償予定の禁止)は, 「使用者は, 労働契約の不履行について違約金を定め, 又は損害賠償額を予定する契約をしてはならない」 と規定している。
この禁止に違反した契約は, 労基法 13 条 (「この法律で定める基準に達しない労働条件を定める労働契約は, その部分については無効とする」) によって, 無効となる。 さらに, 16 条違反は, 労基法 119 条によって, 「六箇月以下の懲役又は三十万円以下の罰金に処する」 という刑事罰も科されることになる。
この 16 条もふくむ労基法は, 戦後直後の 1947 年に制定された。
なぜ戦後直後に制定された労基法に, このような厳しい 16 条の規定がおかれたのか。 一言でいえば, 戦前日本にあった前近代的な封建的労働慣行を一掃するためである。
2 『あゝ野麦峠』 の世界
「日本アルプスの中に野麦峠と呼ぶ古いxxがある」
ではじまるxxxx 『あゝ野麦峠/ある製糸工女哀史』 (角川文庫) は, 岐阜県飛騨のxxからxx県諏訪湖周辺に展開した製糸工場へ, この野麦峠を越えていく若い娘たちの 「女工哀史」 といわれた労働と生活を描き出した。
この小説のなかに, 「いろり端の約定証」 という一節がある (同書 72 頁)。 原文の詳細をここでは記載はできないが, 明治 26 年の 「工女約定証」 は, 1 円の手付金で, 万一違約した場合 (製糸工場を辞めた場合)は, 「諸入費はもちろんのこと, 損害として二十円を弁償し, いささかも異議申すまじく候」 という証文に判を押させている。 別のものは, 5 円の手付金で違約したら 50 円弁償すると契約していた。 契約の当事者は, 戸主, 後見人, 親権者で, 連帯保証人がつく場合もあり, しかも, 工女本人は不在の契約である。
また, こうした工場の就業規則には, 「工女ノ都合デ解雇ヲ乞ウ時ハ積立金及ビ未払賃金ヲ没収セラルルハ勿論, 場合ニヨリテハ相当ノ損害賠償ヲナシ, 或ハ代人ヲ差出ス」 などと記載されていた。
これらは, 熱湯と蒸気と騒音のなかでの早朝 4 時半から深夜 10 時まで続く製糸工場からの脱走を防止する制度としての役割を担っていた。
これは, 前近代的な封建的な労働関係の一端である。
3 民法と工場法, そして労基法
こうした 『あゝ野麦峠』 の世界は, すべてではないが, 賠償額の予定や違約金の定めは, 契約自由の原則のなかで, 民法という一般法によっても認められていた。 それは, 口語訳された現在の民法にも引き継がれている。 民法 420 条 (賠償額の予定) は, 1 項で 「当事者は, 債務の不履行について損害賠償の額を予定することができる。 この場合において, 裁判所は, その額を増減することができない」 と規定し, 3 項で 「違約金は, 賠償額の予定と推定する」 と規定していた。
工女本人が契約当事者になっていなかったという問題はあるが, 民法の規定によって, 20 倍の違約金の契約は有効であった。
この法律状態が変化を見せるのは, 日露戦争後のことであった。 1911 (明治 44) 年, 工場労働者に対す
る一般的保護法である 「工場法」 (明治 44 年 3 月 29日法律第 46 号) が制定された。 さらに, この工場法の施行には, 5 年余の歳月を要したが, 制定された
「工場法施行令」 (大正 5 年 8 月 3 日勅令第 193 号) は,その 24 条で, 「工業主ハ職工ノ雇人ニ関シ前二条ノ規定 (筆者注, 賃金支払いと退職時などの賃金などの支払いについての規定) ニ違反スル契約又ハ工業主ノ受クヘキ違約金ヲ定メ若ハ損害賠償額ヲ予定スル契約ヲ為スコトヲ得ス」 と定め, 違約金や損害賠償額の予定を原則禁止した。
こうして, 40 年余刻まれた 「女工哀史」 を経て,ようやく, 労働者を身分的に拘束し, 退職の自由を奪う労働慣行を排除するための法律制度が作られた。
労基法 16 条は, 戦前の工場法施行令 24 条を受けて規定された。 この労基法 16 条の規定は, 憲法 18 条の奴隷的拘束及び苦役からの自由 (「何人も, いかなる奴隷的拘束も受けない。 又, 犯罪に因る処罰の場合を除いては, その意に反する苦役に服させられない」)の規定, 労基法 5 条の強制労働の禁止 (「使用者は,暴行, 脅迫, 監禁その他精神又は身体の自由を不当に拘束する手段によって, 労働者の意に反して労働を強制してはならない」) などと一体となって, 前近代的な封建的労働慣行の除去のための法律制度として位置づけられた。
4 禁止される違約金と損害賠償の予定
労基法 16 条は, 労働契約の不履行についての違約金と債務不履行に限定されない損害賠償額の予定とを区別している。
まず, 違約金とは, 債務不履行の場合に債務者が債権者に支払うべきものと予め定められた金銭である。労働契約における違約金も, 労働契約に基づく労働義務を労働者が履行しない場合に労働者本人もしくは親権者または身元保証人の義務として支払いが課せられるものである。 したがって, 労働義務不履行があれば,その義務不履行による損害が発生したかどうかにかかわらず, 使用者は約束の違約金を取り立てることができる。
つぎに, 損害賠償額の予定は, 労働契約の不履行に伴う損害賠償額の予定に限定されず, 不法行為による損害賠償額の予定もふくむ。 不法行為というのは, 故意または過失により, 他人の権利を侵害して損害を与えることをいう。 つまり, 禁止されているのは, i)債務不履行の場合に債務不履行による実損害額がどの程度であるかにかかわらず, 賠償すべき損害額を一定の金額として定めておくこと, )不法行為により使用者の施設・備品などを破損した場合, 一定の損害賠償額を定めておくことである。
5 労基法 16 条と現代労働問題
前近代的封建的労働慣行を排除するための労基法 16 条が, 皮肉にも, 現代日本の企業社会において発生した労働問題, 海外研修や海外留学, 看護師の 「お礼奉公」 などとの関係で, 注目されるようになった1)。法律問題となった事例について紹介しておこう。
①自己都合退職者への講習手数料返済契約
美容師見習いについて, 退職時の金銭の支払いの契約が問題となった。
勝手に退職した場合などには技術指導の講習手数料として入社時に り 1 カ月につき 4 万円 (月利 3%)を支払うという契約について, 従業員に対する指導の実態は一般の新入社員に対する指導とさして違いはなく, しかもこの契約が労働者の自由意思を拘束して退職の自由を奪う性格をもつから, 労基法 16 条に違反するとされた2)。
②研修費用等の返還義務
特定の修学または研修の費用を使用者が貸与し, その条件として, 一定期間当該使用者の下で勤務した場合は費用の返還の必要はないが, その一定期間勤務しなかった場合には費用を返還させるという契約は, 労基法 16 条に違反するかどうか, が問題となった。 二つの場合に分けて判断する必要がある。
第一は, 使用者が特定の費用を給付し, 一定期間使用者の下で勤務しない場合は, 損害賠償として費用相当分を支払わせるという制度は, 労基法 16 条が禁止する損害賠償額の予定に該当する。
これに対して, 第二は, 使用者による費用などの援助が純然たる貸借契約として定められたもの, すなわち, 一般的返還方法が労働契約の履行・不履行と無関係に規定されていて, その返還規定のなかに, 一定期間勤務した者は返還義務免除が規定されているに過ぎ
ない制度は, 労基法 16 条違反とはいえない3)。
この研修費用等の返還義務をめぐる問題は, 海外研修・海外留学と関係して, 裁判例も生まれてきている。
③海外研修派遣費用等の返還義務
経済活動の国際化のなかで, 企業が従業員を海外の大学院へ研修派遣する例が拡大している。 そして, 企業は, 従業員が研修終了後に短期間で退職する場合に,海外研修費用の返還を義務づける規定を就業規則等に定めている。 こうしたなかで, 従業員の海外研修費用返還をめぐる紛争事例が増大した。
企業の費用返還請求が労基法 16 条違反になるかどうかは, i)各企業の海外研修派遣制度の目的, )制度の根拠規定と費用返還の義務づけの方法, )費用返還の要件と範囲, という内容を具体的に検討するなかから判断される。
例えば, 研修先が企業により制限され, 派遣が業務命令として実施され, 諸規定により返還費用の義務づけがなされ, 研修終了後 5 年間などと特定期間の退職を理由として, 費用全額の返還を求める場合は, 労基法 16 条違反が成立する典型的な場合である4)。
他方で, 社員留学制度で留学するに際して締結された, 帰国後一定期間を経ずに退職する場合, 会社が支払った留学費用を返還する旨の契約は, 一定期間当該会社に勤務した場合には返還を免除する旨の特約付の金銭消費貸借契約であると判断される場合は, 労基法 16 条に違反しない5)。 また, 留学費用が留学後の 5 年間就業により債務が免除される免除特約付の貸金であると判断される場合は, 帰任後約 2 年で退職した社員に対する留学費用の一部返還請求は, 労基法 16 条違反とはならない6)。
④期間内退職と訓練費用等弁済義務
労働者の願出によって社内技能者訓練を実施し, 使用者が材料費を含む練習費用, 指導・検定費用などを支払い, 合格・不合格にかかわらず, その後, 約束した期間内において退職するときは, 労働者が先の費用を支払い, 約束の期間就労するときは費用の支払いを免除するなどの特約をすることは, i)その費用の計算が合理的な実費であること, )その金額が使用者の立替金と解されるものであること, )その金額の返済によりいつでも退職が可能であること, )短期間の就労であって不当に雇用関係の継続を強制するものでないことなどの事情がある場合は, 右の金額を返済するという契約は, 労基法 16 条に違反しない7)。
⑤退職時までの貸与金返済猶予特約
会社の養成所に研究生として入所する際, その月謝 (合計 12 万円) を会社より借り受け, 貸与xは養成所卒業時に全額返済するが会社の従業員となれば退職時まで返済を猶予されること等の特約をしたことについて, i)貸与金契約は, 養成所に入所する際純然たる貸借契約として定められたものであり, 養成所を卒業して入社する際締結した雇用契約とは別個の契約として締結されたものであること, )養成所卒業後会社へ就職するか否かは自由であり, 会社へ就職すれば退職時まで貸与金 12 万円の返済が猶予されていたに過ぎないこと, )養成所の授業料が月額 1 万円 (合計 12 万円) であり, 特に不合理な金額とはいえないこと, という理由があれば, 退職時まで返済を猶予するという契約は, 労基法 16 条に違反しない8)。
⑥いわゆる看護師のお礼奉公等
大学付属の看護学校の生徒が, 学校卒業後, その大学病院に勤務することが強制されることが 「お礼奉公」と呼ばれて, 社会的な問題となった。
この 「お礼奉公」 について, 看護学校に入学する生徒に対し医療法人が就学費用を貸与し, 免許取得後 2
年または 3 年その法人で勤務すればその就学費用返還を免除するが, それ以前に退学・退職した場合には即時に全額返済させるという法人と生徒の契約は, その実質において生徒に将来の法人での一定期間の就労を義務づけるものであり, 経済的足止め策の一種と考えられるから, 労基法 16 条違反となるとされた9)。
また, 病院の医師が他の病院での専門研修後にその病院に勤務するという義務に違反した場合は, 研修期間中に病院から支給された一切の金品を返還することを定めた規定は, 賠償額の予定といえるから, 労基法 16 条に違反するとされた10)。
6 労基法 16 条の解釈問題
さまざまな現代の労働問題との関わりで, 労基法 16 条が解釈運用されてきている。 ここで, この労基法 16 条の解釈運用をめぐる法律問題を確認しておこう。
第一は, 労働者は実際に発生した損害についての損害賠償義務を負うという問題である。
労基法 16 条が禁止するのは, 労働契約の不履行についての違約金の定めと損害賠償額を予定する契約である。 したがって, 労働契約の締結にあたり, 債務不
履行によって使用者が損害を被った場合に, 使用者はxxx損害額に応じて労働者に賠償を請求するという契約を結んでも, 労基法 16 条には違反しない。 労基法 16 条は, 「金額を予定することを禁止するものであって, 現実に生じた損害について賠償を請求することを禁止する趣旨ではないこと」11)からである。
第二は, 懲戒処分における減給制裁は, 労基法 16条に違反しないかという問題である。
遅刻や欠勤などの勤務不良について, 多くの就業規則は, 遅刻や欠勤などの不就労について賃金不支給にとどまらず, 減給処分を規定する。 ところで, 労基法 91 条 (制裁規定の制限) は, 「就業規則で, 労働者に対して減給の制裁を定める場合においては, その減給は, 一回の額が平均賃金の一日分の半額を超え, 総額が一賃金支払期における賃金の総額の十分の一を超えてはならない」 と減給の制限限度を規定する。
そうすると, 使用者が労基法 91 条が制限する範囲内において減給処分を行う限りは, そのような減給処分は, 労基法 16 条に違反しない12)。
第三は, 退職後の同業他社への転職者への退職金減額支給は, 労基法 16 条違反とならないかという問題である。
最高裁は, 退職後同業他社への転職者には通常の自己都合退職への退職金の二分の一に減額して支給したことが争われた三晃社事件について, 退職後のある程度の期間の同業他社への就業制限は, 労働者の職業選択の自由を不当に拘束するものとはいえず, そのような制限違反の転職は勤務中の功労評価が減殺され, 退職金の権利が一般の退職の場合の半額の限度においてしか発生しない趣旨と解すべきであり, 労基法 16 条に違反しない, という判断を示した13)。
なお, この問題は, 競業避止義務の法律問題といわ
れ, 労働者の職業選択の自由に照らして, 制限の期間・範囲 (再就職先の地域や職種) を限定し, 一定の代償措置を求めることなど, 裁判例のうえでも, 論争的な問題であり, 考え方が確定していない14)。
1) xxxx 『労働法第 8 版』 (弘文堂, 2008 年) 140 頁参照。
2) サロン・ド・リリー事件・浦和地判昭 61・5・30 労判 489号 85 頁。
3) 厚生労働省労働基準局編 『労働基準法上』 (労務行政, 2005年) 235 頁。
4) 富士重工業事件・東京地判平 10・3・17 労判 734 号 15 頁,新日本証券事件・東京地判平 10・9・25 労判 746 号 7 頁。
5) xxxコーポレーション事件・東京地判平 9・5・26 労判 717 号 14 頁, 明治生命保険事件・東京地判平 16・1・26 労判 872 号 46 頁。
6) xx證券事件・東京地判平 14・4・16 労判 827 号 40 頁。
7) xx金属工業事件・大阪高判昭 43・2・28 判時 517 号 85頁。 なお, タクシー運転手の第 2 種免許取得に係わる研修費用返還条項につき, 第 2 種免許は個人に付与され, 会社退職後も利用できる個人的利益があり, 費用支払い免責のための就労期間が 2 年間であり, 返還費用も 20 万円であり, 労働者であるタクシー乗務員の自由意思を不当に拘束し労働関係の継続を強要するものではないとして, 労基法 16 条に違反しないとしたコンドルxx交通事件・東京地判平 20・6・4労経速 2018 号 16 頁がある。
8) xx楽器製作所事件・静岡地判昭 52・12・23 労判 295 号 60 頁。
9) xx会事件・大阪地判平 14・11・1 労判 840 号 32 頁。
10) xxxx生活協同組合事件・xxx判平 15・3・14 労判 849 号 90 頁。
11) 昭 22・9・13 発基 17 号。 なお, 「発基」 とは, 通常次官通達の名称でよばれるもので, 労働基準関係の通達である。
12) 前掲注 3)237 頁。
13) 三晃社事件・最二小判昭 52・8・9 労経速 958 号 25 頁。
14) 前掲注 1)74 頁参照。
ふかや・のぶお 茨城大学人文学部教授。 最近の著作に
『航空リストラと労働者の権利』 (編著) (旬報社, 2009 年)。労働法専攻。