2)上記判決につき論点を網羅的に分析検討した評釈として永野周志「石風呂装置」事件(知財ぷりずむ Vol.7 No.78)68 頁〜参照。
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会員・弁護士
実施契約における錯誤無効の主張
特集《第 15 回知的財産権誌上研究発表会》
目 次
1 はじめに
2 Ⅰ)当該特許権の無効審決が確定した場合
3 Ⅱ)当該特許出願が登録されなかった場合
4 Ⅲ)対象となる特許発明が実施不能である場合
5 Ⅳ)実施品が当該特許発明の技術的範囲にないことが明らかになった場合
6 おわりに
1 はじめに
相手方が保有する特許発明につき実施契約を締結 し,実施料や契約金等(以下,まとめて「実施料等」という。)を支払ったものの,後になって,実施品が特許権の技術的範囲に含まれていないことや当該特許発明を実施することができないことが判明したり,又,対象となる特許権の無効審決が確定する場合がある。このような場合,実施権者にしてみれば,実施契約
から思ったとおりの成果が得られない以上,支払った実施料等を返せと考えるのは,無理からぬことである。
では,実施権者は,錯誤無効(民法 95 条本文)の主張を行い,既払いの実施料等を不当利得として返還を求めることができるであろうか(民法 703 条及び 704条)。
この点については,かかる認識に誤りがなければ,当該実施契約を締結しないことが一般取引通念に照らして当然といえるほど重要な部分に錯誤があるか否かの点(重要性の要件(1))が主要な争点といえよう。
また,実施許諾権者は,実施料等の返還の紛争を回避し,実施権者との交渉や訴訟を有利に進めるためには,当該実施契約において,いかなる対策をすべきであろうか。
本稿では,実施権者において錯誤無効の主張を行うことが想定される下記 4 つの事例につき,過去の裁判例を整理・分析するとともに契約締結時における実施権者及び実施許諾者の留意点につき意見を述べること
とする。
Ⅰ)当該特許権の無効審決が確定した場合
Ⅱ)当該特許出願が登録されなかった場合
Ⅲ)対象となる特許発明が実施不能である場合
Ⅳ)実施品が当該特許発明の技術的範囲にないことが明らかになった場合
2 Ⅰ)当該特許権の無効審決が確定した場合
当該特許権の無効審決が確定した場合については,イ)対象となる特許の有効性いかんにかかわらず,実施料が返還されない旨の条項(以下,「実施料不返還条項」という。)が存する場合,ロ)同条項が規定されていない場合の 2 つの場合が想定される。
そこで,以下,分けて検討する。
2.1 イ)実施料不返還条項が規定されている実施契約について
実施料不返還条項が規定されている場合には,実施権者が既払いの実施料等の返還を受けるためには,これらの金員の支払義務を規定した条項のみならず,当該実施料不返還条項についても,錯誤無効の主張が認められる必要がある。
そこで,実施料不返還条項につき錯誤無効の主張が認められるか否かが問題となる。
この点につき,東京地裁 57 年 11 月 29 日判決(判例時報 1070 号 94 頁)は,以下の通り判示し,対象となる実用新案の有効性につき紛争が生じていることを実施権者が認識していながら,実施料不返還条項を締結した事実を認定し,実施権者の錯誤無効の主張を斥けた。
「・・・原告は,同業他社との間に本件実用新案登録の有効性について紛争が存在し,既に無効審判の請求がなされていたことを認識していたばかりか,自らもそ
の有効性について疑義を有していたというのであるから,それにもかかわらず,最終的に本件契約を締結するに際し,前記の不返還の約定について合意したことからすれば,原告は,この約定により,将来本件実用新案について無効審決が確定することがあっても,既払の契約金及び実施料の返還を受けることはできなくなることを当然認識していたものと認めるほかない。したがって,右不返還の約定においては,本件実用新案登録が将来無効になる場合を合理的に予期しうる事態として認識したうえ,支払済みの契約金及び実施料の返還を要しない旨が合意されたものというべく,原告の本件契約締結の意思表示に錯誤があったと認めることはできない。」
上記判例は,実施権者において実用新案の有効性につき疑義をもっていることを前提に判断がなされている。
では,実施権者において有効性に関し疑義の認識がない限り,上記実施料不返還特約につき錯誤無効の主張を行うことはできないのであろうか。
そもそも,実施料不返還特約は,特許や実用新案が無効になった場合であっても,支払い済みの契約金や実施料を返還されないことを明らかにした規定である。実施料不返還特約が規定されている場合に,対象となる特許や実用新案が無効になれば,契約金や実施料が返還されるという誤解が生じることは,通常,想定しがたい(仮に,実施契約書の記載を看過し,実施料等の返還を受けられるという認識があるとすれば,実施権者に重大な過失があるといわざるを得ない。)。
したがって,実施権者が実用新案の有効性につき疑義を有しているか否かを問わず,実施料不返還特約が規定されている実施契約においては,実施権者が,かかる特約につき錯誤無効を主張し,実施料等の返還を受けることは,通常,困難であろう。
2.2 ロ)実施料不返還条項が規定されていない場合の実施契約について
では,実施料不返還条項が規定されていない実施契約においては,実施権者は,実施契約につき錯誤無効の主張を行い,既払いの実施料等を返還請求することができるだろうか。
この点につき,学説においては,特許が無効である場合における実施料等の返還請求につき消極的に解釈
するのが支配的である。
例えば,xxx「実施契約」(xxxx・xxxx編
「新裁判実務体系 知的財産関係訴訟」(青林書院(平成 13年 11 月)367 頁〜)においては,以下の通り記され,特許権に関する無効事由は一般的に要素の錯誤足り得ないとしている。
「・・・特許xxの無効事由は出願前の公知,公然実施,公知文献による新規性の欠如や進歩性の欠如等様々なものがあり得,無効審判によって無効となり得る危険が常に内在するものであり,将来無効にならないことを何人も保証することはおよそできない以上,一般的に,実施権者となろうとするものは,将来無効となり得ることを十分に予測に入れた上で,実施契約を締結すべきである。その意味で,特許権に関する無効事由は一般的に要素の錯誤足り得ないと解される。よって,後日無効審決の確定により特許が無効になったからといって,錯誤無効を主張することは原則として許されないというべきである。」
これに対し,実施契約に実施料不返還特約の規定がない場合に錯誤無効の主張を認められるか否かという一般的な問いに対し明確に判示した裁判例は,見当たらない。
東京地裁平成 21年1月 13 日判決(最高裁HP「知的財産裁判例集」参照)は,実施料不返還特約が存しないものの,特許が拒絶された場合や無効になった場合の取り扱いにつき規定されている実施契約に対して,錯誤無効の主張がなされた事例につき,以下の通り,判示している。
「・・・本件許諾契約においては,契約期間中に許諾の対象となる発明に係る特許出願のすべてが最終拒絶され,あるいは,特許が無効や取消等により失効する場合は契約も終了するものとする旨や,原告は被告に対し許諾の対象となる発明に係る特許出願について特許が成立すること及びその有効性について一切保証せず,これについて義務や責任を一切負わないものとする旨が定められていることに照らすと,仮に別紙特許出願目録記載の各特許出願について拒絶事由が存在し,あるいは,特許として成立した場合で無効事由が存在するとしても,本件許諾契約及びそれに付帯する本件業務委託契約において,これらの事実が要素の錯
誤に当たるとも,契約を原始的に不能ならしめる事由であるともいえない。」
したがって,実施契約において,予め,特許が拒絶された場合や無効になった場合の取り扱いにつき規定されている場合には,実施契約につき,錯誤無効の主張を行っても,かかる主張が認められる可能性は,極めて低いといえよう。
2.3 小括
このように,実施料不返還特約,又は,特許が無効になった場合についての取扱規定が存する場合には,不返還特約や実施契約につき錯誤無効の主張を行い,契約金や実施料につき不当利得に基づく返還請求を受けることは,通常,困難といえよう。
一方,実施料不返還特約や特許が無効になった場合の取り扱いにつき実施契約にない場合については,明確な裁判例がない。
そのため,実施許諾権者としては,契約締結後の紛争を回避するためには,実施料不返還特約,又は,特許が無効になった場合についての取扱規定(有効性の不担保特約等)を予め実施契約に設けておくべきであろう。
3.Ⅱ)当該特許出願が登録されなかった場合
当該特許出願が登録されなかった場合についても,実施契約において,イ)実施料不返還条項が規定されている場合及びロ)同条項が規定されていない場合の 2 つの場合がある。そこで,以下,2 つの場合に分けて検討する。
3.1 イ)実施料不返還条項が規定されている実施契約について
東京高裁平成 16年 10月 27 日判決(最高裁HP「知的財産裁判例集」)は,出願中の特許を対象とした実施契約において実施料不返還条項が規定されている場合につき,以下の通り判示し,原則として,当該実施契約が錯誤により無効にはならないとした。
「・・・本件実施契約は,特許が成立するか否かが未確定な状態にある特許出願中の発明を実施権の対象とする契約であり(1条各項,2条1項),その11条2項には,「許諾特許(注,本件出願及びこれに基づき取得
される特許権をいう。1条1項)についての無効審決が確定した場合または出願中の許諾特許について拒絶査定の確定その他の事由により特許権設定登録ができなくなったことが確定した場合でも,その確定の日まで権利は存在したものとみなす。」と規定され,4条1項には,「本契約に基づいてなされたあらゆる支払いは,いかなる理由によっても乙(控訴人)に返還されないものとする。」として,対価の不返還が規定されている。このような許諾対象とされた権利の性質及び上記各条項の規定内容に照らすと,本件実施契約は,その締結に至る具体的な事情として互いに了解し合い,これを前提に交渉をして対価その他の契約条件を取り決めたというような事情が存在しない限り,控訴人が主張するような特許の成立の見込みや本件発明の進歩性を否定する従来技術文献が存在しないことを重要な前提として締結したものではないと解するのが相当である。」
したがって,実施料不返還条項が規定されている場合には,判例上,上記下線部のような特殊な事情がないかぎり,特許の登録拒絶の事実をもって実施契約の重要な部分と評価することはできず,当該実施契約が錯誤により無効にはならないと考えるべきであろう。
3.2 ロ)実施料不返還条項が規定されていない実施契約について
実施料不返還条項が規定されていない実施契約においても,締結に至る経緯等から特許登録の有無に関係なく,実施契約を締結していたという積極的な事情やメリットがある場合(ノウハウの提供等)には,実施権者において,一般取引の通念に照らして実施契約を締結しないことが当然といえるほど重要な部分に錯誤がないものと思われる。
例えば,昭和 52年7月 20 日東京高裁判決(判例時報 868 号 46 頁)は,以下の通り判示し,実施権者の錯誤無効の主張を否定している。
「・・・被控訴人が自らの判断で,本件大理石の製造及び販売の将来性に着目し,進んで本件契約の締結に及んだものと推認され,被控訴人は,その当時,近い将来,無体財産権の発生がない場合は,契約を締結することはなかったであろうと認められる事情はなかったものと認めるのが相当であるから,被控訴人の要素の
錯誤の主張は,これを認めることはできない。」
では,実施契約を締結していたという積極的な事情やメリットの存在が訴訟上明確にならない場合には特許の登録の有無が契約の重要な部分に該当することになるのか。
前記東京高裁平成 16 年 10 月 27 日判決は,以下の 通り,特許出願中の発明についても,無意味であったことを窺わせる事情がない限り許諾を受ける利益がある旨判示している。
「・・・しかし,一般に,特許成立の見込みの有無,程度にかかわらず,特許出願中の発明について実施権の許諾を受けることに利益がないとはいえず(例えば,将来,特許権が成立したときにも特許権者から権利行使を受けることがないので,早い段階で当該発明を商品化し,市場において先行することができる,類似商品に対する事実上の牽制効果を期待出来る等),無意味であったことをうかがわせる事情は認められない。」
上記判旨に従えば,出願中の発明についても,一般的に許諾を受ける積極的なメリットが実施権者において存することになる。
そのため,実施権者が実施権を設定したことにつき無意味であったことを窺わせる事情を積極的に立証できない限り,当該実施契約を締結しないことが当然といえるほど,特許の登録拒絶が重要な部分と評価することはできない。
したがって,実施料不返還特約が存在しない場合であっても,特許成立の見込み等を前提に対価や契約条件を決めたという特段の事情がない限り,実施権者は,特許が登録されなかったことをもって錯誤無効の主張を行うことは,極めて困難であるといえよう。
3.3 小括
このように,実施料不返還特約の有無に関わらず,特許成立の見込み等を前提に対価や契約条件を決めたという特段の事情がない限り,実施権者が実施契約につき錯誤無効の主張を行い,既払いの実施料等の返還を求めることは,極めて困難といわざるを得ない。
一方,実施許諾権者としては,①予め実施契約に実施料不返還特約を設けるか,又は,②登録前の特許につき許諾を受けるメリットを明確にすべく,実施契約
の前文や本文中に実施権者のメリット(ノウハウの提供等)を明記することが望ましいといえよう。
4.Ⅲ)対象となる特許発明が実施不能である場合
実施契約は,対象となる特許発明を実施することを目的としている以上,これが実施できない場合には,当該実施契約を締結しないことが当然であり,実施契約の重要な部分に錯誤が存することは,明らかといえよう。
東京地裁昭和 52年2月 16 日判決も,仏具天蓋の製作のため,ハイ・インパクト・スチロールに対し密着度の高い鍍金膜を粘着できる方法を求めて,実施契約設定を締結したが,右素材の表面に塗布する接着剤の提供がなく,右特許発明を実施することができなかった場合,本件契約によりノウハウの技術指導を受ければ直ちに特許発明を実施できるものと誤信して契約締結の意思表示をしたものであって,右契約はその重要な動機に錯誤があり,右意思表示は,要素の錯誤によるもので無効というべきである旨判示している(判例工業所有xx〔現行法編〕9 巻 2157の2 頁)。
また,東京控訴院昭和 13 年 10 月 27 日判決は,特許権者が実施するときは実施可能であるが,他人が行う場合には実施不可能であるような特許発明実施権設定契約を締結した実施権者は,その契約締結にあたり要素についての錯誤が存在したものとして契約の無効を主張しうる旨判示している(判例工業所有xx〔現行法編〕9 巻 2155の2 頁)。
したがって,対象となる特許発明が実施不能である場合には,錯誤があるといえ,実施権者は,錯誤無効の主張を行い,既払いの実施料等の返還を求めることができる。
(当然のことであるが)実施許諾者においては,実施権者に対し実施契約を締結するにあたって必要なノウハウを提供するなどし実施権者に実施可能な状態を提供できているか否かを確認する必要があろう。
5.Ⅳ)実施品が当該特許発明の技術的範囲にないことが明らかになった場合
5.1 実施契約の重要な要素といえるか否か
実施品が当該特許発明の技術的範囲に含まれないことは,取引通念上,当該実施契約を締結しないことが
当然といえるほど重要な部分といえるか。
知財高裁平成 21年1月 28 日判決(判例時報第 2044号 130 頁(2))は,以下の通り判示し,実施権者が実施契約の対象たる特許発明の技術的範囲につき認識に誤りがあったからといって,(上記重要な部分に錯誤はない以上)その点が本件実施契約についての要素の錯誤に該当しないとした。
「・・・すなわち,合理的な事業者としては,『発明の技術的範囲がどの程度広いものであるか』,『当該特許が無効とされる可能性がどの程度であるか』,『当該特許権(専用実施権)が,自己の計画する事業において,どの程度有用で貢献するか』等を総合的に検討することは当然である。・・・
本件では,原告は,被告Kから専用実施権の設定を受け,その権利に基づいて,第三者に再許諾(通常実施権)をし,また,自ら施設を運営することによって,利益を計画していたのであるから,そのような事業目的との関連性において,本件特許権(専用実施権)の価値(発明の技術的範囲等)を分析,評価及び検討をすべきであったというべきである。・・・
・・・本件特許権は,その特許請求の範囲の記載のとおりの技術的範囲及びその均等物に対する専有権を有していたのであり,その専有権は,原告の計画していた事業において,有益であったというべきである。実際にも,原告は,本件実施契約に基づく再許諾権限に基づいて,湯本館に対して,通常実施権を付与したことにより,525 万円の契約金の支払いを受けていた
(乙 38,39)。そうすると,技術的範囲についての原告の認識の誤りは,原告の計画していた事業の妨げになったとは到底解することができず,Z装置が本件発明の技術的範囲又はそれと均等の範囲に含まれていない限り原告において本件実施契約を締結する意思表示をすることがなかったであろうとまで認めることはできない。」
上記判旨によれば,実施権者が計画する事業の計画の妨げとなっていない限りは,対象となる特許発明の技術的範囲につき認識に誤りがあったとしても(すなわち,実施品が当該特許発明の技術的範囲にないことが明らかになったとしても),実施権者は,実施契約につき錯誤無効の主張を行うことができないように思われる。
5.2 実施権者に重大な過失が存するか否か
仮に,実施品が当該特許発明の技術的範囲に含まれることが実施契約の要素の錯誤となりうる場合であっても,実施権者において重大な過失(民法 95 条但し書き)が認められる場合には,実施契約につき,錯誤無効の主張を行うことができない。
そこで,いかなる場合に実施権者に重大な過失が認められるかにつき,別途,検討する必要がある。
大阪地裁平成 20年2月 18 日判決(最高裁HP「知的財産裁判例集」)は,以下の通り重大な過失の有無につき判示している。
「ある製品を製造販売する事業を行おうとする事業者には,特許公報等の資料を検討し,その製品と特許権との抵触関係を判断して,特許権者等からの許諾を受けるか否かを決定することが求められていることは前示のとおりである。この時の注意義務は,我が国において有効なあらゆる特許を対象として調査し,その製品とそれらの特許権との抵触関係を判断すべき義務があって非常に広範囲に及んでいる。他方,特定の特許権の通常実施権許諾契約を締結しようとする場合には,特許権はすでに特定されており,当該特許権についてだけ調査判断すれば足り,極めて容易に行えることである。・・・」
かかる判旨によれば,実施品が当該特許発明の技術的範囲に含まれるか否かは調査が容易であると判断される可能性が高い以上,裁判上,実施権者に重大な過失があると認定される場合は,多いものと思われる。また,前記知財高裁平成 21年1月 28 日判決の以下 の判旨によれば,特許発明の技術的範囲につき,相当程度詳細かつ具体的な調査・検討を実施しないかぎり,裁判上,実施権者に重大な過失が認定されるもの
と思われる。
「・・・そして,「技術的範囲の広狭」及び「無効の可能性」については,特許公報,出願手続及び先行技術の状況を調査,検討することが必要となるが,仮に自ら分析,評価することが困難であったとしても,専門家の意見を求める等により適宜の評価をすることは可能であるというべきである。」
5.3 小括
以上によれば,実施品が当該特許発明の技術的範囲に含まれなかったことにより実施権者の事業に著しい支障が生じたことを実施権者において積極的に立証できない限り,裁判上,かかる認識の誤りが実施契約の要素の錯誤と評価される場合は極めて少ないものと思われる。
また,仮に,実施品が当該特許発明の技術的範囲に含まれることが実施契約の要素(重要な部分)となりうる場合であっても,実施権者が専門家(弁理士及び弁護士等)の意見を求め,十分な調査検討を行ったことを立証しない限り,実施権者に重大な過失があるとされ,錯誤無効の主張が否定される可能性が高いものと思われる。
一方,(実施権者の錯誤無効の主張が認められる可能性が低いものと思われるものの)実施許諾者としては,紛争を回避すべく予め実施契約に実施料不返還特約を設けるべきである(訴訟に至った場合には,実施許諾権者は,当該特許の許諾を受けることによって実施品が特許発明の範囲外となっても事業上の支障が生じていなかったことにつき主張立証することになる。)。
6 おわりに
以上の通り,Ⅰ)当該特許権の無効審決が確定した場合,Ⅱ)対象となる発明が登録されなかった場合,
Ⅳ)実施品が当該特許権の技術的範囲にないことが明らかになった場合のいずれについても,これらの認識の誤りをもって錯誤無効の主張が認められるケースは,裁判上極めて稀であるように思われる。
そもそも,Ⅰ)Ⅱ)Ⅳ)のいずれのケースについても,実施権者が特許権の排他的な効力の傘の下,市場を先取した上で競争を排除し,実施行為を通じて経済的な利益を取得している。にもかかわらず,事後的に,実施権者において錯誤無効の主張に基づく実施料の返還を認めることは,二重の利得を与えることになり妥当ではないとの価値判断が根底にあるのではないかと思われる。
一方,Ⅲ)対象となる特許発明が実施不能である場合には,実施権者は実施行為を通じて経済的な利益を取得することができない以上,実施権者の錯誤無効の主張を許し,実施料の返還を認めることがxxな結論といえよう。
したがって,実施契約の交渉・締結にあたっては,
(実施料不返還条項の有無如何にかかわらず)実施権者は,事後的に,特許発明の技術的範囲やその有効性に関する認識の誤りがあっても錯誤無効の主張を行い実施料等の返還を受けることが通常困難である旨の認識を持つと共に,対象となる特許発明の技術的範囲及びその有効性については,慎重に検討することが必要不可欠である。
また,実施許諾者においては,紛争を予防するために,実施料の不返還条項ないし特許が無効ないし拒絶された場合の取り扱いに関する規定を設けるとともに当該実施契約の積極的な意義・メリットを前文等で明記し,実施権者の認識の誤りが実施契約の要素(重要な部分)とならないことを明記しておくことが望ましいといえよう。
注記
(1)一般的に錯誤無効の主張が認められるためには,①法律行為の「要素」に錯誤があること及び②表意者(本稿では実施権者)において重大な過失がないことの 2 つの要件が必要である。
そして,本稿において,法律行為の「要素」に錯誤があるとは,(イ)その錯誤がなければ表意者は実施契約を締結しなかったであろうということ(因果関係の要件),(ロ)錯誤がなければ一般取引の通念に照らし,実施契約を締結しないことが至当といえること(重要性の要件)の 2 つの要件を充足することを指す(錯誤の一般
要件につき,xxx「民法Ⅰ(第 4 版)」(東京大学出版
会 65 頁〜 72 頁参照)
(2)上記判決につき論点を網羅的に分析検討した評釈としてxxxx「石風呂装置」事件(知財ぷりずむ Vol.7 No.78)68 頁〜参照。
(原稿受領 2010. 3. 12)