本稿の目的は, 「契約理論」 (Contract Theory)と呼ばれる経済学分析の視点より, 上記の職務発明の対価をめぐる問題を理論的に整理することにある2)。 契約理論とは, 情報の非対称性などによって生じる取引の非効率性を最小化するための契約的・組織的制度の設計を議論する研究分野である。なぜこのような研究分野が, 職務発明に対する報酬体系の設計を考えるうえで重要なのか。 これを見るために, 職務発明が問題となる経済環境を特徴づけている要因を列挙してみよう。
特集●プロフェッショナルの処遇
職務発明の経済分析
契約理論的接近
xx xx
(大阪大学助教授)
本論文は, 契約理論の視点より, 職務発明の対価決定のあり方が企業や技術者の事前の努力インセンティブに及ぼす影響について経済学的に検討することを目的としている。 第一に, 当事者間で結ばれた報酬契約 (対価) が履行可能である場合, どのような報酬契約を事前に設計することが望ましいのかについて考察し, リスクとインセンティブとの負および正の相関関係について議論を行う。 第二に, 当事者の契約が認められず, 裁判所によって 「相当の対価」 が定められる場合, そのような裁判所による対価決定への介入が企業や技術者の事前のインセンティブに与える効果を検討する。
目 次
Ⅰ はじめに
Ⅱ リスクとインセンティブの負の相関
Ⅲ リスクとインセンティブとの正の相関
Ⅳ 裁判所の介入と事前の効率性
Ⅴ 結 論
Ⅰ は じ め に
青色発光ダイオードの発明対価をめぐるxxxxxと日亜化学との訴訟など1), 一連の職務発明対価をめぐる企業と技術者との訴訟は, 技術者・研究者の発明に対してどのような報酬体系を事前に用意するべきかという問題を日本企業に検討させる重要な契機となった。 また今日, 特許法 35条の改正 (2005 年 4 月 1 日より施行) や企業における職務発明規定の設計など, 発明報酬をめぐる法的・組織的枠組みが大きく変化してきている。
こうした一連の職務発明の対価をめぐる事例から, 経済学的には次のような重要な問題提起が可能に思われる。 第一に, もし企業と技術者とのあいだで事前に合意した報酬契約が事後的にも履行可能であるならば, 職務発明の対価を定めるどの
ような契約が望ましいと言えるのか。 第二に, 必ずしも当事者が結んだ報酬契約が裁判所によって履行されるとは限らない場合, 裁判所による職務発明の対価決定への介入が技術者や企業の発明のインセンティブにどのような影響を及ぼすのか。
本稿の目的は, 「契約理論」 (Contract Theory)と呼ばれる経済学分析の視点より, 上記の職務発明の対価をめぐる問題を理論的に整理することにある2)。 契約理論とは, 情報の非対称性などによって生じる取引の非効率性を最小化するための契約的・組織的制度の設計を議論する研究分野である。なぜこのような研究分野が, 職務発明に対する報酬体系の設計を考えるうえで重要なのか。 これを見るために, 職務発明が問題となる経済環境を特徴づけている要因を列挙してみよう。
まず第一に, 技術上の重要な発明には必ず不確実性が伴っている。 すなわち, 技術者の能力, 研究開発を行ううえでの資金制約, 技術者本人の努力投入といった要素以外に, 当人たちが制御できない不確実な要因が, 発明の成果に影響を及ぼすと考えられる。 第二に, 個々の技術者が発明を生み出すためにどの程度個人的貢献をしたのかといった情報が, 当人には観察できるが第三者にとって
は観察不可能という意味において, 「立証可能」ではない場合が考えられる。 これが, 「情報の非対称性」 と呼ばれる問題である。 第三に, この技術者自身の貢献度が測定困難であっても, 他の代理的な情報が利用可能であるかもしれない。 例えば, 発明が成功して, その発明が製品開発に結びついた場合にどのぐらい企業が利益をあげたのかについてはある程度推定可能である。
程度の差こそあれ, 多くの職務発明をめぐる技術環境では, 上記の三つの要因が存在していると考えられる。 このような状況では, 個々の技術者本人の個人的貢献度を測る尺度が乏しいために,発明に対する報酬にはそれ以外の立証可能な情報 (例えば, 発明の成果としての利潤など) を反映せざるをえないということになる。 しかし, 第一の要因である不確実性の存在によって, 発明の成果自体が不確実となり, それに依存した報酬体系も個々の技術者にとってはリスクのあるものとなる。このようなリスクの存在は, 技術者から発明に対する努力を引き出す上では重要であるが, 一方で,彼らにあまり多くのリスクを負担させることは望ましくないかもしれない。 結局のところ, 発明に対する報酬体系の設計の問題は, 個々の技術者の発明に対する個人的貢献度を測る尺度が十分利用可能でないときに, どのような代理的な変数に報酬を反映させるべきか, また, どの程度彼らにリスクを負わせるべきか, といった問題と大きく関係することになる。 契約理論は, このような情報の非対称性下における最適な報酬設計を考える上での分析道具を提供してくれるのである3)。
とりわけ, 発明という不確実性の大きい職務において, 技術者自身の成果と報酬 (対価) とをどのようにリンクさせることが望ましいのかといった問題は職務発明規定を考える上で非常に重要である。
本稿の構成は以下のとおりである。 最初に, 企業と技術者とのあいだで事前に結ばれた報酬契約が事後的にも履行可能であるとしたとき, どのような報酬契約が望ましいのかについて検討を行う。とくに, その報酬契約がもつ検証可能な性質についていくつかの結果を紹介する。 まず第一に, インセンティブとリスク配分とのトレードオフとい
う伝統的な契約理論の結果を紹介する。 すなわち,技術者に発明のインセンティブを与えるためには,その個人の努力が観察できない以上, ある程度のリスクを負担させなければならないが, これが企業と技術者との効率的リスク配分とは両立しないという問題である。 この議論によれば, 次のような実証可能な命題が引き出せる。 すなわち, 職務発明に関わる技術者の環境がより不確実になると,発明の成果に対する報酬の依存度が低下するというものである。 第二に, 上記の伝統的な結果が実証的に支持されない可能性も近年指摘されており4), リスクとインセンティブとが正に相関する可能性についての結果を紹介する。 とくに, 最近の Prendergast (2002a, 2002b) の研究を紹介しながら, よりリスクの高い環境では, 技術者に対してより成果依存型の報酬体系を選択することが企業にとって望ましくなるケースを明らかにする。次いで, 職務発明をめぐる報酬契約の履行に関 する問題を議論する。 通常の契約理論では, 契約当事者が事前に交わした契約は事後的に裁判所によって履行されると想定している。 しかし, 職務発明の対価に関しては, 企業と技術者が事前に結んだ報酬契約が裁判所によって事後的にそのまま履行されるとは限らない。 発明がもたらした利益等を裁判所が考慮して, 「相当の対価」 として判断される対価が命じられる可能性があるからである。 事実, 改正前の特許法 35 条のもとでは, 当事者が事前の契約によって職務発明の対価を定めた場合でも, 裁判所が特許法 35 条によって算定する対価が 「相当の対価」 として認定されていた5)。 改正後の特許法 35 条のもとでも, 当事者間で定めた対価が 「不合理」 と判断されると, 従来の制度と同様に 「相当の対価」 が裁判所によって算定されることになる。 したがって, 当事者間で合意した報酬契約が事後的にも必ずそのまま履行されるとは限らなくなるのである。 その場合, もし事後的に適用される対価ルールに多くの不確定性や不透明性が予想されると, 企業も技術者も将来の利益分配の不確定性を考慮して積極的な研究開発努力を行わないという問題が生じる可能性がある。 これは, 契約理論でホールドアップ問題 (Hold up Problem) と呼ばれる問題と関係してお
り, この問題を最後に検討する。
Ⅱ リスクとインセンティブの負の相関
まず, 企業と技術者という当事者が事前に合意した発明の成果に対する報酬契約が事後的に履行可能である場合を想定して, どのような報酬契約が経済効率性の観点から望ましいと言えるのかについて分析してみよう。 とくに, 最適な報酬契約がもつ実証可能な命題について, これまでの契約理論の研究成果から説明を加えることにしたい6)。
技術者による職務発明の成果 (y) は, 次式の
リスクを負担することが望ましいリスク配分となるので, 技術者の報酬は Q= 0として, 技術者の努力費用にあたる固定給 α= (l/x)exを提示すればよい。 したがって, 企業の期待利潤 e—(l/x)ex を最大にする 「最善」 の努力は e'= lとなる。
次に, 技術者が職務発明に投入した努力水準が企業には観察できない場合 (「次善解」) を考察してみよう。 企業が提示した報酬契約(3)を所与として, 技術者の受け取る期待効用からその確実同値額を計算すると,
x x x
ように, 技術者自身の発明への努力 (e≥ 0) と
C7= α+Qe—(l/x)e—r(l/x)Qσ
(4)
環境の不確実性を表す確率変数 (<) との和によって決定されるとしよう。
y= e+< (1)
ここで, <は平均 0 および分散 σxのxx分布に従っているとする。
技術者はリスク回避的な選好をもっており, 次式のような絶対的リスク回避度一定の効用関数によって表現されるものとしよう。
となる。 技術者はこの C7を最大にする発明への努力水準 eを決定する。 これは,
e= Q (5)
で与えられる。
よって, 企業が解くべき問題は
maxe—(α+Qe)
α,Q,e
s.t.
e= Q (IC)
Г x ⅂
T(w,e)=— exp¹'—r(w—( /x)e)'¹ (2)
ここで, r> 0は絶対的リスク回避度, wは技術者が受け取る報酬額, (l/x)exは貨幣表示した発明努力 eの費用を表す。 一方, 企業はリスク中立的な選好を持っていると仮定する。 また, 当該企業との契約に応じなかった場合に技術者がえる留保所得水準はゼロと想定する。
企業が技術者に提示する職務発明の報酬契約は,
C7≥ 0 (IR)
ここで, (IC) は技術者の努力決定を表す 「誘因整合条件」 を, (IR) は技術者の契約参加を促すための 「個人合理性条件」 を表している。
(IR) は等号で成立するので, これと (IC) を目的関数に代入すると, 企業の解くべき問題は次式のようになる。
x x x
次式のような線形契約によって表現されるとしよ
maxe—(l/x)e—r(l/x)eσ
e≥ 0
(6)
う。
w= α+Qy (3)
ここで, αは固定給部分, Qは発明の成果 yに対して報酬がどの程度依存するかを表す歩合率である。 Qが大きいほど, 技術者の発明に対する報酬はよりその成果を反映することになる。
まず最初に, 技術者の発明への努力 eが企業にも観察可能である場合 (「最善解」) を考察してみよう。 このとき, リスク中立的な企業がすべての
これより, 次善解において技術者に要請される発明努力の水準は
e''= Q= l
l+rσx (7)
によって決定される。
発明の成果が報酬に反映される歩合率 Qは,技術者のリスク回避度 (r> 0) および環境の不確実性の程度 (σx) の減少関数となっていることがわかる。 すなわち, より成果の不確実な発明に関しては, 技術者の報酬はその成果にあまり依存
させないことが望ましい。 この結論の直感的な理由は次のとおりである。 より大きな不確実性が存在しているもとで歩合率 Qを増加させると, 技術者にはより大きなリスク負担を強いることになる。 技術者への契約参加を促すためには, 企業はこのようなリスク負担分を補 しなければならず,このことが企業側の利潤を減少させてしまう。 したがって, より不確実な環境においては, 技術者の報酬は職務発明の成果にはあまり依存させるべきではないのである。 リスクとインセンティブとのあいだに負の相関が存在するという理論仮説は,このようなことから導出される。
上記の結果についての留意点は以下のとおりである。
第一に, 上記の理論結果が現実にも妥当とするならば, まさに発明のような大きな不確実性が伴うような仕事に従事する技術者・研究者の報酬は発明の成果をあまり反映しないということになる。ただし, これは観察される発明の対価が小さいということを意味しない。 ここで示されたのは, 発明の成果への依存度 Qが小さいことを意味するだけで, 大きな利益をもたらす発明に成功した場合に実現する報酬額 (α+Qy) は十分大きいことになるからである。
第二に, 技術者の報酬が発明の成果にあまり依存していなくとも, 必ずしも技術者の発明へのインプットが小さいとは言えないかもしれない。 その理由として次のようなことが考えられる。 第一に, 上記のモデルは金銭的インセンティブのみに注目しており, 発明によって獲得する社会的名声や威信といった非金銭的な要因によって技術者が動機づけられていることを考慮していない。 したがって, 非金銭的動機が働けば, 発明の成果との結びつきが弱い報酬体系のもとでも技術者の努力インセンティブは低くはならない。 また, 金銭的な動機の観点からも, 当該企業が提示する報酬契約が成果にあまり依存していなくとも, 技術者の努力インセンティブが確保できる場合がありうる。xxxxxが米国の大学からオファーを受けたように, 大きな発明によって外部市場で能力が高く評価されると, 将来他の企業や大学などの研究機関から条件のよいオファーを引き出せる可能性が
あるからである。 このような外部評価がインセンティブを高める効果は, 「キャリア・コンサーン」 (Career Concern) と呼ばれている。
以上, 簡単な契約モデルを使って, リスクとインセンティブとの負の相関関係について見てきたが, 実際に従業員の報酬契約がどの程度本人の成果 (業績) を反映しているかは実証研究を待たなくてはならない問題である。 また, Prendergast (2002a, 2002b) が指摘するように, いくつかの産業や業種においては, 上記のようなインセンティブとリスクとの負の相関が頑健ではないという実証的結果が知られている7) 。 次節では, この Prendergast (2002a) の分析を紹介して, インセンティブとリスクとのあいだに正の相関が発生しうる経済環境を明らかにしたい。
Ⅲ リスクとインセンティブとの正の相関
1 裁量とインセンティブ
本節では, Prendergast (2002a) のモデルを紹介しながら, リスクとインセンティブとのあいだに正の相関が発生する可能性について検討しよう。企業は, 技術発明にかかわる 2 種類のプロジェ クトを持っているとしよう。 技術者は, このうちただ一つだけの発明のプロジェクトに従事できるものとしよう。 プロジェクト iにおける技術者の
発明へのインプット (努力) を ei≥ Oとしよう。プロジェクト iの成果は
yi= pi+ei (8)
i
によって決定される。 ここで, xxはプロジェクトiに影響を及ぼす不確実性要因を表している。 pは平均 0 および分散 σxのxx分布に従うとする。 よって, 二つのプロジェクトの不確実性要因は同じ分布に従っている。 技術者の努力の費用は C(ei)として, C’> O, C’> Oと仮定する。
企業と技術者はリスク中立的として, 実現した
piについては技術者は知っているが, 企業側は知らないものとする。
企業側が用意できるインセンティブとして, 次
の二通りを考える。 第一に, 企業が遂行すべきプロジェクトを指定して, それを技術者に割り当てるというものである。 これを 「非裁量型方式」 と呼ぶことにしよう。 第二に, 遂行するプロジェクトの選択を技術者に任せるというものである。 これを 「裁量型方式」 と呼ぶことにしよう。 上記の二つに関係して, 次の二つの報酬契約が付随する。第一に, 監督費用 me> 0をかけて, 技術者の努力を直接観察するという 「インプット依存型契約」
(Input-based Contract) である。 これは, 上記の非裁量型方式と合わせて利用される。 第二に, 監督費用 my> 0をかけて, 技術者の発明の成果 yiを観察して, それに依存した契約を提示するという 「 アウトプット依存型契約」 (Output-based Contract) である。 これは, 上記の裁量型方式と合わせて利用されることになる。 ここで,
my> meを仮定する。
まず, 非裁量型方式の場合を見てみよう。 二つのプロジェクトは完全に同質的なので, 技術者を
どちらに割り当てても企業の観点からは無差別で
ト依存型の報酬契約を提示すればよい。
w(yi)= α+yi
すなわち, 前節のモデルで Q= lと置けばよい。このとき, プロジェクト iを選択した技術者の利得は
α+yi—C(ei)
となる。 よって, 技術者は最善解における努力水準 e' (l= C’(e')を満たす) を選択して, また,全体の余剰である yi—C(ei)を最大にするプロジェクトを選択することになる。 ここで, 技術者はリスク中立的なので, 彼/彼女に努力インセンティブを与えることはたやすい。 アウトプット依存型報酬契約の役割は, むしろ技術者を適切なプロジェクト選択に導くことにあると言える。
技術者は plと pxを比べて, その値が大きいプロジェクトを選択する。 すなわち, 事前の観点からは, 選択されるプロジェクトの期待値は
'
ある。 よって, どちらかに割り当てたとしよう。
7[max{pl,px}]+e
(10)
また, これと併せてインプット依存型契約が採用されたとしよう。 この契約のもとでは, 技術者の
となる。 技術者がこの契約を受け入れるための条件は, α+7[max{p,p}]+e'—C(e')≥ 0とな
l x
努力水準は観察可能なので, 企業は最善解における努力水準 e'を技術者に指定する (ここで, e'x
x。 これは等号で成立するので, 最終的な企業の期待利潤は,
7[y]—C(e)を最大にする努力水準, すなわち
7[max{p,p}]+e'—C(e')—m
(11)
l= C’(e')を満たす)。 技術者が企業の契約を受け入れるための条件は w≥ C(e')である。 よって, 企業の期待利潤は
e e
e'—w—m = e'—C(e')—m (9)
となる。
一方, アウトプット依存型契約の場合を使用す
l x y
と書ける。
i
p(i= l,x)が平均 0 および分散 σxのxx分布に従うという仮定の下では,
7[max{pl,px}]= σ/ u
となる。 したがって, 上記の期待利潤x
xx, 監督費用 myがかかるが, 仮定によってこ ' '
れは meよりも大きい。 よって, 非裁量型方式のもとでは, より高い監督費用を掛けてアウトプット型契約が採用されることはないことがわかる。
次に, 裁量型方式の場合を調べてみよう。 この場合には, アウトプット型報酬契約が併用されなければならない。 これによって, 技術者を望ましいプロジェクト選択に誘導できるからである。 技術者はリスク中立的なので, 次のようなアウトプッ
σ/ u+e—C(e)—my
となる。 非裁量型方式+インプット依存型契約のもとでの期待利潤と比較すると, 次の不等式が成立することが, 裁量型方式+アウトプット契約が非裁量型方式+インプット契約に比して望ましくなるための必要十分条件である。
σ/ u≥ my—me. (12)
ここで, 環境の不確実性要因 (σ) が増大すると,この条件は満たされやすくなる。 すなわち, 発明の成果がより不確実な環境においては, 技術者に職務遂行の権限=裁量を与えると同時にアウトプット依存型の報酬契約を導入することが望ましくなることを示している。
この Prendergast (2002a) の結果は次のように解釈できる。 まず第一に, 不確実性が大きい環境では, プロジェクト選択の権限をより正確な情報を持つ技術者本人に委譲することが望ましい。企業がプロジェクトを技術者に割り当ててしまうと, そのプロジェクトが事後的に高い利益をもたらす保障はないからである。 また, そのような効果は不確実性が高い環境ではなおさら顕著になる。第二に, アウトプット依存型の報酬契約を併用することで, 技術者自身に全体の余剰 yi—C(ei)を
最大にする努力とプロジェクト iの選択をさせる
ことが可能になる。 アウトプットの監督費用 myに比して上記の効果が大きければ, 権限委譲+アウトプット依存型報酬が非裁量型+インプット依存型報酬を支配することになるのである。
この結論は, 職務発明に対する報酬契約のあり方に次のような示唆を与えてくれる。 もし, 遂行すべき職務の成果がより大きな不確実性に直面しているならば, 職務遂行の権限を技術者本人に委譲するとともに, 彼/彼女への報酬は強く発明の成果に依存させるべきである。 他方, 不確実性の程度が大きくなければ, 技術者に与える裁量を減らすとともに, その努力インプットそのものを監督すべきである。
以上, 2 節にわたり, 技術者に提供すべき最適な報酬契約 (対価) が持つ性質について見てきた。発明という不確実性の大きな環境において, 技術者本人に与える対価をその職務リスクと負または正に相関させるかどうかは, 理論的にはさまざまな可能性があり一概には言えない8)。 今後, こうしたリスクとインセンティブとの関係についての理論仮説を実証的にテストする研究が望まれるであろう。
Ⅳ 裁判所の介入と事前の効率性
1 事後介入の非効率性
これまでは, 発明に対する報酬契約が結ばれれば, それが必ず最終的には履行されると想定してきた。 より具体的には, もし技術者ないし企業が報酬契約にしたがって行動しなかったとしても,裁判所によって当事者間で合意された契約が履行されると想定してきた。 しかしながら, 発明をめぐる報酬に関しては, このような仮定が当てはまらない場合が考えられる9)。
次のような状況を考えてみよう。 技術者は, 当初企業との発明の対価を定める報酬契約に合意していたが, 発明の成果が実現した後で, 契約によって定めた対価以上の支払いを企業側に要求したとしよう。 企業側がその要求を呑めば, 当初結ばれた契約は再交渉によって改定されたことになる。一方で, 企業がその要求を拒否して, 技術者が自分の要求額を企業側に求めるため裁判所に訴えたとしよう。 このとき, 裁判所が, 仮定どおりに,当事者が結んだ事前の報酬契約を履行するよう介入すれば, 当初の契約は有効ということになる。しかし, 裁判所は独自の判断から妥当と考えうる発明の対価 (=「相当の対価」) を算定して, それを企業側に要求するような判決を下すかもしれない。 この場合には, 当事者が結んだ事前の契約は事後的に有効とはならない。
事実, 改正前の特許法 35 条のもとでは, 当事者間で事前に合意した職務発明の対価があったとしても, 裁判所が特許法 35 条に基づき算定した
「相当の対価」 と認める対価が認定されるのが通例であった。 この点は, 2005 年 4 月 1 日に改正施行された特許法 35 条によって修正され, 当事者が勤務規則で定めた対価が 「不合理」 と認められない限りにおいて有効とされることになった。しかし一方で, その対価が 「不合理」 と判断されると, 以前の制度と同様に裁判所が算定する 「相当の対価」 に基づいて対価の支払いが決定されることになる10)。
ここでの問題は, 技術者と企業双方は, このような事後的な裁判所の判断を予想しながら, 事前
の行動を選択する誘因を持つということである。例えば, 事後的に裁判所が算定する対価のルールが企業側に大きな負担となるような場合には, 企業は発明の成果を製品開発に結びつける積極的な投資を行わなくなってしまうかもしれない。 あるいは, 技術者の発明の対価が裁判所の算定ルールで低く見積もられれば, 技術者は発明への努力投入を低下させてしまうかも知れない。 このような事後的な何らかの契約の変更・再交渉が, 当事者の事前の行動を歪めてしまうような問題を, 契約理論では 「ホールド・アップ問題」 と呼んでいる。
以下, この問題を簡単なモデルを使って分析してみよう。 発明の成果 yは技術者の努力投入 e≥ 0と企業の製品開発への投資水準 I≥ 0によって以下のように決定されるとしよう。
y= Ae+BI+< (13)
ここで, <は以前と同様に確率的なショックを表している。 <の平均はゼロとしよう。 また, A> 0は技術者の努力が発明の成果に及ぼす効果, B> 0は企業の投資が発明の成果に及ぼす効果を示している。
また, 技術者と企業は双方ともリスク中立的であるとし, Ⅱで見たようなリスク配分の問題を捨象しよう。 技術者の努力費用は (l/x)ex, 企業の投資費用は (l/x)Ixとしよう。
もし, 技術者の努力 e≥ 0および企業の投資 I≥ 0がともに契約可能であり, その契約が事後的に必ず履行されるならば, 次式の共同利益を最大にする努力水準 e'および投資水準 I'を契約によって指定することができよう。
成果に対する技術者の報酬の依存度を表している。よって, 技術者の期待利得は
α+Q(Ae+BI)—(l/x)ex
となり, 企業の期待利得は
(l—Q)(Ae+BI)—α—(l/x)Ix
となる。 技術者, 企業はそれぞれ自分の期待利得を最大にするように努力水準と投資水準を決定する。 したがって, 技術者の選択する努力水準は
-e= QA
となり, 企業の選択する投資水準は
-
I= (l—Q)B
となる。 どちらも最善解 (e'= A,I'= B)と比べて過小になっていることがわかる。
事前の観点からは, 企業と技術者の共同利益を最大にするように Qを選択することが効率的である11)。 したがって, Qは次式を最大にするように決定される。
BI— )I
A-e+ - (l/x)-ex—(l/x -x
これより, 最適な Q'は
Ax
Q'=
Ax+Bx
となることがわかる。 この式より, 技術者の努力が発明の成果に及ぼす効果 Aの上昇は, 技術者の報酬の成果に対する依存度を増加させ, 逆に企業の投資が発明の成果に及ぼす効果 Bの増加は技術者の報酬の発明への依存度を低下させること
x x がわかる。 より発明への影響度の大きい主体に成
7[y]—(l/x)e—(l/x)I
ここで, e'= Aおよび I'= Bとなる。
しかしながら, 努力水準も投資水準も契約不可能であるとしよう。 最初に, 発明の成果 yは契約可能であり, 事後的にもこの契約が履行可能な場合を考えてみよう。 この場合の技術者への報酬契約を
w(y)= α+Qy (14)
としよう。 以前と同様に, Q< [0,l]は発明の
果への利得の依存度を高めることが望ましくなるからである。
次に, 上記のような報酬契約が事後的に履行されない場合を考えてみよう。 例えば, 企業と技術者は上記の報酬契約 w(y)に事前に合意していたとする。 企業と技術者がそれぞれ投資 Iと努力投入 eを選択し, 発明の成果 yが実現したとする。ここで, 企業は技術者に w(y)を支払うというのが事前の契約であるが, 技術者がこの対価以上の支払いを求めてこの要求を拒否したとしよう。 企
業側もこの技術者の契約以上の支払い要求には応じられないとして, 対価をめぐる訴訟が生じたとする。 このような事態が生じる一つの理由として,実現した発明の利益 yが企業や技術者という当事者以外の主体には十分観察できないような情報を含んでいる場合が考えられる。
いま, 裁判所は独自の推定によって, 発明の成
果を
V(Q)Ξ 7µ[Ae(Q,µ)+BI(Q,µ)
—(l/x)e(Q,µ)x—(l/x)I(Q,µ)x] (16)
となる。 ここで, 期待値のオペレータ 7µ[·]は確率変数 µに対して取られている。
この共同利得 V(Q)を最大にする最適な歩合率
-
Qを求めると,
- Ax+Bxσx
- Q=
µ
x x x
y= µy (15)
µ
と見積もるとしよう。 ここで, µは平均 1 および分散 σxの分布に従っているとしよう。 この µが真の成果 yと裁判所が推定する成果 -yとの 「ズレ」 を表している。 また, 企業と技術者はそれぞれ投資 Iと努力 eを決定する時点では, この 「ズレ」 の値を確実に予想できているとしよう。 しかし, 当初の報酬契約を作成する時点ではこの 「ズレ」 の値はxxであるとしよう。
ここで, 最終的に技術者が直面する報酬に関して二通りの可能性が考えられる。 一つは, 裁判所が推定した成果 -yの情報に基づき, 企業に当初の報酬契約 w(-y)に従って対価を技術者に支払うよう命じる場合である。 これは次のように解釈できる。 すなわち, 立証可能な情報は真の成果 yではなく誤差を含んだ -yであり, 当事者で合意する契約はこの立証可能な情報 -yに依存した w(-y)となる。 改正後の特許法 35 条の場合のように, この報酬契約 w(-y)が裁判所によって「不合理」と判断されない限りは, この契約が最終的に履行されることになるのである。
このとき, 技術者の報酬は
w(-y)= α+Q-y= α+Qµy
となる。 y= Ae+BI+<をこれに代入すると,報酬の期待値は
7[w(-y)]= α+Qµ(Ae+BI)
となる。 よって, 技術者は e(Q,µ)= QµA の努力を選択し, 企業は I(Q,µ)= (l—Q)µBの投資水準を選択することになる。
報酬契約を結ぶ時点における事前の企業と技術者の共同期待利得は
(A+B )(l+σµ) (17)
µ
となる。 これより, 裁判所による発明の成果 yの推定に誤差を伴わない以前の場合 (σx= 0) と比べると, 効率性に歪みがもたらされていることがわかる。
二つ目の可能性として, 裁判所は推定した成果
-yに基づき, 独自に発明の対価を算定し, それを企業側に要求することになる場合を考えよう。 例えば, 改正前の特許法 35 条のように, 当事者が勤務規則等で定めた対価があったとしても, 裁判所が特許法 35 条に基づき 「相当の対価」 と定める対価を当事者に命じる場合である。 あるいは,改正後の特許法 35 条の場合において, 当事者が合意した報酬契約 w(-y)が何らかの理由により
「不合理」 と判断され, その結果として裁判所の判断により 「相当の対価」 が算定される場合である。
ここでは, 裁判所が企業側には fi-yの対価を技
術者に支払うよう判決を下したとする。 ここで, fi< (0,l)は発明の成果と推定された利益 -yのうち技術者が獲得する割合を示している。
このルールの下で, 技術者は次の期待利得を最大にするように努力投入 eを決定する。
fiµAe—(l/x)ex
これより, 最適な努力投入は e(fi,µ)= Afiµと なる。 同様にして, 企業は次の期待利得を最大にするように投資水準 Iを決定する。
(l—fi)µBI—(l/x)Ix
これより, 最適な投資水準は I(fi,µ)となる。 よって, 先の議論と同様にして, 企業と技術者
との共同期待利得は V(fi)であることがわかる。
ここで, fiは必ずしも上で求めた最適な歩合率
-
Qとは一致していないので, 企業と技術者の共同
期待利得は最大化されないことになる。
を入手するものとする。 ここで, цは裁判所が見積もる技術者の貢献度に関する誤差を表している。 цは平均 0 および分散 σxのxx分布に従うもの
裁判所が最適な
-
Qを対価として適用しない可
Q
能性については次のように考えられる。 第一に, 成果が実現する前の事前の判断からは, 最適な -を決定することが望ましいが, 裁判所が対価を決定するのは成果がすでに実現した事後の話である。したがって, 成果はすでに実現したということを所与として, 裁判所はこの事後における利益を判断材料として対価を決定するかもしれない。 しかしながら, この事後においてさえも裁判所が定める発明対価のルールが確立していると言えるかどうかは検討の余地があることを明記しておくべきであろう。 第二に, そもそも裁判所は効率性のみを唯一の価値尺度として対価を算定しない可能性があるということである。
µ
上記のモデル分析で見たように, 発明の対価がどのように決定されるのかについて将来の不確実性や不透明性が大きいとき (σxの増大), 企業や技術者が事前に行う投資や発明努力には大きな歪みがもたらされることになってしまう。 特許法 35 条の改正は, このような対価の予測可能性を高めて, 企業や技術者の事前の努力インセンティブを向上させることが目的の一つであるとも言われている。 しかしながら, 一方で当事者が定めた対価を 「不合理」 と判断する基準が必ずしも明確に規定されないことによって事前のインセンティブにネガティブな影響が依然として残らないものなのか, 今後も検討すべき課題のように考えられる。
2 事後介入の効率性
一方で, 裁判所の事後介入が事前効率性を改善する可能性も存在することに注意すべきである。
Ⅱでのモデルに戻って, 次のような状況を想定しよう。 技術者の努力 e≥ Oによる成果 y= e+<は依然として立証可能であるが, 裁判所が事後的に介入することで, 裁判所は技術者の発明への貢献度に関する情報として
x= e+ц
とする。
ц
裁判所の事後介入がなければ, 企業と技術者は,
Ⅱどおりの最適契約に従って行動することになる。一方で, 裁判所の事後介入が存在する場合, 裁判所は技術者の貢献度を xと見積もり, それに応じて技術者への 「相当の対価」 を fix(O< fi< l)と定めるものとしよう。
この裁判所による対価設定の下で, 技術者は期待利得
ц
fie—(l/x)ex—(l/x)rfixσx
を最大にするように努力水準 e≥ Oを選択することになる。 これより, ~e= fiが最適な努力水準となる。
また, 企業と技術者の事前における共同期待利得合計は
ц
~e—(l/x)~ex—(l/x)rfixσx
ц
となる。 Ⅱとは異なり, 裁判所が定める対価 (fi)は企業と技術者の事前の共同期待利得を最大にしていない。 しかしながら, 裁判所の介入が存在しない場合と比べて, 共同期待利得が増加する可能性がある。 例えば, 裁判所が評価する技術者の貢献度 xは, 立証可能なシグナル yに比べてより少ない誤差を含んでいるかもしれない。 すなわち, σx< σxとしよう。 このような場合, 裁判所の事後介入が存在する場合の方が, そうでない場合に比べて, より高い事前の効率性が達成されるかもしれない。
このことは, 裁判所の事後介入によって技術者の貢献度に関する精度の高い情報が期待されうる場合, 仮に裁判所が定める 「相当の対価」 が事前の効率性を考慮していなくとも, 事後介入のない場合と比べて事前の効率性が改善されることを示している。
Ⅴ 結 論
本稿では, 契約の経済理論の観点より, 職務発
明の対価をめぐる問題が技術者や企業の努力インセンティブへ与える影響について見てきた。 とくに, 当事者が合意した報酬契約 (対価) が履行可能な場合, どのような契約を用意することが望ましいのかについて検討した。 そこで, 伝統的なインセンティブとリスクとの相反関係という結果は必ずしも頑健ではないという Prendergast (2002 a, 2002b) の最近の研究成果を紹介しながら, 技術者に対するインセンティブ契約のあり方についての示唆を検討した。 また, 特許法の存在によって必ずしも当事者が合意した対価が裁判所に認められない場合, 裁判所の対価算定への介入が企業や技術者の事前のインセンティブに歪みをもたらす可能性について検討した。
*本稿の作成に当たり, xxxxxより有益なコメントを頂いた。 ここに記して感謝したい。
1) 平成 13 年に請求額 200 億円で提起, 平成 17 年に 6 億円 (遅延損害金込み 8 億 4 千 4 百万円) で和解成立。
2) 契約理論の視点より職務発明の問題を考察した最近の論文として, Xxxxxx and Xxxxxxxxx (2005) などがある。
3) 契約理論のテキストとしては, xxxx (2003), Xxxxxxx and Xxxxxxx (1992), Xxxxxx and Xxxxxxxxxxx (2005) などがある。
8) リスクとインセンティブとの正の相関をめぐる他の論点としては, Prendergast (2002b) を参照。 そこでは, 上司が部下の業績を歪めて報告するインセンティブを持つ可能性や部下の業績を監督するための費用の存在などが, リスクとインセンティブとのあいだで正の相関が生じる要因として議論されている。
9) 裁判所の事後介入の効果について 「法と経済学」 の立場から考察したものに, xx・xx (2005) がある。
10) なにをもって裁判所は勤務規則で定めた対価を 「不合理」と判断するのかについては, 当事者同士が対価を定めるに当たって, その対価算定基準が適切に情報開示されていたか,適切な形で協議がなされていたかなど, 対価算定のプロセスが重視されるとの見方がある。
11) 技術者・企業ともリスク中立的であることに注意してほしい。
参考文献
xxxx・xxx (2005) 「職務発明の事後介入に関する考察」 mimeo.
Xxxxxx, P., and M. Dewatripont (2005) Contra t†2eory, MIT Press.
Xxxxxx, X., and X. Xxxxxxxxx (2005) ‶Who Should Own Rights of Service Invention, Employees or Firms?" Discussion Paper, Tsukuba University.
xxxx (2003) 『契約の経済理論』 有斐閣.
Xxxxxxx, P., and X. Xxxxxxx (1992) 7 onomi <,crganization<, andWanagement, Prentice Hall.
Xxxxxxxxxxx, X. (2002a) ‶The Tenuous Tradeoff Between Risk and Incentives," JournalofPoliti al7 onomy, Vol.
110, No. 5, 1071-1102.
4) Prendergast (2002a, 2002b) 参照。 (2002b) ‶Uncertainty and Incentives," Journalof
5) 旧特許法第 35 条第 4 項には, 「前項の対価の額は, その発明により使用者等が受けるべき利益の額及びその発明がされるについて使用者等が貢献した程度を考慮して定めなければならない」 と規定されている。
6) 本節の分析については, Xxxxxxx and Xxxxxxx (1992)の 7 章などを参照。
7) 例えば, 小作契約やフランチャイズ契約などのケースが Prendergast (2002a, 2002b) では挙げられている。
Labor7 onomi <, Vol. 20, No. 2, 115-137.
いしぐろ・しんご 大阪大学大学院経済学研究科助教授。最 近 の 主 な 論 文 に ‶Collusion and Discrimination in Organizations," Journalof7 onomi †2eory, 2004. 応用ミクロ経済学専攻。