[第 2 ルール]の考え方は、個別の当事者の観点から解釈を行うことを明らかにしたものではあるが、例えば慣習や条理など、合理性を判断する手がかりは示しておらず、 要するに『契約の内容を合理的に解釈しなければならない』という内容の乏しい規律にとどまっており、実務的な有用性に乏しいとの評価もあり得るように思われるが、どのよ うに考えるか」という批判的な問題提起がなされている。この部会資料 75 Bの問題提起に対する反論としての「山本意見書」(7)では、「契約は、当事者が自らの法律...
〔論 説〕
契約の解釈と契約法理論(3)
x x x x
序 章
第 1 章 民法(債権法)改正の審議過程での議論第 1 節 先駆的作業としての「基本方針」
第 2 節 xxxxの作成までの議論 (以上第 84 号)第 3 節 xxxxの公表後の議論 (以上第 85 号) 第 4 節 部会審議の回顧と評価 (以上本号)
第 2 章 契約解釈に関するわが国の学説の到達点と課題第 3 章 契約の解釈と契約法の基礎理論との関係
結 章
第 1 章 民法(債権法)改正の審議過程での議論第 4 節 部会審議の回顧と評価
事務局が提案した「契約の解釈に関する基本原則」の規定案は、平成 24 年 10 月 23 日の第 60 回会議における部会資料 49 では、以下のようなものであった(1)。
(1)契約は、当事者の共通の意思に従って解釈しなければならない旨の規定を設けるものとしてはどうか。
(1) 部会資料 49、1 頁(本誌 84 号 389-388 頁)。
(2)契約は、当事者の共通の意思がないときは、当該契約に関する一切の事情を考慮して、その事情の下において当該契約の当事者が合理的に考えれば理解したと認められる意味に従って解釈しなければならない旨の規定を設けるものとしてはどうか。
(3)上記(1)及び(2)によって契約内容を確定することができない場合において、当事者がそのことを知っていれば合意したと考えられる内容を確定することができるときは、契約は、その内容に従って解釈しなければならない旨の規定を設けるという考え方があるが、どのように考えるか。
このような原案は、「xxxx」の段階では、次のようなかたちに整備されている。
1 契約の内容について当事者が共通の理解をしていたときは、契約は、その理解に従って解釈しなければならないものとする。
2 契約の内容についての当事者の共通の理解が明らかでないときは、契約は、当事者が用いた文言その他の表現の通常の意味のほか、当該契約に関する一切の事情を考慮して、当該契約の当事者が合理的に考えれば理解したと認められる意味に従って解釈しなければならないものとする。
3 上記 1 及び 2 によって確定することができない事項が残る場合において、当事者がそのことを知っていれば合意したと認められる内容を確定することができるときは、契約は、その内容に従って解釈しなければならない。
上の部会資料 49 の段階から「xxxx」に至るまでには、比べてみると分かるように、若干の文言の追加や表現の変化があるが、その内容はほぼ同一であるので、以下では便宜上、「xxxx」の段階での規定案「1」を「第 1 ルール」と、規定案「2」を「第 2 ルール」と、規定案「3」を
「第 3 ルール」と呼ぶことにする。
1.第 2 ルールにおける「当事者基準」の問題
契約解釈に関する規定の要否及びその内容についての部会審議において、その最初の時点で比較法的検討が十分に行われたかどうかは疑問である。たとえば、平成 24 年 10 月 23 日の第 60 回会議において、配布された比較法資料の中にあるヨーロッパ契約法原則等との異同につき、次のような議論がなされている。
すなわち、まず、第 1 ルールにつき、「契約は当事者の共通の理解に
従って解釈しなければならない」旨の文言の前に、例えばヨーロッパ契約法原則であれば「文字の字義と異なるときであっても」という文言が、フランス民法改正草案では「条項の文言通りの意味に基づいてと言うよりもむしろ」という文言が、DCFRでは「それが文言の言葉上の意味と異なる場合であっても」という文言が付けられており、非常に分かりやすい、という意見があった(2)。そして、第 2 ルールについては、ヨーロッパ契
約法原則 5:101 条(3)では「……契約は、両当事者と同種の合理的な者であれば同じ状況の下で与えるであろう意味に従って解釈されなければならない」とされていることとの異同についての質問がなされた(3)。
これに対するxxxxの回答は、当該当事者を基準とするのか、それとも同種の合理人を基準とするのかという点で異なっていることを認めながら、しかし、合理的にどう解釈すべきだったのかという基準を入れる点では、かなり共通している、という趣旨の、取りようによっては問題の鮮明化を避けようとするようなものであった(4)。しかし、この「当事者基準」とするか、それとも「合理人基準」とするかは、あとあとの議論において、さまざまなかたちで議論の対象とされる事項であった(5)。さらに、xx幹事は、第 3 ルールにおいてもこの「当事者基準」を採っていること
につき、それをユニドロワ原則第 4.8 条(2)と比較して、後者の「客観的な基準による補充」から「当該契約の趣旨に照らして」という基準を切り出しているのが第 3 ルールの特徴であるという趣旨の、きわめて不正確な説明をしている(6)。この点も、あとあとの議論においてあらためて問題とされる点である。
この第 2 ルールにおける、「合理人基準」ではない「当事者基準」の採
(2) 第 60 回議事録 49 頁・xx発言(本誌 84 号 382 頁)。 (3) 同上。なお、条文中の下線はxxによる。
(4) 第 60 回議事録 50 頁・xx発言(本誌 84 号 382-381 頁)。
(5) ちなみに、部会資料 19-2 に示された詳細な比較法資料の中に出てくる種々の外国法(改正草案を含む)やモデル法において、第 2 ルールに相当する規定を置いているものをみると、すべて「合理人基準」を採用している。フランス民法改正草案(テレ草案)第 136 条②、フランス民法改正草案(司法省
草案(2008 年 7 月版 )第 152 条②、ユニドロワ国際商事契約原則第 4.1 条
(2)、ヨーロッパ契約法原則 5:101 条(3)、DCFR第 2 編第 8 章 11.-8:101
(3)を参照。
(6) 同上(本誌 84 号 381 頁)。
用という点については、xxxx公表後の第 85 回会議(平成 26 年 3 月 4
日)のために事前配布された部会資料 75 B 5-8 頁において正面から論点
として扱われることになる。すなわち、同部会資料 7 頁(本誌 85 号 196
頁)では、第 2 ルールについて、「当事者の理解が食い違っているのであるから当事者を基準とすることはできず、当事者と同種の合理的な人を基準とすべきであるとの批判もある」と述べられており、また、「xxxx
[第 2 ルール]の考え方は、個別の当事者の観点から解釈を行うことを明らかにしたものではあるが、例えば慣習や条理など、合理性を判断する手がかりは示しておらず、要するに『契約の内容を合理的に解釈しなければならない』という内容の乏しい規律にとどまっており、実務的な有用性に乏しいとの評価もあり得るように思われるが、どのように考えるか」という批判的な問題提起がなされている。この部会資料 75 Bの問題提起に対する反論としての「xx意見書」(7)では、「契約は、当事者が自らの法律関係を形成するためにおこなうものである以上、当事者がどのように理解し、また理解すべきだったかという基準によることが契約制度の趣旨に合致する」ということから「契約をした当該当事者に視座をすえ」たものであるという反論がなされている。また、第 3 ルールについても、同じ部会資料 75B の中で批判的な問題提起がなされており、xx意見書がこれに反論している(この第 3 ルールに関しては後で検討する)。
この第 2 ルールは、xxxxの信条によるならば、契約法における当事者の「自律」という思想に基づく当然の帰結ということになるのであろうが、しかし、これに対しては、まず、ある裁判官委員から、第 2 ルールは
当事者の意思に食い違いがある場合を扱うものであり、そうであれば第 3
ルールが適用されることになるはずであって、そして、第 3 ルールが適用される場合というのは、実務的には一般人を基準にした経験則等を使って黙示の意思を認定できる場合がほとんどなのであって、その結果、第 2
ルールと第 3 ルールとの境界が非常に分かりにくいものになっている、との批判がなされる(8)。また、「当事者が合理的に考えたならば」とか「当事者が検討の機会を与えられたら」という仮定を置いての「当事者基準」は、実際に裁判の場で争っている当事者への説得力に欠ける、すなわち、
(7) 本誌 85 号 195 頁以下に、その主要部分を抜粋している。 (8) 第 85 回議事録 5-7 頁・xx発言(本誌 85 号 185 頁)。
「あなたは合理的に考えたら、こうなるでしょう」と言っても当事者は納得しない、「いや、そんなことは絶対にない」と言うであろうが、これに対して、「一般普通の人が考えるとこうでしょう」「こうしなかったのだから仕方ないでしょう」という説得のほうが当事者の納得を得やすいであろう、とも指摘される(9)。さらに、別の裁判官委員から、(これはある種の誤解に基づく発言ではあるが)第 1 ルールで当事者の共通の意思を探る場合には一般人を基準として当事者間のやり取りを評価することになるが、第 2 ルールでは当該契約当事者を基準として、当事者が合理的に考えたときにはどうかということを見ており、両者はxxxのほぼ同じ作業であって、第 2 ルールがどういう場面で出てくるのかが理解しにくい、という批判もなされる(10)。
このように裁判官委員から批判が続出したことからすると、第 2 ルールにおける「当事者基準」は、必ずしも現在の裁判実務を反映したものとは言えないばかりか、むしろ現在の裁判実務とは相容れないものなのではないか、と思われる。たとえば、判例における「当事者の黙示の合意」や
「合理的契約解釈」の認定による事案の解決は、まさに「合理人基準」に拠っていると考えられることからしても、契約内容について当事者間で共通の理解がないときには「当事者が合理的に考えれば理解したと認められる意味」に従って解釈すべきであるとするこの第 2 ルールは、少なくとも
裁判実務に容易に受け容れられるものではなかろう。そればかりか、第 1
ルールについての理解や第 3 ルールの必要性にまで疑問を生じさせるものになってしまっている。
以上の審議経過を振り返ってみたとき、仮に議論の初期の段階で比較法資料を十分に参照しながら、第 2 ルールの「当事者基準」に問題がないかどうかがより深く検討され、その結果として「合理人基準」が採用されていたならば、その後の審議がここまで錯綜することはなかったように思われる(11)。比較法的にも例のない「当事者基準」をとることに果たしてど
(9) 同上(本誌 85 号 184 頁)。
(10) 第 85 回議事録 10-11 頁・岡崎発言(本誌 85 号 179 頁)。
(11) ちなみに、筆者(xx)は、後xx的ではあるが、部会審議において例えばヨーロッパ契約法原則 5:101 条及び同 5:102 条(本誌 84 号 391 頁の脚注に転載してある)と全く同内容の規定案が提出されていたならば、「契約の解釈」に関する規定が最終的な改正法案に組み入れられた可能性は大きかった
れだけの意味があったのか、この点については後で検討する。
2.第 1 ルールの位置づけ
第 1 ルールは、「契約の内容について当事者が共通の理解をしていたときは、契約は、その理解に従って解釈しなければならないものとする。」という短い規定であるが、やはり少なからぬ議論を呼んだ。その理由としては、まずは、第 1 ルールは「抽象的、一般原則の宣言」とも見えるし、
「条項の文字が書かれているけれども、両当事者が通俗的な意味と違う意味で定めたときは、共通の意思のほうをとる」という大原則の発現形態であるのか、という理解の仕方の違いによって、大きな差が出てくる、という点にあったように思われる(12)。この 2 つの捉え方のうちの後者は、「契約当事者間でその真意が認識されたか共通であるときは、その真意と通常の意味においては一致しない表示が誤ってなされたとしても、契約はその真意に即して妥当するべきである」という「誤表は害さず(falsa demon- stratio non nocet)」原則を意味するものである(13)。学者委員は当然この原則の存在を知っており、第 1 ルールにはこの「誤表は害さず」原則が含意
されていることは承知していたであろうが、しかし、上記のように第 1ルールが「契約解釈の一般原則」の宣言なのか、「誤表は害さず」原則の表明なのか、そのどちらの比重が大きいのか、という点について、必ずしも学者委員の全員が明確な考えを共有していたとは言えないように思われる。そして、それに加えて、企業法務家委員と裁判官委員からの「書面優先主義」の主張が、第 1 ルールについての余計な議論を生み出した。すなわち、企業法務家委員は、議論の当初から最後まで、企業法務における契約書面の重要性と、当事者の意思の探求によって事後的に契約書面の内容に介入されることを嫌悪している(14)。また、裁判官委員は、裁判実務上
と思っている。
(12) 第 60 回議事録 54 頁・xx発言(本誌 84 号 378 頁)。
(13) 「誤表は害さず」原則に関してはさまざまな文献で論及されいるが、それを独立のテーマとして検討している文献として、xxxx「契約における合意と誤表――「誤表は害さず」について――」xxxほか監修『現代契約法体系第 1 xxx契約の法理(1)』(有斐閣、1983 年)286 頁がある。
(14) 第 60 回議事録 39-40 頁・佐成発言(本誌 84 号 386 頁)。第 60 回議事録 56頁・xx発言(本誌 84 号 377 頁)。第 85 回議事録 11-12 頁・佐成発言(本誌 85 号 178 頁)。
は、表示行為ないし契約書面の文言の客観的評価こそが第一になされるべきことであって、当事者の主観的な意思はあくまでも例外的な場合にしか問題とならないとする(15)。そして、この第 1 ルールに対する評価をまとめたのが、(パブリック・コメントの結果も考慮して書かれたであろう)第 85 回会議のために準備された部会資料 75 Bであるが、そこでは、「裁判実務における契約解釈は、契約書に用いられた文言等の客観的事情を出発点にして、通常人であればそれをどのように理解するかという客観的な意味を探求する作業として行われており、xxxxで示されている考え方は現在の裁判実務における一般的な契約解釈の手法と食い違っているという批判がある」とまとめられている(16)。この部会資料 75 Bの記述に対し
ては、xx意見書が、この第 1 ルールは「契約制度の理念にかなうだけでなく、実務における『一般的な解釈の手法』とも整合的である」旨の反論を提示した(17)が、しかし、それが部会審議において十分な効果を発揮したとは言い難い。すなわち、このxx意見書の反論を踏まえた上でなお、裁判官委員から、この第 1 ルールは契約内容について当事者が共通の理解を有していた場合に適用されるものであるが、その場合には当事者間に争いはないということになるので、紛争解決のための規範としてあえて規定を設ける実践的な意義が乏しい、かえって、明確な契約書が作成されているにもかかわらず、「自分の理解はこれとは違う」といった紛争を惹起しやすくなるのではないか、という批判がなされている(18)。さらに、裁判実務上は、第 2 ルールに従って当事者の意思を探求していくと、結局はいずれかの当事者の主張している意思を相手方も有していたという認定に至る場合が多く、その意味で、第 2 ルールと別に第 1 ルールを設ける必要性が果たしてあるのか、といった指摘もなされる(19)。
しかし他方で、この第 1 ルールの規定の趣旨は、裁判規範を示すところ
(15) 第 60 回議事録 51-52 頁・岡崎発言(本誌 84 号 380 頁)、及び、第 85 回議事録 5-7 頁・xx発言(本誌 85 号 187-186 頁)。ただし、前者の岡崎発言は、契約の成立・不成立が問題となる場面における契約解釈だけを念頭に置いたものである。また、後者のxx発言は、裁判における書証の証明力のことを言っているだけであるようにも思われる。
(16) 部会資料 75B、6-7 頁(本誌 85 号 197 頁)。
(17) 本誌 85 号 194 頁。
(18) 第 85 回議事録 5-7 頁・xx発言(本誌 85 号 187-186 頁)。
(19) 同上(本誌 85 号 186-185 頁)。
にあるのではなく、契約解釈の基本原則を示すところにあるのであって、消費者相談の実務や非専門家にとっては、契約とはどのようなもので、契約に従って法律関係を確定していく際に考慮すべきことは何かといったことを明らかにしてくれる規定として重要である旨が、学者委員から主張される(20)。また、弁護士委員からも、契約書の記載内容と当事者の意図とが食い違っている場合というのは実際にしばしばあることであり、そのために紛争が起きることがあるのであって、そういった場合に当事者間の契約の内容を確定するためには当事者の意思が探求されなければならない、その意味で第 1 ルールは理念的に正しいことを述べている、という発言が
ある(21)。さらにこの弁護士委員は、第 1 ルールと第 2 ルールの関係について、「まさに契約書というのは立証の手段であり、そのことと、理念として当事者の意思が探求されなければならないということは、決して矛盾するものではない。そういう意味で、第 1 ルールと第 2 ルールの関係は、
理念としては第 1 ルールが大原則であり、しかし、当事者の共通理解がにわかに分からないからこそ紛争になることが多いのであって、その場合のために第 2 ルールがある。第 1 ルールと第 2 ルールは裏表あるいは 2 つを
合わせて 1 つという関係になっている」というきわめて妥当な内容のまとめをしている(22)。そして、このような肯定的な評価に沿ったかたちで、第 85 回会議の当日に配布された東弁xx意見書(23)程度のものはこの場で合意できるのではないか、との発言もあった(24)。
しかしそれにもかかわらず、裁判官委員は、このような第 1 ルールと第
2 ルールの位置づけについて、容易にそれを認めようとはしない。すなわ
ち、第 2 ルールが第 1 ルールを認定するための手順を定めているとするな
らば、第 2 ルールはまさに事実認定に関する規律となり、自由心証主義との関係で問題が出てくる、事実認定の過程そのものを規制する規定を民法の中に置くことには問題がある、と主張するのである(25)。ここに至って、
(20) 第 85 回議事録 8-9 頁・xx発言(本誌 85 号 182-181 頁)。
(21) 第 85 回議事録 9-10 頁・xx発言(本誌 85 号 181 頁)。
(22) 同上(本誌 85 号 180 頁)。
(23) 本誌 85 号 190-188 頁に、その主要部分を抜粋してある。
(24) 第 85 回議事録 14-15 頁・xx発言(本誌 85 号 174-173 頁)。
(25) 第 85 回議事録 5-7 頁・xx発言(本誌 85 号 185 頁)。第 85 回議事録 15頁・xx発言(本誌 85 号 173 頁)。第 85 回議事録 18 頁・xx発言(本誌 85
契約の解釈は事実問題なのか・法律問題なのかという古典的な論点も出てくるわけであるが、しかし、ここで改めて検討すべきことは、裁判官委員たちはなぜそれほどまでに契約解釈を自由心証主義の問題としたがるのか、という点であろう。この点に関しては、裁判官委員の考え方を要約するような次のような発言が注目される。すなわち、「今回のxxxxの中では、契約の解釈の名の下で行われる契約の修正という部分は入っていない。しかし、現実にはこれも含めて契約の解釈という名の下に行われており、その意味では、契約の解釈というものの中には、事実認定の問題、あるいは評価の問題、あるいは修正という形での法創造的な性格のものもあり、それを事案に応じて数々の手法を用いて妥当な解決を導いているのが実情である。その意味では、事実認定に関する部分は裁判の自由心証主義に関わる問題であるし、修正の部分は法創造にも関わる問題であるが、そういった解釈に関する様々な活動の機能を阻害することなく、その全体像を記述してうまくルール化することは、非常に難しいのではないかと思う」というものである(26)。
この発言内容から、契約解釈というものが――特に実際の訴訟の場において――どのように行われているかについての、いくつかの疑問点ないし仮説が摘出できるであろう。
すなわち、第 1 に、ここで言われている契約の解釈とは、当事者の「共通の意思」の探求ではなく、当事者の「合意」の内容の探求を意味しているのではないか、というものである。つまり、各当事者の意思を個別に確認し、それらが合致(共通)しているかどうか――確かに現に紛争が発生している場合には当該紛争事項について意思が合致していることはないであろう――を確認するというよりは、むしろ、契約書の文言等を出発点として、当事者間ですでに一個の独立した対象として形成されているべき
「合意」というものが、当該紛争事案を解決するためにはいかなる内容のものであるべきなのかを、いわば遡及的・逆算的に認定する、という作業が、現実の裁判実務では行われているのではないか、ということである。このように、各当事者の意思が合致しているかどうかの確認という手順を経ることなく、ダイレクトにあるべき「合意」の内容を検討するという手
号 170 頁)。
(26) 第 85 回議事録 5-7 頁・xx発言(本誌 85 号 184 頁)。
法は、紛争解決に際しては効率的であろうし、「あるべき紛争解決の結果」から遡及・逆算して「あるべき契約解釈の結果」を導き出すということは、特に裁判官にとっては馴染みの手法なのではないだろうか。
第 2 に、ここで言われている契約の解釈とは、「過去に締結された契約そのもの」の解釈ではなく、「過去に締結され現在においても効力を有している契約部分」の解釈を意味しているのではないか、というものである。すなわち、裁判において問題となる契約解釈とは、当事者間で争点となっている契約条項――あるいは契約条項の欠缺――に対して応答するという作業であり、それは単純に「契約締結時点において当事者がどのような合意をしたか」を確認する作業ではないのであって、それはあたかも
(過去に制定された制定法の)現行の条文について解釈をほどこす作業とパラレルに、対象となっている契約から、現在の紛争当事者の権利義務関係を規律すべき法理を導き出す作業として行われているのであって、つまりは、「契約紛争が生じた現時点における当事者を規律する契約規範」を、慣習や任意規定や条理を用いて導出する作業である、ということである。これは、「契約締結時の契約内容が、特段の事情がない限りはその内容を変更することはなく、その後の当事者の権利義務は、当初の契約によって確定済みである」という学説の一般的な理解とは異なり、「契約締結時の契約の内容は、その後に紛争が発生した場合には、慣習や任意規定や条理によって、変更され修正されることがあり得る」とでもいうような考え方の顕れではないだろうか。
第 3 に、これは上の第 2 の点に関連するが、いったん契約ないし契約条項の解釈に関する紛争が発生したならば、そこで求められるのは、「当事者の自律」の尊重や「当初の当事者の意図の実現」ではなく、「当事者間でのxxな紛争解決」であり「契約xxの実現」であるとされているのではないか、というものである。これは、xx意見書の中にある「契約の解釈は、個々の事案において『xx』と考えられる結論を導くために行われるものではない。契約とは、当事者が自らの法律関係を形成するためにおこなうものである。そのような契約制度の趣旨からすると、契約をめぐる問題も、当事者が契約によって自ら形成したところにしたがって解決することが要請される。契約の解釈とは、まさに当事者が契約によって自ら形 成したところを明らかにするためにおこなわれるべきものである」(27)という考え方は、現に当事者間で合意の有無やその内容をめぐって争われてい
る訴訟の場においては、必ずしも重要視されているわけではない、ということを意味しているのではないか。「契約自由」から「契約xx」へ、という考え方がxxで示されてから久しいが、現実の紛争を前にした裁判官は――それが現実にどの程度実現されているかは別として――「契約xxの実現」こそが訴訟の究極目標であるとする考え方を、意識的あるいは無意識的に取っているのではないか。
以上のような疑問点ないし仮説が、決して突飛なものではないことを、間接的にではあるが示しているのが、次の第 3 ルールについての審議経過とその内容である。
3.第 3 ルールについての評価
補充的契約解釈に関する第 3 ルールについては、審議の当初から批判的
な意見が強かった。まず、第 19 回会議(平成 22 年 11 月 30 日)において
用いられた部会資料 19-2 に付された比較法資料の中には、いわゆる補充的契約解釈についてxx規定を置いている例はないことを確認しておきたい(28)。また、わが国における従来からの通説は、契約に欠缺があったときは「契約の補充」がなされるべきであり、その際の基準は、慣習、任意規定、条理である、としてきた(29)。これに対して、ドイツ法の研究を中心とした詳細な補充的契約解釈に関する論文を書いているxx幹事は、要旨「任意法規にしても慣習にしても、典型的な場面を想定したものであり、常に個々具体的な実際の契約に適合するわけではなく、そもそも契約というものは当事者が自らの法律関係を形成するために行うものであるから、契約を補充する場合には、当該当事者が知っていれば合意したと考えられる内容が確定できるときには、それを尊重することが契約制度の趣旨にかなう」という理由から、第 3 ルールの明文化を提唱したものであ
る(30)。しかし、この第 3 ルールについては、xxxx「(補足説明)」4
(27) 本誌 85 号 191-190 頁。なお、下線はxx幹事による。
(28) なお、第 19 回議事録 50 頁・xx発言(本誌 84 号 381-380 頁)におけるxxxxによるユニドロワ原則の規定と補充的契約解釈との関係についての説明は不正確である。
(29) 本稿でいう「契約の補充」とは、このように慣習・任意規定・条理によって契約の空白を埋める作業を意味しており、xxxxの第 3 ルールに示されている「補充的契約解釈」とは異なるものである。以下でも同じ。
(3)に記載されているように、学説上も必ずしも確立した地位を得ているものではないとして、一定の留保が付されていた。そして、xxxx公表後の第 85 回会議(平成 26 年 3 月 4 日)のために準備された部会資料 75B
の 7-8 頁においても、「xxxxの考え方[第 3 ルール]については、当
事者の共通の理解が明らかでない場合に関する規律[第 2 ルール]の適用範囲と補充的解釈の適用範囲を明瞭に分けることができるかどうか、当事者が合意していない事項について、事後的に『当事者が検討の機会を与えられたら』という仮定的な合意内容を確定することが現実に可能かどうかなどが問題となり得ると考えられるが、どのように考えるか」と問題提起されていた(31)。この部会資料 75B の問題提起に応えるxx意見書では、契約解釈の手順のモデルを具体的に示した上で、第 3 ルールの位置づけを明らかにしようとしているが、しかし同時に、その「3.補充的解釈について」の末尾で、「このように理解するならば、補充的解釈は、契約に関する実務において通常おこなわれている作業に属することがわかるはずであり、提案に反対する理由もないことが明らかになるものと考えられる」と述べている。これは、裏を返せば、補充的契約解釈と同様のことはすでに「契約の補充」として実務で行われているから、それをことさらに新規に規定する必要はない、というようにもとり得る。かくして、xxxxが提案したこの第 3 ルールは、本当にこれを明文化することが必要であるの
か、をめぐって、第 85 回会議において議論が繰り広げられた。
まず、第 3 ルールは当事者の合意が欠けている場合の問題であり、このような場合には慣習・任意規定・条理によってその欠缺部分を埋めるという方法があるにもかかわらず、それに優先して仮定的な当事者意思を想定して欠缺を埋めるという手法を採用する必要性について、果たしてコンセンサスが存在しているのか、また、第 3 ルールを使うような場合には、実務的には「黙示の合意」を認定できる場合がほとんどであり、その際には、一般人を基準とした経験則等を使って判断しているのであって、「当事者が検討の機会を与えられたら」といった当事者基準が妥当であるのか、という点につき、裁判官委員から問題提起がなされる(32)。また、弁護士委員からも、第 3 ルールについて多くの弁護士が違和感を持っている
(30) 第 19 回議事録 52 頁・xx発言(本誌 84 号 390 頁)。 (31) 本誌 85 号 196-195 頁。
(32) 第 85 回議事録 5-7 頁・xx発言(本誌 85 号 185-184 頁)。
が、その理由は、契約の補充という作業は実務上は確かに行っているが、それは、xxxの適用、法の適用、付随義務の適用として行われているということからではないか、そして、当事者を説得するときも、あなたは意思があったはずだ・持つべきであったと言うよりは、xxxによってこのような説明義務がある、法の適用によって付随義務があるからあなたは義務違反になるのだ、と言うほうが納得性があるように思う、という発言がなされる(33)。
以上について、先の 2.における本稿での問題提起(疑問点ないし仮説)に従って言えば、まず第 1 に、第 3 ルールが適用されるべき契約の欠缺がある場合には、現実には当事者の「共通の意思」も当事者の「合意」も、いずれも存在していない。このような場合には、司法制度によって実現されるべき当事者の「自律」という契約法上の理念は、そもそも問題にならないのではないか。すなわち、当事者の「自律」とは、将来における自己の権利義務関係を自らの意思で決定する、ということであろうが、しかし、いったん契約の欠缺が問題になり、それが原因で紛争となった場合には、当該紛争を「契約締結時点で予測できた」ものと仮定して「その場合に当事者が合意したと認められるであろう契約内容を確定」するといった、過去の時点における当事者間の契約交渉過程を、現在の時点において再現するというに等しい作業を、実際上のみならず理念的に想定することが、本当に可能なのであろうか。契約締結交渉は、まさに当事者が将来において生ずべき種々の事態を予測し想定しながら行う相互的なコミュニケーション過程であり、第三者が事後的に再現できるような簡単なプロセスではなかろう。論者は補充的契約解釈のための手がかりとして「両当事者がその契約をした具体的な目的」や「当事者が具体的に契約で定めている内容」を挙げている(34)が、現実の欠缺補充についての紛争は、利害対立が鮮明化し複雑化したものである可能性もあり、それほど単純なものではないであろうから、上のような手がかりによるだけで、はたして妥当な解決が導き出されるかは疑問である。第 2 に、契約の欠缺が問題になるということは、「過去に締結された契約」が「過去に締結され現在も効力を有している契約」と評価されたうえで、それでも補充すべき欠缺が存在し
(33) 第 85 回議事録 16-17 頁・岡発言(本誌 85 号 171 頁)。
(34) xx意見書を参照。本誌 85 号 192-191 頁。
ていることが明らかになったということであって、欠缺の存在は、現時点 における問題である。その欠缺が原因で、現時点において当事者間で紛争が生じているのである。この場合に当事者の「自律」を尊重しようとするならば、わざわざ過去の「契約締結時」まで遡ってその時点で当事者が合意したであろう契約条項を認定するよりも、具体的内容をもった紛争が現に生じている「現時点」において、当該紛争の解決に資するような当事者間での・当事者自身による合意の形成を促進することこそが必要なのであり、あるいはその努力――たとえば和解交渉――が不調に終わったならば、最終的には第三者的立場(たとえば裁判官の立場)から見て現時点で必要と認められる欠缺補充をするしかないのではないだろうか。第 3 に、欠缺の補充をする際に求められるのは、過去に締結された契約に手を加えて当事者の「自律」を擬制することではなく、現時点における「当事者間でのxxな紛争解決」や「契約xx」を実現することなのではないだろうか。
4.契約解釈が必要とされる場面について
契約解釈は、どのような場面において必要となるのか。この点について問題提起をすることになったのが、第 69 回会議(平成 25 年 2 月 12 日)における、部会資料 57 の「(備考)」の「1 契約の成立との関係」部分の記述である。そこには、次のような記述があった。すなわち、「契約の解釈は、契約が成立したことを前提としてその内容を確定するために行われる作業であり、契約の成否は、契約解釈に先立つ作業として独立して行なわれることになる。そして、一般的な考え方によれば、契約の成否は意思表示の合致の有無によって判断されるから、意思表示が表示のレベルで合致しており契約は成立したと判断される場合であっても、その表示の通常の意味と当事者の双方又は一方の意思とが合致していない場合や、当事者の意思が相互に合致していないということもあり得る。契約の解釈はこのような場面で問題になる」(35)。
この記述をめぐって、第 69 回会議で、以下のような議論が繰り広げられた(なお、以下の議論はもっぱら学者委員の間で行われている)。
まず、上の部会資料の記述に対して、「契約の成否は、その契約がどの
(35) 部会資料 57、55 頁(本誌 84 号 376 頁)。
ような意味を持つかということを抜きにして判断することはできない。内容が明らかでないのに契約が成立したという判断はできない。意思表示が合致したかどうかは、意思表示の意味が明らかにされないと判断できない。表示の文言が合致していても、契約は成立していないのであって、契約が成立したと言えるのは、意思表示の意味が明らかにされて、それが合致しているときである。意思表示の一致があったことを確定するためには、やはり意思表示の意味を確定しなければならない。したがって、契約の成否と契約解釈の判断は、切り離して行うことはできない」との批判がなされた(36)。これに対して、「日本では契約の成否が争われることは少なくともxxなどに較べると少なく、成立した契約の解釈の問題として裁判が行われることが多いように思われる。そのときは、当事者双方の意思が合致していたかどうかを厳格に追及して契約の成否を判断しているというよりは、こういう内容で行きましょうと一方が言い、相手がそれでいいと言ったということで、一応表示について客観的には合意が成立しているように見えるが、しかし、その個々の契約条項の意味あるいは合意内容の意味について当事者間に齟齬があるというときに、契約の成否を争うのではなく、成立した契約の解釈の問題として処理していることが多い。このように見る立場からすると、第 1 ルールも第 2 ルールも、成立した契約の解釈の問題と理解することができる。ただ、その点についてどこまで詰めて表現すべきかについては、非常に難しい問題がある」との応答がなされた(37)。これに続いて、「契約の効力を争う段階での解釈とは別に解釈ということが問題になるということは、やはりある。ここ[部会審議]では、そういうレベルでの解釈を規定しているわけではなく、契約が成立しているということを踏まえて、履行段階でその意味内容が問題になったときの契約解釈準則なのだということを分かるように説明して先に進むということがよい。契約の解釈あるいは意思表示と契約の関係をどのように考えるのかについて、ここにいる全員が納得する形で説明を書くことは極めて困難なことなので、契約の成立段階では解釈ということはおよそ問題にならないという説明だけはやめてもらうということでよいのではないか」という提案がなされている(38)。そして、以上をまとめるようなかたちで、「x
(36) 第 69 回議事録 25 頁・xx発言(本誌 84 号 375 頁及び同 374 頁)。
(37) 第 69 回議事録 26 頁・xx発言(本誌 84 号 375-374 頁)。
(38) 第 69 回議事録 26-27 頁・xx発言(本誌 84 号 374-373 頁)。
約の解釈の問題は、契約の本体部分なり契約の成否を左右するような事項の解釈の場合と、それ以外の事項の解釈の場合があり、さらに、解釈の対象につき、それが意思表示の解釈なのか、契約の解釈なのかといった問題に絡み、かつ、契約の成立、解釈、錯誤の関係をどう考えるかという問題に絡んで、そう一枚岩ではないのではないか」との発言があった(39)。
ここでは、契約の解釈がどのような場面で問題となるのか、その場面の違いによっては解釈の方法が異なってくるのではないか、という一連の問題群が浮かび上がってきている。契約の成否が問題となっている場面でも契約解釈は問題となるのか、それは意思表示の解釈の問題ではないのか、意思表示の解釈と契約の解釈とは同じものなのか、契約の成否が問題となっている場面と契約は成立していてその一部の内容につき問題となっている場面とでは解釈の意味や方法が異なるのか、といった問題群である。
これらの問題群については、詳しくは次章以下で検討を加える予定であるが、ただ、以下のようなことは言えるのではないか。
すなわち、契約の成否が問題となっている場合には、そこで検討の対象とされるのは、当事者間での契約交渉開始時から契約交渉終了時までの間で生じた事象である。これに対して、すでに契約が成立している場合の契約解釈は、そこで検討の対象とされるのは、同じく当事者間での契約交渉開始時からの事象ではあるが、しかし、契約締結後から紛争発生時までに生じた事象もすべて検討の対象となる。前者の場合と後者の場合とで異なるのは、いわゆる「契約の目的」が検討対象となるか否かである。契約解釈に際しては「契約の目的」が何であるかを考慮した解釈がなされるべきことがしばしば強調される(40)が、これは、当該契約における本来のあるべき履行結果を考慮すべきだという意味であろう。だとすれば、契約の成立が認められている場合の契約解釈においては、あるべき履行結果と現に
(39) 第 69 回議事録 28 頁・xx発言(本誌 84 号 373 頁)。
(40) たとえば、xxxxxは、「当事者の意図していた目的」は、契約の解釈基準として重要であるとして、「契約の解釈に当たり、その契約を締結するに至った事情、慣習および取引の通念等を斟酌しつつ、契約書の文言(口頭契約では用いられた言葉または表示)について、当事者の目的に適合するよう合理的にその意味を明らかにする」という「目的適合的解釈」の有用性と汎用性について述べている。(xxxxx「契約の解釈」同『民事事実認定論』
(弘文堂、2014 年)239 頁、255-256 頁)。
生じている当事者間紛争の内容から遡及して当該契約の内容を確定するという意味での解釈がなされるが、他方で、契約の成否そのものが問題となっている場合の契約解釈においては、たとえxxすると契約が成立しているような場合であっても、各当事者が想定する契約の履行結果は実は一致してはおらずズレがあり、そして、この場合には契約交渉の当初からの時間の流れに沿って契約締結過程の詳細を確認してゆくことになる。このように、各当事者が共に了解し得る「契約の目的」が存在していると認められる場合には、現在から過去へと時系列を遡るかたちでの契約解釈の作業が要請され、他方で、各当事者がそれぞれに想定している「契約の目的」が一致していない場合には、遠い過去から近い過去へと時系列に沿った検証が要請される、という違いがあるのではないか。したがって、契約の成否に関する契約解釈の作業は、まずは各当事者が想定している「契約目的」の一致・不一致を確認することから出発する、ということになると考えられる。
従来、契約の解釈についての説明は、教科書や体系書のレベルでは、民法総則の「法律行為」の箇所で行われることが一般的であり、その中でただ単独行為の場合と分けたうえで契約の解釈が扱われる、ということが多かったように思われるが、今回のxxxxの「契約の解釈」の規定が債権各論の契約総則部分に規定されることが予定されていたことからも分かるように、民法総則の法律行為の部分で――意思表示の瑕疵等と隣接させて
――論じるという従来の記述手法には、問題があるのではないか(41)。
5.小 括
以上、法制審議会民法(債権関係)部会での「契約の解釈」に関する審議の過程を振り返って検討し、さらにその途上でいくつかの問題点(仮
(41) なお、裁判所による契約の解釈の機能を取り上げたある論稿では、契約解釈の 3 つの場面を次のように分類している。すなわち、①契約の解釈と契約の成立(契約の成立が否定される場合、契約の成立が肯定される場合、契約の性質が決定される場合)、②契約の解釈と契約の内容(契約の内容を明確にする解釈、契約の内容を補充する解釈、契約の内容を補正する解釈)、および、③契約の解釈と契約の効力(いわゆる例文解釈、法的拘束力の有無、契約の効力の限定)の 3 つであり、参考になる(xxxx「契約の解釈と裁判所の機能(上)」NBL 746 号 46 頁(2002 年 )。
説)を摘示した。採り上げ漏らしているトピックや論争点も少なくないが、本稿の最終的な目的が「契約の解釈」の問題と契約法の基本理論との関係を明らかにすることにあるということから、その点はごxx願いたい。以下では、ここまでで指摘した問題点を再確認し、その背景についてやや大まかな――かつ学際的な――観点から補足をして、それに併せて、次章以降でのトピックスへの橋渡しをしておきたい。
上述の「2.」では、ある裁判官委員の発言を手がかりに、次のような 3つの点を指摘しておいた。
第 1 に、裁判実務では、解約の解釈とは、当事者の「共通の意思」の探求ではなく、当事者の「合意」内容の探求なのではないか、すなわち、契約の解釈においては、各当事者の意思内容を確認し、それが合致(共通)している部分を紛争解決規範として確定するというよりも、契約書の文言等を出発点として、当該紛争事案を解決するためには当事者間での「合意」とされているものがいかなる内容のものであればよいのかをいわば遡及的に逆算して認定する、という作業が実際には行われているのではないか、という点である。これは、意味の探求の単位を「共通の意思」と設定した場合には、まずは各当事者の意思を明らかにし、その上で、それら各当事者の意思がどのように・どの程度まで「共通」しているかを分析する、という手順が必要になるが、しかし、そうするのではなくて、いったん契約が成立しているとされた以上はそれが独自に関係当事者全員の「合意(=契約内容)」と見なされるのであるから、その「合意(=契約内容)」の参照によっては解決できない紛争が生じた場合には、その合意内容を一個の独立した評価規範群(ルールの集合体)として捉えて、それに解釈を加える――拡張・縮小したり修正・補充したりする――ことで必要な紛争解決規範を導き出す、というのが裁判実務における契約解釈の実態ではないか、ということであった。この場合には、紛争解決に際しては
「合意(=契約内容)」をそれを締結した各当事者の個別の意思表示という単位にまで「因数分解」することはしない。その結果として、各当事者の
「意思」の存否や内容を敢えてこと細かく問題にすることもなくなる。 仮にこのような手法があるとすれば、それは契約合意の「相互性」を反
映した、それなりに根拠のある手法であるとも言えよう。次のような社会学的な見解は、そのような見方を補強することになろう。
「各々の個人は、相手の振舞いを、一定程度まで、相手の立場から見なくて
はならない。相手をひとつの主体として、つまり、その人が行為を発動させ指示しているのだという点から、把握しなくてはならないのである。こうして人は、相手の言うこと、相手の意図、相手の行為がどういうものかを特定化することになる。相互作用に参加するいずれの側もこのことを行い、かくして、単に自分が相手を配慮するだけというのではなく、逆に自分に対する配慮をも行っている相手として、その相手を配慮することになるのである。こうした主体と主体の関係は、ふたつの物体の形式的な反応とはまるで違う種類の反応を、相互作用過程にもたらすものである。このように相互に相手を配慮することは、お互いの行為を相手の行為と関係させるだけではない。ふたりの行為をひとつにより合わせ、適切な言葉がないのでこういう表現を使うなら、ひとつの相互行為 transaction を形成させる。すなわち、いま進行している自分の行為を相手のそれに適合させて、連携的な行為または両者を架橋する行為を作り出すのである。……相互行為というものは、単にふたりの行為を足し合わせたという以上のものである。そしてこれらふたりの行為は、相互の関連性を増してゆき、一体となっていく」(42)。
しかし、各当事者の個別の「意思」を問題とすることなく両当事者の
「合意」という単位を設定して、それを一個の独立した解釈対象とするような契約解釈の手法が果たして望ましいのかどうかについては、若干の疑問もある。なぜなら、情報量や交渉力に格差のある当事者間での合意――たとえば消費者契約――をこのような手法で解釈することには不都合が生じてくる可能性があり、また、(部会審議では結局検討されることなく終わった)契約解釈に関する種々の特別の準則――たとえば「契約条項の作成者側に不利に解釈する」等――が、この手法の下では活用の余地がなくなる危険性があるからである。そこで、この点についての詳細は、次章以下での検討課題としておきたい。
第 2 に、裁判実務では、契約の解釈とは、「過去に締結された契約」の内容確定ではなく、「過去に締結され現在も効力を有している契約」の内容確定を意味しているのではないか、すなわち、現実の契約紛争は、「契約締結時点において当事者がどのような合意をしたか」を確定するという
(42) xxxxx・xxxxx(xxxxx)『シンボリック相互作用論――パースペクティヴと方法』(勁草書房、1991 年)141-142 頁〔原著は Xxxxxxx Xxxxxx, Symbolic Interactionism: Perspective and Method(Prentice-Hall, 1969)〕。
方法によっては解決できない――当事者間の合意内容がそもそも確定できない――ものであり、したがって、現実における契約解釈とは、過去に締結された契約内容の中から現在もなおその拘束力を有している部分を抽出したうえで、それを素材として、現在の紛争当事者を規律する現時点での評価規範ないし裁判規範を導き出す作業なのであって、あたかも「過去に締結された契約」を過去に制定された現行の制定法のごとくにみなし、そこにおける各条文の拡張解釈や縮小解釈や類推適用を行うがごとくに、
「契約紛争が生じた現時点における当事者を規律する契約規範」を、慣習や任意規定や条理を用いて現在進行形の評価規範へと加工し形成してゆく作業なのではないか、という点である。
これは、契約の解釈の基準時の問題と言い換えることもできよう。契約解釈とは、それが締結された時点でどのような内容のものであったのかを確定する作業なのか、それとも、現時点(紛争発生時点)でいわば有効に機能させるべきものと認められる契約の内容を形成する作業なのか、ということである。この点については、「当事者の自律」を重視する立場からは、前者が支持されやすいであろうし、契約プロセスをその交渉過程から履行後の過程まで全体として評価することを重視する立場からは、後者が支持されやすいであろう。
この点については、歴史学における「歴史的事実」の意味の確定についての次のような議論を参照しておくことが有益であろう。
「歴史家は、行為者とその同時代人が原理上もxxなかった利点をもっている。歴史家は行為を時間的パースペクティブのもとでみるという独自の特権を有しているのである、それゆえ繰り返し強調したように、私たちが歴史家としてかかわる行為から私たちが時間的に隔たっているがゆえに、目撃者が知るようにはそれらの行為を知りえないと嘆くのは見当違いの不満なのである。なぜならば歴史の要諦は、目撃者のように行為を知ることではなく、歴史家がしているように、のちの出来事との関連から時間的全体の部分として知ることだからである」(43)。
「コンテクストから孤立した純粋状態の『事実そのもの』は、物語られる歴史の中には居場所をもたない。脈絡を欠いた出来事は、物理的出来事ではあ
(43) xxxx・X・xxx(xxxxx)『物語としての歴史――歴史の分析哲学』(国文社、1989 年)221 頁〔原著は Xxxxxx X. Xxxxx,Xxxxxxxxxx Philosophy of History(The Cambridge U. P., 1965)〕。
れ、歴史的出来事ではないのである。ある出来事は他の出来事との連関の中にしか存在しないのであり、『事実そのもの』を同定するためにも、われわれはコンテクストを必要とし、『物語文』を語らねばならないのである。過去の出来事E1は、その後に起こった出来事E2と新たな関係を取り結ぶことによって異なる観点から再記述され、新たな性質を身に帯びる。それゆえ物語文は、諸々の出来事の間の関係を繰り返し記述し直すことによって、われわれの歴史を幾重にも重層化して行く一種の『解釈装置』だと言うことができる。いわゆる『歴史的事実』なるものは、絶えざる『解釈学的変形』の過程を通じて濾過され沈殿していった共同体の記憶のようなものである」(44)。
現在という「いま・ここ」の視点からの評価行為なくして歴史記述はあり得ない。そして、歴史記述は常に一定の筋(プロット)を持った物語り行為とならざるを得ない。契約解釈においても、その締結交渉過程から紛争発生時までを一連のプロセスとして現在の視点から評価し理解する必要があろう。ただしここで留意すべきは、契約解釈は、「事実の認定」とは異なり、規範的な評価を伴うものであって、構成されるべき「物語」においても独特の役割を果たすであろうことが忘れられてはならないという点である。そうでなければ、(部会審議における裁判官委員の諸発言に見られるように)契約解釈をあたかも事実認定と同次元のものと見なすことになりかねない。
第 3 に、いったん契約ないし契約条項の解釈について紛争が発生したならば、そこで求められるのは、「当事者の自律」や「当初の当事者の意図の実現」ではなく、「当事者間でのxxな紛争解決」であり「契約xxの実現」ではないか、という点である。「契約とは、当事者が自らの法律関係を形成するためにおこなうものであ」り、「契約の解釈とは、まさに当事者が契約によって自ら形成したところを明らかにするためにおこなわれるべきものである」とも主張される(45)が、しかし、その自らの法律関係の形成は、各当事者がそれぞれ自己が一定の(相手方とは異なる内容の)権利義務を負うことを自認したうえで、自己の権利義務の内容と相手方の権利義務の内容とを相互に了解するという「合意」に基づき、そして、将来における交換行為(双方の契約義務の履行)という現実の行動によって
(44) xxxx『物語の哲学』(xxxx文庫、2005 年)12-13 頁。
(45) xx意見書を参照(本誌 85 号 194 頁及び同 190 頁)。
実現されるものである。それは、全体かつ一体として、複数当事者間での相互行為であり、一方当事者の意図や意思だけを問題とすることで足りるものではない。「当事者の自律」という言葉においては、このような複数当事者間での相互行為性という観点が――見落とされているわけではないであろうが――希薄化されているように思えてならない。
たとえば、契約締結過程とは複数当事者間のコミュニケーション過程であるが、およそコミュニケーション過程においては、相手方(B)からの意思の表示があって受け手(A)がその意味を自分なりに解釈し理解して、その上で当該相手方(B)からの意思の表示に対して自己(A)の意思を表示する、というプロセスであるが、このうちの相手方(B)からの意思の表示についての自己(A)における解釈・理解ということが不可欠である。そして、相手方(B)も、自分(B)が発した意思の表示の意味を相手方(A)が解釈し理解していることを前提として、さらなる意思の表示を行う。このようなコミュニケーション過程の結果である「契約」においては、相手方からの意思の表示の上に重層的に自己の意思が構成されているのであり、決して自己の内部だけで自己発生するものでも自己完結するものでもない。
さらに、契約というものを広く社会の中でのコミュニケーション行為の一種として捉えるならば、社会学者による次のような指摘が参考となろう。
「そもそも社会という存在が、次の意味で本来的に反照的に成立している。
……(1)社会は、それ自体としては個人的で主観的な人びとの意味世界が、行動とコミュニケーションとを通じて相互に関係し合うことにおいて成立する。すなわち、ある個人Aの意味世界は、Aの行動と発話を通じて個人Bの意味世界に取り入れられ、その意味世界に作用する。同時に、個人Bの意味世界に基づく行動と発話がAの意味世界に作用する。……(2)意味世界どうしの相互関係は、一種の相互参照関係を構成する。個人Aの意味世界には他者であるBの意味世界が構成要素の 1 つとして入り込む。すなわち、Aは Bの意味世界を『解釈』して自らの意味世界の中に位置づける。同じことが Bにも起こる。……(3)AがBと『同じ社会的世界を生きている』と主観的に想定することができるのは、Aの意味世界に位置づけられたBの意味世界が、A自身のそれと一定の共通性をもつと想定されるときである。このとき、Aにとって、AとBは一定の『共同的社会的世界』にともに属してい
る。……社会が成立しうるのは、人びとの意味世界が反照的につながり合って、そこに『社会』なるものを意味的に生成しうるからである」(46)。
契約は、すぐれて社会的な相互行為として捉えられるべきではないか。そのような観点から、契約の拘束力の根拠やその存在意義や機能を検討する必要があろう。契約の拘束力の根拠として挙げられることのある「自己決定」なるものの位置づけや内実についても、再検討する必要があろう。それらのことによって、契約法における「自律」と「他律」の関係についても、おのずと一定の考え方が導き出されてくるであろう。この点についても、次章以下での検討課題としておきたい。
〔未完〕
(46) xxxx『社会学の方法的立場――客観性とはなにか』(東京大学出版会、 2013 年)35-36 頁。