年月日 経過 平成27年6月21日 Aが発熱のためH病院を受診。診察をした研修医1年目の医師は,感染性心内膜炎を疑い経胸壁心エコーを実施したもの の,心雑音に関して有意なものと判断せず,解熱薬を処方し,症状が改善を認めないようであれば再度受診するように指示した。 7月15日 Aが脳内出血をおこし,自宅で 倒れているところを夫Bに発見され,I病院(国立大学法人J大学)に救急搬送された。診療に当たったO医師およびP医師は,Bらに対し,Aが若年で脳出血を来しており,...
【概要】
脳内出血で亡くなった患者(女性)の病理解剖を承諾した夫が,解剖を行った病院に対し,死体の病理解剖を行いその病理解剖記録を交付することを内容とする契約(準委任契約)を病院との間で締結したと主張し,病理解剖記録の交付を拒否した病院に対し慰謝料の支払いを求めた事案。
裁判所は,病院には病理解剖記録の写しを交付する義務がなかったとして,請求を棄却した。
キーワード:病理解剖,開示,準委任契約,脳出血,診療情報判決日:xx地方裁判所平成30年3月1日判決
結論:請求棄却(請求額154万円)
【事実経過】
年月日 | 経過 |
平成27年 6月21日 | Aが発熱のためH病院を受診。 診察をした研修医1年目の医師は,感染性心内膜炎を疑い経胸壁心エコーを実施したもの の,心雑音に関して有意なものと判断せず,解熱薬を処方し,症状が改善を認めないようであれば再度受診するように指示した。 |
7月15日 | Aが脳内出血をおこし,自宅で倒れているところを夫Bに発見され,I病院(国立大学法人J大学)に救急搬送された。 診療に当たったO医師およびP医師は,Bらに対し,Aが若年で脳出血を来しており,一般的な高齢者に多い脳出血とは原因が異なると考えられること,比較的多い原因である脳動静脈奇 形の存在は否定的であること,心臓の超音波検査で僧帽弁閉鎖不全症があり,感染性心内膜炎が以前に存在した可能性があること,その場合心臓から脳に流れたものが脳の出血の原因となった可能性があること,現時点ではこれ以上の出血の原因は不明であることを説明し,Aの死亡後に希望があれば解剖を行って原因を詳しく調べることが可能である旨説明した。 |
7月25日 | Aの母Cが,I病院の看護師に対し,Bにはまだ話していないと断った上で,とBの子が成長したときに死因を説明する義務があると考えているので,Aが死亡した際には病理解剖を希望する旨伝えた。 |
7月28日 | Cが,I病院の看護師に対し,病理解剖を行う方向で家族の間で相談している旨伝えた。 |
8月4日 | Aが右頭頂側頭葉皮質下出血でI病院において死亡した。 Bが,Aの病理解剖を希望し,O医師から説明を受けた上,「病理解剖に関する遺族の承諾書」 |
および剖検で摘出された組織の保存等に関する「同意書」に署名した。 I病院においてAの病理解剖が実施された。 なお,病理解剖のための費用はすべてI病院の研究費によって賄われているほか,I病院からは,Bに対して,病理解剖への協力に対する謝金が支払われた。 | |
平成28年 3月14日 | Cが,I病院に対し,Aの病理解剖の結果の説明を求める文書を送付した。 |
3月25日 | J大学の病理学講座助教のQ医師と教授のR医師が,Bを含むAの遺族らに対して,約1時間にわたり,病理解剖の結果についての説明を実施した。 この際,Q医師が作成した,説明内容を簡潔にまとめたA4書面1枚が用いられた。 |
8月13日 | Bが,H病院に対し,Aの死亡について病院に法的責任があるとして,損害賠償を請求する旨通知した。 |
10月11日 | Bが,I病院から診療録の開示を受け,これをH病院に送付した。 |
12月15日 | H病院が,Bに対し,送付を受けた記録に病理解剖記録が含まれていないので,入手して送付するよう通知した。 |
平成29年 1月6日頃 | BがI病院に対し,病理解剖記録の開示を求めたが,診療録に含まれる「病理解剖記録」の1枚目とBらが病理解剖の結果の説明を受けた際に交付された医師作成に係るA4の1枚紙等が開示されたのみで,それ以外の部分の開示を受けられなかった。 |
3月14日および 4月7日 | BがI病院に対し,病理解剖記録・病理解剖報告書の開示を求めたが,いずれも不開示となった。 不開示決定通知書の理由欄には ① 「I病院における診療諸記録の開示に関する指針(ガイドライン)」に定められた開示する診療諸記録の範囲に含まれないため。 ② 「国立大学法人J大学の保有する個人情報の開示等に関する取扱要領」における法人文書の開示についてはJ大学情報公開窓口(総務課 文書法規係 ○○○-○○○-○○ ○○)にお問い合わせください。と記載されていた。 |
5月18日 | 本件訴訟の訴状がI病院に到達した。 |
9月22日 | I病院がBに対し,病理解剖記録の開示についてはI病院の窓口ではなく上記J大学の窓口に問い合わせるよう指摘した。 |
9月25日 | Bが,J大学の総務課文書法規係に対し,病理解剖記録を法人文書として開示することを請求した。 |
10月27日 | J大学は,Bに対し,Aの病理解剖記録を開示した。 |
【争点】
1. B と I 病院との間に,病理解剖についての合意
(準委任契約)が成立しているか
2. 上記契約に,I 病院が B に病理解剖記録を交付することの合意まで含まれているか
※B は,「I 病院との間に病理解剖についての合意
(準委任契約)が成立しており,この合意の中には, I 病院の報告義務として,B の求めに応じて病理解剖記録の写しを交付することが含まれている」と主張した。
【裁判所の判断】
1. 病理解剖についての合意(契約)の成否
死体解剖保存法に基づく病理解剖は,同法の目的である公衆衛生の向上や医学の教育・研究のために特に必要となるため,一定の要件の下において,特に許されているものである。同法 7 条所定の遺族の承諾は,その要件の一つにすぎないのであるから,その承諾があることによって,当然に,死体を解剖しようとする者と遺族との間に契約が成立し,当事者を拘束すると解することは困難である。
もっとも,例えば,死因を解明するために解剖を行い,遺族がその説明を受けることを目的とする合意自体は,同法の趣旨を損なわない限り許容されるものであるし,同法 7 条の遺族の承諾に至る経過の中で,そのような内容の契約が黙示に成立し,解剖した者が遺族に解剖の結果を説明する義務が生じる余地はある。
本件においても,
① I 病院の医師が,B に対し,A の脳内出血の詳細な原因は不明であり,死亡後に希望があれば解剖を行って原因を詳しく調べることが可能であると説明し,
② B もこれを受けて,子が成長したときに A の死亡の原因を話す義務があると考え,A が死亡したら病理解剖をしてもらいたいとの希望を有し,
A の母 C を介してその希望を伝えており,
③ Aが死亡した際に,B が上記の希望に基づいて病理解剖を承諾し,死体解剖保存法に基づいて病理解剖が実施されている。
これらのことから,B とI 病院との間において,A の病理解剖についての準委任契約が黙示に成立し,I 病院が B に対して病理解剖の結果を説明する義務を負っていたというべきである。
2. 病理解剖記録を交付することまでの合意の有無
④ A の病理解剖が実施された時点において,病理解剖を行う医療機関の間で,希望する遺族に対しては当然に病理解剖記録を交付すべきであるとの共通理解が形成されていたとまでは認められない。
⑤ I 病院においても,病理解剖が実施され,遺族が希望した場合に,病理解剖の結果の説明に加えて,病理解剖記録の写しを交付する体制が採られていたことを認められない。
したがって,上記準委任契約の内容に,病理解剖記録の写しを交付する合意が含まれていたとは言えない。
【コメント】
1. 病理解剖に関する契約とその内容
契約とは,当事者間で交わされる合意,約束のこ とである。当然のことであるが,約束したことは守らなければならない。したがって,法令に定めがなくても,契約を締結することにより,契約当事者は,合意した内容の権利を得,あるいは義務を負い,これらに拘束されるのである。
契約における合意内容は,合意時に契約書などの形で明示されることが多いが,それに限らず,当時の周辺事情から,いわば暗黙の了解として認められる合意(黙示の合意)も少なくない。このような黙示の合意では,合意の内容が明示されていないことか
ら,後から振り返って,合意の具体的な内容,すなわち当事者に発生する権利義務の中身が争いになることが多い。
この場合,契約当時の当事者がどのような約束をする意思があったか,ということを,社会通念に照らして合理的に解釈することになる。
ところで,本件でB はI病院との間に,病理解剖についての準委任契約が成立すると主張した。準委任契約とは,業務遂行を他人(本裁判例では病理解剖を行った I 病院)に委託する契約である。病院が患者との間で締結する診療契約も,この類型の契約に当たる。
準委任契約が成立すると,受任した者には,事務処理の状況を報告する義務(説明義務)が生じる(民法第656 条,第645 条)。診療契約に基づいて医療機関が患者に対し説明義務を負うのはこのためである。本件で,B は,病理解剖を I 病院に行わせる契約がこの準委任契約にあたるから,I 病院に説明義務が生じる,と主張したのである。
これに対し,裁判所は,まず,契約の成否について,契約書が交わされておらず口頭でも明確な合意がなされていないが,【裁判所の判断】1.①~③に挙げた周辺事情から,病理解剖についての準委任契約が黙示に成立していた,と判断した。
一方で,これにより生じる説明義務の具体的な内容としては,平成 28 年 3 月 25 日になされた説明をもって十分とされ,病理解剖記録を交付することの合意まではなされていない,と判断した。【裁判所の判断】2.④⑤の事実を社会通念に照らして合理的に判断した結果,病理解剖記録を交付する義務を I 病院が負うことを約束する意思はなかったと解釈したのである。
このように,契約書などに具体的な記載がなくても,契約当時の社会通念や,当事者の言動等の周辺事情から,拘束力を有する契約の成否や範囲が定まることは少なくない。このような契約内容の解釈のしかたは,診療契約において医療機関に課される注意
義務が,「診療当時のいわゆる臨床医学の実践における医療水準」によって具体的に定まることと本質的には変わらないといってよい。
2. 病理解剖記録を開示する根拠
本裁判例では,病理解剖を行う準委任契約の内容に病理解剖記録を交付する合意が含まれていたとは言えないとして,病理解剖記録自体の交付(開示)義務は否定している。また,病理解剖の条件を定める死体解剖保存法にも,解剖記録を遺族に開示する義務は定められていない。さらに,生前に診療契約を締結していたとしても,そのことからただちに解剖記録の開示義務を導くことは難しい。このように,病理解剖を行った医療機関が病理解剖記録を遺族に開示する法的根拠は明確であるとはいえない。
しかし,医療機関は,診療契約を締結していた患者が死亡した場合には,死亡原因等を含む診療情報を遺族に提供しなければならず(厚生労働省策定
『診療情報の提供に関する指針』第 9 項,日本医師
会『診療情報の提供に関する指針[第 2 版]』5-1),また,診療の結果などについて遺族に対し説明および報告すべき義務を負うものとされている(東京高裁平成 16 年 9 月 30 日判決)。また,診療記録を開示しなかったことを理由とする損害賠償が医療機関に命じられたケースもある(東京地裁平成23 年1 月27日判決)。
これらのことからすれば,病理解剖記録についても,病理解剖を依頼した遺族からの要望があればこれに応じて開示する扱いとすることが望ましい。
一方で,医療機関によっては,本件のように,病理解剖記録を開示する明確な根拠を見出せないために窓口での柔軟な対応が容易でないケースも想定される。また,開示の根拠を遺族等に説明できないことでトラブルを生じることも懸念される。
そこで,病理解剖を行う医療機関においては,病理解剖記録の開示に関する規定を整備し,または遺
族に示す病理解剖の説明文に開示手続を記載するなどの方法により,病理解剖記録の開示に関する扱いを明示することが望ましい。このことが,開示業務の円滑な遂行を実現するとともに,本件のような紛争を未然に防ぐことにも資すると考えられる。
【出典】
∙ 判例秘書 判例番号 L07350203
【参考文献】
∙ 「診療情報の提供等に関する指針の策定について」(平成 15 年 9 月 12 日付医xx第 0000000号)
∙ 日本医師会 編著. 診療情報の提供に関する指針[第 2 版] 東京: 日本医師会; 2002.
∙ 判例時報 1880 号 72 頁(東京高裁平成 16 年 9
月 30 日判決)
∙ 判例タイムズ 1367 号 212 頁(東京地裁平成 23
年 1 月 27 日判決)
【メディカルオンラインの関連文献】
∙ 病理解剖を行うための法律・規則・指針***
∙ 医療情報の利用に関する政策の 20 年**
∙ 診療上の説明義務違反に関する再考***
∙ 感染性心内膜炎に伴う脳卒中の臨床的検討**
∙ 遺族への説明***
∙ 法律 遺族への死亡診断書やカルテの開示義務 はある?***
「*」は判例に対する各文献の関連度を示す。