組織構造の変化はまた,日本企業の人事制度の変更を伴ってきた(平野 2006)。それは大きく分けて 2 つの領域からなる(Morishima 1996)。
特集●雇用契約を考える
日本企業の組織・制度変化と心理的契約
─組織内キャリアにおける転機に着目して
xx xx
(滋賀大学准教授)
2012 年現在,日本企業の多くが,組織構造や人事制度上の変化,具体的には組織フラット化,業績連動型報酬・昇進の導入,キャリアの専門化を実施している。本論文は,こうした組織・制度レベルの変化に注目し,それらが組織と個人との相互義務である心理的契約に対して,どのような影響を与えるかということを検討する。より具体的には,こうした組織・制度レベルの変化を,「組織内キャリアにおける転機の減少」としてとらえ,それが組織と個人の間の心理的契約に対してどういう影響をおよぼすか,ということを実証研究によって明らかにする。日本企業に所属する 533 名の従業員を対象とした質問票調査の結果,日本企業の中に,以前の昇進や職能変更からすでに長期間が経過している従業員が相当程度いること,さらに,こうした組織内キャリアにおける転機の少なさが,従業員と組織との心理的契約を弱めていることがわかった。今日の組織構造・人事制度上の変化が,組織と個人の関わりあいを劣化させている可能性が,間接的ながら示されたことになる。他方で,事前に契約を明確化したり,従業員に対してキャリアを見つめ直す社内外の研修を提供したりすることによって,組織と個人の相互義務が強化されることもわかった。こうした結果を受けて,最後に,今日の環境変化の下で日本企業が取りうる選択肢とはどのようなものなのか,ということを議論する。
目 次
Ⅰ はじめに
Ⅱ 先行研究のレビュー
Ⅲ 方 法
Ⅳ 分析結果
Ⅴ 結 論
Ⅰ は じ め に
本論文の目的は,2012 年現在の日本企業に起こっている組織構造や人事制度上の変化,とりわけ組織フラット化,業績連動型報酬・昇進の導入,キャリアの専門化が,組織と個人の関わり合いに対して,どのような影響を与えるかということを実証的に検討することである。より具体的に
は,本論文では,こうした組織的問題がいずれも,従業員の立場から見れば,組織内におけるキャリア上の転機の減少を意味することを確認したうえで,そうした組織内キャリア転機の減少が,組織と個人の間の相互義務である心理的契約に対してどういう影響をおよぼすか,ということを検討する。
本論文では,以下のように議論を進める。Ⅱでは,先行研究のレビューを行う。まず,日本企業の組織構造や人事制度上の変化について概観し,それらがいずれも「組織内キャリア上の転機の減少」を意味するということを指摘する。次に,日本企業における組織と個人の関わり合いを検討する概念として心理的契約を取り上げ,日本企業で発生している組織内キャリアにおける転機の減少
論 文 日本企業の組織・制度変化と心理的契約
が,それに対してどのような影響を与えているのか,ということに関する仮説を導出する。Ⅲでは,本論文において実施した質問票調査の概要を説明し,Ⅳにおいて,調査によって得られたデータによる仮説の検証を行う。最後のⅤでは,分析結果に対する考察を行うとともに,そうした結果が今後の研究,そして日本企業にとってどのような意味をもつのかということを議論する。
Ⅱ 先行研究のレビュー
情報技術の発展,市場環境の変化,そして就業者の価値観や労働法制の変化をうけて,日本企業はこれまで,組織構造や人事制度における様々な変更をおこなってきた(xx 2006; リクルートワークス研究所 2010; xx 2012)。本節ではまず,こうした変更のうち,組織フラット化,業績連動型報酬・昇進の導入,キャリアの専門化に注目し,組織に所属する従業員にとって,こうした変化が組織内キャリア上の転機の減少を意味することを確認する。その上で,そのようなキャリアにおける転機の減少が,組織と個人の心理的契約に対してどのような意味を持つのか,ということを検討する。
1 日本企業における組織・制度の変化
(1)組織フラット化
1990 年代以降,日本企業の組織構造が,伝統的な高階層型組織から,全体の階層数を圧縮した低階層のものへと移行しつつあるといわれる。いわゆる組織フラット化 1)と呼ばれる現象である
(xx 1998; 厨子・xx 2005)。企業が組織フラット化を行う主な理由は,市場環境の変化に合わせた意思決定の迅速化にあるようだが(リクルートワークス研究所 2010),これには情報技術の発展という技術的な要因も大きく影響している(厨子・xx 2005)。「人材マネジメント調査 2009」2)によれば,2009 年の段階で,何らかの「組織の再編を行った」企業は全体の 70%をしめており,「変更を行っていない」企業の 31.6%を大きく上回っていた。そのうち,組織フラット化を実施している企業は全体の 31.6%,課長代理や次長といっ
た副職位の廃止を行った企業が 23.5%をしめており,47.8%において組織階層の数が減少していた 3)。
(2)人事制度の変更
組織構造の変化はまた,日本企業の人事制度の変更を伴ってきた(xx 2006)。それは大きく分けて 2 つの領域からなる(Morishima 1996)。
1 つ目は,評価処遇制度の変化である。1990 年代以降,日本企業の多くが成果主義の導入を検討し,2000 年前後には多くの大企業に普及するにいたった(産業能率大学総合研究所 2003)。「人材マネジメント調査基本報告書」4)によれば,2011年の時点で,サンプル企業の 57.1%が仕事成果に基づく昇進と給与の採用を決定し,かつ現在も運営しており,導入したが見直し中の企業と合わせると,全体の 69.2%にのぼる。また 2005 年の労務行政研究所の調査によれば,課長や部長といった管理職への昇進時期が 5 年前に比べて速くなった企業は,全体の 50%以上にのぼっており,降格制度を導入した企業も全体の 60%あった。
評価処遇制度の変更が,組織フラット化によってもたらされたという面もある(xx 1998; 厨子・xx 2005)。それは大きく 2 つの意味においてである。1 つは,組織階層の減少が,組織の中にいる人々の分業のあり方と個々人に期待される行動の在り方を大きく変えるため,人々の活動を調整する仕組みである評価処遇制度の変更を必然的に伴うということである(xx 1998)。もう 1 つは,組織階層の減少によって,これまで機能していたインセンティブ・システムに変更が生じたことである。厨子・xx(2005)も指摘するように,従来の高階層型組織には,多くの従業員を定期的に昇進させるに足る十分な数のポジションが用意されていた。そのため多くの従業員にとって,「さらなる昇進のために働く」ということが,重要なモティベーションとなっていた。組織階層数が減少するということは,組織内において社員が昇進しうるポスト数が減少することを意味するから,フラット化した組織においては,昇進へのモティベーションに代わる新たなインセンティブ・システムの設計が不可欠の課題となる(厨子・xx
2005)。
人事制度変更の 2 つ目は,雇用・採用形態のバリエーションの変化である。2003 年の労働者派遣法の改正をはじめ,労働xxx規制の緩和によって,コア人材に関しては長期雇用および内部育成を維持しながら,他方でそれ以外の人材を市場から調達するという,雇用形態による群別管理が進行している(xx 2006)。同時に,採用段階から具体的な職能に従事することを決定しておく,いわゆる職種別採用の割合も増えている。上記の「人材マネジメント調査基本報告書」によれば,新卒(大卒)社員について,職種別採用を導入し,かつ現在も継続している企業は全体の 49%にわたり,いったん導入したが見直しを行っている企業と合わせると,全体の 50%以上におよぶ。それと関連して,いったん採用した従業員について,多様な職能を経験させるような人事ローテーションの実施度合いは,下がってきている。産業労働調査所(1993)による「出向・転籍・転勤等に関する調査」5)によれば,1992 年の段階では,職能をまたぐ従業員の人事ローテーションを実施していた企業が全体で 77.5%,1000人規模以上の企業に限定すると 81.7%にのぼっていた。ところが,上記の「人材マネジメント調査 2009」によれば,2009 年時点では,「多様な職種を経験するローテーションを重視している」という質問に対して,「やや当てはまる」もしく
は「非常にあてはまる」と答えた企業は全体の
41.8%であった。これは「全く当てはまらない」もしくは「あまり当てはまらない」と答えた企業の 35.7%をわずかに上回ってはいるものの,日本企業の特徴とされてきた幅広い職能間をまたぐローテーションが,日本企業に実施されなくなっている可能性を示唆している。従業員のキャリアの専門化が進行しているのである。
2 組織・制度レベルの変化と組織内キャリア転機
組織構造および人事制度上の変化はいずれも,従業員の立場から見れば,組織内キャリアにおける転機の減少として経験される。
組織フラット化や業績連動型の昇進・報酬の導
入は,過去の昇進からの経過年数の長期化をもたらす。組織階層数の減少は,すでに述べたように,組織内において社員が昇進しうるポスト数が減少することを意味するから,従来の高階層型組織において可能であった,従業員の定期昇進が機能しなくなる。しかもこれは,昇進へのモティベーションに代わる新たなインセンティブ・システムとして導入された成果主義をともなうことが多いため,一方ではこれまでよりも早期に昇進する従業員を生みだすが,他方で長期間にわたって昇進を経験しない多くの従業員を組織内に生みだすことになる(厨子・xx 2005)。その結果,管理職への昇進が加速する半面,昇進後の地位の不安定さが増大し,同一企業に所属する従業員の間における年収や昇進速度の格差が生みだされてしまう(xxほか 2007)。
一方,雇用・採用形態のバリエーションの変化,とりわけ採用時および採用後におけるキャリア専門化は,特定の職能に配属されてからの経過年数の長期化をもたらす。個人のキャリアが特定の職能内で閉じているということは,当該職能における昇進が見込めない場合に,従業員はそれ以外の職能に異動し,キャリアを形成するという選択肢をもたないことを意味する。したがってこれは,昇進からの経過変数の長期化にもつながる。
さらに,組織フラット化や成果主義による昇進機会の減少,キャリアの専門化は,上司にとっても部下にとっても同じ意味をもつことになるから,上司と部下の関係もまた長期化することになる。
このように,2012 年現在の日本企業が経験している組織構造や人事制度上の変化はいずれも,従業員の立場から見れば,組織内キャリアにおける転機の減少を意味するといえる。本論文では,こうしたキャリア上の転機の減少が,組織と従業員の心理的契約に対してどのような影響を与えるのかということを検討したい。
3 日本企業の変化と心理的契約 6)
(1)心理的契約の考え方
まず,心理的契約の考え方について簡単にみておこう。心理的契約の考え方によれば,私たちが他者との間に取り結ぶ約束事には,我々が通常x
x 文 日本企業の組織・制度変化と心理的契約
約と呼ぶような(1)文章化されたものだけでなく,(2)文章には記載されないものがありうる
(Xxxxxxxx 1989; 1995)。文章化された契約は,通常,法律によって履行を担保されるものであり,当事者は契約の交渉段階において,可能な限りその内容を明確にし,必要な事項についてはできる限り記載しようとするだろう。しかしながら,契約に関する交渉の段階で,契約の締結に必要なすべての情報(e.g. 相手の能力・質・嗜好等)を契約当事者が持ち合わせているわけではない。仮に必要な情報がすべて手に入り,その膨大な情報を契約書に書きつくすことができたとしても,事前に予想できない偶発的事象の発生までは織り込めない。したがって,締結される契約は,どうしても不十分なものとなる。契約当事者は,限定された合理性しか持ち合わせていないからである
(Xxxxx 1976)。そこで組織と従業員は,雇用関係開始後に様々な情報探索を行い(Xx Xxx, Xxxxxx, and Xxxxxx, 2005; De Vos and Freese 2011),種々の文章化されざる約束を交わし(Xxxxxxxx 1989),必要であればお互いが当初抱いていた非現実的な期待を現実的なものへと調整し(Xxxxxxxx 2001; Xxxxxx and Roe 2007),お互いの義務を徐々に形成していく(Xxxxxxxx 1995)。ただし,いったん形成された相互義務もまた,従業員のキャリアを通じて定期的に再確認される必要がある(Schein 1978)。個人の成長やキャリア意識の変化が,組織に対する期待の変更をもたらすことがあるし
(Xxxxxxxx 1995),文章化されない約束が時間の経
過とともに意識されなくなり,やがて忘却されていくからである(Xxxxxxx and Arai 2010)。契約は,
(放っておくと) 劣化するのである(Xxxxxxx and Arai 2010)。そのため,心理的契約を維持するためには,いったん形成された相互義務を,従業員のキャリアを通じて定期的に再確認する作業が必要となる。
必ずしも文章化されない契約は,どのようなメカニズムによって履行を担保されるのか。文章化された契約であれば,第三者による立証可能性に基づき,法的な処罰が適用されるが,文章化されない約束の場合,仮にそれが不履行されたとしても法的な制裁を課されることはない 7)。その
ため,契約の履行を担保する何らかの代替的なメカニズムが必要になる。そのメカニズムとは,社会的関係における評判効果である(Xxxxxxxx 1995)。雇用契約の当事者は,限定された労働市場の中で長期的な交換を行っている。交換が限定された市場の中で行われることで,契約の履行状況が,直接の契約相手や他の潜在的な契約相手にも容易に知られてしまう(Xxxxxxxx 1995)。この場合,契約の不履行が当事者の市場における評判を低下させ,今後の交換に支障をきたしかねないため,当事者はそれを履行するインセンティブを持つ。そのような交換は長期継続的な性格をもっているから,当事者にとっては契約を不履行して短期的な利益を得るよりも,履行によって自らの評判を守ることの利益のほうが大きいことになる。このように,雇用契約の当事者は,自らが社会的な関係における評判を守る目的で,法的には何ら拘束力のない約束を履行するよう拘束されている。
・ ・ ・ ・
このように心理的契約は,雇用関係の開始に先立って作成される文章化された契約だけでなく,その後の組織社会化の過程で形成される文章化されざる約束をもふくめた,相互義務の全体をもって契約とみなすことに特徴がある(Xxxxxxxx 1989, 1995)。経済学や契約法学においては,契約が文章化された約束とほぼ同一視され,それを雇用関係の開始に先立ってどのように作成するか
(あるいはしないか)ということに注目する。文章化された契約が事後的にどのような問題を引き起こすかということにも関心が向けられてはいるが,こうした研究の主たる関心はあくまで,事後的にそうした問題が起こらないように事前にいかに契約,あるいは組織や制度などをデザインするかという点にある。これに対して心理的契約は,雇用関係開始後のプロセスに主たる関心をおく。すでにさまざまな契約成立のためのデザインがなされているということを前提に,それらがどのような契約内容を導くのか,雇用関係開始後に契約がどのように履行/不履行されるのか。このような,雇用関係開始後のプロセスに光を当てたことこそが,心理的契約概念の大きな意義であった
(xx 2012)。
(2)日本企業の雇用と心理的契約
近年,日本においてもこの概念を用いた理論研究および実証研究の蓄積が進んでいる
(Xxxxxxxxx 1996; x 2002; 横田 1998; xx 2008, 2011; Hattori 2010; Xxxxxxx and Xxxxxxxx 2011)。これは,心理的契約が欧米の研究者によって提唱されたものでありながら,3 つの意味で日本企業の雇用関係と密接にかかわっているためであろう。
1 つは,日本企業の人事管理が心理的契約によって支えられてきたということである(xx 2008; Hattori 2010; x x 2011)。Xxxxxxxx(1958)は『日本の経営』の中で,日本企業の特徴が福利厚生といった具体的な雇用制度ではなく,雇用主と従業員の終身の関わり合いにあるとし,それを
「life time commitment(邦訳:終身関係)」と呼んだ。組織側は,極端な状況にならない限り従業員を解雇せず,従業員側もまた,容易に他の企業に移ることはしない。そして,そのことがお互いの相互義務として共有されていることに,日本企業の特徴があるとしたのである。つまり日本においては,「長期雇用保障」のような雇用関係における重要な義務までもが,必ずしも法的な拘束力を持たない心理的契約として成立し維持されてきたのである。
2 つ目は,日本企業の組織構造および人事制度レベルにおける変化が,上記のような重要な相互義務の不履行(breach)を意味するということである(xx・守島・xx 2002)。先に取り上げたようなさまざまな組織構造・人事制度上の変化の結果,日本企業において,組織と個人の相互義務にかなりの程度のギャップが生じており(xxほか 2006),日本企業の従業員はそれを,組織による契約の不履行(breach)として知覚していることが分かっている(xx 2008; Hattori 2010; xx 2011)。
3 つ目は,日本企業の組織構造および人事制度レベルにおける変化が,これまで心理的契約を機能させてきた組織的条件に変更をもたらすということである。すでに述べたように,個人の成長やキャリア意識の変化によって,従業員の組織への期待は変化する(Xxxxxxxx 1995)。また,文章化されない約束は,時間の経過とともに意識
されなくなり,やがて忘却されていく可能性がある(Hattori and Arai 2010)。そのため,組織と従業員双方の節目において,お互いの相互義務に関する調整作業が必要になるが,日本企業における定期昇進は,従業員に対して定期的にキャリア上の転機を提供することで,組織と個人の心理的契約を再調整し,相互義務の意識を高める機能を果たしてきたと考えられる。Xxxx(1992)も指摘するように,従業員にとって管理職への昇進は,組織におけるアイデンティティを問い直す重要な契機となる。昇進にあたって従業員は,多かれ少なかれ,「この組織における自分の役割とは何か」
「自分は組織に対して一体どのような貢献ができるのか」ということを問い直し,そのことが,初期の契約を再び問い直すことにつながると考えられる。これはまた,組織と個人がお互いの相互義務について再考することを促し,お互いの義務についての意識を高める機会でもある(Xxxxxxxx 1995; Xxxxxx 1978)。同様に,職能間をまたぐ人事ローテーションもまた,従業員のキャリアの転機を通じて,定期的に心理的契約の再調整を促す機能を果たしていたと考えられる。したがって,すでに述べたような組織内キャリア上の転機が減少しているとすれば,今日の日本企業において,これまで心理的契約を機能させてきた契約の調整メカニズムが欠如していることになる。
4 仮説構築
本論文は,3 つ目の問題すなわち組織フラット化や人事評価制度の変更によってもたらされるキャリア上の転機の減少が,従業員が知覚する心理的契約に対してどのような影響を与えるのかということを検討する。これまでに議論した問題の構造と本研究の関心の範囲を表したのが図1である。 Hall(1988)によれば,組織内である程度長期 間を過ごしたキャリア中期の従業員は,組織における行動や周囲との関係性を安定化させようとす
る傾向があるため,日々の仕事の遂行において,これまで通りの慣れ親しんだやり方を好む傾向がある。ところが,このような安定を好む傾向ゆえに,従業員は,時間の経過とともに組織との関係性について無関心になり,皮肉なことに自身の
環境変化
組織・制度上の変化
組織内キャリア上の問題
心理的契約の問題
論 文 日本企業の組織・制度変化と心理的契約
図1 問題の構造と本論文の範囲
人事制度の変更
・業績連動型の報酬と昇進
・群別管理とキャリア専門化
組織フラット化
市場環境変化
情報技術導入
組織内キャリア
における転機の減少
上司-部下関係の経過年数長期化
職能転属からの経過年数長期化
従業員が知覚する相互義務の低下
昇進からの経過年数長期化
本研究の範囲
キャリアの停滞(career routine)を招いてしまうという(Hall 1988)。昇進や職能間をまたぐ転属は,こうしたキャリア上の停滞を打ち破り,従業員にとってキャリア上の転機を経験させ,既存の契約を見直し,再認識する機会となっているはずである。反対にいえば,昇進や転属(配属)からの経過年数が長期化するということは,従業員にとってそうした契約の見直しや再認識の機会が減少することを意味するから,結果として知覚する会社の義務および従業員の義務の意識が低下していくと考えられる。
仮説 1a:現在の職位に昇進してからの年数は,従業員が知覚する会社の義務に対してマイナスの影響を与える。
仮説 1b:現在の職位に昇進してからの年数は,従業員が知覚する従業員の義務に対してマイナスの影響を与える。
仮説 2a:現在の職能に配属されてからの年数は,従業員が知覚する会社の義務に対してマイナスの影響を与える。
仮説 2b:現在の職能に配属されてからの年数は,従業員が知覚する従業員の義務に対してマイナスの影響を与える。
上司部下関係の長期化についても,同じことがいえるだろう。新しい上司との出会いが,単に新鮮xx仕事における緊張感を生み出すだけでなく,時に,これまでの仕事のやり方・考え方の再検討をもたらすことを通じて,従業員にとってキャリア上の転機となりうる。Xxxxxxxx(1965)がいうように,心理的契約とは組織と従業員との契約であるが,実際に従業員は,直属の上司という具体的なエージェントとの相互作用を通じて「組織」と関わりをもつことになる。したがって,組織を代表するエージェントである上司の交代は,当該従業員にとっては,既存の契約を見直し,再認識する重要な機会となっているはずである。そのため,上司との関係年数が長期化するということは,従業員にとってそうした契約の見直しや再認識の機会が減少し,結果として知覚する会社の義務および従業員の義務を低下させることにつながると考えられる。
仮説 3a:現在の直属の上司のもとで働いている年数は,従業員が知覚する会社の義務に対してマイナスの影響を与える。
仮説 3b:現在の直属の上司のもとで働いている年数は,従業員が知覚する従業員の義務に対してマイナスの影響を与える。
最後に,従業員が知覚する相互義務の意識を強化する要因について検討したい。1 つは,契約の明確化である。Sels, Xxxxxxxx, and Xxx xxx Xxxxxx(2004)によれば,契約の明確性とは,契約項目が曖昧に定義されたものではなく,明確に特定でき,第三者にとっても明らかに観察可能である度合いをさす。「長期雇用保障」「忠誠心」などが心理的契約の内容(contents)であるとすれば,これは企業で成立している契約の外見的特性(features) に関する概念である(Xxxxxxxx 1995)。例えば「長期雇用保障」という契約内容が,雇用契約書や経営理念,ミッションステートメントや経営者の言葉といった形で明確に表現されていれば,当該企業における契約の明確度は極めて高いことになる。反対に,そうした契約が,人々の暗黙の了解としてのみ理解され,具体的な言葉として語られないままの場合には,その企業における明確度は低いことになる。これまでの研究においては,契約の明確性のような,心理的契約の外見的な特徴が,異なった企業や異なった社会における心理的契約の在り方を比較するための次元として取り上げられてきた(Sels, Janssens, and Van den Brande 2004)。これに対して本論文では,契約の明確化が従業員の知覚する義務の意
識を高める可能性に注目したい。契約項目が,誰
にでも明らかな形で明確化されているということは,従業員にとって,組織との相互義務を意識する可能性を高めるだろう。その結果,契約が不明確なままである場合に比べて,従業員が相互義務をより強く意識するようになると考えられる。
仮説 4a:契約の明確性は,従業員が知覚する会社の義務に対してプラスの影響を与える。 仮説 4b:契約の明確性は,従業員が知覚する従業員の義務に対してプラスの影響を与える。
最後に,従業員に対するキャリア関連の研修の効果に注目する。キャリア転機の減少が契約の見直しや再認識の機会が減少することを意味するとすれば,キャリアを見つめ直す社内外の研修への参加は反対に,組織との相互義務を意識化させる機会となるだろう。
仮説 5a:キャリア関連の研修への参加は,従業員が知覚する会社の義務に対してプラスの影響を与える。
仮説 5b:キャリア関連の研修への参加は,従業員が知覚する従業員の義務に対してプラスの影響を与える。
Ⅲ 方 法
1 調査概要
本論文では,上記の仮説を,ネットリサーチ会社インテージ社のデータベースに登録された 885名の日本人従業員を対象としたオンラインサーベイによって収集したデータの分析によって検証する。調査の具体的な手順は,以下のとおりである。まず 2012 年 7 月 19 日から 23 日にかけて,インテージ社が同社のデータベースからランダムに選ばれた 885 名の日本人従業員に対して,本研究の依頼とリンク先の情報(URL)を送信した。回答者は任意かつ匿名のかたちでオンライン上での回答を行い,オンライン上でデータが収集された。オンラインサーベイが紙媒体のサーベイと変わらないデータの質を担保することが,すでに実証研究によって示されており(Church 2001),すでに多くの心理的契約研究においてこの方法が採用されはじめている(Kiewitz et al. 2009)。
回答者のプロフィールを確認しておこう。全サンプル 885 名のうち,サーベイに回答した回答者は 533 名(回答率 60.2%)であり,そのうち女性が 132 名(24.8%)であった。回答者の平均年齢
は 43.45 歳,平均勤続年数は 13.34 年であった。回答者の学歴は,大学卒が 265 名(49.7%)と最も多く,ついで中学校卒及び高等学校卒 174 名
(32.6%),大学院卒 27 名(5.1%),その他(専門学校,高等専門学校卒など)が 67 名(12.6%)であった。回答者が所属する業種のうち最も多いのが,製造業の 130 名(24.4%)であり,以下,サービス業 68 名(12.8%),建築業 60 名(11.3%),医療
福祉業 42 名(7.9%),情報通信業 40 名(7.5%),
金融業 27 名(5.1 %),インフラ(電力・ガス等)
15 名(2.8%)とつづく。所属先企業の規模につい
論 文 日本企業の組織・制度変化と心理的契約
ては,5000 人以上が 69 名(12.9%),1000 人以上 4999 人以下が 96 名(18%),100 人以上 999 人以下が 123 名(23%),2 人以上 99 人以下が 238 名
(44.65%)であった 8)。所属企業での職位は,担当者レベルが 262 名(49.2%)と最も多く,つづいて係長クラスの 72 名(13.5%)および課長クラスの72 名(13.5%),以下,部長クラス35 名(6.6%),取締役クラス 49 名(9.2%)とつづく。以上より,回答者のプロフィールに関する限り,概ね偏りのないサンプリングができたといえるだろう 9)。
2 測定尺度
心理的契約 心理的契約の測定には,服部
(2008)によって開発された日本語版心理的契約尺度を用いた。組織の義務 27 項目および従業員
の義務 16 項目について,契約の重要度の測定をおこなった。具体的な設問の回答は,0(義務ではない)と,1(重要度が低い義務である)から 5
(重要度がとても高い義務である)という変則的な 6 点リカートスケールである。これは,義務としての重要度がある一定水準以下の場合,その項目はもはや義務とはいえなくなるからである(服部 2008)。尺度の信頼性を表す係数αの値は,組織の義務が 0.96,従業員の義務が 0.97 であった 10)。契約の明確性 McLean Parks, Kidder, and Gallagher(1998)や Sels, Janssens, and Van Den Brande(2004)を参考に,企業における契約の明確性に関するオリジナルの 4 項目を作成した。具体的には,「この会社では,従業員に対する会社
側の責務が明確にされている」「この会社では,会社に対する従業員の責務が明確になっている」
「この会社では人事制度などを変更・導入する際
に,その理由についての明確な説明がなされる」
「この会社では,業績評価の基準が明確になっている」という 4 項目であり,これらによって構成される尺度の信頼性係数αは,0.89 であった。
キャリア研修への参加 キャリアを見つめ直す社
内外の研修への参加を,オリジナルの 2 項目によって測定した。具体的な項目は,「社内の研修や勉強会などに積極的に参加するようにしている」「社外の研修や勉強会などに積極的に参加するようにしている」であり,信頼性係数αの値は
0.77 であった。
その他 その他,現在の職位になってからの経過年数,現在の職能部門に配属されてからの経過年数,現在の上司のもとで働くようになってからの経過年数を,それぞれ実数(単位は年)で回答してもらった。
Ⅳ 分 析 結 果
1 記述統計
測定した各変数の平均値,標準偏差,信頼性係数および変数間の相関係数を記載したのが表 1 である。また図 2,3,4 は,縦軸に個々の回答者の所属企業における勤続年数,横軸には,現在の職位になってからの経過年数(図 2),現在の職能
(部署)に転属(配属)になってからの経過年数
(図 3),現在の上司のもとで働きだしてからの経過年数(図 4)をそれぞれとった時の,変数間の関係を表している。
現在の職位になってからの経過年数の平均値は
6.74 年であった(表 1)。表 1 には表されていない
平均値 | 標準偏差 信頼性係数 | 1 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | |||
1 勤続年数 | 13.34 | 10.53 | 1 | |||||||
2 職位経過年数 | 6.74 | 7.12 | .526*** | 1 | ||||||
3 職能経過年数 | 7.15 | 7.02 | .462*** | .616*** | 1 | |||||
4 上司部下関係経過年数 | 4.58 | 5.80 | .264*** | .437*** | .571*** | 1 | ||||
5 契約の明確性 | 2.81 | 0.84 | 0.89 | .090** | 0.00 | 0.02 − | 0.06 | 1 | ||
6 研修参加 | 3.08 | 0.96 | 0.77 | 0.03 − | 0.03 − | 0.04 − | 0.02 | 0.24*** | 1 | |
7 会社義務 | 2.92 | 1.01 | 0.96 | 0.08* − | 0.48*** − | 0.41*** − | 0.02 | .21*** | 0.17*** | 1 |
8 従業員義務 | 2.54 | 1.06 | 0.97 | 0.12*** − | 0.16*** − | 0.13*** | 0.02 | 0.20*** | 0.26*** | 0.52*** |
表 1 測定変数の平均値,標準偏差,信頼性係数および相関係数
α
*** p < 0.01, ** p < 0.05, * p < 0.10
※ ダミー変数は分析から除外
図2 勤続年数と職位経過年数の散布図
50
45
40
職位経過年数
35
30
25
20
15
10
5
0
0 10 20 30 40 50
勤続年数
図3 勤続年数と職能経過年数の散布図
45
40
35
職能経過年数
30
25
20
15
10
5
0
0 10 20 30 40 50
勤続年数
図4 勤続年数と上司部下関係経過年数の散布図
40
35
上司部下関係経過年数
30
25
20
15
10
5
0
0 10 20 30 40 50
勤続年数
論 文 日本企業の組織・制度変化と心理的契約
が,職位ごとに平均値を比較すると,担当者レベルでは 6.88 年,主任レベルは 7.38 年,係長レベ
ルは 5.58 年,課長レベルで 5.67 年,部長レベル
では 5.25 年であった 11)。また図 2 によれば,以前昇進を果たしてから今日に至るまでの期間が,勤続年数全体の三分の一以上におよぶ回答者(図中の三角形に含まれるプロット)が,かなりの人数に及ぶことがわかる。表 1 によれば,現在の職能
部門に配属されてからの経過年数の平均値は 7.15
年である。図 3 によれば,現在の職能(部署)に転属(配属)されてから今日に至るまでの期間が,勤続年数全体の三分の一以上におよぶ回答者
(図中の三角形に含まれるプロット)が相当数いることがわかる。現在の職能部門に配属されてからの経過年数の平均は 4.58 年であり,上記 2 つに比べるとかなり短い(表 1)。また図 4 によれば,多くの回答者がそれほど遠くない過去に変更を経験していることがわかる 12)。
2 推測統計:OLS による推定結果
従業員が知覚する組織の義務および従業員の義
務を被説明変数,「現在の職位になってからの経過年数」「現在の職能部門に配属されてからの経過年数」「現在の上司のもとで働くようになってからの経過年数」および「契約の明確性」「研修参加」を説明変数とした OLS の推定結果が表 2および表 3 である。
表 2 および表 3 によれば,職位経過年数は,組織の義務に対しても(− .41, p < .001),従業員の義務に対しても(− .14, p < .05),マイナスの有意な影響を与えていることが分かる。したがって,仮説 1a および 1b は支持されたといえる。同様に,職能経過年数も,組織の義務(− .51, p
< .001)および従業員の義務に対して(− .55, p <
.001),マイナスの有意な影響を与えている。仮説 2a および 2b は,支持されたといえる。
これに対して,上司部下関係経過年数は,組織の義務に対しても,従業員の義務に対しても,有意な影響を与えておらず,仮説 3a および 3b は支持されなかった。契約の明確性については,組織の義務に対しても(0.12, p. < 0.05),従業員の義務に対しても(0.12, p < 0.05),プラスの有意な影
表 2 OLS の推定結果:会社の義務
会社の義務
表 3 OLS の推定結果:従業員の義務
従業員の義務
勤続年数 職位経過年数職能経過年数 上司部下関係経過年数 | 0.09 − 0.45 − 0.55 0.02 | 0.06 − 0.41 *** − 0.51 *** 0.03 | 勤続年数 0.11 0.07 職位経過年数 − 0.12 − 0.14 ** 職能経過年数 − 0.57 − 0.55 *** 上司部下関係経過年数 0.03 0.05 | |||||
契約の明確性 研修参加 | 0.12 ** 0.11 ** | 契約の明確性 0.12 ** 研修参加 0.22 *** | ||||||
調整済み R2 | 0.06 | 0.26 | 0.35 | 調整済み R2 0.07 0.31 0.40 | ||||
R2 | 0.06 | 0.25 | 0.34 | R2 | 0.09 | 0.31 | 0.41 | |
Δ R2 | 0.19 | 0.09 | Δ R2 | 0.22 | 0.1 | |||
F 値 | 2.94 ** | 2.37 ** | 3.32 *** | F 値 | 4.31 *** | 3.46 *** | 4.92 *** | |
*** p < 0.01, ** p < 0.05, * p < 0.10 | *** p < 0.01, ** p < 0.05, * p < 0.10 |
Step1 Step2 Step3 Step1 Step2 Step3
(定数) | 2.687 *** 2.70 *** 2.78 *** | (定数) | 2.53 *** | 2.54 *** | 2.63 *** | ||
女性ダミー | − 0.09 | − 0.08 | − 0.09 | 女性ダミー | − 0.18 | − 0.17 | − 0.19 * |
課長ダミー | 0.35 ** | 0.28 ** | 0.24 * | 課長ダミー | 0.50 *** | 0.43 ** | 0.40 ** |
部長ダミー | 0.19 | 0.14 | 0.09 | 部長ダミー | 0.56 ** | 0.50 ** | 0.42 ** |
大卒ダミー | 0.24 ** | 0.23 ** | 0.21 ** | 大卒ダミー | 0.12 | 0.12 | 0.08 |
製造業ダミー | 0.10 | 0.09 | 0.11 | 製造業ダミー | 0.15 | 0.15 | 0.13 |
サービス業ダミー | 0.14 | 0.14 | 0.08 | サービス業ダミー | 0.02 | 0.04 | − 0.01 |
情報通信業ダミー | 0.37 ** | 0.38 ** | 0.37 ** | 情報通信業ダミー | − 0.01 | 0.01 | − 0.05 |
建築業ダミー | 0.20 | 0.21 | 0.13 | 建築業ダミー | 0.15 | 0.16 | 0.06 |
インフラ業ダミー | 0.25 | 0.23 | 0.22 | インフラ業ダミー | 0.29 | 0.29 | 0.27 |
金融業ダミー | 0.54 ** | 0.55 ** | 0.43 ** | 金融業ダミー | 0.74 *** | 0.75 ** | 0.62 ** |
医療福祉ダミー 0.11 従業員 300 名以上ダミー 0.10 | 0.12 0.05 | 0.06 0.02 | 医療福祉ダミー − 0.09 従業員 300 名以上ダミー − 0.06 | − 0.06 − 0.11 * | − 0.17 − 0.11 |
響を与えている。したがって,仮説 4a および 4bは支持された。同様に,研修参加も,組織の義務
(0.11, p. < 0.05),従業員の義務(0.22, p < 0.01)の両方に対して,プラスの有意な影響を与えており,仮説 5a および 5b は支持されたといえる。
Ⅴ 結 論
本論文の目的は,2012 年現在の日本企業に起こっている組織構造や人事制度上の変化を組織内におけるキャリアにおける転機の減少としてとらえ,それが組織と個人の間の相互義務である心理的契約に対してどういう影響をおよぼすか,ということを検討した。
本論文の発見事実を簡単にまとめておきたい。本論文のサンプルに関していえば,昇進や職能の変更を果たしてから今日に至るまでの期間が,勤続年数全体の三分の一以上にもおよぶ回答者が,かなりの人数いるようである。これは少なくとも部分的には,日本企業における組織フラット化と業績連動型昇進,そしてキャリアの専門化によるものと考えられる。重要なのは,このようなキャリア転機からの時間の経過が,従業員が知覚する組織と個人の相互義務に対してマイナスの影響を与えるということである。組織内キャリアにおける転機の少なさによって,従業員が組織との相互義務を意識する機会が減少し,その結果,知覚される義務が低下していくのだろう。これに対して,直属の上司との関係が長期化することは,従業員が知覚する心理的契約に対してマイナスの影響を与えない。これには 2 つの解釈が考えられる。1 つ目は,我々の仮説とは異なり,上司との関係の長期化は実際には心理的契約に対して影響を与えない,ということである。2 つ目の,より現実的な解釈は,図 4 にみられるように,勤続年数全体に比べて上司部下関係が長期化しているサンプルの絶対数が少ないため,関係長期化の効果が十分に検出されなかった,ということである。契約の明確化とャリアを見つめ直す社内外の研修は,組織と個人の相互義務を強化する機能を果たすようである。
「組織内キャリア転機の減少が相互義務の弱体
化を招く」というのが本論文の基本的な結論であるが,これは「だからこそ,転機の減少をもたらす組織フラット化や成果主義人事制度は問題である」ということを,必ずしも意味しない。 2012 年現在の企業が置かれた環境下では,従業員の一律定期昇進を維持することが難しいことは自明である。定期昇進は,たしかに従業員にたいして定期的にキャリアの再考を促す機能をもっていたと思われるが,これは外部環境が安定的であったからこそ,合理性をもっていたといえる。また,これまで日本企業が採用してきた高階層型の組織に比べて,フラット化された組織が,組織内の情報の流れにおいても(Alvesson 1990),不確実性の高い環境への適応においても優れていることは(Baker 1992),すでに多くの研究者によって指摘されている。さらに,多くの企業が行っていた職能間の人事ローテーションが,配置転換候補者の選定基準や,転属(配属)先の決定において,多分に恣意的かつ場当たり的な部分が多かったということも研究によってわかっている(津田 1995)。つまり,日本企業による組織フラット化や成果主義の導入,そしてキャリアの専門化といった変化は,外部環境の変化に合わせた,組織デザインおよび人事制度デザイン上の合理的な選択であったわけである。本論文が主張したいのは,上記のような「かつて」の組織構造および人事制度が,従業員の立場からすれば,定期的に組織内キャリアにおける転機を作り出す機能を果たしていたということ,したがって今日のトレンドは,こうしたキャリア上の転機の減少を
意味しているということ,さらにはそのことが組
織と個人の相互義務を弱体化させている可能性がある,ということである。組織フラット化や成果主義人事制度そのものが,避けられないトレンドであるとすれば,日本企業にとっての人事的課題は,従業員の組織内キャリアの転機に代わって,組織と個人の関わりあいについての内省を促進するメカニズムをビルドインすることである。契約の明確化やキャリア研修は,そのための 1 つのヒントになるのだろう。
1) 横田(2012)によれば,組織フラット化とは「組織のトッ
論 文 日本企業の組織・制度変化と心理的契約
プの傘下に,組織の部下と上司からなる階層が幾重にも重なっている高階層の組織(高階層のピラミッド型組織)ではなく,トップの下に重なる階層が少ない組織へと向かうこと」をさす。この定義からもわかるように,組織がフラットであるのか高階層であるのかということは相対的な問題であって,絶対的なものではない。本研究はこの定義にしたがい,日本企業において組織階層がこれまでよりも少なくなっている状態をもって組織フラット化と捉えることにする。
2) この調査は,リクルートワークス研究所独自の基準によって選定された,日本のリーディング企業 302 社に対する質問
票調査である。調査は 2009 年 9 月から 2010 年 1 月にかけて
行われ,最終的に分析の対象となったサンプルは 98 社(全サンプルの 32.5%)である。
3) 組織再編を行った企業では,もともと平均すると 5.5 階層あった組織が,再編の結果平均 4.4 階層へと減少していた。こうした傾向は,非メーカー企業においてより顕著であり,再編前に平均 5.3 階層であったものが,再編後には 3.9 階層にまで減少していた。
4) この調査は,リクルートワークス研究所独自の基準によって選定された,日本のリーディング企業 1700 社に対する郵
送質問票調査である。調査は 2011 年 10 月から 11 月にかけ
て行われ,最終的なサンプルは 198 社(11.6%)であった。
5) この調査は,企業規模 500 名以下から 1000 人以上までの
幅広い規模,業種にわたる 335 社をサンプルとして 1992 年
10 月に実施された調査である。
6) 心理的契約研究全体に関する包括的なレビューについては服部(2011),心理的契約と契約の経済学及び契約法学にお ける議論との関連については服部(2012)を参照されたい。 7) 法律上,当事者の間に何らかの伝達行為が発生し,義務に関する合意がなされたということが第三者によって確認でき る場合には,そこに契約が成立していると見なされる場合も
ある。
8) 企業規模が「不明」と回答した回答者が 17 名いたが,これらも分析対象のサンプルに含めている。
9) 現在の職位に昇進してからの経過年数や現在の職種(部門)に転属(配属)になってからの経過年数に注目するため,調査依頼の段階で,少なくとも 3 階層以上の職位と,2つ以上の職能部門を持たない企業に所属するサンプルを除外している。また当然ながら,大学教員や弁護士会計士のように,所属組織における昇進や転属が極めて稀である職種についても,同じ理由により,調査依頼の段階でサンプルから除外している。
10) 組織の義務および従業員の義務については,通常,顕在変数にたいして因子分析を行った上で,抽出された潜在因子ごとに合成した変数を用いて様々な分析を行う(服部 2008; 服部 2011)。ただし,本論文は,組織と従業員それぞれの義務の強度全般に焦点を当てるため,そのような潜在因子ごとの分析は行わない。ただし,以下の分析すべてについて,潜在因子ごとの分析を実施し,分析結果が変わらないことを確認している。
11) ちなみにリクルートワークス研究所による「人材マネジメント調査 2009」では,担当者レベルの在籍年数の平均が 4
年 9 カ月,課長クラスが 4 年 11 カ月,部長クラスが 4 年 8カ月であり,本研究のサンプルの方がやや値が大きい。こうした違いは,「人材マネジメント調査 2009」のサンプルがいわゆるリーディング企業であるのに対して,本調査のサンプルが日本企業一般である,ということによるものだと考えられる。なお本論文のデータによれば,過去の昇進からの経過年数の平均値は職位が高くなれば高くなるほど,低くなっている。これ自体非常に興味深い事実ではあるが,本論文では
この問題には立ち入らない。
12) 図 2,3,4 をみれば,勤続年数と職位経過年数,職能経過年数,上司部下関係経過年数が,まったく同じ値の回答者,つまり入社以来,一度も昇進,職能変更,上司変更を経験していない回答者がある程度の人数いることがわかる。こうした回答者の多くが,企業規模 2 人以上 99 人以下のカテゴリに該当する。こうした規模の企業では,組織階層や部署の数の少なさゆえに,従業員が入社以来一度も大きなキャリア上の転機をほとんど経験しない,ということがありうるのだろう。
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はっとり・やすひろ 滋賀大学経済学部准教授。最近の主な著作に『日本企業の心理的契約─組織と従業員の見えざる約束』(白桃書房,2012)。経営管理論,組織行動論専攻。